2017/01/01 - 2018/01/01
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1788年、フランス王国の財政は破綻していた。歴代王による戦争政策、巨大土木工事、そしてアメリカ独立戦争への支援。財政を立て直す為には特権二身分(聖職者・貴族)への課税しかなかった。
フランス王ルイ16世は税制改革のため、彼の高祖父の父に当たるルイ14世が解散を命じて以来、召集される事のなかった全国三部会を開く事を決める。折しも、この年はフランス全土で冷害が起こり、大凶作を引き起こしていた。そして、運命の1789年を迎える。
「小説フランス革命」はヴェルサイユ御料地でのルイ16世と財務長官ネッケルの会話で始まる。
この旅行記では佐藤賢一氏の大作「小説フランス革命」に登場する建築物や史跡(イルドフランスに(ほぼ)限定する)を印象的なシーンと共に、出現順に辿っていきます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 3.0
- グルメ
- 3.0
- ショッピング
- 3.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 徒歩
- 航空会社
- エールフランス
- 旅行の手配内容
- 個別手配
- 利用旅行会社
- ホテルズドットコム
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ネッケルが狩に出ていたルイ16世と面会したのは、ヴェルサイユの森の中を1時間ほども馬車を走らせた、ランブイエに近い場所であった。
全国三部会の開催にあたり、身分別の審議と部会毎の議決が採られる1614年方式と、共同審議、頭数投票の多数決によるドフィーネ方式の違いをネッケルが国王に説明する。新税の導入のためにはドフィーネ方式による議決が必要だが、特権二身分の反対は必至であろう。何としても新税を導入したい国王に対し、ネッケルが持ちかける。
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「陛下、ここは高度に政治的な判断をなされるべきかと」
ネッケルは続けた。王は無言で先を促した。
「つまりは、ひとまず第三身分代表議員数の倍増だけを布告なされてはいかがかと」
「特権二身分は、それで満足するでしょうか」
「満足はいたしますまい。けれど妥協の余地はありましょう」
(中略)
「審議の方法、投票の方法につきましては、保留のままでよろしいかと。全国三部会における議論で、議員たち自らに決めさせてはいかがかと」
(中略)
「財務長官殿、それで王家の意向は通るのですね」
「小生が議場に立ちます。財政議案に関するかぎりの特例として、頭数投票で採決するよう、小生が議員達を説得してみせます」
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写真はランブイエ城。現在はフランス大統領の別邸となっており、国際的な交渉の場として利用されている。ランブイエ城 城・宮殿
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物語は序盤、革命のライオンことミラボー伯爵オノレ・ガブリエル・ド・リケッティが、自身は貴族でありながら、地元プロヴァンスでどのように第三身分の議員として当選したかという話から進んでいく。
写真は若かりし頃のミラボー伯爵が、放蕩の限りを尽くしていた為、父であるミラボー侯爵の訴えで逮捕・投獄されたという、ヴァンセンヌ城のドンジョン。
ミラボー伯爵は、デュマの小説「モンテクリスト伯」で主人公ダンテスが投獄されたイフ城にも収監されていた経歴を持つ。ヴァンセンヌ城 城・宮殿
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1789年4月28日に発生し翌29日に鎮圧されたレヴェイヨン事件は、現在のサン・タントワーヌ病院の近くで発生した暴動事件だ。
壁紙工場を営むレヴェイヨン氏は羽振りのよいブルジョワであった。折から食糧難で喘ぐ街区の貧民達の間で、レヴェイヨン氏は工場労働者の賃金を引き下げるという噂が立ち、これに怒った街区民は徒党を組み、レヴェイヨン氏の邸宅を焼き払ってしまう。屋敷から逃げたレヴェイヨン氏とその家族はバスティーユ監獄に匿われたといい、この事が、2ヶ月後に発生する事となる、バスティーユ襲撃のプロローグにもなったとも考えられている。この事を記録したプレートがモントルイユ通り31番地に建つ建物の壁にある。 -
パリ5区のカルチェラタン。中世の時代、大学の授業は全てラテン語で行われ、ラテン語はこの界隈での共通語であったため「ラテン語の街」という街区名が現在にも残る。
太陽王ルイ14世の名前を冠するルイ=ル=グラン学院は名門のリセ(後期中等教育機関、日本の高等学校)で、劇作家のモリエール、哲学者のディドロ、現代ではシラク元大統領などの著名人を排出している。
大革命を牽引するマクシミリアン・ロベスピエールはこの学院を主席で卒業し、「武器を取れ」演説で知られるカミーユ・デムーランはその後輩にあたる。
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1775年7月、前年の先王ルイ十五世崩御を受けて、今上十六世はシャンパーニュ州の大司教都市ランスで、国王戴冠式を挙げられた。その帰路での話だ。ヴェルサイユに戻る前に、新王はパリに立ち寄られた。ルイ十四世を記念して建てられた、ルイ大王学院を視察なされるためだった。かかる光栄の機会に古典の最優秀成績者として、ラテン語の歓迎演説を陛下に差し上げた十七歳の学生こそ、マクシミリアン・フランソワ・マリー・イシドール・ドゥ・ロベスピエールだったのだ。
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全国三部会の召集が布告されると、多くの議員候補たちは選挙活動の一貫として小冊子を発行し、選挙区に配布した。ミラボーの「プロヴァンス州民に告ぐ」やロベスピエールの「アルトワ州民に訴える」、落選したデムーランも「フランス人民に寄せる哲学」を発行している。
その中でも、シャルトル司教座の事務局長という地位の聖職者でありながら、パリ選出の第三身分議員となった、エマニュエル=ジョゼフ・シエイエスが1789年に出版した政治パンフレット「第三身分とは何か」は国民主権を端的に謳ったものとして特に有名だ。
「第三身分とは何か。全てである。今日まで何者であったか。無である。何を欲するか。相応のものになることである」
写真はシェイエスが事務局長を務めたシャルトル司教座が置かれる大聖堂。シャルトル大聖堂 寺院・教会
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1789年5月1日
一組のカップルがリュクサンブール公園を散歩している。後々革命家の一人として名を連ねる事になるカミーユ・デムーランが、全国三部会の議員選挙に落選した愚痴を、恋人リュシル・デュプレシにこぼしていたのが、この公園だ。
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デムーランは拗ね子のように唇を尖らせた。続いて口を突いて出た言葉は、我ながら甘えた泣き言でしかなかった。ああ、駄目なんだ。駄目なんだ。じっくり読んでなんかもらえないんだ。一発で分からせなくちゃいけないんだ。
