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1792年、革命に圧力をかける諸外国に対する反発は強くなり、フランスでは開戦への機運が高まっていた。<br />ヴァレンヌ事件で失墜した王家の威信を取り戻したい国王ルイ16世は、戦争によって国民の不満を国外に向ける事で主導権を握ろうと考えるジロンド派の議員を起用し内閣を組閣する。ただし、その思惑は全く正反対だ。ジロンド派は戦争の勝利を望んでいたのに対し、国王は戦争に敗北したフランスを復活させる事でイニシアチブを握ろうと考えていた。<br />ジロンド派内閣において内務大臣の席に就いたラ・プラティエール子爵ジャン=マリー・ロランはリヨンの工業監察官で憲法制定国民議会にリヨン市より派遣された人物だ。<br />内務大臣ロランの妻であった、マノン・ロラン(ロラン夫人)はパリのシテ島に店を構える彫金師の家庭に生まれた。幼少の頃より英才教育を受け、ヴォルテール、モンテスキュー、ルソーらの啓蒙思想に早くから触れていたそうだ。<br />パリに戻ったロラン夫人はパリ市内でサロンを開き、ジロンド派議員はジャコバン・クラブではなく、このサロンに集まるようになる。<br />写真はマノン・ロランの生家があったシテ島のオルロージュ河岸41番地。フランス式2階の壁にロラン夫人が生まれた事を記念するプレートが確認できる。<br />左隣の39番地は1775年にブレゲが時計工房を開いた場所である。

フランス革命散歩 第二部 ~「小説フランス革命」を題材として ~

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2017/01/01 - 2018/01/01

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HYRON

HYRONさん

1792年、革命に圧力をかける諸外国に対する反発は強くなり、フランスでは開戦への機運が高まっていた。
ヴァレンヌ事件で失墜した王家の威信を取り戻したい国王ルイ16世は、戦争によって国民の不満を国外に向ける事で主導権を握ろうと考えるジロンド派の議員を起用し内閣を組閣する。ただし、その思惑は全く正反対だ。ジロンド派は戦争の勝利を望んでいたのに対し、国王は戦争に敗北したフランスを復活させる事でイニシアチブを握ろうと考えていた。
ジロンド派内閣において内務大臣の席に就いたラ・プラティエール子爵ジャン=マリー・ロランはリヨンの工業監察官で憲法制定国民議会にリヨン市より派遣された人物だ。
内務大臣ロランの妻であった、マノン・ロラン(ロラン夫人)はパリのシテ島に店を構える彫金師の家庭に生まれた。幼少の頃より英才教育を受け、ヴォルテール、モンテスキュー、ルソーらの啓蒙思想に早くから触れていたそうだ。
パリに戻ったロラン夫人はパリ市内でサロンを開き、ジロンド派議員はジャコバン・クラブではなく、このサロンに集まるようになる。
写真はマノン・ロランの生家があったシテ島のオルロージュ河岸41番地。フランス式2階の壁にロラン夫人が生まれた事を記念するプレートが確認できる。
左隣の39番地は1775年にブレゲが時計工房を開いた場所である。

同行者
一人旅
交通手段
鉄道 高速・路線バス 徒歩
航空会社
エールフランス
旅行の手配内容
個別手配
  • 「ジロンド派の女王」マノン・ロランのサロンが開かれたブリタニク館の場所は、小説の中では左岸のゲネゴー通り沿いにあったとされている。現在のモネ博物館の近辺であろうか。<br />現在では同名のホテルがシャトレ座のすぐ北側のヴィクトリア通りに存在しているが、関連性は不明。

    「ジロンド派の女王」マノン・ロランのサロンが開かれたブリタニク館の場所は、小説の中では左岸のゲネゴー通り沿いにあったとされている。現在のモネ博物館の近辺であろうか。
    現在では同名のホテルがシャトレ座のすぐ北側のヴィクトリア通りに存在しているが、関連性は不明。

  • パレ=ロワイヤルの裏手、現在は国立図書館地図研究所として利用されているプティ=シャン通りにあるこの建物(Hôtel Tubeuf)は、ルイ14世の時代は財務大臣官邸として、革命期には内務大臣官邸として利用されていた。<br />1792年3月23日、開戦の世論の高まりを受けてジロンド派内閣が成立すると、晴れて内務大臣夫人となったロラン夫人は、自らのサロンをブリタニク館からこの建物に移している。<br />=======<br />内務大臣官邸は、いたるところに大理石が使われていた。<br />階段も大理石、広間の装飾柱も大理石、壁面の浮き彫りも大理石。その全てが鏡よろしく、ひとの顔を映し出すほどに磨きこまれ、奥から輝きを発するような光沢といい、滑らかにも冷たい手触りといい、知らず陶然となってしまうほどなのだ。<br />(中略)<br />官邸は選べませんもの、いたしかたありませんわと苦笑までしてみせたが、その実の本音といえば、ロラン夫人は貴族趣味こそ嫌いでなかった。華やかだからだ。明るいからだ。そうした美質が政治には欠かせないとさえ思うのだ。<br />=======<br />圧倒的な世論に押され、4月20日オーストリアに宣戦布告したフランスであったが、戦場の兵士の士気は低く、連戦連敗が続いていた。6月13日、敗戦の責任を取りジロンド派内閣は解任され、フイヤン派に政権を譲り渡すことになる。

    パレ=ロワイヤルの裏手、現在は国立図書館地図研究所として利用されているプティ=シャン通りにあるこの建物(Hôtel Tubeuf)は、ルイ14世の時代は財務大臣官邸として、革命期には内務大臣官邸として利用されていた。
    1792年3月23日、開戦の世論の高まりを受けてジロンド派内閣が成立すると、晴れて内務大臣夫人となったロラン夫人は、自らのサロンをブリタニク館からこの建物に移している。
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    内務大臣官邸は、いたるところに大理石が使われていた。
    階段も大理石、広間の装飾柱も大理石、壁面の浮き彫りも大理石。その全てが鏡よろしく、ひとの顔を映し出すほどに磨きこまれ、奥から輝きを発するような光沢といい、滑らかにも冷たい手触りといい、知らず陶然となってしまうほどなのだ。
    (中略)
    官邸は選べませんもの、いたしかたありませんわと苦笑までしてみせたが、その実の本音といえば、ロラン夫人は貴族趣味こそ嫌いでなかった。華やかだからだ。明るいからだ。そうした美質が政治には欠かせないとさえ思うのだ。
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    圧倒的な世論に押され、4月20日オーストリアに宣戦布告したフランスであったが、戦場の兵士の士気は低く、連戦連敗が続いていた。6月13日、敗戦の責任を取りジロンド派内閣は解任され、フイヤン派に政権を譲り渡すことになる。

  • カフェ・プロコープの裏口に面したクール・デュ・コメルス・サンタンドレ小路は、1792年以降のフランス革命における震源地ともいえる。ダントンの住居があり、マラーはこの広場にあった印刷所で「人民の友」を印刷し、ギヨタン博士は苦痛を与えることなく「人道的」に処刑を遂行できる断頭台(ギロチン)を発明した。<br />ジロンド派内閣の更迭が発表されると、1792年6月20日、コルドリエ街の面々に煽られたパリ市民はチュイルリ宮に乱入し国王に対しジロンド派内閣の復権を訴える。この時、民衆の先頭に立って国王に対面したルイ・ルジャンドルもコルドリエ・クラブの一人で、この近くで肉屋を営んでいた。<br />宮殿に乱入し、国王に暴言を浴びせかけるなどした市民であったが、対応した国王の毅然とした態度に圧倒され、国王からは何の約束も引き出すことができないまま、集まった群衆は解散した。

    カフェ・プロコープの裏口に面したクール・デュ・コメルス・サンタンドレ小路は、1792年以降のフランス革命における震源地ともいえる。ダントンの住居があり、マラーはこの広場にあった印刷所で「人民の友」を印刷し、ギヨタン博士は苦痛を与えることなく「人道的」に処刑を遂行できる断頭台(ギロチン)を発明した。
    ジロンド派内閣の更迭が発表されると、1792年6月20日、コルドリエ街の面々に煽られたパリ市民はチュイルリ宮に乱入し国王に対しジロンド派内閣の復権を訴える。この時、民衆の先頭に立って国王に対面したルイ・ルジャンドルもコルドリエ・クラブの一人で、この近くで肉屋を営んでいた。
    宮殿に乱入し、国王に暴言を浴びせかけるなどした市民であったが、対応した国王の毅然とした態度に圧倒され、国王からは何の約束も引き出すことができないまま、集まった群衆は解散した。

  • 【未訪問 ショワジー=ル=ロワ】<br />6月20日の暴動に対し、オーストリア帝国とプロイセン王国の連合軍司令官ブラウンシュバイク公爵によって、パリ市民が国王に手出しするならばパリの全面破壊も辞さないという脅迫文(ブラウンシュバイク宣言)が出される。<br />これに激怒したパリ市民は、1792年8月10日、6月に続き再び蜂起し、カルーゼル広場は激戦の舞台となった。この戦いの最中に歌われていたのが「ライン方面軍のための軍歌」で、マルセイユからパリに上京していた連盟兵によって広められた為、パリ市民が「ラ・マルセイエーズ」と呼んだ、現在のフランス国家である。<br />=======<br />武器を取れ、市民諸君、<br />さあ、隊伍を組もうじゃないか、<br />進め、進め、<br />畑の畝を潤すに、<br />敵の汚れた血を流せ<br />=======<br />写真はラ・マルセイエーズを作曲したクロード・ジョゼフ・ルージェ・ド・リールの像。パリ近郊の街ショワジー=ル=ロワに建っている。なお、ド・リールは立憲王政を支持していたため、8月10日事件の後、逮捕・投獄され、釈放されたのは2年後、1794年のテルミドールのクーデター後であった。

    【未訪問 ショワジー=ル=ロワ】
    6月20日の暴動に対し、オーストリア帝国とプロイセン王国の連合軍司令官ブラウンシュバイク公爵によって、パリ市民が国王に手出しするならばパリの全面破壊も辞さないという脅迫文(ブラウンシュバイク宣言)が出される。
    これに激怒したパリ市民は、1792年8月10日、6月に続き再び蜂起し、カルーゼル広場は激戦の舞台となった。この戦いの最中に歌われていたのが「ライン方面軍のための軍歌」で、マルセイユからパリに上京していた連盟兵によって広められた為、パリ市民が「ラ・マルセイエーズ」と呼んだ、現在のフランス国家である。
    =======
    武器を取れ、市民諸君、
    さあ、隊伍を組もうじゃないか、
    進め、進め、
    畑の畝を潤すに、
    敵の汚れた血を流せ
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    写真はラ・マルセイエーズを作曲したクロード・ジョゼフ・ルージェ・ド・リールの像。パリ近郊の街ショワジー=ル=ロワに建っている。なお、ド・リールは立憲王政を支持していたため、8月10日事件の後、逮捕・投獄され、釈放されたのは2年後、1794年のテルミドールのクーデター後であった。

  • ナポレオンによって建造されたカルーゼル凱旋門のある広場は、もとはチュイルリー宮殿の中庭であり、広場は革命当時、西にロングヴィル館、クレキ館、クリュソル館などの貴族の館、東にチュイルリー宮殿、北はアンリ4世のグランドギャルリと、三方を囲まれるような場所だったらしい。<br />=======<br />どれくらいの時間がすぎたか。<br />デムーランは無我夢中で戦った。<br />があ、ががあ、ああ。口から飛び出すのも獣さながらの吠え声だけで、最中には人間の言葉さえ皆無だった。自分を取り戻すことができたのは、テュイルリ宮の前庭を静けさが支配したからだった。<br />=======<br />激戦の末、パリ市民は宮殿を守るスイス傭兵の部隊を退け宮殿を占拠。この蜂起により、革命は新しい段階に進んだ。

