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国立西洋美術館は川崎造船所社長を務めた実業家松方幸次郎がイギリス、フランス、ドイツ等で収集した美術コレクション(松方コレクション)を基に昭和34年に設立されています。<br /><br />松方は当時健在であった印象派の巨匠モネとも直接に交渉し作品を購入しておりモネの作品は充実しています。<br />2018年4月、2019年6月、2020年7月、2022年4月、2023年3月、2024年6月・10月、2025年3月・7月・10月に写真追加しました。

国立西洋美術館④19世紀~(印象派など)

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2016/03/20 - 2025/10/25

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旅行記グループ 国立西洋美術館

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国立西洋美術館は川崎造船所社長を務めた実業家松方幸次郎がイギリス、フランス、ドイツ等で収集した美術コレクション(松方コレクション)を基に昭和34年に設立されています。

松方は当時健在であった印象派の巨匠モネとも直接に交渉し作品を購入しておりモネの作品は充実しています。
2018年4月、2019年6月、2020年7月、2022年4月、2023年3月、2024年6月・10月、2025年3月・7月・10月に写真追加しました。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
  • ピエール=オーギュスト・ルノワール「ルーベンス作「神々の会議」の模写」1861年<br />ルノワールの最も初期の頃の作品の1枚、シャルル・グレールのアトリエ(画塾)に入った頃のものか。

    ピエール=オーギュスト・ルノワール「ルーベンス作「神々の会議」の模写」1861年
    ルノワールの最も初期の頃の作品の1枚、シャルル・グレールのアトリエ(画塾)に入った頃のものか。

  • ピエール=オーギュスト・ルノワール「アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)」1871年<br />ルノワール初期の代表作で、川崎造船所社長を務めた実業家松方幸次郎 がイギリス、フランス、ドイツ等で収集した美術コレクション(いわゆる松方コレクション)の中でも珠玉の1点

    イチオシ

    ピエール=オーギュスト・ルノワール「アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)」1871年
    ルノワール初期の代表作で、川崎造船所社長を務めた実業家松方幸次郎 がイギリス、フランス、ドイツ等で収集した美術コレクション(いわゆる松方コレクション)の中でも珠玉の1点

  • 「アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)」(部分拡大)<br />ハーレム(イスラム文化圏における後宮)の官能的な女たちが描かれているように見えますが、ここはパリの一室です。当時、ルノワールはイスラム文化に彩られた北アフリカを訪れてはいませんでしたが、ドラクロワの《アルジェの女たち》などを下敷きにして、きらびやかな衣服を纏ったパリの女たちのまわりに装飾豊かな絨毯や家具を配し、東方趣味を存分に表現しています。ルノワール特有の豊かな色彩と筆遣いがすでに見られます。

    「アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)」(部分拡大)
    ハーレム(イスラム文化圏における後宮)の官能的な女たちが描かれているように見えますが、ここはパリの一室です。当時、ルノワールはイスラム文化に彩られた北アフリカを訪れてはいませんでしたが、ドラクロワの《アルジェの女たち》などを下敷きにして、きらびやかな衣服を纏ったパリの女たちのまわりに装飾豊かな絨毯や家具を配し、東方趣味を存分に表現しています。ルノワール特有の豊かな色彩と筆遣いがすでに見られます。

  • ピエール=オーギュスト・ルノワール「帽子の女」1891年<br />ルノワールの作品も初期から後期まで充実しています。<br />こちらも松方コレクション。ルノワールは、1880年代にはいると印象派から離れ、様々な作風で作品を制作していきますが、本作はいわゆる「真珠色の時代」に入った頃の作品。さまざまな色彩が白と混じり合って繊細な輝きを放つ様は、まさに「真珠色の時代」という呼び名にふさわしい。

    ピエール=オーギュスト・ルノワール「帽子の女」1891年
    ルノワールの作品も初期から後期まで充実しています。
    こちらも松方コレクション。ルノワールは、1880年代にはいると印象派から離れ、様々な作風で作品を制作していきますが、本作はいわゆる「真珠色の時代」に入った頃の作品。さまざまな色彩が白と混じり合って繊細な輝きを放つ様は、まさに「真珠色の時代」という呼び名にふさわしい。

  • ピエール=オーギュスト・ルノワール「横たわる浴女」1906年<br />1880年代の後半に輪郭線への強い興味を示したルノワールの画風は、筆触と色彩による存在感のあるフォルムの探求へと変化していきます。風景の中の裸婦は、その時期のルノワールが最も好んで扱った主題のひとつです。この横たわる裸婦は、女神ヴィーナスや森のニンフといった神話画のイメージを彷彿とさせます。

    ピエール=オーギュスト・ルノワール「横たわる浴女」1906年
    1880年代の後半に輪郭線への強い興味を示したルノワールの画風は、筆触と色彩による存在感のあるフォルムの探求へと変化していきます。風景の中の裸婦は、その時期のルノワールが最も好んで扱った主題のひとつです。この横たわる裸婦は、女神ヴィーナスや森のニンフといった神話画のイメージを彷彿とさせます。

  • ピエール=オーギュスト・ルノワール「ばらをつけた女」1910年代頃<br />日本の洋画界を牽引した梅原龍三郎は、ルノワールを100年以上も前に、パリのアトリエに出向き師と仰ぎましたが、本作品は昭和49年に その梅原龍三郎氏より寄贈されたもの。

    ピエール=オーギュスト・ルノワール「ばらをつけた女」1910年代頃
    日本の洋画界を牽引した梅原龍三郎は、ルノワールを100年以上も前に、パリのアトリエに出向き師と仰ぎましたが、本作品は昭和49年に その梅原龍三郎氏より寄贈されたもの。

  • ピエール=オーギュスト・ルノワール「風景の中の三人」1916年<br />晩年、心身ともに苦境に立たされたルノワールは、それを忘れようとするかのように幸福な充実感とまろやかな絵画性に満ちた作品を生み出していきました。特にこの作品では色彩の諧調がすばらしく、ルノワール晩年のコロリスムの証となっています。3人の人物は自然の風景の中にとけこみ、溢れんばかりの陽光が画面を満たしています。