「いくら誠意があっても、いくら熱意があっても、それじゃあ、議員にはなれないんだよ」
========リュクサンブール公園 広場・公園
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1789年5月4日
フランス各地からヴェルサイユに上京(?)した全国三部会の1167名の議員は、ヴェルサイユ市内のノートルダム教会に集められ、国王臨席の祭壇に蝋燭を捧げた。
そして国王近衛のスイス人連隊に先導され、聖餐式を催すサン・ルイ教会までの議員行進が行われる。
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それは全国三部会の始まりだった。幕開きの式典に参加しながら、三十一歳の弁護士マクシミリアン・ロベスピエールも、法官めいた黒衣に身を固めていた一人だった。
あらかじめ国王政府が指定してきた、それが第三身分代表議員に望ましい服装だった。正装を皆で揃えて進むほどに、感動はいやが上にも高まるばかりだった。
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「国王ばんざい!全国三部会ばんざい!」
市民の歓声に包まれた議員行進は、ヴェルサイユ宮殿を右に見ながら街を南下し、サン・ルイ教会に到着する。
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かくして、全国三部会はヴェルサイユに開催した。とはいえ、さあ、これから革命が始まるぞ、などとは誰も思っていない。色濃いのは、むしろお祭り気分のほうだ。
貴族代表は帽子に派手な羽飾りを揺らしていた。三部会は古風な国事であるからと、わざわざアンリ4世時代の風俗を真似たもので、つまりは時代劇の扮装である。反対に平民代表は、全員が地味な黒一色の法服だった。聖職者代表の場合は、貴族出身の高位聖職者が派手、平民出身の下級聖職者が地味と分かれ、つまりは全体としては圧巻であったほどに、身分の違いばかりが目につくような行進だった。(佐藤賢一著「フランス革命の肖像」) -
1789年5月5日
全国三部会の議場に指定された、ムニュ・プレジール(建物は現存せず)は、劇場の大道具倉庫を改装して作られた急ごしらえの議場であったが、1200の議員席、4000の傍聴席を擁した巨大建築物だった。
ルイ16世が開会を宣言し、同時に全国三部会が開かれることになった経緯やその目的などについての演説を行った。その後、司法長官による演説、ネッケル財政大臣による王国の経済状態に関する演説が続いた。平民出身の財相ネッケルは新しい税を導入することでこの穴を埋められるだろうと訴えた。しかし、第三身分の議員にとって、議決のための投票がどのように行われるかこそが、最も注目すべき点であった。
身分別の審議と部会毎の議決が採られる1614年方式では、第三身分の意見は無視されるであろう。共同審議、頭数投票の多数決による議決(ドフィーネ方式)であれば、自分たちの意見を議会に反映できるかもしれないのだ。
しかし投票方式の説明は無いままネッケルは降壇してしまう。
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終わり、なのか。ロベスピエールは呆然として自問した。審議の進め方にも、投票の決し方にも、ネッケルは触れなかった。だというのに、終わりなのか。第三身分は発言権さえ約束されなかったいうのに、そのまま明日には全国三部会の審議がはじまってしまうのか。
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失望する第三身分の議員。
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「つまりはバルナーヴ、この全国三部会では身分別の審議、部会ごとの投票、すなわち1614年方式が採用されるということかね」
「このまま何も起らなければ、そうならざるをえないでしょう。とにかく区別したいという思惑は、すでに否定しようもないわけですからね」
「いや、正直もう堪えられんぞ。第三身分を侮辱するにも程がある。」
「ル・シャプリエ君のいう通りだ。だから、手を拱いている場合じゃない。ネッケル任せにしてはおけないでしょう」
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全国三部会が始まると、第三身分議員は様々な場面で特権二身分の議員と区別される。議場への入場口、議員資格審査の方法など・・・。
そこで第三身分議員達は、聖職者としては地位が低く、考え方では第三身分議員に近いグレゴワールなどの第一身分議員や、ラファイエットら開明的思想を持つ第二身分議員を切り崩し、自らを国民議会と名乗り、頭数投票(ドフィーネ式)を導入するよう働きかける。
1789年6月20日、第三身分議員が議会会場に赴いてみると、議場の門扉が固く閉ざされている。特権二身分の議員が、第三身分議員の締め出しを図ったのだ。
雨の中、呆然とする議員達。そこにミラボー伯爵の一際大きな声が轟く。
「球技場へいこう!」ジュ ド ポーム 史跡・遺跡
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第三身分議員は市内にある球戯場(ジュ・ド・ポーム)に集まり、ムーニエ発案の宣誓文が、国民議会議長のバイイによって読み上げられる。
「王国の憲法が制定され、強固な基盤の上に確立されるまでは、決して解散せず、四方の状況に応じていかなる場所でも会議を開く」
いわゆるテニスコートの誓いである。
写真はパリ12区レピュブリック広場のマリアンヌ像の台座にあるレリーフ。レピュブリック広場 広場・公園
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モンモランシー一族の領地であったマルリに、マンサール設計の城館が建ち、これをルイ14世が買い上げ王家の離宮となったマルリ城。
国王ルイ16世は全国三部会の開幕以降、議場に姿を見せていなかった。1789年6月4日、長男ルイ=ジョセフが結核により死去し、ヴェルサイユから北に5km程離れたマルリ城に引いていた為である。国王に謁見するためマルリ城に急ぐネッケルの馬車に、城館に続く街道で待ち伏せしていたミラボーとロベスピエールが乗り込んだ。
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「繰り返しますが、我々が敵とするのは貴族です。貴族だけなのです。ルイ16世陛下には変わらぬ忠誠を尽くすつもりでおります。つまるところ、ネッケル殿にお願いしたいのは、万が一にも王に誤算があるとしたら、それを懇ろに解いてほしいということなのです」
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革命後、マルリーの城館は革命政府により没収され、紡績工場などに利用されていたが、工場が破綻すると城館は荒廃し、最終的には解体されてしまう。現在では庭園が公園として解放されている。ルイ15世が庭園に設置した石像「マルリーの馬」は革命期の1795年に移されシャンゼリゼ通りの入り口を飾り、現在はルーヴル美術館リシュリュー翼のマルリーの中庭で見る事ができる。
6月23日に再開された議会は親臨会議となる。しかし、議場には頼みの綱であったはずのネッケルの姿が見えない。そして、アルトワ伯ら強硬派に促された国王は、国民議会の解散と通常の三部会(身分別の審議)に戻る事を命じた。