    ナポレオンによって建造されたカルーゼル凱旋門のある広場は、もとはチュイルリー宮殿の中庭であり、広場は革命当時、西にロングヴィル館、クレキ館、クリュソル館などの貴族の館、東にチュイルリー宮殿、北はアンリ4世のグランドギャルリと、三方を囲まれるような場所だったらしい。
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    どれくらいの時間がすぎたか。
    デムーランは無我夢中で戦った。
    があ、ががあ、ああ。口から飛び出すのも獣さながらの吠え声だけで、最中には人間の言葉さえ皆無だった。自分を取り戻すことができたのは、テュイルリ宮の前庭を静けさが支配したからだった。
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    激戦の末、パリ市民は宮殿を守るスイス傭兵の部隊を退け宮殿を占拠。この蜂起により、革命は新しい段階に進んだ。

    カルーゼル凱旋門 国立公園

  • 8月10日の蜂起の結果、王権が停止され、フイヤン派の内閣も更迭された。代わりにジロンド派のロランらが閣僚に復帰し、蜂起の首謀者であるダントンは法務大臣に就任、デムーランは法務大臣の片腕として国璽尚書に就任している。<br />1789年7月14日が貴族に対する第三身分の闘争であったのに対し、1792年8月10日は国王と右傾化するブルジョワに対する反動であった。この市民の心情の変化について、物語の中ではデムーランの見解として、次の様にまとめられている。少し長いが引用したい。<br />=======<br />今日に至るブルジョワの優勢も、(7月14日のあと)すぐに端緒が認められる。連中はみるみる唯我独尊の態度を強めた。その暴走を食い止めようとしたのが他でもない、亡きミラボー伯爵だった。ミラボーは王という重石を使うことで、諸層の均衡を保とうとした。新たな貴族になられてたまるものかと、ブルジョワ議員たちを抑えて、市民という新しい存在に一枚岩の実質を与えようとした。<br />しかし、その試みは無残にも頓挫した。志半ばにしてミラボーが死んでしまったからだ。・・・ために混乱が生じた。<br />まっさきに王家が我を失った。ヴァレンヌ事件がフランスの運命を狂わせた。<br />認めまいとして、フイヤン派が常軌を逸した。シャン・ドゥ・マルスの虐殺で、ブルジョワとサン・キュロットの間に決定的な亀裂を生じさせた。<br />戦争という禁断の媚薬を用いたジロンド派とて、その亀裂は修復できなかった。<br />あげく起こるべくして起きたのが、八月十日の蜂起だったのだ。<br />同じ日付をもって、王権は停止された。<br />=======<br />写真は法務省の置かれたヴァンドーム広場のブールヴァレ館。司法省と名を変え、現在も利用されている。

    8月10日の蜂起の結果、王権が停止され、フイヤン派の内閣も更迭された。代わりにジロンド派のロランらが閣僚に復帰し、蜂起の首謀者であるダントンは法務大臣に就任、デムーランは法務大臣の片腕として国璽尚書に就任している。
    1789年7月14日が貴族に対する第三身分の闘争であったのに対し、1792年8月10日は国王と右傾化するブルジョワに対する反動であった。この市民の心情の変化について、物語の中ではデムーランの見解として、次の様にまとめられている。少し長いが引用したい。
    =======
    今日に至るブルジョワの優勢も、(7月14日のあと)すぐに端緒が認められる。連中はみるみる唯我独尊の態度を強めた。その暴走を食い止めようとしたのが他でもない、亡きミラボー伯爵だった。ミラボーは王という重石を使うことで、諸層の均衡を保とうとした。新たな貴族になられてたまるものかと、ブルジョワ議員たちを抑えて、市民という新しい存在に一枚岩の実質を与えようとした。
    しかし、その試みは無残にも頓挫した。志半ばにしてミラボーが死んでしまったからだ。・・・ために混乱が生じた。
    まっさきに王家が我を失った。ヴァレンヌ事件がフランスの運命を狂わせた。
    認めまいとして、フイヤン派が常軌を逸した。シャン・ドゥ・マルスの虐殺で、ブルジョワとサン・キュロットの間に決定的な亀裂を生じさせた。
    戦争という禁断の媚薬を用いたジロンド派とて、その亀裂は修復できなかった。
    あげく起こるべくして起きたのが、八月十日の蜂起だったのだ。
    同じ日付をもって、王権は停止された。
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    写真は法務省の置かれたヴァンドーム広場のブールヴァレ館。司法省と名を変え、現在も利用されている。

  • パリ3区はタンプル区とも呼ばれるが、これは、この地にテンプル騎士団のパリ支部があった事が由来となっている。3区の区役所とタンプル公園に挟まれたウジェーヌ・スピュレ通りに建っていたのがタンプル宮殿の大塔、いわゆるタンプル塔であり、バスティーユ解体後も監獄として利用されていた。8月10日の蜂起で捕らえられた国王一家が収監されたのが、このタンプル塔だった。<br />=======<br />十三世紀、ルイ9世の時代に建てられたという完全な封建時代の遺物で、尖塔を築き、矢迫間を設け、あるいは櫓を建てと、ただ押し寄せる敵を撃退することだけを考えた、純粋に軍事的な建築物である。国王一家は向後そこに暮らせというのが、蜂起の自治委員会の希望であり、容れた立法議会の決定だったのである。<br />(中略)<br />かねてからの住人を追い出してみれば、またタンプル塔も牢獄めいていた。ルイが思うに、石造りで冷たく、また室内が薄暗いからだ。建築技術が稚拙な時代に造られた憾みで、どれだけ工面の改築を重ねても、窓を大きく取れないという基本だけは変えることができないのだ。<br />=======

    パリ3区はタンプル区とも呼ばれるが、これは、この地にテンプル騎士団のパリ支部があった事が由来となっている。3区の区役所とタンプル公園に挟まれたウジェーヌ・スピュレ通りに建っていたのがタンプル宮殿の大塔、いわゆるタンプル塔であり、バスティーユ解体後も監獄として利用されていた。8月10日の蜂起で捕らえられた国王一家が収監されたのが、このタンプル塔だった。
    =======
    十三世紀、ルイ9世の時代に建てられたという完全な封建時代の遺物で、尖塔を築き、矢迫間を設け、あるいは櫓を建てと、ただ押し寄せる敵を撃退することだけを考えた、純粋に軍事的な建築物である。国王一家は向後そこに暮らせというのが、蜂起の自治委員会の希望であり、容れた立法議会の決定だったのである。
    (中略)
    かねてからの住人を追い出してみれば、またタンプル塔も牢獄めいていた。ルイが思うに、石造りで冷たく、また室内が薄暗いからだ。建築技術が稚拙な時代に造られた憾みで、どれだけ工面の改築を重ねても、窓を大きく取れないという基本だけは変えることができないのだ。
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  • オデオン駅の周辺は、革命当時コルドリエ街と呼ばれていた場所であり、駅の出口には、コルドリエ街の帝王と呼ばれた、ジョルジュ・ジャック・ダントンの像が建つ。<br />1792年9月1日、国境を越えて進軍したプロイセン軍により東の要害の地ヴェルダンが陥落する。明日にも軍隊がパリに攻め寄せるという恐怖の中、法務大臣ダントンが演説する。いわゆる「大胆演説」である。<br />「全ては興奮し、全ては動顚し、全ては掴みかからんばかりだ。やがて打ち鳴らされる鐘は警戒の知らせではない。それは祖国の敵への攻撃なのだ。敵に打ち勝つためには、大胆さ、いっそうの大胆さ、常に大胆さが必要なのだ。そうすればフランスは救われるだろう!」<br />=======<br />これしかない。そうすれば、フランスは救われる。かかる言葉でダントンが演説を結んだとき、大袈裟でなく議場の空気は炸裂した。<br />言葉にもならない言葉を張り上げたとき、そこにいたのはフランス人ばかりだった。ああ、ブルジョワもなければ、サンキュロットもない。ジロンド派もなく、蜂起の自治委員会もなく、あるのは祖国の同胞として、ともに戦おうと心を燃やす、ひたむきな人間ばかりなのだ。<br />=======

    オデオン駅の周辺は、革命当時コルドリエ街と呼ばれていた場所であり、駅の出口には、コルドリエ街の帝王と呼ばれた、ジョルジュ・ジャック・ダントンの像が建つ。
    1792年9月1日、国境を越えて進軍したプロイセン軍により東の要害の地ヴェルダンが陥落する。明日にも軍隊がパリに攻め寄せるという恐怖の中、法務大臣ダントンが演説する。いわゆる「大胆演説」である。
    「全ては興奮し、全ては動顚し、全ては掴みかからんばかりだ。やがて打ち鳴らされる鐘は警戒の知らせではない。それは祖国の敵への攻撃なのだ。敵に打ち勝つためには、大胆さ、いっそうの大胆さ、常に大胆さが必要なのだ。そうすればフランスは救われるだろう!」
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    これしかない。そうすれば、フランスは救われる。かかる言葉でダントンが演説を結んだとき、大袈裟でなく議場の空気は炸裂した。
    言葉にもならない言葉を張り上げたとき、そこにいたのはフランス人ばかりだった。ああ、ブルジョワもなければ、サンキュロットもない。ジロンド派もなく、蜂起の自治委員会もなく、あるのは祖国の同胞として、ともに戦おうと心を燃やす、ひたむきな人間ばかりなのだ。
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  • 残念ながら「大胆演説」はフランス革命史上で最も血生臭い事件の引き金ともなってしまう。1792年9月2日から6日間、パリ市内を吹き荒れた「九月虐殺」である。<br />ヴェルダン陥落を受け、パリ市民は義勇兵として出征しようとしたのだが、その前にパリの反革命の要因を取り除こうと考えたのである。各街区では「義勇兵がパリを出発する前に、獄中にある全ての聖職者、ならびに容疑者には、死刑が執行されるべきである」という議決がなされ、更にマラの檄文が市民を煽る。<br />「君たち、まず監獄に行きたまえ。そこで民衆の敵に制裁を加えてからでなければ、とても出征などできまい」<br />サン=ジェルマン=デ=プレ教会の修道院は監獄(アベイ監獄)として宣誓拒否僧が収監されていたが、市民はアベイ監獄に詰め寄せると、即席の人民裁判を開き、次々と収監されていた僧侶達を「私刑」にしていった。

    残念ながら「大胆演説」はフランス革命史上で最も血生臭い事件の引き金ともなってしまう。1792年9月2日から6日間、パリ市内を吹き荒れた「九月虐殺」である。
    ヴェルダン陥落を受け、パリ市民は義勇兵として出征しようとしたのだが、その前にパリの反革命の要因を取り除こうと考えたのである。各街区では「義勇兵がパリを出発する前に、獄中にある全ての聖職者、ならびに容疑者には、死刑が執行されるべきである」という議決がなされ、更にマラの檄文が市民を煽る。
    「君たち、まず監獄に行きたまえ。そこで民衆の敵に制裁を加えてからでなければ、とても出征などできまい」
    サン=ジェルマン=デ=プレ教会の修道院は監獄(アベイ監獄)として宣誓拒否僧が収監されていたが、市民はアベイ監獄に詰め寄せると、即席の人民裁判を開き、次々と収監されていた僧侶達を「私刑」にしていった。

    サン ジェルマン デ プレ教会 寺院・教会

  • マリー・アントワネットの元で女官長を務めたランバル公爵夫人は8月10日の蜂起でチュイルリー宮から連行されフォルス監獄のプチ・フォルスに収監される。九月虐殺が発生すると、9月3日、公爵夫人は監獄から引き擦り出され、服を剥ぎ取られた上で、首を切り落とされた。暴徒と化した民衆はその首を「旗印」として晒し物にし、王家が収監されていたタンプ塔に押し寄せ、マリー・アントワネットにその首を掲げて見せつけたという。<br /><br />監獄はもともとラ・フォルス公爵の館であったが、1754年に軍務省によって買い取られ、刑務所に転用された。監獄は2つに分かれ、グラン・フォルスは男性の民事犯罪者用として、プチ・フォルスは主に売春婦が収監されていた。1845年に監獄は解体され現存しないが、ラモワニョン館(パリ市歴史図書館)と隣接していたプチ・フォルスの壁の一部が、現在に残っている。