    ピエール=オーギュスト・ルノワール「風景の中の三人」1916年
    晩年、心身ともに苦境に立たされたルノワールは、それを忘れようとするかのように幸福な充実感とまろやかな絵画性に満ちた作品を生み出していきました。特にこの作品では色彩の諧調がすばらしく、ルノワール晩年のコロリスムの証となっています。3人の人物は自然の風景の中にとけこみ、溢れんばかりの陽光が画面を満たしています。

  • ピエール=オーギュスト・ルノワール「木かげ 」1880年<br />人物を好んで描いたルノワールの数少ない風景画の1枚。

    ピエール=オーギュスト・ルノワール「木かげ 」1880年
    人物を好んで描いたルノワールの数少ない風景画の1枚。

  • ピエール=オーギュスト・ルノワール「ばら」年代不詳<br />こちらは蒲田で小さな病院を経営しながら作品を集めてこられた山本英子さんという方からの寄贈作品のうちの1枚とのことです。<br /><br />

    ピエール=オーギュスト・ルノワール「ばら」年代不詳
    こちらは蒲田で小さな病院を経営しながら作品を集めてこられた山本英子さんという方からの寄贈作品のうちの1枚とのことです。

  • カミーユ・ピサロ「冬景色」1873年<br />ピサロは、温厚な性格と、他の画家たちより年長であることから、印象派グループのまとめ役として重要な役割を果たしました。この作品に描かれているのは1872年から彼が住んだポントワーズの風景です。前景から左手奥に向かう道や土手のカーヴ、ゆるやかな弧を描く丘陵の線に対し、樹々と電柱の垂直線が、単純ではあるが引き締まった構図を作り出しています。印象派の風景画に特徴的な光と影の戯れより、ここでは、薄日の差す冬枯れの野の侘しげな情趣が画面を支配しています。彼の作品には、他の印象派の画家たちにはない構築的な造形と堅牢なマティエールが見られるが、それは本作品にも示されています。

    カミーユ・ピサロ「冬景色」1873年
    ピサロは、温厚な性格と、他の画家たちより年長であることから、印象派グループのまとめ役として重要な役割を果たしました。この作品に描かれているのは1872年から彼が住んだポントワーズの風景です。前景から左手奥に向かう道や土手のカーヴ、ゆるやかな弧を描く丘陵の線に対し、樹々と電柱の垂直線が、単純ではあるが引き締まった構図を作り出しています。印象派の風景画に特徴的な光と影の戯れより、ここでは、薄日の差す冬枯れの野の侘しげな情趣が画面を支配しています。彼の作品には、他の印象派の画家たちにはない構築的な造形と堅牢なマティエールが見られるが、それは本作品にも示されています。

  • カミーユ・ピサロ「立ち話」1881年頃<br />全8回の印象派展にすべて参加した唯一のメンバーであり、印象派の画家のなかで最年長だったピサロの作品。

    カミーユ・ピサロ「立ち話」1881年頃
    全8回の印象派展にすべて参加した唯一のメンバーであり、印象派の画家のなかで最年長だったピサロの作品。

  • カミーユ・ピサロ「収穫」1882年<br />横長の画面一杯に描かれた麦畑と働く人々。遠くに見える地平線は画面の上方から四分の一程のところに置かれています。画面に見えるのはパリ郊外の静かな村ポントワーズにおける麦の刈り入れ風景です。すでに1840年代から、パリと鉄道で結ばれていたこの付近には若い画家たちが住みはじめていました。1866-68年、1872-82年の二度に渡ってアトリエを構えた印象派の画家ピサロも、そのひとりでした。 ピサロの第二回ポントワーズ滞在の最後を飾る本作品は、第七回「印象派展」に出品されたものです。

    カミーユ・ピサロ「収穫」1882年
    横長の画面一杯に描かれた麦畑と働く人々。遠くに見える地平線は画面の上方から四分の一程のところに置かれています。画面に見えるのはパリ郊外の静かな村ポントワーズにおける麦の刈り入れ風景です。すでに1840年代から、パリと鉄道で結ばれていたこの付近には若い画家たちが住みはじめていました。1866-68年、1872-82年の二度に渡ってアトリエを構えた印象派の画家ピサロも、そのひとりでした。 ピサロの第二回ポントワーズ滞在の最後を飾る本作品は、第七回「印象派展」に出品されたものです。

  • カミーユ・ピサロ「エラニーの秋」1895年<br />ピサロが1884年以降没年まで住んだ北フランスのエラニーの風景

    カミーユ・ピサロ「エラニーの秋」1895年
    ピサロが1884年以降没年まで住んだ北フランスのエラニーの風景

  • ベルト・モリゾ「黒いドレスの女性(観劇の前)」1875年<br />こちらのモリゾの作品は、2017年度購入された新規収蔵品です。

    ベルト・モリゾ「黒いドレスの女性(観劇の前)」1875年
    こちらのモリゾの作品は、2017年度購入された新規収蔵品です。

  • エドガー・ドガ 「舞台袖の3人の踊り子 」1880-85年頃<br />ドガの作品は、バレエを扱った主題が多いですがこちらも踊り子を描いています。

    エドガー・ドガ 「舞台袖の3人の踊り子 」1880-85年頃
    ドガの作品は、バレエを扱った主題が多いですがこちらも踊り子を描いています。

  • エドゥアール・マネ「花の中の子供 (ジャック・オシュデ) 」1876年<br />1876年の夏、マネは印象派の画家たちの庇護者であった実業家エルネスト・オシュデ(彼の妻アリスはのちにモネの後添いとなる)の招きによりパリの東、セーヌ=エ=オワーズ県にある小村モンジュロンを訪れた。この2週間程の滞在中に数点の絵と共に描かれた本作品はオシュデの別荘内の戸口上部を飾るためのものであったが、未完のままパリに運ばれて、1883年のマネの死に至るまでそのアトリエに置かれていたことが知られています。

    エドゥアール・マネ「花の中の子供 (ジャック・オシュデ) 」1876年
    1876年の夏、マネは印象派の画家たちの庇護者であった実業家エルネスト・オシュデ(彼の妻アリスはのちにモネの後添いとなる)の招きによりパリの東、セーヌ=エ=オワーズ県にある小村モンジュロンを訪れた。この2週間程の滞在中に数点の絵と共に描かれた本作品はオシュデの別荘内の戸口上部を飾るためのものであったが、未完のままパリに運ばれて、1883年のマネの死に至るまでそのアトリエに置かれていたことが知られています。