議場からの立退きを要求する国王使者の儀典長ドルー・プレゼ侯爵に対し 、ミラボーが言い放った言葉は有名だ。
「我々は人民の意思によってここにいるのだ。銃剣の力によるものでないかぎり、ここから動くことはない!」
これに対し、国王は近衛軍を議場に派遣。風前の灯火の国民議会であったが、その時、ヴェルサイユ宮殿で異変が起きる。ルーヴル美術館 博物館・美術館・ギャラリー
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1789年6月23日夕刻、ヴェルサイユ宮殿は騒然としていた。親臨会議にネッケルが欠席したという噂を聞きつけ、多くの市民が宮殿に押しかけていたのである。
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「まさか罷免されたのではないだろうな」
「いや、俺はフランスから追放されたと聞いている」
「馬鹿な、ネッケル様なくしては、フランスは立ち行かんぞ」
「ああ、こんな出鱈目をやられて、王さまに抗議しないでいられるものか」
パリの巷で囁き合い、そうするうちに誰とはなしに動き始めた群衆は、自然と数を増やしながら、大挙してヴェルサイユに乗り込むことになったようだった。
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この騒ぎは、宮殿のバルコニーに王とネッケルが一緒に姿を見せたことで歓呼の叫びに変わった。
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救われたのか。と、ロベスピエールは自問した。第三身分は救われたのか。国民議会は救われたのか。圧倒的な暴力に今にも押し潰されんとしていた希望が、まるで魔法にでもかけられたかのように、一瞬にして絶望の枷が外されたのか。
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6月27日、第一身分議員と第二身分議員は国民議会への合流を勧告される。7月7日には憲法制定国民議会が発足し、第三身分の要求は全面的に通ったかに見えた。巷では「革命はなった」との言葉が飛び交うようにもなっていた。
しかし、急転直下の展開を見せる。
ヴェルサイユに止まらずパリでも相次ぐ騒擾が起きていたため、国王は議会を守る為という口実で、ヴェルサイユに軍隊を集めたのである。そして7月11日、ネッケルが国王から罷免される。
再びの危機を迎えた第三身分議員であったが、次の異変はパリで起きた。ヴェルサイユ宮殿 城・宮殿
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パレ・ロワイヤル。
もとはルイ13世の宰相リシュリューの城館で、ルイ13世の死後、ルイ14世がルーヴル宮から移り住んだ事でパレ・ロワイヤルと呼ばれるようになる。ルイ14世がヴェルサイユに居を移すと、ルイ14世の弟オルレアン公フィリップ1世に譲られ、以降、オルレアン公家の管理する城館となる。
当時の所有者であったオルレアン公ルイ・フィリップは王位を狙う野心家で、首飾り事件を利用して、マリー・アントワネットと対立していた。一方で借金も多く、その借金を返済するために、自身の城館パレ・ロワイヤルを庭園を囲むような建物に改装し、その南面を除く建物を賃貸住宅として、その一階部分を店舗として貸し出した。
警官の立ち入りが禁止されたため、カフェやレストランは、自由な討議の場として、第三身分の知識階層や自由主義貴族などの溜まり場になっていく。 -
1789年7月12日
その日、パリは騒然としていた。平民出身で、第三身分の期待の星とされていた財務長官ネッケルが罷免されたとの知らせがが届いたのだ。
パレ・ロワイヤルの庭園を囲む回廊、モンパンシエ回廊57~60番地にあったカフェ・ド・フォワ の前で、カミーユ・デムーランが演説する。
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「ネッケルが罷免された。この更迭劇は新たなサン・バルテルミの夜の前触れだ。今夜にもスイスやドイツの傭兵どもが我々を皆殺しにするために、パリに突入してくるに違いないんだ」
「そうだ。ああ、そうなのだ。我々が助かる方法は、ひとつしかないのだ」
デムーランは続けていた。
「武器をとれ!」
=======パレ ロワイヤル庭園 自然・景勝地
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「武器をとれ」の演説の後、シュプレヒコールを上げながら市内を巡っていたカミーユ・デムーラン達パリ市民は、ルイ・ル・グラン広場(現ヴァンドーム広場)にいた。演説で触発された民衆が集まり、その数は数千人に膨らんでいた。
そこにドイツ人傭兵部隊の竜騎兵団が到着し、解散を命ずる隊の司令官ランベスク大公に対し、デムーランは言い放つ。
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「解散するのは僕らじゃない。あなたがた、不法な軍隊のほうが先だ」
軍隊なら人民を守るのが本当じゃないか。貴族の陰謀に乗せられて、まんまと御先棒を担がされているような兵隊は、その辺の野盗と変わるところがないじゃないか。デムーランは息が続くかぎりと並べたが、背後の人々といえば、もう途中から聞こうともしなかった。号令を改める必要もない。反撃の狼煙が上げられたと悟るや、すぐさま動き出したのだ。
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勢いに押された兵団は退却。
民衆はチュイルリ庭園に移動し、戻ってきた軍隊と衝突する事になる。ヴァンドーム広場 広場・公園
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パリ市中に騒乱は広がり、まずは食料の略奪が始まった。食料を溜め込んでいるという噂が立つと、飢えた市民が押しかけ、建物を破壊していったのだ。特に被害が甚大だったサン・ラザール修道院での惨状を聞いたデムーランは述懐する。
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「パリの飢え方は、すでにして緊急事態というべきだったんだよ。信徒の苦しみを横目に、貯めに貯めこんでいた修道院も修道院というべきじゃないか。肥満坊主ときたら、自分の腹を満たすだけじゃなく、その食糧を軍隊に差し出す可能性もあったわけだしね。いってみれば、貴族の陰謀の片棒を担ぎかねなかったわけだしね」
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10区にあるサン=ヴァンサン=ドゥ=ポール教会は修道院の跡地に1844年に建てられた教会堂であるが、もともとの修道院の敷地は、現在のパリ北駅を含み、西はフォーブル・ポワッソニエール通り、東はフォーブル・サンドニ通りまでという広大な物であった。 -
1789年7月13日
「武器をとれ」の演説から始まった騒乱の一夜が開けると、「武器を探せ」がパリの合言葉になっていた。チュイルリ庭園でのドイツ竜騎兵との衝突においては、フランス衛兵隊の加勢もあり、何とか勝利したものの、民衆は手にするべき武器がなかったのだ。
デムーランらパリ市民が武器を求め市庁舎に押しかけると、パリ商人頭(実質的なパリ市長)だったジャック・ド・フレッセルは武器のある場所を曖昧な情報ではぐらかそうとする。