    マリー・アントワネットの元で女官長を務めたランバル公爵夫人は8月10日の蜂起でチュイルリー宮から連行されフォルス監獄のプチ・フォルスに収監される。九月虐殺が発生すると、9月3日、公爵夫人は監獄から引き擦り出され、服を剥ぎ取られた上で、首を切り落とされた。暴徒と化した民衆はその首を「旗印」として晒し物にし、王家が収監されていたタンプ塔に押し寄せ、マリー・アントワネットにその首を掲げて見せつけたという。

    監獄はもともとラ・フォルス公爵の館であったが、1754年に軍務省によって買い取られ、刑務所に転用された。監獄は2つに分かれ、グラン・フォルスは男性の民事犯罪者用として、プチ・フォルスは主に売春婦が収監されていた。1845年に監獄は解体され現存しないが、ラモワニョン館(パリ市歴史図書館)と隣接していたプチ・フォルスの壁の一部が、現在に残っている。

  • タンプル塔の鉄格子の入った小さな窓から外を見ていたルイ・カペーことルイ16世陛下。ランヴァル公爵夫人の首を晒され卒倒するマリー・アントワネットを励ましている。(パリ9区クレヴァン蝋人形館の歴史コーナーより)<br />=======<br />「ちらと窓から覗いたのは、ほら、実物そっくりに作れるという例の蝋人形さ。それに豚かなにかの臓物をもらってきて、べたべた血を塗りたくって、もっともらしくみせただけというわけさ」<br />部屋の空気が、ふっと軽くなるのがわかった。家族に笑みが戻ろうとしていた。だからこそ、逆にルイは疑うこともできなくなった。ああ、ランバル大公妃は確かに殺された。あれは切り離された生首で間違いない。<br />=======

    タンプル塔の鉄格子の入った小さな窓から外を見ていたルイ・カペーことルイ16世陛下。ランヴァル公爵夫人の首を晒され卒倒するマリー・アントワネットを励ましている。(パリ9区クレヴァン蝋人形館の歴史コーナーより)
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    「ちらと窓から覗いたのは、ほら、実物そっくりに作れるという例の蝋人形さ。それに豚かなにかの臓物をもらってきて、べたべた血を塗りたくって、もっともらしくみせただけというわけさ」
    部屋の空気が、ふっと軽くなるのがわかった。家族に笑みが戻ろうとしていた。だからこそ、逆にルイは疑うこともできなくなった。ああ、ランバル大公妃は確かに殺された。あれは切り離された生首で間違いない。
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    グレヴァン蝋人形館 博物館・美術館・ギャラリー

  • 連敗続きであった革命戦争であったが、1792年9月20日、フランス軍はヴァルミーで勝利し、プロイセン軍を撃退する。実際のところは小競り合い程度のもので、戦死者数もフランス軍の方が多かったといわれているが、プロイセン側の兵士として従軍していた文豪ゲーテが「ここから、そしてこの日から世界史の新しい時代が始まる」と評価しているように、君主の軍隊に国民の軍隊が勝利したという意味で、歴史的にも重要な戦いとされている。<br />写真はエトワール凱旋門を飾るフランソワ・リュードの彫刻『出陣』。ヴァルミーの戦いに出発する義勇兵を描いたもので、中央左にジロンド派と懇意だったデュムーリエ将軍が古代ローマ風の衣装を纏った姿で掘られている。

    連敗続きであった革命戦争であったが、1792年9月20日、フランス軍はヴァルミーで勝利し、プロイセン軍を撃退する。実際のところは小競り合い程度のもので、戦死者数もフランス軍の方が多かったといわれているが、プロイセン側の兵士として従軍していた文豪ゲーテが「ここから、そしてこの日から世界史の新しい時代が始まる」と評価しているように、君主の軍隊に国民の軍隊が勝利したという意味で、歴史的にも重要な戦いとされている。
    写真はエトワール凱旋門を飾るフランソワ・リュードの彫刻『出陣』。ヴァルミーの戦いに出発する義勇兵を描いたもので、中央左にジロンド派と懇意だったデュムーリエ将軍が古代ローマ風の衣装を纏った姿で掘られている。

  • 翌9月21日、立法議会に代わり、男子普通選挙による国民公会が開幕した。ヴァルミーでの勝利に沸く議場では、翌22日の審議において王政が廃止され、ユーグ・カペーの即位以来800年続いたフランス王政は、あっけなく幕が降ろされた。<br />国民公会750の議席のうち、100議席程度が左派のジャコバン派、150議席がフイヤン派に代わり右派となったジロンド派が占めている。残りの500議席は特定の政見を持たない沼派であり、以降、激烈な政治闘争が繰り広げられていく。<br />写真はパンテオンにある国民公会(la convention nationale)の寓意像。

    翌9月21日、立法議会に代わり、男子普通選挙による国民公会が開幕した。ヴァルミーでの勝利に沸く議場では、翌22日の審議において王政が廃止され、ユーグ・カペーの即位以来800年続いたフランス王政は、あっけなく幕が降ろされた。
    国民公会750の議席のうち、100議席程度が左派のジャコバン派、150議席がフイヤン派に代わり右派となったジロンド派が占めている。残りの500議席は特定の政見を持たない沼派であり、以降、激烈な政治闘争が繰り広げられていく。
    写真はパンテオンにある国民公会(la convention nationale)の寓意像。

  • 8月10日事件以降、タンプル塔に収監されていた国王の処遇についても二派は激しく対立する。ジロンド派はこれ以上の革命の先鋭化を望まず国王裁判を先延ばしにしようとし、対するジャコバン派は早急に裁判を行おうとする。議会の流れが変わったのは、11月13日のサン・ジュストの処女演説以降である。<br />「王は裁かれなければならない。統治する上で犯した罪でなく、かつて王だったという事実そのものの罪ゆえに。なんとなれば、かような権力の横領を正当化できる理屈などないからだ」<br />1792年12月11日から始まった国王の裁判は、1793年1月20日、ルイ・カペー(ルイ16世)の死刑判決を確定する。刑の執行は翌日の事であった。<br />=======<br />・・・見えない頭上に側柱から紐が外される気配があった。刃を吊り上げていた紐だ。それが外され、サンソンの手に握られれば、これまで固定されていたものが、もういつでも動き出すことができる。<br />「ああ、よいぞ、サンソン」<br />返事はなかった。ただ物が走る気配はあった。<br />確かに一瞬ひやっとするだけだった。ルイの景色は、ゆっくりと斜めになった。籠の編み目が大きくなったと思うや、あとが黒一色だった。<br />=======<br />現在、コンコルド(調和)と呼ばれる広場は、当時ルイ15世の騎馬像があったため、ルイ15世広場と呼ばれていた。革命が始まると騎馬像は撤去され、革命広場と呼ばれるようになり、国王ルイ16世を始め、多くの人々がこの広場でギロチンによって処刑された。

    8月10日事件以降、タンプル塔に収監されていた国王の処遇についても二派は激しく対立する。ジロンド派はこれ以上の革命の先鋭化を望まず国王裁判を先延ばしにしようとし、対するジャコバン派は早急に裁判を行おうとする。議会の流れが変わったのは、11月13日のサン・ジュストの処女演説以降である。
    「王は裁かれなければならない。統治する上で犯した罪でなく、かつて王だったという事実そのものの罪ゆえに。なんとなれば、かような権力の横領を正当化できる理屈などないからだ」
    1792年12月11日から始まった国王の裁判は、1793年1月20日、ルイ・カペー(ルイ16世)の死刑判決を確定する。刑の執行は翌日の事であった。
    =======
    ・・・見えない頭上に側柱から紐が外される気配があった。刃を吊り上げていた紐だ。それが外され、サンソンの手に握られれば、これまで固定されていたものが、もういつでも動き出すことができる。
    「ああ、よいぞ、サンソン」
    返事はなかった。ただ物が走る気配はあった。
    確かに一瞬ひやっとするだけだった。ルイの景色は、ゆっくりと斜めになった。籠の編み目が大きくなったと思うや、あとが黒一色だった。
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    現在、コンコルド(調和)と呼ばれる広場は、当時ルイ15世の騎馬像があったため、ルイ15世広場と呼ばれていた。革命が始まると騎馬像は撤去され、革命広場と呼ばれるようになり、国王ルイ16世を始め、多くの人々がこの広場でギロチンによって処刑された。

    コンコルド広場 広場・公園

  • 革命広場においてギロチンで処刑された人々は、マドレーヌ墓地に埋葬されたが、墓地は1794年に閉鎖されている。<br />ナポレオン戦争後の王政復古期の1815年、ルイ18世はマドレーヌ墓地の跡地を買い取り、そこに革命の犠牲者を祈念する礼拝堂「贖罪礼拝堂」の建立を開始した。地下聖堂の祭壇は、まさにルイ16世が埋められていた場所とされている。

    革命広場においてギロチンで処刑された人々は、マドレーヌ墓地に埋葬されたが、墓地は1794年に閉鎖されている。
    ナポレオン戦争後の王政復古期の1815年、ルイ18世はマドレーヌ墓地の跡地を買い取り、そこに革命の犠牲者を祈念する礼拝堂「贖罪礼拝堂」の建立を開始した。地下聖堂の祭壇は、まさにルイ16世が埋められていた場所とされている。

    贖罪教会 寺院・教会

  • マドレーヌ墓地の地権者は密かな王党派であり、国王夫妻の遺骸が埋葬されていた場所を植木で囲んでいたため、遺骸の特定ができたという。<br />残っていた亡骸は一部だったそうだが、22回目の命日にあたる1815年1月21日、歴代のフランス君主が眠るサン=ドニ大聖堂に移葬された。<br /><br />国王の死刑後、諸外国は第一次対仏大同盟を結成し、各国からの経済制裁は民衆の食糧危機を引き起こす。議会においては、周辺諸国との開戦を主張したジロンド派と最後まで反戦を主張したジャコバン派の対立が激しくなり、その上、パリのサン=キュロットを代表する形でエベールらコルドリエ派が台頭し、革命は混迷の度合いを深めていくことになる。

    マドレーヌ墓地の地権者は密かな王党派であり、国王夫妻の遺骸が埋葬されていた場所を植木で囲んでいたため、遺骸の特定ができたという。
    残っていた亡骸は一部だったそうだが、22回目の命日にあたる1815年1月21日、歴代のフランス君主が眠るサン=ドニ大聖堂に移葬された。

    国王の死刑後、諸外国は第一次対仏大同盟を結成し、各国からの経済制裁は民衆の食糧危機を引き起こす。議会においては、周辺諸国との開戦を主張したジロンド派と最後まで反戦を主張したジャコバン派の対立が激しくなり、その上、パリのサン=キュロットを代表する形でエベールらコルドリエ派が台頭し、革命は混迷の度合いを深めていくことになる。

    サン ドニ バジリカ大聖堂 寺院・教会

  • シテ島の1/3を占めるパレ・ド・ジュスティス(裁判所)の原型は、カペー朝時代、パリの中心がシテ島だった頃の王宮である。宮廷がルーヴル宮に移ると顧みられなくなり、管理人(コンシェルジュ)に預けられていたため、コンシェルジュリと呼ばれるようになった。<br />1793年4月6日、この場所に革命裁判所が置かれ、多くの人々が、この場所で裁かれ粛清されていった。革命裁判所の訴追検事となったフーキエ=タンヴィル(デムーランの遠縁にあたる)は呵責の無い弾圧の執行者となり、王党派、フイヤン派、ジロンド派、ジャコバン派のエベール派、ダントン派、更にはロベスピエールらもギロチン送りとして死刑に処した。フーキエ=タンヴィル自身は1795年5月に逮捕され、グレーヴ広場で処刑された。