  • エドゥアール・マネ「嵐の海」1873年 

    エドゥアール・マネ「嵐の海」1873年 

  • エドゥアール・マネ「内戦」1871-74年

    エドゥアール・マネ「内戦」1871-74年

  • エドゥアール・マネ「ブラン氏の肖像」1879年頃<br />

    エドゥアール・マネ「ブラン氏の肖像」1879年頃

  • ポール・セザンヌ「散歩」1871年<br />セザンヌの初期作品

    ポール・セザンヌ「散歩」1871年
    セザンヌの初期作品

  • ポール・セザンヌ「ポントワーズの橋と堰」1881年<br />パリから約28km離れ、近代化された町並と田園の風景が融合した町ポントワーズで、セザンヌは1872年から1881年まで、印象派の画家ピサロと多くの時間を共有し、ときにイーゼルを並べ同じ風景を描いています。

    ポール・セザンヌ「ポントワーズの橋と堰」1881年
    パリから約28km離れ、近代化された町並と田園の風景が融合した町ポントワーズで、セザンヌは1872年から1881年まで、印象派の画家ピサロと多くの時間を共有し、ときにイーゼルを並べ同じ風景を描いています。

  • ポール・セザンヌ「葉を落としたジャ・ド・ブッファンの木々 」1885-86年<br />「ジャ・ド・ブッファン」は、セザンヌの父が1859年に購入した、エクス市郊外の広大な屋敷の名称。

    ポール・セザンヌ「葉を落としたジャ・ド・ブッファンの木々 」1885-86年
    「ジャ・ド・ブッファン」は、セザンヌの父が1859年に購入した、エクス市郊外の広大な屋敷の名称。

  • アルフレッド・シスレー「ルーヴシエンヌの風景」1873年<br />1871年、パリ・コミューンの間に、シスレーはパリの西方約30キロの地にある小村ルーヴシエンヌに移り住み、以後1874年夏からの4ヵ月にわたるイギリス旅行をはさんで、同年暮までルーヴシエンヌで過ごしています。本作品はその1873年にこの小村付近の風景を描いたもの。

    アルフレッド・シスレー「ルーヴシエンヌの風景」1873年
    1871年、パリ・コミューンの間に、シスレーはパリの西方約30キロの地にある小村ルーヴシエンヌに移り住み、以後1874年夏からの4ヵ月にわたるイギリス旅行をはさんで、同年暮までルーヴシエンヌで過ごしています。本作品はその1873年にこの小村付近の風景を描いたもの。

  • クロード・モネ「並木道(サン=シメオン農場の道)」1864年<br /> オンフルールとトルーヴィルとを結ぶ街道筋にあるサン=シメオン農場の付近を描いたこの作品は、現存する数少ないモネの初期作品の一つ。

    クロード・モネ「並木道(サン=シメオン農場の道)」1864年
    オンフルールとトルーヴィルとを結ぶ街道筋にあるサン=シメオン農場の付近を描いたこの作品は、現存する数少ないモネの初期作品の一つ。

  • クロード・モネ「雪のアルジャントゥイユ」1875年<br />1875年の冬に描かれたこの絵に表わされているのは、まだ整備されて間もない新市街のサン=ドニ大通りと鉄道の駅舎です。 モネは、戸外で絵を描く方法を採り始めてからすぐ雪景色を描いています。他の仲間の画家たちがあまり関心を示さなかったこの題材に対して、モネは積極的に取り組み、白い雪の上に戯れる繊細な光の効果を追求しました。

    クロード・モネ「雪のアルジャントゥイユ」1875年
    1875年の冬に描かれたこの絵に表わされているのは、まだ整備されて間もない新市街のサン=ドニ大通りと鉄道の駅舎です。 モネは、戸外で絵を描く方法を採り始めてからすぐ雪景色を描いています。他の仲間の画家たちがあまり関心を示さなかったこの題材に対して、モネは積極的に取り組み、白い雪の上に戯れる繊細な光の効果を追求しました。

  • クロード・モネ「ラ・ロシュ=ギュイヨンの道」1880年

    クロード・モネ「ラ・ロシュ=ギュイヨンの道」1880年

  • クロード・モネ「舟遊び」1887年<br />最初の妻カミーユを亡くしたモネは、1883年、2人の子供たち、そして後に正式に結婚することになるアリス・オシュデとその子供たちを連れ、ジヴェルニーへ移り住みます。画家はこの地で、自宅近くを流れるセーヌ川の支流エプト川で舟遊びを楽しむ家族の情景を何度も描きます。舟遊びは当時人気の休日の娯楽でした。 本作品は一連の「舟遊び」の作品のなかでも完成度の高いものです。画面いっぱいを占める水面の上半分は明るい空を映した青とバラ色、下半分は小舟と娘たちの影が濃紺や茶、青の筆触で描かれ、人も船も水面と同じ風景となって画面に溶けこんでいます。画家の関心は、揺らめく光と影が作りだす水面の色のハーモニーにあります。川の面を上空から見下ろす視点でとらえ、大胆に右半分を断ち切った小舟を配した構図は、日本の浮世絵からヒントを得たと考えられています。モネは浮世絵のコレクターでした。

    クロード・モネ「舟遊び」1887年
    最初の妻カミーユを亡くしたモネは、1883年、2人の子供たち、そして後に正式に結婚することになるアリス・オシュデとその子供たちを連れ、ジヴェルニーへ移り住みます。画家はこの地で、自宅近くを流れるセーヌ川の支流エプト川で舟遊びを楽しむ家族の情景を何度も描きます。舟遊びは当時人気の休日の娯楽でした。 本作品は一連の「舟遊び」の作品のなかでも完成度の高いものです。画面いっぱいを占める水面の上半分は明るい空を映した青とバラ色、下半分は小舟と娘たちの影が濃紺や茶、青の筆触で描かれ、人も船も水面と同じ風景となって画面に溶けこんでいます。画家の関心は、揺らめく光と影が作りだす水面の色のハーモニーにあります。川の面を上空から見下ろす視点でとらえ、大胆に右半分を断ち切った小舟を配した構図は、日本の浮世絵からヒントを得たと考えられています。モネは浮世絵のコレクターでした。