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いうまでもなく、昨日13日も終日武器探しだった。が、武器廠で若干の火薬が、サン・ニコラ港で弾薬25箱が発見された他は、はかばかしい成果もなかった。なかんずく業腹なのが、フレッセルに教えられて急行したシャルトルー修道院にも、シャルルヴィルの鉄砲工場にも、武器など隠されてはいなかったことである。
ーーーどうして、すぐばれるような嘘をつくのか。
激怒の群衆はグレーヴ広場に引き返した。市政庁に詰め寄せると、フレッセルは曖昧な笑みを浮かべながら、今度はアンヴァリッドに行けと指示を改めた。
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写真はジャック・ド・フレッセルの居館があった事を伝えるセヴィニエ通り52番地の記念碑。彼が7月14日に市庁舎の前で殺害された事にも言及している。 -
アンヴァリッドは1671年にルイ14世が傷病兵を看護するための施設として建設したもので、革命当時も軍病院として利用されていた建物だ。軍施設だけに武器の備蓄もあり、民衆は3万丁余の銃を押収している。しかし、民衆の焦りは止まらない。
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パリの危機感は高まるばかりだった。シャン=ド=マルスに集結した軍隊は、そのまま不気味な沈黙を続けていた。(中略)
いずれにせよ、死力を尽くす激戦は、そう遠い話ではない。そのとき銃が不足したら・・・。弾薬が切れてしまったらと思うほど、パリは焦りに駆られるばかりだった。ああ、まだ足りない。まるで足りない。今のうちに少しでも多くを確保しておかなければならない。
=======アンヴァリッド 建造物
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「武器を探せ」の合言葉はいつのまにか、一つの場所を指す言葉に変わっていた。「暗黒の中世が永らえている」と喩えられるパリ市の東を守る城塞バスティーユである。
ビール会社を経営する大ブルジョワでサンタントワーヌ街の選挙管理人でもあったアントワーヌ=ジョゼフ・サンテールもバスティーユに集まった民衆の一人である。
8月10日の蜂起では街区の民衆を指揮し、ルイ16世に処刑の動議が可決したことを伝えたのもサンテールであった。デムーラン達と初めて顔を合わせたサンテールは以下の様に自己紹介している。
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「ああ、これは失礼いたしました。わたくし、サンテールと申します」
「サンテールというと、麦酒醸造会社を経営してる、あの・・・」
一番にダントンが確かめた。さすがはカフェの婿だ。頷きが返ると、あとはマラが受けた。
「ブルジョワ中のブルジョワ。選挙人も中心人物のひとりというわけですな」
「というより、貴族の陰謀を苦々しく思うパリジャンのひとりです」
そう自らを形容したからには、心情は庶民に近いということか。裏を返せば、パリ市政庁は一枚岩ではないということか。
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サンテールの記念碑のあるルイイ通り9番地は、彼の住んでいた街区にあり、レヴェイヨン事件が起きた場所からもほど近い。 -
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巨万の富を誇るブルジョワから、銅貨ひとつ持ち合わせない失業者まで。同じ目標を見据えながら、第三身分は今や完全にひとつになった。奇跡に等しいと思いながら、だからこそデムーランは目に力をこめないではいられなかった。ああ、今こそ目を逸らしてはならない。あれに引導を渡すべき敵がいる。バスティーユ、またの名をアンシャン・レジームという。
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1789年7月14日 午後5時半、バスティーユはパリの民衆の手で陥落した。
翌7月15日、国王はパリとヴェルサイユに派遣した軍隊を引き、17日には国王がバスティーユ陥落に沸くパリを訪問する事で「人民が貴族の手から国王を取り戻した」という図式が成立した。こうして、解散を迫られ風前の灯火であったヴェルサイユの国民議会も、息を吹き返すことになる。バスティーユ広場 広場・公園
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バスティーユは1370年、当時の国王の賢明王シャルル5世が旧来の王宮であったシテ宮からサン=ポル宮に宮廷を移した際に東の守りとして建設された要塞である。要塞はパリ市の拡大と共に市内に包括され、17世紀中頃には、ルイ13世の宰相リシュリュー枢機卿によって国事犯の収容所として使われるようになる。ルイ14世の時代に入ると、王政を批判した学者なども収監されるようになり、その際に収容者の名前を公開しない、出所する際には監獄内の事を話さない事を宣誓させる等の処置がなされるようになったため、市民から様々に邪推される存在となっていったようだ。
襲撃後、バスティーユはすぐに解体がはじまり、当時は廃材から牢獄のミニチュアを作り土産として売る業者が多くいたようで、ミラボーはその事を記録に残している。
写真はバスティーユ広場からアンリ4世通りを600m程行ったセーヌ河岸にある、アンリ・ガリ公園に残されている、バスティーユの基盤遺構。 -
バスティーユ陥落以降、フランス全土が動き出した。保守反動の旗頭であった王弟アルトワ伯をはじめとする貴族の亡命が相次ぎ、多くの都市では、第二、第三のバスティーユ陥落を果たすべく騒擾が発生した。しかし、8月4日に封建制廃止の緊急動議が憲法制定国民議会で可決すると、騒乱状態は沈静化に向かう。こうした中、8月26日に発布されたのが「人間と市民の権利に関する宣言」、所謂、フランス人権宣言であり、その原本はパリ市立歴史図書館(ラモワニョン館)に保管されている。
この館の主人であったクレチアン=ギヨーム・ラモワニョン・ド・マルゼルブは、法服貴族(代々官僚の地位を世襲した家系)の一人で、ルイ16世の弁護人として国王裁判に立会った為、1794年にギロチン送りとなった人物である。 -
パリ市庁舎前のグレーヴ広場。
987年にパリ伯ユーグ・カペーがフランス国王に推挙されて以来、パリはフランスの王都であった。1357年以降、パリ市の行政機関は同じ場所にあり、現在の建物となる前身の建物の建築が始まったのは、1533年のヴァロワ朝フランソワ1世の統治下の事であった。ルイ13世統治下の1628年頃に完成した市庁舎は、大革命期を乗り切るも、普仏戦争時のパリ・コミューンによって焼失してしまう。現在の建物は1892年に再建された建物である。
革命が起きたというのに市民の暮らし向きは楽にならない。貴族が亡命したため、貴族の館に雇われていた多くの労働者が失業し、その上、亡命した貴族は金目の物を国外に持ち出した為、フランス国内では貨幣の流通量が激減していたのだ。
1789年10月5日朝、パリの女たちはグレーヴ広場に集まり行動を開始する。ヴェルサイユに出向き国王や議会に食糧難を訴えようというのだ。所謂「女たちのヴェルサイユ行進」の始まりである。翌6日、国王一家はヴェルサイユからパリのチュイルリー宮殿へと連行されてしまう。