    シテ島の1/3を占めるパレ・ド・ジュスティス(裁判所)の原型は、カペー朝時代、パリの中心がシテ島だった頃の王宮である。宮廷がルーヴル宮に移ると顧みられなくなり、管理人(コンシェルジュ)に預けられていたため、コンシェルジュリと呼ばれるようになった。
    1793年4月6日、この場所に革命裁判所が置かれ、多くの人々が、この場所で裁かれ粛清されていった。革命裁判所の訴追検事となったフーキエ=タンヴィル(デムーランの遠縁にあたる)は呵責の無い弾圧の執行者となり、王党派、フイヤン派、ジロンド派、ジャコバン派のエベール派、ダントン派、更にはロベスピエールらもギロチン送りとして死刑に処した。フーキエ=タンヴィル自身は1795年5月に逮捕され、グレーヴ広場で処刑された。

  • 1793年5月10日、国民公会は従来の調馬場付属大広間からチュイルリー宮殿付属劇場「からくりの間」に移設される。<br />チュイルリー宮殿は1871年のパリ・コミューンで焼失しており、北翼のマルサン館と南翼のフロール館のみが現在に残っている。劇場は宮殿中央部の大時計塔と北翼のマルサン館(現在の装飾美術館)に挟まれる場所にあったそうだ。マルサン館は第一帝政期にルーヴル宮と連結され、南のフロール館同様、ルーヴル宮の翼部を形成している。

    1793年5月10日、国民公会は従来の調馬場付属大広間からチュイルリー宮殿付属劇場「からくりの間」に移設される。
    チュイルリー宮殿は1871年のパリ・コミューンで焼失しており、北翼のマルサン館と南翼のフロール館のみが現在に残っている。劇場は宮殿中央部の大時計塔と北翼のマルサン館(現在の装飾美術館)に挟まれる場所にあったそうだ。マルサン館は第一帝政期にルーヴル宮と連結され、南のフロール館同様、ルーヴル宮の翼部を形成している。

  • 火災で消失したチュイルリー宮殿の一部分は、3区にあるジョルジュ・カーン公園で見る事ができる。煤で汚れたファザードの遺構には時計らしきものも見られるので、これが宮殿の大時計塔なのであろうか。その割には小さいものなのだが・・・。

    火災で消失したチュイルリー宮殿の一部分は、3区にあるジョルジュ・カーン公園で見る事ができる。煤で汚れたファザードの遺構には時計らしきものも見られるので、これが宮殿の大時計塔なのであろうか。その割には小さいものなのだが・・・。

  • 娼婦出身の革命家テロワーニュ・ド・メリクールは、乗馬服に幅広帽子という男装に身を包んでパリの街を闊歩し「自由のアマゾンヌ」と持て囃された女性だ。娼婦稼業で得た資産を元に革命家達を援助するなかで、トゥルノン通り8番地にあった彼女の自宅には自然とサロンが形成され、ダントン、デムーラン、ミラボー、シエイエスなども出入りしていた。以下はデムーランによる彼女の印象。<br />=======<br />なかでも一際目を惹いたのが、身体にぴったりした真紅の乗馬服だった。ほっそりした括れの線の美しさと、裏腹に豊かに実る腰回りの肉感を、いやがうえにも強調するかの麗人だ。<br />あるいは麗人というのは持ち上げすぎで、冷静に眺めるならば、ちょっと可愛げがある程度の美貌に留まるのかもしれない。溌剌たる目に魅力あり、爽やかな弁舌に凛々しさあり、加えるに、やはりというか見事なばかりの肢体の伸びやかさが圧倒的な印象を醸すので、ついつい麗人と形容したくなってしまう。<br />=======

    娼婦出身の革命家テロワーニュ・ド・メリクールは、乗馬服に幅広帽子という男装に身を包んでパリの街を闊歩し「自由のアマゾンヌ」と持て囃された女性だ。娼婦稼業で得た資産を元に革命家達を援助するなかで、トゥルノン通り8番地にあった彼女の自宅には自然とサロンが形成され、ダントン、デムーラン、ミラボー、シエイエスなども出入りしていた。以下はデムーランによる彼女の印象。
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    なかでも一際目を惹いたのが、身体にぴったりした真紅の乗馬服だった。ほっそりした括れの線の美しさと、裏腹に豊かに実る腰回りの肉感を、いやがうえにも強調するかの麗人だ。
    あるいは麗人というのは持ち上げすぎで、冷静に眺めるならば、ちょっと可愛げがある程度の美貌に留まるのかもしれない。溌剌たる目に魅力あり、爽やかな弁舌に凛々しさあり、加えるに、やはりというか見事なばかりの肢体の伸びやかさが圧倒的な印象を醸すので、ついつい麗人と形容したくなってしまう。
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  • テロワーニュ・ド・メリクールの男装は8月10日事件の際の民衆の旗印ともなったが、その思想はジロンド派寄りのものであったため、ジャコバン派支持者からは次第に憎悪の対象となっていく。<br />1793年5月13日、チュイルリ宮殿前で、ジャコバン派支持の女性達と揉み合いになったテロワーニュが、馬上から引きずり降ろされ、服を引き裂かれ、暴行されるいう事件が発生した。この事件の後、テロワーニュは精神を病んでしまい、精神病院を転々とする。娼婦時代に感染した梅毒が身体を蝕んでいたともいう。<br />写真は、1817年、彼女が一生を終えたパリ13区のサルペトリエール病院の附属礼拝堂。革命期のこの病院は世界最大級の規模を持ち、1万人の患者と300人以上の娼婦が拘留されていたという。19世紀初頭には精神病院として有名となり、若き日のフロイトもこの病院での講義を聞くために訪れたという。

    テロワーニュ・ド・メリクールの男装は8月10日事件の際の民衆の旗印ともなったが、その思想はジロンド派寄りのものであったため、ジャコバン派支持者からは次第に憎悪の対象となっていく。
    1793年5月13日、チュイルリ宮殿前で、ジャコバン派支持の女性達と揉み合いになったテロワーニュが、馬上から引きずり降ろされ、服を引き裂かれ、暴行されるいう事件が発生した。この事件の後、テロワーニュは精神を病んでしまい、精神病院を転々とする。娼婦時代に感染した梅毒が身体を蝕んでいたともいう。
    写真は、1817年、彼女が一生を終えたパリ13区のサルペトリエール病院の附属礼拝堂。革命期のこの病院は世界最大級の規模を持ち、1万人の患者と300人以上の娼婦が拘留されていたという。19世紀初頭には精神病院として有名となり、若き日のフロイトもこの病院での講義を聞くために訪れたという。

  • トゥルノン通り5番地にはジャック・ルネ・エベールの住居があった。<br />エベールの発行した新聞「デュシーヌ親爺」は反動的な王党派やブルジョワジー寄りの政策を推進する右派の政治家などを卑語を駆使して激しく攻撃し、サン・キュロットの人気を集めていた。<br />=======<br />・・・パリに暮らすサン・キュロット、デュシーヌ親爺という架空の人物が、気取らない、ことによると砕けすぎた、いや、はっきりいえば下品な言葉遣いで、バサバサ世相を切って捨てる。<br />(中略)<br />胸を張るのは他でもない、その親しまれ方ときたら、実際に生きているエベール本人と、架空の人物でしかないデュシーヌ親爺が、ほとんど同一視されているほどだった。作り物とは思われていないということだ。大半の読者は親爺を生きているとして、疑うことすらしないのだ。<br />=======

    トゥルノン通り5番地にはジャック・ルネ・エベールの住居があった。
    エベールの発行した新聞「デュシーヌ親爺」は反動的な王党派やブルジョワジー寄りの政策を推進する右派の政治家などを卑語を駆使して激しく攻撃し、サン・キュロットの人気を集めていた。
    =======
    ・・・パリに暮らすサン・キュロット、デュシーヌ親爺という架空の人物が、気取らない、ことによると砕けすぎた、いや、はっきりいえば下品な言葉遣いで、バサバサ世相を切って捨てる。
    (中略)
    胸を張るのは他でもない、その親しまれ方ときたら、実際に生きているエベール本人と、架空の人物でしかないデュシーヌ親爺が、ほとんど同一視されているほどだった。作り物とは思われていないということだ。大半の読者は親爺を生きているとして、疑うことすらしないのだ。
    =======

  • サン・ニコラ・デ・シャン教会のあるグラヴィリエ街は革命当時、パリ屈指の貧民街のあった場所だ。教会の助祭ジャック・ルーは貧民街の住人を代表し、エベールらよりも更に過激な主張をし、アンラジェ(激昂派)と呼ばれていた。<br />1793年5月31日、革命以後も続く物価高と反動的な政策を打ち出すジロンド派に対し、激昂派とエベールに扇動されたパリ市民は議会を包囲し、ジロンド派の追放を訴えた。この事件に対し、ダントンはロベスピエールに対し下述のように訴えている。<br />=======<br />今回は議会に銃を向けちまったんだよ。7月14日も、8月10日も、相手は専制君主だった。しかし、今度の相手は人民の代表なんだ。どれだけ腐っていても、国民公会の神聖な議員なんだ。これを排除しちまったら、もう民主主義の理想もなにもなくなっちまう。<br />=======<br />しかし市民(サン・キュロット)の温度感は少し違う。エベールの言は以下の通りだ。そして、この温度差は、次の対立を生み出す事にもなっていく。<br />=======<br />・・・これからは民衆が主役だ、おまえの言い分が通るんだなんて言われれば、とりあえずは叫ぶだろ。その声が無視されたら、注意を引くために騒ぐだろ。騒いでも聞いてもらえなかったら、今度は実力行使だってな具合で、これがサン・キュロットの民主主義なんだな。7月14日のバスティーユにしろ、8月10日のテュイルリにしろ、実際こうやって言い分を通してきた。それがサン・キュロットの自信なんだ。少なくとも選挙を通じてじゃねえ、くそったれ。<br />=======<br />1793年6月2日、ジロンド派は国民公会から追放され、ジャコバン派による独裁政権が確立した。

    サン・ニコラ・デ・シャン教会のあるグラヴィリエ街は革命当時、パリ屈指の貧民街のあった場所だ。教会の助祭ジャック・ルーは貧民街の住人を代表し、エベールらよりも更に過激な主張をし、アンラジェ(激昂派)と呼ばれていた。
    1793年5月31日、革命以後も続く物価高と反動的な政策を打ち出すジロンド派に対し、激昂派とエベールに扇動されたパリ市民は議会を包囲し、ジロンド派の追放を訴えた。この事件に対し、ダントンはロベスピエールに対し下述のように訴えている。
    =======
    今回は議会に銃を向けちまったんだよ。7月14日も、8月10日も、相手は専制君主だった。しかし、今度の相手は人民の代表なんだ。どれだけ腐っていても、国民公会の神聖な議員なんだ。これを排除しちまったら、もう民主主義の理想もなにもなくなっちまう。
    =======
    しかし市民(サン・キュロット)の温度感は少し違う。エベールの言は以下の通りだ。そして、この温度差は、次の対立を生み出す事にもなっていく。
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    ・・・これからは民衆が主役だ、おまえの言い分が通るんだなんて言われれば、とりあえずは叫ぶだろ。その声が無視されたら、注意を引くために騒ぐだろ。騒いでも聞いてもらえなかったら、今度は実力行使だってな具合で、これがサン・キュロットの民主主義なんだな。7月14日のバスティーユにしろ、8月10日のテュイルリにしろ、実際こうやって言い分を通してきた。それがサン・キュロットの自信なんだ。少なくとも選挙を通じてじゃねえ、くそったれ。
    =======
    1793年6月2日、ジロンド派は国民公会から追放され、ジャコバン派による独裁政権が確立した。