  • クロード・モネ「しゃくやくの花園 」1887年

    クロード・モネ「しゃくやくの花園 」1887年

  • クロード・モネ「陽を浴びるポプラ並木」1891年<br />光の戯れと反映を何よりも深く追求したモネは、同一のモティーフを光や色彩あるいは構図を変えて何回か描くという意味での「連作」をいくつも残しています。1890年に着手された「積みわら」、1892-94年の「ルーアン大聖堂」、晩年の「睡蓮」などがその例であり、そこではほぼ同一のモティーフを、朝、白昼、夕方などの異なった時刻において、さまざまな光の効果の下に描き出しています。 本作品は、こうした連作の一つ「ポプラ並木」のうちの一点です。ジヴェルニーにほど近いエプト川左岸のポプラ並木はモネを魅了し、1891年の春から夏にかけて画家は幾度もその姿を画布に描きました。それら一連の作品は、S字型の曲線を空に描き出すポプラ並木を扱っている点ではほぼ共通しているものの、構図と画面効果は微妙に異なっています。この作品においてとりわけ特徴的なのは、大きく前景に描かれた3本のポプラであり、青い空と白い雲、緑とばら色の生みだす晴れやかな印象です。同一構図の作品が他に数点存在することが知られています。

    クロード・モネ「陽を浴びるポプラ並木」1891年
    光の戯れと反映を何よりも深く追求したモネは、同一のモティーフを光や色彩あるいは構図を変えて何回か描くという意味での「連作」をいくつも残しています。1890年に着手された「積みわら」、1892-94年の「ルーアン大聖堂」、晩年の「睡蓮」などがその例であり、そこではほぼ同一のモティーフを、朝、白昼、夕方などの異なった時刻において、さまざまな光の効果の下に描き出しています。 本作品は、こうした連作の一つ「ポプラ並木」のうちの一点です。ジヴェルニーにほど近いエプト川左岸のポプラ並木はモネを魅了し、1891年の春から夏にかけて画家は幾度もその姿を画布に描きました。それら一連の作品は、S字型の曲線を空に描き出すポプラ並木を扱っている点ではほぼ共通しているものの、構図と画面効果は微妙に異なっています。この作品においてとりわけ特徴的なのは、大きく前景に描かれた3本のポプラであり、青い空と白い雲、緑とばら色の生みだす晴れやかな印象です。同一構図の作品が他に数点存在することが知られています。

  • クロード・モネ「波立つプールヴィルの海 」1897年<br />モネが生涯を通じて愛したモティーフの一つに、故郷ノルマンディー地方の海と空が形づくる景色があります。これは最初の師ブーダン譲りのモティーフとも言えますが、風俗画的要素を多分に残すブーダンに対して、モネの関心はむしろ風景自体にありました。浜辺の漁師小屋から描かれたこの作品において用いられた手法は、彼の他の多くの風景画と異なり、リズミカルな粗い筆触の交錯であり、塗りは非常に薄くなっています。

    クロード・モネ「波立つプールヴィルの海 」1897年
    モネが生涯を通じて愛したモティーフの一つに、故郷ノルマンディー地方の海と空が形づくる景色があります。これは最初の師ブーダン譲りのモティーフとも言えますが、風俗画的要素を多分に残すブーダンに対して、モネの関心はむしろ風景自体にありました。浜辺の漁師小屋から描かれたこの作品において用いられた手法は、彼の他の多くの風景画と異なり、リズミカルな粗い筆触の交錯であり、塗りは非常に薄くなっています。

  • クロード・モネ「セーヌ河の朝 」1898年<br />1896年から翌々年にかけて、55歳のモネは早朝に起きて、「セーヌ河の朝」というシリーズを制作しました。使用する色の数を抑え、装飾的効果をも狙ったと思われるこの連作の多くは、夏の朝、霧のたちこめるジヴェルニー付近のセーヌ河の風景を描いています。この連作中の一点とみなされる本作品《セーヌ河の朝》もまた、ほぼ同じ時期に同じ場所で制作されています。

    クロード・モネ「セーヌ河の朝 」1898年
    1896年から翌々年にかけて、55歳のモネは早朝に起きて、「セーヌ河の朝」というシリーズを制作しました。使用する色の数を抑え、装飾的効果をも狙ったと思われるこの連作の多くは、夏の朝、霧のたちこめるジヴェルニー付近のセーヌ河の風景を描いています。この連作中の一点とみなされる本作品《セーヌ河の朝》もまた、ほぼ同じ時期に同じ場所で制作されています。

  • 「セーヌ河の朝 」(部分拡大)<br />柳が水面に垂れ、草むらが波に洗われ、変転する自然の姿が、モネの立ち騒ぐ筆触の中から生まれ出てきます。しかし筆のめくるめく動きは、風に動く枝や葉や波そのものにとらわれるというよりは、移ろう自然の姿を一気に捉えようとするモネのいらだちと緊張を直に伝えていいます。

    「セーヌ河の朝 」(部分拡大)
    柳が水面に垂れ、草むらが波に洗われ、変転する自然の姿が、モネの立ち騒ぐ筆触の中から生まれ出てきます。しかし筆のめくるめく動きは、風に動く枝や葉や波そのものにとらわれるというよりは、移ろう自然の姿を一気に捉えようとするモネのいらだちと緊張を直に伝えていいます。

  • クロード・モネ「ウォータールー橋、ロンドン 」1902年<br />モネは1871年以来、ロンドンを数度にわたって訪れています。その中でも、1899年、1900年、1901年の三回の滞在は豊かな収穫をもたらしました。テームズ河畔のサヴォイ・ホテルのバルコニーに画架を据えて、モネは、国会議事堂、ウォータールー橋、チャーリング・クロス橋という三つのモティーフに焦点を合わせて描き続けました。この作品もそのような連作のうちの一点です。<br />