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女たちが王を連れ去った。パリへ。7月14日を成し遂げた革命の聖地へ。その意味するところをいえば、もはやルイ16世は革命の虜囚ということである。ああ、革命を完遂したのは、女たちだ。敵意によってか、共感によってか、いずれにせよ女たちは相手を斟酌することのない強引な情熱で、その柔からかな懐に無理にも取り込んでしまったのだ。
=======パリ市庁舎 現代・近代建築
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国王と一緒に議会もヴェルサイユからパリに移り、議場はチュイルリー宮殿の調馬場付属大広間に置かれた。ヴェルサイユ行進の際に憲法制定国民議会の議長を務めていたジャン・ジョゼフ・ムーニエは議員を辞職し故郷グルノーブルへ戻っている。ムーニエ以外にも少なくない数の王党派議員や穏健派議員が、革命の行き過ぎを恐れ辞職した為、議会はより過激な様相を呈していくことになる。つまり革命は、また一歩進んだのだ。
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手が挙がったのは今度は左側からだった。保守派とは同じ空気を吸うのも嫌だと思うのか、避けるように離れた挙句に、革新派のほうは議席の左側に座るようになっていた。同じく新聞業界では、こちらも左とか、左派、左翼とか呼ばれて、それだけで通じるようになっている。
余談ながら、両極に挟まれた中央が、穏健で無定見ながら多数派をなしている議員たち、いうところの平原派、あるいは沼派である。
左に話を戻すなら、こちらも中身は一様でなかった。階段席も上に行くほど革新の思想も高じるようで、挙手が出たのもその最上席からだった。
「ロベスピエール議員」と、議長ドゥ・ピュジイが指名した。
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写真は議場が置かれた屋内馬術練習場があった付近。チュイルリー庭園に沿う大通りであるリヴォリ通りが1802年に通された際に、建物は解体されている。チュイルリー公園 広場・公園
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パリで再開した議会は、様々な思惑が入り乱れ混乱していく。ミラボーは国王政府と通じる事で大臣の席を狙い、議席の大部分を占めていた大ブルジョワ達は貴族にとって代わる事で得た利権を守る為、選挙権を一定の税金を支払う事ができる市民だけに限定する「マルク銀貨法」を成立させた。
今までは貴族の影に隠れあまり問題とされていなかった聖職者に対しても、11月3日にカトリック教会財産の国有化が議決されると、フランス国内は大きく揺さぶられる事になる。この法案を提出したのが、第一身分議員であったタレイランである。
シャルル=モーリス・ド・タレイラン=ペリゴールはオータン司教という高位聖職者であり、第一身分議員として議会に参加した人物である。カペー朝が開かれる前のカロリング朝時代には、ペリゴール伯がシャルルマーニュ大帝の系譜に繋がる一族であったのに対し、フランス王家の開祖であるユーグ=カペーはパリ伯であり、臣下にすぎない身分であった。家名のタレイラン=ペリゴールには「ペリゴール伯の戦列に切り込む勇者」という意味があり、帯剣貴族の代表格のような人物である。
パリの邸宅はユニヴェシテル通り18番地にあり、1792年に外交使節として渡英するまでの間、住んでいた。タレイランはグレゴワール同様に非常に息の長い政治家で、恐怖政治の間は亡命していたが、帰国後にナポレオン政権で外務大臣に就任する等、1830年の7月王政まで国政の中心にあった。 -
ブルトン・クラブは、ル・シャプリエらブルターニュ州選出の第三身分議員が三部会散会後に、ヴェルサイユ市内のカフェ・アモーリに集まり議論を続けているうちに、有志議員の集まりとなっていった、一種の政治クラブだ。議会のパリ移設に伴ってブルトン・クラブも移動し、その議場は市内のジャコバン僧院の図書室に置かれた。以降の革命を牽引していくことになる「ジャコバン・クラブ(正式には憲法友の会)」の誕生である。
ジャコバン・クラブはロベスピエールの逮捕(テルミドールのクーデター)を契機に閉鎖され、建物も壊されて跡地は市場となった。現在はマルシェ・サントノーレと呼ばれ、ガラス張りの近代的な建物になっており、ジャコバンの名前はマルシェ内の通りの名前のみに残されている。 -
コルドリエ街の革命家達が集まったのが、このカフェ・プロコープで、1687年の創業はパリで最も古いカフェとして知られている。
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上階がアパルトマンという建物の、下階で営まれているカフェは、一面をガラス張りにしているところも含めて、なんの変哲も無い店である。が、プロコープはパリ最古のカフェとして、はたまたモンテスキュー、ヴォルテール、アメリカ人のフランクリンまでが常連の客として通っていたカフェとして、知る人ぞ知る由緒ある店でもあった。
それが今ではコルドリエ街に集う面々の溜まり場だ。
「ああ、みんな揃っているな」
その日も馴染みの顔が総出で集まっていた。デムーランとしてはそれらしく、まずは紹介の労を取らなければならなかった。
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デムーランの紹介で、ロベスピエールがダントンやエベール、ファーブル・デグランティーヌ、モモロといった市井の革命家たちと初対面した場所として物語に登場する。ル プロコープ カフェ
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「球戯場の誓い」に集った議員達であったが、議事の進捗と共に意見が対立していく。
1790年5月12日、軍の主導権を握ったラファイエットやパリ市長に就任したバイイ、シェイエスらジャコバン・クラブ内の立憲君主派議員は、ジャコバンクラブを脱退し、1789年クラブを創設する。本部はパレ・ロワイヤルに置かれた。
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1789年クラブとは読んで字の如くに、1789年の精神を尊重せんとする同士の集まりだった。具体的には立憲王政の実現を唱えるが、ジャコバン・クラブのように喧しく議論を繰り返すわけではない。内実はサロンのようなものだ。1789年の精神を遵守するというのも、裏を返せば、そこで革命は終わりにしたいという話なのだ。
中身は穏健な中道ブルジョワ団体といってよい。つまりは議会の多数派だ。
=======パレ ロワイヤル庭園 自然・景勝地
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パリ16区のブローニュの森に沿うように広がるサン=クルー。1790年夏、国王一家は離宮サン=クルーに避暑に来ていた。国王と議会のパイプ役を担っていたミラボーも王妃マリー・アントワネットとこの場所で会談している。
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最初に城館を建てたのがジローラモ・デ・コンディ、16世紀のフランス王妃カトリーヌ・ドゥ・メディシスに、その生家があるフィレンツェから同道してきたイタリア人である。