  • 1793年7月13日、ジャン・ポール・マラが暗殺された。<br />マラは過激な論調の新聞「人民の友」を発行し、その人気は「デュシーヌ親父」ことエベールの先駆者であり、8月10日事件や九月虐殺の引鉄ともなった人物だ。<br />この頃のマラは持病の皮膚病が悪化し、特注の浴槽に張った薬草風呂に浸かりながらも、ペンを走らせていたという。<br />暗殺犯として捕えられたシャルロット・コルデーはジロンド派支持者(というより、嫌ジャコバン派)であったため、パリ市民は、逃亡したジロンド派議員が兼ねてより対立していたマラを標的に、彼女を暗殺者として送り込んだのではないかと噂し、この事がジロンド派弾圧の口実ともなってしまう。<br />同年7月27日、ロベスピエールが公安委員会に加入、9月5日には国民公会で恐怖政治(テルール)の設置が決議され、パリに粛清の嵐が吹き荒れる事になる。<br /><br />暗殺の現場となったコルドリエ街20番地のマラの家は現在のオデオン駅周辺。写真はパリ9区クレヴァン蝋人形館にある「マラ殺害の現場」。有名なダヴィッドの絵画「マラの死」ではなく、ポール・ボードリーの「マラの暗殺」を立体化し臨場感を出している。

    1793年7月13日、ジャン・ポール・マラが暗殺された。
    マラは過激な論調の新聞「人民の友」を発行し、その人気は「デュシーヌ親父」ことエベールの先駆者であり、8月10日事件や九月虐殺の引鉄ともなった人物だ。
    この頃のマラは持病の皮膚病が悪化し、特注の浴槽に張った薬草風呂に浸かりながらも、ペンを走らせていたという。
    暗殺犯として捕えられたシャルロット・コルデーはジロンド派支持者(というより、嫌ジャコバン派)であったため、パリ市民は、逃亡したジロンド派議員が兼ねてより対立していたマラを標的に、彼女を暗殺者として送り込んだのではないかと噂し、この事がジロンド派弾圧の口実ともなってしまう。
    同年7月27日、ロベスピエールが公安委員会に加入、9月5日には国民公会で恐怖政治(テルール)の設置が決議され、パリに粛清の嵐が吹き荒れる事になる。

    暗殺の現場となったコルドリエ街20番地のマラの家は現在のオデオン駅周辺。写真はパリ9区クレヴァン蝋人形館にある「マラ殺害の現場」。有名なダヴィッドの絵画「マラの死」ではなく、ポール・ボードリーの「マラの暗殺」を立体化し臨場感を出している。

    グレヴァン蝋人形館 博物館・美術館・ギャラリー

  • マラ暗殺までのコルデーの足取りは、かなり明確になっていて、小説の中では以下の様に説明されている。<br />=======<br />マラ暗殺の犯人シャルロット・コルデーはカーンを7月9日に出発していた。乗合馬車を用いた一人旅で、パリ到着が11日の昼ごろだった。ヴュー・ゾーギュスタン通り17番地のプロヴィダンス荘に投宿、12日は情報の収集と状況の確認に務めた。13日、パレ・ロワイヤル改めパレ・エガリテの金物屋で、犯行に用いるべくモロッコ革の鞘がついた刃渡り30センチほどの包丁を購入、暮れ方の7時にヴィクトワール広場で辻馬車に乗り、ポンヌフ経由で左岸に渡ると、コルドリエ街30番地で降車、マラ宅を訪ねたのだ。<br />=======<br />18世紀の作曲家フェルディナン・エロルド生誕の家がある事にちなんで名付けられたエロルド通りは、革命期にはビュー・オーギュスタン通りと呼ばれていた。プロヴィダンス荘(現在のエロルド通り14番地)は1893年に解体されている。

    マラ暗殺までのコルデーの足取りは、かなり明確になっていて、小説の中では以下の様に説明されている。
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    マラ暗殺の犯人シャルロット・コルデーはカーンを7月9日に出発していた。乗合馬車を用いた一人旅で、パリ到着が11日の昼ごろだった。ヴュー・ゾーギュスタン通り17番地のプロヴィダンス荘に投宿、12日は情報の収集と状況の確認に務めた。13日、パレ・ロワイヤル改めパレ・エガリテの金物屋で、犯行に用いるべくモロッコ革の鞘がついた刃渡り30センチほどの包丁を購入、暮れ方の7時にヴィクトワール広場で辻馬車に乗り、ポンヌフ経由で左岸に渡ると、コルドリエ街30番地で降車、マラ宅を訪ねたのだ。
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    18世紀の作曲家フェルディナン・エロルド生誕の家がある事にちなんで名付けられたエロルド通りは、革命期にはビュー・オーギュスタン通りと呼ばれていた。プロヴィダンス荘(現在のエロルド通り14番地)は1893年に解体されている。

  • カペー朝時代の名残が残るコンシェルジュリのシーザー塔、銀の塔、ボンベック塔(手前から順に)。革命期には裁判を待つ囚人が収監され、革命裁判所での判決を待ち、断頭台へと送られていった。<br />国王ルイ16世処刑後、カペー未亡人こと王妃マリー・アントワネットもタンプル塔からコンシェルジュリに移送され、1793年10月16日に断頭台へと送られた。

    カペー朝時代の名残が残るコンシェルジュリのシーザー塔、銀の塔、ボンベック塔(手前から順に)。革命期には裁判を待つ囚人が収監され、革命裁判所での判決を待ち、断頭台へと送られていった。
    国王ルイ16世処刑後、カペー未亡人こと王妃マリー・アントワネットもタンプル塔からコンシェルジュリに移送され、1793年10月16日に断頭台へと送られた。

    コンシェルジュリー 城・宮殿

  • =======<br />ブリソは肩を落としていた。ジャンソネは顔面蒼白だった。ポワローなどは帽子も投げ捨て、私は無実だと叫んだ。ヴェルニョーが床に叩きつけたのは、小さな硝子の容器だった。自殺するための毒を隠していたようだが、そうして命を断つよりも、あえて処刑されることを選んだのは、抗議の意がこめられての話だろうか。<br />=======<br />1793年10月29日に始まったジロンド派の21人に対する裁判は、翌日には結審し、「共和国の統一と不可分を破壊した」罪で、その全員が有罪とされた。10月31日、小雨が降る中、革命広場の断頭台へと送らてきたジロンド派の議員達は、処刑の直前まで「ラ・マルセイエーズ」を歌っていたらしい。<br />写真はジロンド派の鷹と呼ばれ、ミラボー、バルナーヴに続く雄弁家と評されたピエール・ヴィクトリアン・ヴェルニョーの下宿先があったヴァンドーム広場16番地の建物。催眠術で有名なフランツ・アントン・メスメルが滞在していた場所としても知られている。

    =======
    ブリソは肩を落としていた。ジャンソネは顔面蒼白だった。ポワローなどは帽子も投げ捨て、私は無実だと叫んだ。ヴェルニョーが床に叩きつけたのは、小さな硝子の容器だった。自殺するための毒を隠していたようだが、そうして命を断つよりも、あえて処刑されることを選んだのは、抗議の意がこめられての話だろうか。
    =======
    1793年10月29日に始まったジロンド派の21人に対する裁判は、翌日には結審し、「共和国の統一と不可分を破壊した」罪で、その全員が有罪とされた。10月31日、小雨が降る中、革命広場の断頭台へと送らてきたジロンド派の議員達は、処刑の直前まで「ラ・マルセイエーズ」を歌っていたらしい。
    写真はジロンド派の鷹と呼ばれ、ミラボー、バルナーヴに続く雄弁家と評されたピエール・ヴィクトリアン・ヴェルニョーの下宿先があったヴァンドーム広場16番地の建物。催眠術で有名なフランツ・アントン・メスメルが滞在していた場所としても知られている。

  • 劇作家で女優でもあったオランブ・ドゥ・グージュは女性と女性市民の権利者宣言で一世を風靡したフェミニズム運動の先駆者だ。<br />公安委員会に加わり、ジロンド派を排除する事で権力が集中しつつあったロベスピエールへの批判を強めていたため、1793年7月20日、反革命の容疑で逮捕、同年11月3日に処刑された。彼女の最後の言葉は「祖国の子供たち、私の死に復讐して」であったという。<br />2003年、彼女を記念し、3区区役所の裏手にある広場はオランプ・ド・グージュ広場と名付けられた。なお、この広場の近くにはサントノレ通りに引っ越す前にロベスピエールが下宿していたサントンジュ通りがあるが、当時の建物は解体され、現在は郵便局になっている。

    劇作家で女優でもあったオランブ・ドゥ・グージュは女性と女性市民の権利者宣言で一世を風靡したフェミニズム運動の先駆者だ。
    公安委員会に加わり、ジロンド派を排除する事で権力が集中しつつあったロベスピエールへの批判を強めていたため、1793年7月20日、反革命の容疑で逮捕、同年11月3日に処刑された。彼女の最後の言葉は「祖国の子供たち、私の死に復讐して」であったという。
    2003年、彼女を記念し、3区区役所の裏手にある広場はオランプ・ド・グージュ広場と名付けられた。なお、この広場の近くにはサントノレ通りに引っ越す前にロベスピエールが下宿していたサントンジュ通りがあるが、当時の建物は解体され、現在は郵便局になっている。

  • ジロンド派の女王マノン・ロランは、まずアベイ監獄に収監され、次にサント・ペラジ監獄へと送られた。1898年までサント・ペラジ監獄が立っていた場所には、現在、グランド・モスケ・ド・パリが建っている。<br />1793年11月8日、革命裁判所に引き出されたロラン夫人は即日のうちに断頭台送りとなる。革命広場のルイ15世像があった台座には、自由の象徴とされたマリアンヌ像が新たに据え付けられていた。このマリアンヌ像を見たロラン夫人が残した言葉「おお自由よ!汝の名において何と多くの罪が犯されたことか!」はあまりに有名だ。<br />=======<br />ああ、私は夢を見たのだ。みすぼらしいパリの街の片隅で、このままじゃ終わらせないと夢を見て、本当の世界を生きてこなかったのだ。<br />けれど、それは誰のせいでもない。<br />誰に強いられたわけでもなく、誰かの言うことを素直に聞く女でもない。私は自由に生きてきた。あげくに選んだのが偽りの人生だったと、それだけのことだ。抜け出せないまま、本当の世界ではあえなく殺されてしまう・・・。<br />何か重いものが、スッと落ちた。一瞬ふわっと浮いた感覚があり、それでもう最後だった。<br />=======<br />彼女の刑死を知り生きる希望を無くした夫のロラン・ドゥ・ラ・プラティエールは、11月15日、逃亡先のルーアンで自殺している。

    ジロンド派の女王マノン・ロランは、まずアベイ監獄に収監され、次にサント・ペラジ監獄へと送られた。1898年までサント・ペラジ監獄が立っていた場所には、現在、グランド・モスケ・ド・パリが建っている。
    1793年11月8日、革命裁判所に引き出されたロラン夫人は即日のうちに断頭台送りとなる。革命広場のルイ15世像があった台座には、自由の象徴とされたマリアンヌ像が新たに据え付けられていた。このマリアンヌ像を見たロラン夫人が残した言葉「おお自由よ!汝の名において何と多くの罪が犯されたことか!」はあまりに有名だ。
    =======
    ああ、私は夢を見たのだ。みすぼらしいパリの街の片隅で、このままじゃ終わらせないと夢を見て、本当の世界を生きてこなかったのだ。
    けれど、それは誰のせいでもない。
    誰に強いられたわけでもなく、誰かの言うことを素直に聞く女でもない。私は自由に生きてきた。あげくに選んだのが偽りの人生だったと、それだけのことだ。抜け出せないまま、本当の世界ではあえなく殺されてしまう・・・。
    何か重いものが、スッと落ちた。一瞬ふわっと浮いた感覚があり、それでもう最後だった。
    =======
    彼女の刑死を知り生きる希望を無くした夫のロラン・ドゥ・ラ・プラティエールは、11月15日、逃亡先のルーアンで自殺している。