    クロード・モネ「ウォータールー橋、ロンドン 」1902年
    モネは1871年以来、ロンドンを数度にわたって訪れています。その中でも、1899年、1900年、1901年の三回の滞在は豊かな収穫をもたらしました。テームズ河畔のサヴォイ・ホテルのバルコニーに画架を据えて、モネは、国会議事堂、ウォータールー橋、チャーリング・クロス橋という三つのモティーフに焦点を合わせて描き続けました。この作品もそのような連作のうちの一点です。

  • クロード・モネ「チャーリング・クロス橋、ロンドン」1902<br />年<br />1921年12月頃松方幸次郎がモネ本人より購入した作品。<br />

    クロード・モネ「チャーリング・クロス橋、ロンドン」1902

    1921年12月頃松方幸次郎がモネ本人より購入した作品。

  • クロード・モネ「ヴェトゥイユ」1902年

    クロード・モネ「ヴェトゥイユ」1902年

  • クロード・モネ「睡蓮」1897-99年頃

    クロード・モネ「睡蓮」1897-99年頃

  • クロード・モネ「睡蓮」1916年<br />モネの「睡蓮」の中でも最も優れたものの一つといわれています。

    イチオシ

    クロード・モネ「睡蓮」1916年
    モネの「睡蓮」の中でも最も優れたものの一つといわれています。

  • クロード・モネ 「黄色いアイリス」1914-17年頃

    クロード・モネ 「黄色いアイリス」1914-17年頃

  • クロード・モネ 「柳」	1897-98年頃<br />松方コレクション

    クロード・モネ 「柳」 1897-98年頃
    松方コレクション

  • クロード・モネ「雲の習作 Study of Cloud」制作年不詳<br />パステル画です。

    クロード・モネ「雲の習作 Study of Cloud」制作年不詳
    パステル画です。

  • クロード・モネ「睡蓮、柳の反映」1916年<br />本作は、2016年9月にルーヴル美術館内で発見され、17年11月に松方家から国立西洋美術館に寄贈されたものです。しかし作品の上半分が大きく欠損しており修復作業を約1年間かけて実施し、松方コレクション展でお披露目となっています。

    クロード・モネ「睡蓮、柳の反映」1916年
    本作は、2016年9月にルーヴル美術館内で発見され、17年11月に松方家から国立西洋美術館に寄贈されたものです。しかし作品の上半分が大きく欠損しており修復作業を約1年間かけて実施し、松方コレクション展でお披露目となっています。

  • 「睡蓮、柳の反映」(部分拡大1)<br />1921年に松方はモネのアトリエで本人より本作を購入しています。

    「睡蓮、柳の反映」(部分拡大1)
    1921年に松方はモネのアトリエで本人より本作を購入しています。

  • 「睡蓮、柳の反映」(部分拡大2)<br />第2次世界大戦中、疎開中に破損したものと思われます。

    「睡蓮、柳の反映」(部分拡大2)
    第2次世界大戦中、疎開中に破損したものと思われます。

  • オーギュスト・ロダン「ロダン夫人(ローズ・ブーレ)のマスク」1880-82年頃

    オーギュスト・ロダン「ロダン夫人(ローズ・ブーレ)のマスク」1880-82年頃

  • オーギュスト・ロダン「化粧するヴィーナス」1890年頃

    オーギュスト・ロダン「化粧するヴィーナス」1890年頃

    国立西洋美術館 美術館・博物館

  • ギュスターヴ・モロー「牢獄のサロメ」1873-76年頃<br />モローは、19世紀フランスの象徴主義の画家、本作品の主題は「洗礼者ヨハネの斬首」。

    ギュスターヴ・モロー「牢獄のサロメ」1873-76年頃
    モローは、19世紀フランスの象徴主義の画家、本作品の主題は「洗礼者ヨハネの斬首」。

  • ギュスターヴ・モロー「ピエタ」1876年頃<br />聖母マリアが十字架より降ろされたキリストの亡骸を抱えてその死を嘆くという「ピエタ」(嘆きの聖母)を描いたもの。

    ギュスターヴ・モロー「ピエタ」1876年頃
    聖母マリアが十字架より降ろされたキリストの亡骸を抱えてその死を嘆くという「ピエタ」(嘆きの聖母)を描いたもの。

  • ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ「貧しき漁夫 」1887-92年頃<br />ピュヴィ・ド・シャヴァンヌは壁画の伝統を受け継ぎつつ、19世紀フランス象徴主義の先駆となった画家です。本作品は、抑えた色調や平面性、色面による簡潔な画面構成など、この画家の特徴がよく表れており、オルセー美術館にある同名作品の異作の1つです。

    ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ「貧しき漁夫 」1887-92年頃
    ピュヴィ・ド・シャヴァンヌは壁画の伝統を受け継ぎつつ、19世紀フランス象徴主義の先駆となった画家です。本作品は、抑えた色調や平面性、色面による簡潔な画面構成など、この画家の特徴がよく表れており、オルセー美術館にある同名作品の異作の1つです。

  • シャルル・コッテ「行列」1913年<br />印象派の画家たちが、外光の輝きに酔って明るい画面の描出に努めていた時、コッテらはブル夕一ニュの片田舎に閉じこもって、農夫や漁民たちの暗い忍従に満ちた生活を、激しい感情表現をこめて、リアリスティックに描いており、彼らは「黒の一団(バンド・ノワール)」と名付けられています。

    シャルル・コッテ「行列」1913年
    印象派の画家たちが、外光の輝きに酔って明るい画面の描出に努めていた時、コッテらはブル夕一ニュの片田舎に閉じこもって、農夫や漁民たちの暗い忍従に満ちた生活を、激しい感情表現をこめて、リアリスティックに描いており、彼らは「黒の一団(バンド・ノワール)」と名付けられています。

  • シャルル・コッテ「悲嘆、海の犠牲者」1908-09年 <br />1908年、コッテはこの作品を、パリの国民美術協会のサロンに「海の国にて:悲嘆」として出品しました。描かれているのは溺死した漁夫の遺体がサン島の港に戻り、棺に収められようとしているところです。上半身をあらわにしたままの遺体は担架に乗せられ、棺の上に据えられています。<br /><br />

    シャルル・コッテ「悲嘆、海の犠牲者」1908-09年
    1908年、コッテはこの作品を、パリの国民美術協会のサロンに「海の国にて:悲嘆」として出品しました。描かれているのは溺死した漁夫の遺体がサン島の港に戻り、棺に収められようとしているところです。上半身をあらわにしたままの遺体は担架に乗せられ、棺の上に据えられています。