フランスに帰化したコンディ一族が保有していたものを、17世紀に今度はルイ14世の弟オルレアン公フィリップが買い取ることになった。ル・ノートルをはじめ、ヴェルサイユの建設にも関係した高名な建築家、造園家を総動員しながら、大規模な改築の手が加えられたのも、この親王家が愛顧してきた時代の話である。
が、オルレアン公家も代替わりするにつれ、サン・クルーはあまり顧みられなくなった。しばらく打ち捨てられたようだったが、この森陰の別荘を気に入ったのが、今の王妃のマリー・アントワネットだったのである。
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当時の城館は1870年の普仏戦争で廃墟と化し、現在では公園として、当時の庭園が一般に開放されている。 -
1790年7月14日
革命一周年を祝う全国連盟祭がシャンドマルス広場で開かれた。国民、法、国王の三位一体を高らかに謳った連盟祭の主役は、国民衛兵隊司令官ラファイエット侯爵であった。
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軽やかに馬の蹄を鳴らしながら、痺れるくらいの格好よさで、ラ・ファイエットは最初に執行権のテント小屋に向かった。そこで下馬して、国王に許可を求めたるところは、連盟兵に誓約を立てさせてよろしいかと。
国王に快諾されると、それから小走りの小気味よさで、とんとん階段を上がっていく。祖国の祭壇の頂に立つや、しゃりりと腰の軍刀を引き抜く。古の十字軍騎士さながらの身振りを決めると、国民衛兵隊司令官ラ・ファイエットは宣誓を始めたのだ。私は誓う、国民、法、王に対して、常に忠実であることを。
「それを私は誓う」五万を数える連盟兵が、追いかけて唱和した。
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オーヴェルニュ出身の帯剣貴族ラファイエットは、アメリカ独立戦争に義勇兵として参戦。1781年のヨークタウンの戦いでは重要な役割を果たし、帰国後は新大陸の英雄と讃えられた。ラファイエットは1779年に渡米した際にフリーメーソンに加入しており、参入儀式を執り行ったのはワシントンであったという。写真は当時フリーメーソンのパリ・ロッジとして使用されていた建物。コルドリエ街近くのビュシ通り12番地にあり、壁にフリーメイソンの五芒星のレリーフが今も残っている。 -
1790年12月29日、カミーユ・デムーランとリュシル・デュプレシの結婚式が行われたサン・シュルピス教会。ダントン、マラ、ロベスピエール、ペティオン、ブリソ、今後の革命を主導していく人物達が集まり、二人の結婚を祝福した。
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結婚式が行われたのは、パリ左岸のサン・シュルピス教会だった。
北にサン・ジェルマン・デ・プレ大修道院、南にリュクサンブール宮殿と挟まれながら、普段は都心の建物に埋もれるような古寺にすぎなかった。その名前が多少の浪漫と郷愁を感じさせるとすれば、カルチェ・ラタンの名前で知られる学生街に隣接しているからだった。
(中略)
「おめでとう。おめでとう」
祝福の声に包まれながら、リュシル・デュプレシは泣いていた。そうして涙に汚れた顔さえ、心えたような冬の陽に照らされて、シトロン色に輝いていた。
=======サン シュルピス教会 寺院・教会
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リュシル・デュプレシの育った家は、コンデ通り22番地にあった。「やさしさのリュシル」と称され、やがて革命家の一人として名を連ねるデムーランを内助の功で支えた。
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リュシルは理解ある妻だった。女が男の仕事を献身的に手伝うだなんて、普通は結婚するまでの話なもんだがなあと、ダントンにも、マラにも首を傾げられながら、今も変わらず力を尽くしてくれる。
自分の夫は価値ある仕事をしている、意義ある役割を担っていると、そう信じて疑わないようなところもある。それを助けられないばかりか、万が一にも自分のせいで損なうようなことがあっては、まさしく妻の沽券に関わる話ではないかと、普段から神経を張り詰めさせる勢いなのである。
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カミーユ・デムーランとリュシルが住んでいたアパルトマンは、リュシルの育った家からもほど近いオデオン広場沿いのオデオン通り22番地にあり、その事を示すプレートが残る。
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1790年12月26日、フランス国内のカトリック教会を国家の管理の下に置く事が定められた聖職者民事基本法が公布されると、アンリ・パプティスト・グレゴワールは最初にこの法律に宣誓した聖職者となった。
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「私は誓う。私に委ねられたる教区の信徒たちが、国民と法と王に忠誠であるよう監督の目を光らせることを、かつまた国民議会に制定され、国王陛下に受諾された憲法を、持てる全ての権限を用いながら堅守することを」
宣誓の文言は役人の入庁式さながらのものだった。向後その献身は神でなく、ローマ教皇でなく、フランスの司教たちでさえなく、フランスという人民の国にこそ捧げられる。聖職者たる位がフランスの憲法によって保障されるからだが、それをグレゴワール師は躊躇なく唱えたのだ。
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サン=シュルピス教会に程近いボナパルト通り88番地。当時は Rue du Pot-de-Fer と呼ばれ、現在の街路名を示す濃紺のプレートの下に当時の街路名が壁に刻まれている。第一身分議員として全国三部会に連なり、革命期を経て第一帝政期、王政復古期まで活躍したグレゴワール神父は、この場所に1794年以降住んでいたとされる。 -
タレイランが提議した聖職者民事基本法は、憲法に宣誓した立憲派聖職者と宣誓拒否聖職者の対立を生み、シスマ(教会分裂)を引き起こした。
1791年2月19日、ルイ15世の愛娘であり、ルイ16世にとっては叔母にあたる二人の内親王、マダム・アデライードとマダム・ヴィクトワールがヴェルビュ城からローマに向けて出立する。表向きは聖餐式を受けるためとされているが、実際は亡命であった。聖職者基本法が成立し、シスマに揺れるフランスからローマへの亡命は、同年3月に出された教皇ピウス2世による人権宣言批判に繋がり、引いては地方の宣誓拒否聖職者が王党派と協力して農民の反乱を扇動し、全国的な反革命運動(ヴァンデの反乱)の原因ともなった。
二人の内親王が住んでいたヴェルビュ城は前王ルイ15世の愛妾ポンパドゥール侯爵夫人が建てたロココ様式美の粋を集めた建物だった。パリ近郊のムードンにあったが、隣接するサン=クルー城同様に普仏戦争で破壊され、後年、天文学者ピエール・ジャンサンが「良い眺め(ヴェル・ビュ)」と名付けられた城館の基礎部分を利用して、天文台を創設した。現在も、16区にあるパリ天文台の付属施設として、ムードン天文台には太陽観測所が置かれている。 -