    モスク 寺院・教会

  • =======<br />逃亡していたペティオンとビュゾは、逃れに逃れ、流れに流れたジロンド県のサン・テミリオン郊外の洞窟で、二人ながら自殺しているのが発見されていた。収穫月8日、あるいは(1794年)6月26日の話である。<br />(中略)<br />ジロンド派の仲間の訃報を伝え聞いて、さらなる逃亡生活を悲観したというのが、恐らくはペティオンとビュゾの自殺の真相だと思われた。<br />=======<br />人民の父と称された元のパリ市長ペティオンとビュゾの腐乱した遺体は一部野生動物に食われていたという。こうしてアメリカ式の連邦主義を主張したジロンド派は滅亡する。パリ11区にはペティオンの名を冠した通りがあり、デムーランの名を冠した通りと交差している。

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    逃亡していたペティオンとビュゾは、逃れに逃れ、流れに流れたジロンド県のサン・テミリオン郊外の洞窟で、二人ながら自殺しているのが発見されていた。収穫月8日、あるいは(1794年)6月26日の話である。
    (中略)
    ジロンド派の仲間の訃報を伝え聞いて、さらなる逃亡生活を悲観したというのが、恐らくはペティオンとビュゾの自殺の真相だと思われた。
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    人民の父と称された元のパリ市長ペティオンとビュゾの腐乱した遺体は一部野生動物に食われていたという。こうしてアメリカ式の連邦主義を主張したジロンド派は滅亡する。パリ11区にはペティオンの名を冠した通りがあり、デムーランの名を冠した通りと交差している。

  • 1793年11月29日、元フイヤン派の梟雄バルナーヴは隠棲先のグルノーブルからパリに呼び戻され、裁判の後、断頭台の露と消えた。これに先立つ11月7日には、三部会においては第三身分側に立った開明派の王族オルレアン公フォリップ2世(エガリテ=平等公)が、11月12日に元市長のバイイ、11月15日には元パリ市第一助役のマヌエルが、次々と死刑となった。<br />12月7日、ルイ15世の公妾デュ・バリー夫人が逮捕され処刑される。亡命先のイギリスから一時帰国していたところの逮捕であった。堂々と処刑台に立ち、静かに最後を迎えた他の犠牲者と違い、彼女は断頭台の周囲に集まった群衆に慈悲を乞い、泣き叫んだという。<br />マリー・アントワネットやポリニャック公爵夫人の肖像画で知られる女流画家ルブラン夫人はデュ・バリー夫人の処刑の様子について、以下の様に述懐している。<br />「この恐ろしい時期に命を落とした女達の中で、断頭台を正視出来なかったのは、彼女1人であった。私が確信したのは、もしこの凄まじい時期の犠牲者たちがあれ程までに誇り高くなかったならば、あんなに敢然と死に立ち向かわなかったならば、恐怖政治はもっとずっと早く終わっていたであろう」<br />写真はパリ郊外ルーヴシエンヌにあるシャトー・デュ・バリー。ルイ15世がデュ・バリー夫人に贈った城で、革命後に帰国したルブラン夫人はこの城のパヴィヨンをアトリエとして使用していた。

    1793年11月29日、元フイヤン派の梟雄バルナーヴは隠棲先のグルノーブルからパリに呼び戻され、裁判の後、断頭台の露と消えた。これに先立つ11月7日には、三部会においては第三身分側に立った開明派の王族オルレアン公フォリップ2世(エガリテ=平等公)が、11月12日に元市長のバイイ、11月15日には元パリ市第一助役のマヌエルが、次々と死刑となった。
    12月7日、ルイ15世の公妾デュ・バリー夫人が逮捕され処刑される。亡命先のイギリスから一時帰国していたところの逮捕であった。堂々と処刑台に立ち、静かに最後を迎えた他の犠牲者と違い、彼女は断頭台の周囲に集まった群衆に慈悲を乞い、泣き叫んだという。
    マリー・アントワネットやポリニャック公爵夫人の肖像画で知られる女流画家ルブラン夫人はデュ・バリー夫人の処刑の様子について、以下の様に述懐している。
    「この恐ろしい時期に命を落とした女達の中で、断頭台を正視出来なかったのは、彼女1人であった。私が確信したのは、もしこの凄まじい時期の犠牲者たちがあれ程までに誇り高くなかったならば、あんなに敢然と死に立ち向かわなかったならば、恐怖政治はもっとずっと早く終わっていたであろう」
    写真はパリ郊外ルーヴシエンヌにあるシャトー・デュ・バリー。ルイ15世がデュ・バリー夫人に贈った城で、革命後に帰国したルブラン夫人はこの城のパヴィヨンをアトリエとして使用していた。

  • 6区にあるサン・ジョゼフ・デ・カルム教会も革命当時は監獄(カルム監獄)として利用され、九月虐殺で最初の犠牲者を出した場所でもある。<br />1793年9月に施行された嫌疑者法により逮捕されたリュシルの父親、クロード・デュプレシが監禁された場所として物語には登場する。

    6区にあるサン・ジョゼフ・デ・カルム教会も革命当時は監獄(カルム監獄)として利用され、九月虐殺で最初の犠牲者を出した場所でもある。
    1793年9月に施行された嫌疑者法により逮捕されたリュシルの父親、クロード・デュプレシが監禁された場所として物語には登場する。

  • クレール・ラコンブは女優出身の活動家で、革命的共和主義者女性協会の創設メンバーである。彼女らが集まったのが、パリ1区レ・アールにほど近い、サントゥスタッシュ教会だ。元々はジャック・ルーら激昂派と行動を共にしていたが、1794年、嫌疑者法によりジャック・ルーが逮捕され獄死すると、エベールらと同調するようになる。

    クレール・ラコンブは女優出身の活動家で、革命的共和主義者女性協会の創設メンバーである。彼女らが集まったのが、パリ1区レ・アールにほど近い、サントゥスタッシュ教会だ。元々はジャック・ルーら激昂派と行動を共にしていたが、1794年、嫌疑者法によりジャック・ルーが逮捕され獄死すると、エベールらと同調するようになる。

    サン トゥスタッシュ教会 寺院・教会

  • 1790年、ダントンやファーブル・デグランティーヌらコルドリエ街の仲間を中心に発足した「人類ならびに市民の権利友の会」、いわゆるコルドリエ・クラブであったが、1793年8月10日の蜂起以降、その主張は過激化し、最左翼を任じる組織となっていった。その中心メンバーだった「デュシーヌ親父」ことジャック・ルネ・エベールやモモロ、ヴァンサン、ロンサン達が集まったのが、現在のパリ第5大学、当時のコルドリエ僧院であった。<br />1794年3月3日、反革命者の財産を没収し貧窮者へ再分配する風月法が成立すると、エベールらは過剰反応を示す。ブルジョワへの攻撃の際は遠慮しなかった彼らだが、風月法によって自分たちも奪われる立場になってしまったからであろうか。<br />3月5日、エベール派は蜂起を企てるもパリ市民はこれに同調せず、蜂起は空振りに終わってしまう。裁判を経てギロチンで処刑されたのは3月24日の事であった。<br />なお、さすがエベール、死の間際も卑語のオンパレードのため、ここでの引用は控える。(2018年1月現在工事中)

    1790年、ダントンやファーブル・デグランティーヌらコルドリエ街の仲間を中心に発足した「人類ならびに市民の権利友の会」、いわゆるコルドリエ・クラブであったが、1793年8月10日の蜂起以降、その主張は過激化し、最左翼を任じる組織となっていった。その中心メンバーだった「デュシーヌ親父」ことジャック・ルネ・エベールやモモロ、ヴァンサン、ロンサン達が集まったのが、現在のパリ第5大学、当時のコルドリエ僧院であった。
    1794年3月3日、反革命者の財産を没収し貧窮者へ再分配する風月法が成立すると、エベールらは過剰反応を示す。ブルジョワへの攻撃の際は遠慮しなかった彼らだが、風月法によって自分たちも奪われる立場になってしまったからであろうか。
    3月5日、エベール派は蜂起を企てるもパリ市民はこれに同調せず、蜂起は空振りに終わってしまう。裁判を経てギロチンで処刑されたのは3月24日の事であった。
    なお、さすがエベール、死の間際も卑語のオンパレードのため、ここでの引用は控える。(2018年1月現在工事中)

  • 当時は両替屋が立ち並んでいたためシャンジュ橋(両替屋橋)と名付けられた。現在の橋は第二帝政期のパリ改造の際に架け替えられたもの。<br />コンシェルジュリを出た囚人は、時計塔を左に見ながらこの橋を渡り、右岸へ、そして当時は革命通りと呼ばれたサン=トノレ通りを経て、断頭台の待つ革命広場へと移送されていった。<br />エベールの処刑から1週間もたたない1794年3月31日、ダントンやデムーランら寛大派が逮捕される。4月2日に始まった裁判は、当初ダントン派の有利に動いていたが、4月4日に公安委員会や保安委員会の権力集中の法案が可決されると、4月5日には有罪判決が出され、反革命罪で処刑されることになってしまう。<br />「俺の頭をあとで民衆によく見せてやれ。これだけの頭は、滅多にないぞ!」<br />処刑台でのダントンの最後の言葉は有名だ。<br />========<br />この大きさは、まさしくダントンの・・・。<br />誰とも見間違えようはなかった。ダントンは死顔までが堂々としていた。その笑みさえ読み取れる不敵な相は、ある種の威圧を自ずと感じさせるものだった。<br />まさに王者の風格だ。そこまで心に続けてから。サン・ジュストはハッとした。<br />すでに革命広場は暗く、ろくろく目も通らないくらいになっていたが、そういう問題ではない。まだ血が滴るような、落とされたばかりの首を高く掲げられたのは、他にはルイ16世だけだった。まさしく特別扱いだったが、それをどうしてダントンにも許してしまったのか。どうして事前に気づいて、未然に防がなかったのか。<br />========<br />7月14日、8月10日とフランス革命において重要な事件を牽引してきたダントン派の処刑により、ロベスピエールら山岳派の権力集中はより一層加速し、4月13日にはデムーラン未亡人のリュシル・デュプレシやエベール未亡人マリー・マルグリットらが、4月22日には憲法制定議会の元議員ル・シャプリエ、5月10日にはルイ16世の妹エリザベート王女が次々と処刑されていく。