  • リュシアン・シモン「婚礼」制作年不詳<br />「黒の一団(バンド・ノワール)」と呼ばれたシモンの作品。

    リュシアン・シモン「婚礼」制作年不詳
    「黒の一団(バンド・ノワール)」と呼ばれたシモンの作品。

  • リュシアン・シモン「庭の集い」1919年

    リュシアン・シモン「庭の集い」1919年

  • リュシアン・シモン「ブルターニュの祭り」1919年頃

    リュシアン・シモン「ブルターニュの祭り」1919年頃

  • レオン・オーギュスタン・レルミット「落穂拾い」1919年

    レオン・オーギュスタン・レルミット「落穂拾い」1919年

  • フィンセント・ファン・ゴッホ 「バラ」1889年<br />この作品は、1889年に入院したサン=レミの精神療養院に咲くばらを描いたものです。

    フィンセント・ファン・ゴッホ 「バラ」1889年
    この作品は、1889年に入院したサン=レミの精神療養院に咲くばらを描いたものです。

  • ポール・ゴーガン「サントゥアン教会、ルーアン 」1884年

    ポール・ゴーガン「サントゥアン教会、ルーアン 」1884年

  • ポール・ゴーガン「水浴の女たち」1885年<br />ゴーガンの英仏海峡に面したディエップ滞在中に制作された作品の一つです。

    ポール・ゴーガン「水浴の女たち」1885年
    ゴーガンの英仏海峡に面したディエップ滞在中に制作された作品の一つです。

  • ポール・ゴーガン「ブルターニュ風景」1888年<br /> 本作品は、ブルターニュ滞在時代前半の作品で、印象主義からゴーガン独自の平面的様式への過渡的段階を示しています。

    ポール・ゴーガン「ブルターニュ風景」1888年
    本作品は、ブルターニュ滞在時代前半の作品で、印象主義からゴーガン独自の平面的様式への過渡的段階を示しています。

  • ポール・ゴーガン「海辺に立つブルターニュの少女たち」1889年<br />ゴーガンは、近代化から取り残され、古代のケルト文化の痕跡をいたるところに残す北西フランスのブルターニュ地方を、好んで訪れました。この絵は、1889年の秋に海辺の村ル・ブールデュで制作された、ゴーガンのブルターニュ時代を代表する作品のひとつです。前年末にゴーガンは南仏アルルで、芸術家の共同体の夢を追ってファン・ゴッホとの共同生活を試み破綻しましたが、ブルターニュにおいては1886年の最初の滞在以来、多くの作家たちと交流を持ちながら、この地方の古い習俗や風景を描き続けました。画面に描かれた少女たちは、裸足で、ブルターニュ地方独特の民族衣装を身にまとった姿でモデルとなっています。背景となっているのは、崖と入り江に囲まれ、野趣に満ちた、ブルターニュ特有の風光明媚な海岸風景です。画面全体を覆う平面的な賦彩と様式化された波の表現、中心軸を外した人物の配置などの表現は、注目に値します。この頃、ゴーガンの中で日本の浮世絵の影響は頂点に達していたのです。こうした大胆な試みは、やがて1891年以降に赴くタヒチ島で、さらに深められていきます。

    ポール・ゴーガン「海辺に立つブルターニュの少女たち」1889年
    ゴーガンは、近代化から取り残され、古代のケルト文化の痕跡をいたるところに残す北西フランスのブルターニュ地方を、好んで訪れました。この絵は、1889年の秋に海辺の村ル・ブールデュで制作された、ゴーガンのブルターニュ時代を代表する作品のひとつです。前年末にゴーガンは南仏アルルで、芸術家の共同体の夢を追ってファン・ゴッホとの共同生活を試み破綻しましたが、ブルターニュにおいては1886年の最初の滞在以来、多くの作家たちと交流を持ちながら、この地方の古い習俗や風景を描き続けました。画面に描かれた少女たちは、裸足で、ブルターニュ地方独特の民族衣装を身にまとった姿でモデルとなっています。背景となっているのは、崖と入り江に囲まれ、野趣に満ちた、ブルターニュ特有の風光明媚な海岸風景です。画面全体を覆う平面的な賦彩と様式化された波の表現、中心軸を外した人物の配置などの表現は、注目に値します。この頃、ゴーガンの中で日本の浮世絵の影響は頂点に達していたのです。こうした大胆な試みは、やがて1891年以降に赴くタヒチ島で、さらに深められていきます。

  • ポール・ゴーガン「画家スレヴィンスキーの肖像」1891年<br />松方コレクション

    ポール・ゴーガン「画家スレヴィンスキーの肖像」1891年
    松方コレクション

  • ポール・セリュジエ「森の中の4人のブルターニュの少女 」1892年<br />ナビ派の画家セリュジエは、1888年にゴーガンを訪ねて初めてブルターニュ地方に赴き、その後もくり返し滞在しては同地の日常生活に取材した作品を多く残しました。本作も、ブルターニュ特有の衣服やコアフ(頭飾り)を身に着けた女性たちが水辺に集う様子を描いています。

    ポール・セリュジエ「森の中の4人のブルターニュの少女 」1892年
    ナビ派の画家セリュジエは、1888年にゴーガンを訪ねて初めてブルターニュ地方に赴き、その後もくり返し滞在しては同地の日常生活に取材した作品を多く残しました。本作も、ブルターニュ特有の衣服やコアフ(頭飾り)を身に着けた女性たちが水辺に集う様子を描いています。

  • エミール・ベルナール「吟遊詩人に扮した自画像」1892年 <br />リュートを奏でる中世の吟遊詩人風の人物は、ベルナール自身の姿です。

    エミール・ベルナール「吟遊詩人に扮した自画像」1892年
    リュートを奏でる中世の吟遊詩人風の人物は、ベルナール自身の姿です。

  • ダンテ・ガブリエル・ロセッティ「愛の杯」 1867年<br />1867年制作の本作品は、ロセッティの円熟期を代表する作品の一つです。画家であると同時に詩人でもあった彼は、聖書、ギリシャ神話をはじめダンテ、シェイクスピアらの作品に題材を得て、男性を破滅に導く「ファム・ファタール」の登場するいかにもロマン主義的で詩想豊かな作品を描きました。女性関係にも華やかであったロセッティは、物語のヒロインに対する自分自身のイメージを表現するために、好んでモデルに女友達や愛人を用いました。本作品のモデルはアレクサ・ワイルディングで、彼女は1865年の春以来ロセッティの作品に登場しています。