1791年4月2日、革命初期の指導者「革命のライオン」ことミラボー伯爵オノレ・ガブリエル・ド・リケッティが急死する。写真はミラボーが死去したショセ=ダンタン通り42番地の家。当時、この周辺はパリの高台にあり、空気も良かったため、大邸宅が多く建てられた場所であったが、現在ではミラボーの政敵の名を冠したデパート「ギャラリー・ラファイエット」が建っており、なんとも皮肉な感じがする。物語内では死の床にあったミラボーが、「自分は理想の道を進むのみ」と主張する清廉の士ことロベスピエールに対し忠告する場面として登場する。
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「・・・清もあれば濁もあり、それを渾然とさせながら一緒くたに抱え続けているのが、むしろ普通の人間というものなのだよ」
(中略)
「ああ、もう少し自分のことを考えたまえ。もっと自分の欲を持ちたまえ」
「さもないと、じき独裁者になるぞ」
「己が欲を持ち、持つことを自覚して恥じるからこそ、他人にも寛容になれるのだ。独裁というような冷酷な真似ができるのは、反対に自分に欲がないからだ。世のため、人のためだからこそ、躊躇なく人を殺せる。ひたすら正しくいるぶんには、なんら気も咎めないわけだからね」
(中略)
「人間は君が思うより、ずっと弱くて醜い生き物だからだよ。君が思うほど、美しい生き物ではない。とことん純粋な民主主義をやれるほど、強い生き物でもない」
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ミラボーは時刻が八時を回る頃に、なにか紙のようなものを所望した。すでに声が出なくなっていて、力ない身ぶりのみで求めたわけだが、周囲の解釈は間違っていなかった。紙片が届けられ、右手にペンまで握らされるや、そこに「眠る」とだけ書き記して、もう目を閉じてしまったからだ。
そのまま、ミラボーは息を引きとった。これ以上ないというくらいに自覚的な、それゆえに幸福な死に方をしたといわなければならない。
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その開放的な庶民性から国民からの絶大な人気誇り、ブルジョワ的立場からイギリス式の立憲君主制を主張したミラボーという強力な王制護持論者の急逝は国王ルイ16世を動揺させ、革命は次の段階に進むことになる。 -
ミラボーの死因は化膿性心膜炎、または当時は診断も治療も不可能だった不治の病、虫垂炎だったと考えられている。内親王の亡命騒ぎに端を発した亡命禁止法の制定に揺れる議会ではその法案に反対する論陣を張り、死の間際まで議会で精力的な活動を続けていた。
一方で若い頃からの放蕩癖は止まらなかったようで、イタリア劇場、現在のオペラ=コミック座からの帰路に倒れ、死の床につく事になる。
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・・・荷物をまとめて(3月)28日、改めてパリに戻る間も体調は最悪だった。が、ショッセ・ダンタン通りの屋敷で中国式風呂、つまりは熱い湯に全身を浸けるという入浴法を試してみると、なんだか身体が楽になった気がした。調子に乗って繰り出したのが、イタリア劇場だったのだ。
そこで歌うプリマドンナ、モリチェーリも愛人のひとりだった。その美声に酔いしれるのも悪くないと、桟敷席についたところ、もう一幕目でがたがたと震えが来た。ミラボーは中座を決めたが、急な話で馬車の手配がつかなかった。ショッセ・ダンタン通りは近所だからと、よろよろ歩いて帰宅した挙句が、玄関前に無様に倒れて、吐血することになってしまったのだ。
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パリを取り囲む大通り(グラン・ブールヴァール)の一画を成すイタリアン大通りの名前は、イタリア劇場に由来している。なお、劇場からミラボー宅までは約600m、歩いて10分足らずの距離である。 -
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なるほど、どこまでいってもミラボーは貴族だった。第三身分の代表として議席を占めても、やることなすこと図抜けてしまい、どう転んでみたところで、巨人であり、偉人であり、英雄であるところの偶像にしかなりえなかった。
が、もう英雄はいらないのだ。すでに名も無き人民の時代が来たからだ。旧い時代からの橋渡しとして、束の間の出番が与えられたとしても、あとは滅びる道しかありえないのだ。だから、とロベスピエールは思う。だから、ミラボーは大袈裟なくらいに称えられなければならない。 最後の英雄として。
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ミラボーは国葬でパンテオンに葬られるが、革命がより急進的な段階に入ると国王と通じていた事が暴露され、その遺骸はパンテオンから引き摺り出され、打ち捨てられてしまう。その後、ミラボーの妹によって近くのクラマール墓地に匿名で埋葬されたとも、セーヌ川に捨てられたとも言われているが、真相は定かではない。パンテオン 建造物
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1791年6月20日深夜、パリからの亡命を決意した国王は、ロシア貴族コルフ侯爵夫人一行に扮して、チュイルリ宮を脱出する。後の世にいう、ヴァレンヌ事件の始まりだ。
国王一家のフランス脱出を計画したのが、スウェーデン貴族のフェルセン伯爵であった。フェルセンは国王と秘密裏に連絡する為に、サントノレ通り115番地にあった薬屋であぶり出しのインクを買ったとされている。オーナーは何度も変わっているが、現在もその薬局は健在で、当時の装飾の一部が壁や天井に残っている。 -
国王一家はサン=マルタン門で大型のベルリン馬車に乗り換えて(史実ではサクレクール寺院の近くクリシー通り27番地のシュリヴァン夫人邸とされる)、ブイエ将軍が制圧する東部国境帯を目指して東へと馬車を走らせる。しかし、ブイエ将軍の部隊とは合流できず、6月22日、国王一行はメッスから近いヴァレンヌで拘束される。
このヴァレンヌ事件を契機に、従来は革命と共にあったと思われていた国王が、革命と対立するものとして認識されるようになる。なお、国王と同日にパリを脱出した王弟プロヴァンス伯は、亡命を成功させ、ナポレオン戦争後の混乱期の1814年にブルボン復古王政を敷くことになる。 -
革命当時のパリは、入市税を徴収するために巡らされた、フェルミエー・ジェネロー(徴税請負人)の城壁に囲まれていた。1860年のパリ拡張工事により、城壁は壊され、現在では4つの市門が残されるのみである。
その中の一つ、北の市門(シャルトルの関税徴収所)の遺構はモンソー公園の北側にあり、ヴァレンヌで拘束された国王は、この市門を抜けてチュイルリ宮へと連行された。このヴァレンヌ事件の顛末について、議会は、国王は亡命したのではなく、過激な王党派により誘拐されたのだ、と強弁する。これは、憲法制定国民議会が目標としていた「1791年9月までの憲法制定」という既定路線を、何が何でも守りたいというバルナーヴら三頭派や、ラ・ファイエットらが仕組んだ壮大な虚構であった。モンソー公園 広場・公園
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ミラボー亡き後、議会の主導権を握ったのはジャコバン・クラブ内で多数派を形成していた三頭派と呼ばれるグループだった。
「デュポールが考え、ラメットが動き、バルナーヴが話す」と言われる三頭派はヴァレンヌ事件後に急速に立憲君主派に傾いていく。小説の中では、議会に対しては王との妥協を画策しつつ、王に対しては革命との協調を求めて、是が非でも憲法を発布しようと動いていく。