    当時は両替屋が立ち並んでいたためシャンジュ橋(両替屋橋)と名付けられた。現在の橋は第二帝政期のパリ改造の際に架け替えられたもの。
    コンシェルジュリを出た囚人は、時計塔を左に見ながらこの橋を渡り、右岸へ、そして当時は革命通りと呼ばれたサン=トノレ通りを経て、断頭台の待つ革命広場へと移送されていった。
    エベールの処刑から1週間もたたない1794年3月31日、ダントンやデムーランら寛大派が逮捕される。4月2日に始まった裁判は、当初ダントン派の有利に動いていたが、4月4日に公安委員会や保安委員会の権力集中の法案が可決されると、4月5日には有罪判決が出され、反革命罪で処刑されることになってしまう。
    「俺の頭をあとで民衆によく見せてやれ。これだけの頭は、滅多にないぞ!」
    処刑台でのダントンの最後の言葉は有名だ。
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    この大きさは、まさしくダントンの・・・。
    誰とも見間違えようはなかった。ダントンは死顔までが堂々としていた。その笑みさえ読み取れる不敵な相は、ある種の威圧を自ずと感じさせるものだった。
    まさに王者の風格だ。そこまで心に続けてから。サン・ジュストはハッとした。
    すでに革命広場は暗く、ろくろく目も通らないくらいになっていたが、そういう問題ではない。まだ血が滴るような、落とされたばかりの首を高く掲げられたのは、他にはルイ16世だけだった。まさしく特別扱いだったが、それをどうしてダントンにも許してしまったのか。どうして事前に気づいて、未然に防がなかったのか。
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    7月14日、8月10日とフランス革命において重要な事件を牽引してきたダントン派の処刑により、ロベスピエールら山岳派の権力集中はより一層加速し、4月13日にはデムーラン未亡人のリュシル・デュプレシやエベール未亡人マリー・マルグリットらが、4月22日には憲法制定議会の元議員ル・シャプリエ、5月10日にはルイ16世の妹エリザベート王女が次々と処刑されていく。

  • 1794年6月8日、ロベスピエールが訴える「美徳に基づく恐怖政治」を体現する最高存在の祭典が挙行される。アンシャン・レジーム的であるとして排除したカトリック教会に変わる信仰対象として示された「最高存在」を讃える祭典は「マラの死」を描いた事でも有名な画家ダヴィッドにより演出された。<br />=======<br />・・・またロベスピエールも頭上を仰いでいた。が、そこにいる者はなく、ただ蒼天があるばかりである。いるとすれば、神だ。それが古臭いというならば、まさしく最高存在だ。それのみに仕えるロベスピエールは、足元から仰ぎみる人民の導き手だった。守り手であり、裁き手であり、つまるところ、フランス革命の法王だった。<br />=======<br />祭典はロベスピエールの恐怖政治の絶頂期であったが、次なる政治闘争が始まる序章でもあった。写真はマラの新聞「人民の友」が印刷されていたアンシェンヌ=コメディ通り16番地。隣の14番地に当時のダヴィッドのアトリエがあったそうだ。

    1794年6月8日、ロベスピエールが訴える「美徳に基づく恐怖政治」を体現する最高存在の祭典が挙行される。アンシャン・レジーム的であるとして排除したカトリック教会に変わる信仰対象として示された「最高存在」を讃える祭典は「マラの死」を描いた事でも有名な画家ダヴィッドにより演出された。
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    ・・・またロベスピエールも頭上を仰いでいた。が、そこにいる者はなく、ただ蒼天があるばかりである。いるとすれば、神だ。それが古臭いというならば、まさしく最高存在だ。それのみに仕えるロベスピエールは、足元から仰ぎみる人民の導き手だった。守り手であり、裁き手であり、つまるところ、フランス革命の法王だった。
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    祭典はロベスピエールの恐怖政治の絶頂期であったが、次なる政治闘争が始まる序章でもあった。写真はマラの新聞「人民の友」が印刷されていたアンシェンヌ=コメディ通り16番地。隣の14番地に当時のダヴィッドのアトリエがあったそうだ。

  • 国民公会議員及び公安委員のジャック・ニコラ・ビョー=ヴァレンヌが一時期住んでいた建物はサンタンドレ・デ・ザール通り30番地にあった。ビョー=ヴァレンヌは山岳派の中でも急進派であり、エベール派に近かった人物だ。公安委員会への加入もエベールのゴリ押しがあったためとも言われている。最高存在の祭典以降は、ロベスピエールらと対立し、テルミドールの反動の際は、サン=ジュストの発言を封じ、ロベスピエールの失脚に一役買うことになる。<br /><br />1794年6月10日、反革命に対する起訴や告発を簡素化するプレリアル22日法がクートンの発議により制定されると、恐怖政治は更に加速する。1793年4月に革命裁判所が設置されてから1794年6月10日までの間、1251人が処刑されているが、この法案の設立以降、テルミドールの反動で恐怖政治が停止する7月27日までの僅か47日間の間に断頭台に送られた人数は1376人にのぼる。

    国民公会議員及び公安委員のジャック・ニコラ・ビョー=ヴァレンヌが一時期住んでいた建物はサンタンドレ・デ・ザール通り30番地にあった。ビョー=ヴァレンヌは山岳派の中でも急進派であり、エベール派に近かった人物だ。公安委員会への加入もエベールのゴリ押しがあったためとも言われている。最高存在の祭典以降は、ロベスピエールらと対立し、テルミドールの反動の際は、サン=ジュストの発言を封じ、ロベスピエールの失脚に一役買うことになる。

    1794年6月10日、反革命に対する起訴や告発を簡素化するプレリアル22日法がクートンの発議により制定されると、恐怖政治は更に加速する。1793年4月に革命裁判所が設置されてから1794年6月10日までの間、1251人が処刑されているが、この法案の設立以降、テルミドールの反動で恐怖政治が停止する7月27日までの僅か47日間の間に断頭台に送られた人数は1376人にのぼる。

  • 1793年8月に発生したリヨンの反乱は、10月にクートンを派遣議員とする共和国軍によって鎮圧される。クートンに代わって11月に着任した派遣議員コロー・デルボワとジョゼフ・フーシェは、リヨン市に対し徹底的な報復を開始し、翌年3月までの間に2000人が処刑されたという。この虐殺行為を咎められたフーシェはパリへの出頭が命じられた。<br />写真はコロー・デルボワの命により住民の大量銃殺刑が行われたというリヨン市庁舎前のテロー広場。

    1793年8月に発生したリヨンの反乱は、10月にクートンを派遣議員とする共和国軍によって鎮圧される。クートンに代わって11月に着任した派遣議員コロー・デルボワとジョゼフ・フーシェは、リヨン市に対し徹底的な報復を開始し、翌年3月までの間に2000人が処刑されたという。この虐殺行為を咎められたフーシェはパリへの出頭が命じられた。
    写真はコロー・デルボワの命により住民の大量銃殺刑が行われたというリヨン市庁舎前のテロー広場。

    テロー広場 広場・公園

  • 1794年7月26日、ロベスピエールが議会で行った「粛清されなければならない議員がいる」という演説は、粛清の対象者を明かさぬままに終わり、この事は国民公会の議員を震え上がらせた。この演説がロベスピエール一派を処刑に追い込むこととなる、テルミドールのクーデターの発端となる訳だが、なぜ粛清対象者を明かさなかったのかは、フランス革命における謎の一つであろう。小説の中で粛清を促すサン・ジュストに対し、ロベスピエールは以下の様に語り、一つの解答を出している。<br />=======<br />「あの派遣議員ども(フーシェ、タリアン、フレロン、バラスなど)は、処断を躊躇するべき相手じゃありませんよ。ええ、政見が違うとか、政権を流動化させるとか、そうした意味での反革命ではない。不当徴税によって公金を横領したり、不正裁判によって大量虐殺に手を染めたり、奴らは単なる犯罪者なのです」<br />「それでも、だ。あくまで自分で目覚めてほしい。できれば自首してもらいたいし、それが無理なら議会が自らの意思において、敢然と告発に服出してほしい」<br />「あんな保身ばかりの議会に、なんの期待ができるというのです」<br />「だから、自発的な改心だよ。あからさまな犯罪行為だけは看過できないと、義憤に駆られるようになれば、それこそ我々が提唱してきた徳の政治の勝利ではないか」<br />=======<br />写真は公安委員会の置かれていたチュイルリー宮殿のフロール館。現在はルーヴル美術館の翼部に相当する建物になっているが、元はアンリ4世がルーヴル宮とチュイルリー宮を繋ぐ形に増築した部分に相当する。

    1794年7月26日、ロベスピエールが議会で行った「粛清されなければならない議員がいる」という演説は、粛清の対象者を明かさぬままに終わり、この事は国民公会の議員を震え上がらせた。この演説がロベスピエール一派を処刑に追い込むこととなる、テルミドールのクーデターの発端となる訳だが、なぜ粛清対象者を明かさなかったのかは、フランス革命における謎の一つであろう。小説の中で粛清を促すサン・ジュストに対し、ロベスピエールは以下の様に語り、一つの解答を出している。
    =======
    「あの派遣議員ども(フーシェ、タリアン、フレロン、バラスなど)は、処断を躊躇するべき相手じゃありませんよ。ええ、政見が違うとか、政権を流動化させるとか、そうした意味での反革命ではない。不当徴税によって公金を横領したり、不正裁判によって大量虐殺に手を染めたり、奴らは単なる犯罪者なのです」
    「それでも、だ。あくまで自分で目覚めてほしい。できれば自首してもらいたいし、それが無理なら議会が自らの意思において、敢然と告発に服出してほしい」
    「あんな保身ばかりの議会に、なんの期待ができるというのです」
    「だから、自発的な改心だよ。あからさまな犯罪行為だけは看過できないと、義憤に駆られるようになれば、それこそ我々が提唱してきた徳の政治の勝利ではないか」
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    写真は公安委員会の置かれていたチュイルリー宮殿のフロール館。現在はルーヴル美術館の翼部に相当する建物になっているが、元はアンリ4世がルーヴル宮とチュイルリー宮を繋ぐ形に増築した部分に相当する。

  • ボルドーへ派遣されたジャン=ランベール・タリアンは派遣先で元侯爵夫人テレーズ・カバリュスと愛人関係になり、彼女から影響を受け、弾圧の手を緩めた事が原因でパリへの出頭を求められた人物だ。1794年7月27日、自らの保身と、パリに戻ると同時に逮捕された愛人を救うため、タリアンはロベスピエール一派の告発に踏み切り、ロベスピエールの逮捕を投票にかけるよう訴えた。テルミドール(熱月)9日のクーデターの始まりだ。<br />=======<br />議員たちは、もう投票に並び始めていた。議長の制止にも耳を貸さず、議会は暴走を始めた。いや、真の国民の代表として、ようやく自らの決断で、自らの意思を示そうとしたというべきか。<br />・・・ということは、これがフランスの意思なのか。<br />ロベスピエールは呆然と呟いた。私の逮捕が・・・。恐怖政治の終息が・・・。徳の政治の破綻が・・・。革命の終焉が・・・。<br />=======<br />逮捕が議決されたロベスピエール、弟のオーギュスタン・ロベスピエール、クートン、サン=ジュスト、ル・バら山岳派のメンバーは保安委員会が置かれていたブリオンヌ館に拘束される。<br />ブリオンヌ館はルイ14世が建築したマルサン館の裏手にあった建物で、ナポレオン1世の時代に取り壊され現在のマルサン翼を形成。更にナポレオン3世の時代に建てられたリシュリュー翼によってルーヴル宮と連結されている。1871年のパリコミューンでチュイルリ宮が焼失し、現在はルーヴル宮の北翼のような建物となっている。

    ボルドーへ派遣されたジャン=ランベール・タリアンは派遣先で元侯爵夫人テレーズ・カバリュスと愛人関係になり、彼女から影響を受け、弾圧の手を緩めた事が原因でパリへの出頭を求められた人物だ。1794年7月27日、自らの保身と、パリに戻ると同時に逮捕された愛人を救うため、タリアンはロベスピエール一派の告発に踏み切り、ロベスピエールの逮捕を投票にかけるよう訴えた。テルミドール(熱月)9日のクーデターの始まりだ。
    =======
    議員たちは、もう投票に並び始めていた。議長の制止にも耳を貸さず、議会は暴走を始めた。いや、真の国民の代表として、ようやく自らの決断で、自らの意思を示そうとしたというべきか。
    ・・・ということは、これがフランスの意思なのか。
    ロベスピエールは呆然と呟いた。私の逮捕が・・・。恐怖政治の終息が・・・。徳の政治の破綻が・・・。革命の終焉が・・・。
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    逮捕が議決されたロベスピエール、弟のオーギュスタン・ロベスピエール、クートン、サン=ジュスト、ル・バら山岳派のメンバーは保安委員会が置かれていたブリオンヌ館に拘束される。
    ブリオンヌ館はルイ14世が建築したマルサン館の裏手にあった建物で、ナポレオン1世の時代に取り壊され現在のマルサン翼を形成。更にナポレオン3世の時代に建てられたリシュリュー翼によってルーヴル宮と連結されている。1871年のパリコミューンでチュイルリ宮が焼失し、現在はルーヴル宮の北翼のような建物となっている。