    ダンテ・ガブリエル・ロセッティ「愛の杯」 1867年
    1867年制作の本作品は、ロセッティの円熟期を代表する作品の一つです。画家であると同時に詩人でもあった彼は、聖書、ギリシャ神話をはじめダンテ、シェイクスピアらの作品に題材を得て、男性を破滅に導く「ファム・ファタール」の登場するいかにもロマン主義的で詩想豊かな作品を描きました。女性関係にも華やかであったロセッティは、物語のヒロインに対する自分自身のイメージを表現するために、好んでモデルに女友達や愛人を用いました。本作品のモデルはアレクサ・ワイルディングで、彼女は1865年の春以来ロセッティの作品に登場しています。

  • ダンテ・ガブリエル・ロセッティ「夜明けの目覚め」1877-78年 <br />

    ダンテ・ガブリエル・ロセッティ「夜明けの目覚め」1877-78年

  • トーマス・ストザード「黄金時代」1794年<br />挿絵画家としてスタートしたストザードは、シェークスピアなどを題材とした幻想的な物語画の数々も描いています。

    トーマス・ストザード「黄金時代」1794年
    挿絵画家としてスタートしたストザードは、シェークスピアなどを題材とした幻想的な物語画の数々も描いています。

  • ポール・ランソン「ジギタリス 」1899年<br />19世紀末のナビ派の一員として活躍したランソンは、同僚のドニやボナール、ヴュイヤールと同様、装飾的な画面を得意としました。タイトルのジギタリスとは、前景右手に伸びる釣鐘状のたくさんの薄紫の花をつけた植物です。掛け軸にも似た縦長の画面に描かれたこの作品は、いわゆる当時の日本趣味(ジャポニスム)を反映していますが、同時に、装飾性・平面性など、画面の二次元的特性を重視したナビ派の造形原理に基づいています。実現はされなかったもののタピスリー(綴れ織)のための下絵として制作されたという経緯からみても、中世の「花散らし紋様(ミルフルール)」のタピスリーを強く意識して作画されていることは明らかです、また、曲線を多用した表現は、アール・ヌーヴォーの工芸に直結しています。

    ポール・ランソン「ジギタリス 」1899年
    19世紀末のナビ派の一員として活躍したランソンは、同僚のドニやボナール、ヴュイヤールと同様、装飾的な画面を得意としました。タイトルのジギタリスとは、前景右手に伸びる釣鐘状のたくさんの薄紫の花をつけた植物です。掛け軸にも似た縦長の画面に描かれたこの作品は、いわゆる当時の日本趣味(ジャポニスム)を反映していますが、同時に、装飾性・平面性など、画面の二次元的特性を重視したナビ派の造形原理に基づいています。実現はされなかったもののタピスリー(綴れ織)のための下絵として制作されたという経緯からみても、中世の「花散らし紋様(ミルフルール)」のタピスリーを強く意識して作画されていることは明らかです、また、曲線を多用した表現は、アール・ヌーヴォーの工芸に直結しています。

  • ポール・シニャック「サン=トロぺの港 」1901-02年<br />新印象主義からの脱却とフォーヴィスム誕生の準備という、世紀の変わり目におけるシニャックの業績を代表する作品となっています。

    ポール・シニャック「サン=トロぺの港 」1901-02年
    新印象主義からの脱却とフォーヴィスム誕生の準備という、世紀の変わり目におけるシニャックの業績を代表する作品となっています。

  • ポール・シニャック「サンジャン要塞、マルセイユ」1907年

    ポール・シニャック「サンジャン要塞、マルセイユ」1907年

  • アンリ=ジャン=ギヨーム・マルタン「花と泉水 」<br />新印象派の作品

    アンリ=ジャン=ギヨーム・マルタン「花と泉水 」
    新印象派の作品

  • アンリ=ジャン=ギヨーム・マルタン「ラバスティードの聖堂 」<br />マルタンは新印象派の技法の影響を最後まで持ち続けましたが、後期になるにしたがって画面はフォーヴィスムの絵画のような強く明るい色彩を示すようになりました。アカデミックな造形感覚の窺える構図の本作品は、晩年に移り住んだラバスティードの風景であり、白い果樹の花とポプラの芽が出はじめる若々しい春の情景を描いたものです。

    アンリ=ジャン=ギヨーム・マルタン「ラバスティードの聖堂 」
    マルタンは新印象派の技法の影響を最後まで持ち続けましたが、後期になるにしたがって画面はフォーヴィスムの絵画のような強く明るい色彩を示すようになりました。アカデミックな造形感覚の窺える構図の本作品は、晩年に移り住んだラバスティードの風景であり、白い果樹の花とポプラの芽が出はじめる若々しい春の情景を描いたものです。

  • アンリ=ジャン=ギヨーム・マルタン「娘」

    アンリ=ジャン=ギヨーム・マルタン「娘」

  • エルネスト・ローラン「テラスの二人の婦人 」1922年<br />高台のテラスで食卓を囲んで談笑する優雅な物腰の二人の婦人。のどかな夏の日の情景を扱ったこの作品は、晩年のローランの作風をよく伝えています。並列された細かなタッチによって画面を埋めていく手法は、言うまでもなく、画家の親しい友であったスーラが創始した新印象派の理論に基づいています。ローランは終生この技法に忠実でした。とはいえ、夭逝したスーラが、作画上の明確な意図をもって、純粋な色の並置による厳格な点描を行なったのに対して、ローランは市民生活の穏やかで親しげな雰囲気を表わすために、繊細なニュアンスを持つこの技法を用いたのでした。