一方で革命の原理原則に拘るロベスピエールらとは対立し、1791年7月16日、ジャコバン・クラブは分裂する。三頭派は1789年クラブと合流し右派勢力を形成。ジャコバン僧院の斜向かいに建つフイヤン僧院に本拠地を置いた為、フイヤン派と呼ばれる。
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バルナーヴは繰り返した。ええ、私たちが憲法友の会なのです。反対にロベスピエール議員、あなたがたはジャコバン僧院に集う、単なるジャコバン・クラブにすぎない。憲法友の会を名乗るのは向後お控え願いましょう。
「ただ、こちらとしても、憲法友の会は、あくまで正式名称です。普段は構えることなく、フイヤン・クラブとでも呼んでください」
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現在ではジャコバン僧院同様にフイヤン僧院も取り壊され、高級ブティックが連なるアーケード Carré des Feuillant になっている。 -
エッフェル塔のお膝元、シャン=ド=マルスは「戦争の神マルスの野原」の名が表すように、パリの練兵場であった。フランス革命を祝う全国連盟祭が開かれた場所であると共に、1791年7月17日、シャンドマルスの虐殺が起きた場所でもある。
ダントンやデムーランが主導した、ルイ16世の廃位を求める署名嘆願運動に対し、パリ市長バイイや国民衛兵隊司令官ラファイエットが群衆を解散させるべく強硬手段を取ったのである。偶発的なものではあったが、軍隊の発砲は群衆をパニックに陥れた。
この事件を契機にフイヤン派の人気は失墜し、市長バイイは解任された。1793年に逮捕されたバイイはこの場所で処刑されている。シャン ド マルス公園 広場・公園
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シャンドマルス事件が起きたその当日から(1791年7月17日)、テルミドールのクーデターの結果処刑されるまで(1794年7月28日)、ロベスピエールが下宿していたデュプレイ家の屋敷があった場所。家主である指物師の親方モーリス・デュプレイはジャコバン・クラブの会員であり、熱烈なロベスピエールの支持者でもあった。この屋敷の一階には、後に「ロベスピエールの第二の魂」とも呼ばれるジョルジュ・オーギュスト・クートンも下宿するようになる。
現在のサントノレ街398番地はブラッスリーになっていて、その建物の壁には、ロベスピエールの事を示すプレートが取り付けられている。 -
1791年9月30日、91年憲法の可決に伴なって三部会から続く憲法制定国民議会は解散し、全ての議員は議席を失う。翌10月1日、新しい議員による立法議会が開幕した。立法議会でまず頭角を現したのがジャコバン・クラブ出身のジャック・ピエール・ブリソだった。
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演台に立つのは、馬面といえるくらいに顔が長い男だった。ぼさぼさの短髪も冴えない風だが、その割に間が抜けた感じがないのは、くりくりと動く目の光に、ちょっと抗えないくらいの力が感じられるからだろう。
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ブリソは、ヴェルニョー、ガデ、ジャンソネといったジロンド県出身の議員を糾合し一大派閥を形成したため、後にジロンド派と呼ばれるようになり、これを憲法制定国民議会ではロベスピエールの盟友だったペティオンや、銀行家のクラヴィエール、著述家コンドルセなどがジロンド派の議員活動を支援した。
立法議会の議題に上げられたのはピルニッツ宣言への対処法であった。
フランス革命の自国への波及を恐れる周辺国が、フランス国王の安全を求めたこの宣言に対し、どのように対処するか。
これ以上の革命の急進を望まない、議会の中道派であるブルジョワ出身の議員やフイヤン派は、戦争を避け、フランス国王の一定の権利を認めた立憲君主政の確立を志向する。
一方でジロンド派の議員は、フランス革命で手にしたフランス国民の権利を旧体制に渡してはならないという論理で、開戦を主張する。国民の圧倒的な支持を受け、議会で主導権を握ろうという、ジロンド派の政争に戦争が利用される形となったのである。
(写真はジロンド県の県庁所在地ボルドーを象徴するブルス広場)ブルス広場 広場・公園
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<未訪問><アラス>
憲法制定国民議会の解散後、ロベスピエールは一時アラスに帰郷していた。帰郷直後こそ市民を挙げての大歓迎に合うものの、議会ではフイヤン派が議席を席巻し、宣誓拒否派の司教が教会を牛耳る、地方の実情を目の当たりにする。革命を完遂するためにパリに戻ったロベスピエールが目にしたものは・・・。
フイヤン派のラファイエットを大差で破りパリ市長に就任していたペティオンを訪ねたロベスピエールは、かつての盟友の変わりように慄然とする事になる。
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「だから、人変わりしたなんて、そんな風に思っていないさ」
ロベスピエールも笑顔で答えた。が、まるで平静でいられたかといえば、それまた嘘になってまう。現にこうして話している間も、ぐるりと頭を巡らせて、四方を確かめたい衝動がある。
(中略)
家具調度は全てが鹿の四肢を彷彿とさせる美脚を持ち、ことごとくが金泥で飾られていた。敷き詰められた絨毯にいたっては、靴の踝まで埋まるくらいの毛足だった。
ペティオンは引越していた。教えられて訪ねたシテ島の新居は、富豪で知られるクローヌ一族や、はたまたルノワール一族なども住んでいたという、来客を圧倒せんとするばかりの豪邸だった。
議員だったとはいえ、元はシャルトルの田舎弁護士であり、住まいもロベスピエールの下宿と大差なかった。それがいっぺんしてしまったのだから、なるほどペティオン自身が人変わりを疑われまいかと心配するはずだった。
======= -
主戦論で世論を主導していたジロンド派に対し、ロベスピエールは国内の安定と革命の完遂という立場から反戦論を展開し、両者の亀裂はより大きくなっていく。
1791年12月31日、フイヤン派の領袖バルナーヴがロベスピエールと会うためデュプレイ家を訪れる。バルナーヴは政界を引退し、故郷グルノーブルに帰るというのだ。
二人はパレ・ロワイヤルのカフェ・ド・フォワのテラス席で語り始める。
フイヤン派の野望は潰えたと話すバルナーヴは、ロベスピエールに予言めいた言葉を残しパリを去っていく。
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「私がいても同じです。なんとなれば、問題は革命が続くという事なのです。憲法があり、法治国家があるというのに、それに満足することなく革命は続き、のみならず、その制御不能な状態、まさしく無法な状態を上手に扱えると自惚れる馬鹿者が、これからも跡を絶たないということなのです」
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暗に今後の粛清と独裁者の出現を仄めかすセリフで、「小説フランス革命」の第一部は幕を閉じる。
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