  • ロベスピエールらの逮捕を知るとパリ市は蜂起し(当時の市長レスコ・フルリオはロベスピエールの推薦で市長に就任した)、その混乱に紛れてロベスピエールらはパリ市庁舎3階にある平等の間に集まる。しかし蜂起したパリの街区は一部に止まり、バラス率いる国民公会からの派遣軍によって市庁舎はあっさりと制圧された。<br />ル・バは拳銃で自殺し、ロベスピエールもル・バから渡されていた拳銃で自殺を図ったが、下顎を砕いた弾丸は頭部に達する事なく頬を破って外に抜けてしまい、自殺に失敗してしまう。以下は公安委員会の控え室に運び込まれ、横たえられたロベスピエールを見張っていた兵士たちの言葉。<br />=======<br />「しかし、天下の独裁者も、堕ちれば哀れなものだよなあ」<br />「おおよ、ぽかんと大口開けた阿呆面しやがって」<br />「報いは当然さ。さんざ人を殺したんだから、天罰覿面というわけさ」<br />「人殺ししか楽しみがなかったんだろ。なるほど、なんの愉快も受け付けねえ『清廉の士』だものなあ」<br />「自分が清潔なのは勝手さ。ところが、俺たちが楽しくやるもの、気に入らないってんだから、こいつは一種の病気だぜ」<br />=======<br />突入を指揮したバラス子爵ポール・フランソワ・ジャン・ニコラも、タリアンと同様に告発されるべき派遣議員の一人であった。写真はバラスが熱心なジャコバン派支持者だった頃に住んでいた、サン=トノーレ通り194番地付近。

    ロベスピエールらの逮捕を知るとパリ市は蜂起し(当時の市長レスコ・フルリオはロベスピエールの推薦で市長に就任した)、その混乱に紛れてロベスピエールらはパリ市庁舎3階にある平等の間に集まる。しかし蜂起したパリの街区は一部に止まり、バラス率いる国民公会からの派遣軍によって市庁舎はあっさりと制圧された。
    ル・バは拳銃で自殺し、ロベスピエールもル・バから渡されていた拳銃で自殺を図ったが、下顎を砕いた弾丸は頭部に達する事なく頬を破って外に抜けてしまい、自殺に失敗してしまう。以下は公安委員会の控え室に運び込まれ、横たえられたロベスピエールを見張っていた兵士たちの言葉。
    =======
    「しかし、天下の独裁者も、堕ちれば哀れなものだよなあ」
    「おおよ、ぽかんと大口開けた阿呆面しやがって」
    「報いは当然さ。さんざ人を殺したんだから、天罰覿面というわけさ」
    「人殺ししか楽しみがなかったんだろ。なるほど、なんの愉快も受け付けねえ『清廉の士』だものなあ」
    「自分が清潔なのは勝手さ。ところが、俺たちが楽しくやるもの、気に入らないってんだから、こいつは一種の病気だぜ」
    =======
    突入を指揮したバラス子爵ポール・フランソワ・ジャン・ニコラも、タリアンと同様に告発されるべき派遣議員の一人であった。写真はバラスが熱心なジャコバン派支持者だった頃に住んでいた、サン=トノーレ通り194番地付近。

  • 1794年7月28日、ロベスピエールらはコンシェルジュリに送られ、革命裁判所にて死刑を宣告される。この時に裁かれたのは、ロベスピエール、クートン、サン・ジュスト、オーギュスタン・ロベスピエール、パリ市長フルリオ、国民衛兵隊司令官アンリオらロベスピエールの親派の22名であった。もちろん革命裁判所ではプレリアル22日法に従って即日の死刑が確定し、サン・トノレ通りを囚人となったロベスピエールらを乗せた荷車が進んでいく。野次と罵声が響くサン・トノレ通りを引き回されながらロベスピエールは述懐する。<br />=======<br />これまで私は何をみてきたというのか。何もみてこなかったのか。いや、そうではない。ブルジョワも、サン・キュロットもなく、私は人々のなかに飛び込もうとした。その苦しみを理解し、その幸福のために戦ってきた。人々のなかにこそ、健全な精神が息づくと考えたからだ。そう確信して、疑う理由ひとつなかったからだ。<br />しかし、本当の姿はみてこなかったのか。あるいは上辺しか・・・。あるいは一面しか・・・。見誤る理由についは、ロベスピエールにも思い当たる節があった。<br />要するに人民を美化してしまった。健全で、常に公共の善を考え、つまるところ徳のある人民。<br />そうでないものは、全て切り捨てた。<br />愛国者でなけでは、反革命とみなした。それは善でなければ、直ちに悪という論法だ。が、人間という生き物は、全き善でも、全き悪でもなく、両者の狭間にいる、あるいは両者を渾然一体として併せ持つ存在であったのだ。<br />=======<br />写真はサントノレ通り161番地。1429年9月8日(パリ包囲戦において)サン=トノレ門を急襲したジャンヌ・ダルクが負傷したと書かれている。

    1794年7月28日、ロベスピエールらはコンシェルジュリに送られ、革命裁判所にて死刑を宣告される。この時に裁かれたのは、ロベスピエール、クートン、サン・ジュスト、オーギュスタン・ロベスピエール、パリ市長フルリオ、国民衛兵隊司令官アンリオらロベスピエールの親派の22名であった。もちろん革命裁判所ではプレリアル22日法に従って即日の死刑が確定し、サン・トノレ通りを囚人となったロベスピエールらを乗せた荷車が進んでいく。野次と罵声が響くサン・トノレ通りを引き回されながらロベスピエールは述懐する。
    =======
    これまで私は何をみてきたというのか。何もみてこなかったのか。いや、そうではない。ブルジョワも、サン・キュロットもなく、私は人々のなかに飛び込もうとした。その苦しみを理解し、その幸福のために戦ってきた。人々のなかにこそ、健全な精神が息づくと考えたからだ。そう確信して、疑う理由ひとつなかったからだ。
    しかし、本当の姿はみてこなかったのか。あるいは上辺しか・・・。あるいは一面しか・・・。見誤る理由についは、ロベスピエールにも思い当たる節があった。
    要するに人民を美化してしまった。健全で、常に公共の善を考え、つまるところ徳のある人民。
    そうでないものは、全て切り捨てた。
    愛国者でなけでは、反革命とみなした。それは善でなければ、直ちに悪という論法だ。が、人間という生き物は、全き善でも、全き悪でもなく、両者の狭間にいる、あるいは両者を渾然一体として併せ持つ存在であったのだ。
    =======
    写真はサントノレ通り161番地。1429年9月8日(パリ包囲戦において)サン=トノレ門を急襲したジャンヌ・ダルクが負傷したと書かれている。

  • =======<br />ロベスピエールは断頭台の上で泣いた。断頭台の刃が木枠の間を滑る、シュルシュルという音が聞こえる間も泣いていた。あきらめたくない、あきらめたくない。人間には未来があると信じたい。皆が満たされる未来だ。誰も悲しまない未来だ。この私さえ、きっと幸せになれる未来が・・・。<br />=======<br />ロベスピエールの処刑を持って、フランス革命は終焉したとされている。この後、テルミドール派による政治の混乱を経て、ナポレオンの登場を迎えることになるのだが、それはまた、別の物語にて。<br />写真はロベスピエールやダントン、デムーランが埋葬されたエランシ墓地があったモンソー通り97番地。プレートにはギロチンの犠牲者1,119人が埋葬されたと記載されている。王政復古期の道路拡張工事で墓地は閉園され、遺骨はカタコンブ・ド・パリに移葬さた。

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    ロベスピエールは断頭台の上で泣いた。断頭台の刃が木枠の間を滑る、シュルシュルという音が聞こえる間も泣いていた。あきらめたくない、あきらめたくない。人間には未来があると信じたい。皆が満たされる未来だ。誰も悲しまない未来だ。この私さえ、きっと幸せになれる未来が・・・。
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    ロベスピエールの処刑を持って、フランス革命は終焉したとされている。この後、テルミドール派による政治の混乱を経て、ナポレオンの登場を迎えることになるのだが、それはまた、別の物語にて。
    写真はロベスピエールやダントン、デムーランが埋葬されたエランシ墓地があったモンソー通り97番地。プレートにはギロチンの犠牲者1,119人が埋葬されたと記載されている。王政復古期の道路拡張工事で墓地は閉園され、遺骨はカタコンブ・ド・パリに移葬さた。

  • パリ14区、ダンフェール=ロシュロー広場では、毎日のように長い行列ができている。今日では大人気観光スポットになっている、カタコンブ・ド・パリを見物するためだ。<br />飽和状態になっていたパリ市内各地の墓地は閉鎖され、パリの南の市門ダンフェール門にあった採石場跡地に遺骸は移された。その中にはルイ14世の財務卿であったニコラ・フーケやコルベール、マドレーヌ墓地に埋葬されていたロラン夫人やデュ・バリー夫人、エランシ墓地に埋葬されていたダントン、デムーラン、ロベスピエールらの遺骸もあったが、その他数百万のパリ市民の遺骨と一緒くたにされているため、今となっては、どの遺骸が誰のものであるか特定しようもない。<br /><br />ダンフェール門西パヴィリオンの横(写真左隅)にある入り口を先頭に今日も長い行列が続いている。<br />私はそのあまりにも長い行列を「昆布(コンブ)行列」と呼び、何度ともなく近くまでは行ったのだが、その度に行列に並ぶ事を断念し、通り過ぎている。

    パリ14区、ダンフェール=ロシュロー広場では、毎日のように長い行列ができている。今日では大人気観光スポットになっている、カタコンブ・ド・パリを見物するためだ。
    飽和状態になっていたパリ市内各地の墓地は閉鎖され、パリの南の市門ダンフェール門にあった採石場跡地に遺骸は移された。その中にはルイ14世の財務卿であったニコラ・フーケやコルベール、マドレーヌ墓地に埋葬されていたロラン夫人やデュ・バリー夫人、エランシ墓地に埋葬されていたダントン、デムーラン、ロベスピエールらの遺骸もあったが、その他数百万のパリ市民の遺骨と一緒くたにされているため、今となっては、どの遺骸が誰のものであるか特定しようもない。

    ダンフェール門西パヴィリオンの横(写真左隅)にある入り口を先頭に今日も長い行列が続いている。
    私はそのあまりにも長い行列を「昆布(コンブ)行列」と呼び、何度ともなく近くまでは行ったのだが、その度に行列に並ぶ事を断念し、通り過ぎている。

    カタコンブ 建造物

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この旅行記へのコメント (1)

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  • しにあの旅人さん 2019/03/04 14:59:25
    はじめまして
    フランス革命散歩1,2部通読しました。久しぶりに重量級の旅行記を読みました。ほかの旅行記のお菓子や料理の写真に辟易していたので、革命時と現在のパリを往復する写真の連続に大変満足しました。
    私は旅行記は文章だと思います。フランス革命をたどる旅行記に感激です。まさにこういうものを読みたかったと思っております。
    私の旅行記も文章どっさりでして、4トラの旅行記としては異端です。しかし私以上のどっさり派にお目にかかって、安心しております。
    今後ともこういう旅行記を読みたいと思いますのでフォローさせていただきます。
    まずこれ以外の旅行記も順次読んでいきます。
    今日はいい日でした。

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