    エルネスト・ローラン「テラスの二人の婦人 」1922年
    高台のテラスで食卓を囲んで談笑する優雅な物腰の二人の婦人。のどかな夏の日の情景を扱ったこの作品は、晩年のローランの作風をよく伝えています。並列された細かなタッチによって画面を埋めていく手法は、言うまでもなく、画家の親しい友であったスーラが創始した新印象派の理論に基づいています。ローランは終生この技法に忠実でした。とはいえ、夭逝したスーラが、作画上の明確な意図をもって、純粋な色の並置による厳格な点描を行なったのに対して、ローランは市民生活の穏やかで親しげな雰囲気を表わすために、繊細なニュアンスを持つこの技法を用いたのでした。

  • エドモン=フランソワ・アマン=ジャン「日本婦人の肖像(黒木夫人)」1922年<br />黒木竹子は、大蔵省の委嘱により国際金融情勢を調査する目的でパリに滞在していた黒木三次の妻で、松方幸次郎の姪にあたります。黒木夫妻は画架や美術関係者と親しく、美術品を積極的に蒐集しました。ジヴェルニーのアトリエで松方にモネを引き合わせたのも彼らで、松方は多数の作品を画架から直接購入することになります。アマン=ジャンが和服姿の竹子を描いた背景には、モネにも通じる当時の日本趣味が色濃く反映されています。

    エドモン=フランソワ・アマン=ジャン「日本婦人の肖像(黒木夫人)」1922年
    黒木竹子は、大蔵省の委嘱により国際金融情勢を調査する目的でパリに滞在していた黒木三次の妻で、松方幸次郎の姪にあたります。黒木夫妻は画架や美術関係者と親しく、美術品を積極的に蒐集しました。ジヴェルニーのアトリエで松方にモネを引き合わせたのも彼らで、松方は多数の作品を画架から直接購入することになります。アマン=ジャンが和服姿の竹子を描いた背景には、モネにも通じる当時の日本趣味が色濃く反映されています。

  • フランク・ブラングィン「しけの日 」1889年<br />イギリスでの蒐集にあたり助言を与えるなど松方幸次郎のコレクション形成に多大な影響を与えたフランク・ブラングィンの作品。

    フランク・ブラングィン「しけの日 」1889年
    イギリスでの蒐集にあたり助言を与えるなど松方幸次郎のコレクション形成に多大な影響を与えたフランク・ブラングィンの作品。

  • フランク・プラグイン「松方幸次郎の肖像」1916年<br />

    フランク・プラグイン「松方幸次郎の肖像」1916年

  • フランク・プラグイン「木陰」

    フランク・プラグイン「木陰」

  • エミール=オーギュスト・カロリュス=デュラン「母と子(フェドー夫人と子供たち)」1897年<br />この作品は、カロリュス=デュランの娘とその子供たちを描いています。彼女は、演劇作家として、また印象派やナビ派の作品の収集家として名を残しているジョルジュ・フェドーの夫人でした。対象の質感を手にとるように描き出す伝統的なアカデミックな技法と、印象派の人々が多用した即興的な筆の運びとの折衷が眼を惹く本作品は、世紀末の公的な展覧会に出品され、一般公衆の人気を集めていたいわゆる「サロン絵画」の典型的作例の一つです。印象派がすでに画壇の一角を占める勢力となり、その反動としてのさまざまな傾向が顕著であったこの時期、美術界の主流であるサロン画家たちの多くは、印象派の様式を部分的に摂取しては、アカデミスムとの折衷を試みていました。着飾った母と子の姿を三角形の構図の中に収めた画面は、物質的な恵みを享受する当時のブルジョア層が理想とした家庭的幸福の情景の一つを今に伝えています。フェドー夫人の黒い服と胸元の赤い花、女児の白い服と手にもつ淡黄色の花など簡潔な色彩の対照は、カロリュス=デュラン独自のものでしょう。ことに、19世紀フランス美術に少なからぬ影響を与えたスペイン趣味に由来する黒は画家のもっとも好んだ色の一つであり、彼の親しい友人であったマネもまた、黒のもたらす効果を愛したことはよく知られています。

    エミール=オーギュスト・カロリュス=デュラン「母と子(フェドー夫人と子供たち)」1897年
    この作品は、カロリュス=デュランの娘とその子供たちを描いています。彼女は、演劇作家として、また印象派やナビ派の作品の収集家として名を残しているジョルジュ・フェドーの夫人でした。対象の質感を手にとるように描き出す伝統的なアカデミックな技法と、印象派の人々が多用した即興的な筆の運びとの折衷が眼を惹く本作品は、世紀末の公的な展覧会に出品され、一般公衆の人気を集めていたいわゆる「サロン絵画」の典型的作例の一つです。印象派がすでに画壇の一角を占める勢力となり、その反動としてのさまざまな傾向が顕著であったこの時期、美術界の主流であるサロン画家たちの多くは、印象派の様式を部分的に摂取しては、アカデミスムとの折衷を試みていました。着飾った母と子の姿を三角形の構図の中に収めた画面は、物質的な恵みを享受する当時のブルジョア層が理想とした家庭的幸福の情景の一つを今に伝えています。フェドー夫人の黒い服と胸元の赤い花、女児の白い服と手にもつ淡黄色の花など簡潔な色彩の対照は、カロリュス=デュラン独自のものでしょう。ことに、19世紀フランス美術に少なからぬ影響を与えたスペイン趣味に由来する黒は画家のもっとも好んだ色の一つであり、彼の親しい友人であったマネもまた、黒のもたらす効果を愛したことはよく知られています。

  • ケルグザヴィエ・ルーセル「小道の聖母マリア 」1890-92年頃

    ケルグザヴィエ・ルーセル「小道の聖母マリア 」1890-92年頃

  • ロヴィス・コリント「樫の木」

    ロヴィス・コリント「樫の木」

  • ピーダ・イルステズ「イーダの肖像」1889年頃<br />デンマークの画家、版画家。1878年から83年にかけて、コペンハーゲンの美術学校で学びます。1889年に国費でパリの万国博覧会を訪れ、また1891年には奨学金を得てイタリアとパリへ赴く。室内画を得意とするが、その際立った特徴は、絵画よりもむしろ版画に表われています。レンブラントの版画を収集していましたが、初期のエッチング作品にはその影響が色濃い。1882年から1904年の間に47点のエッチング、それ以降に5点を制作しました。1906年以降は、カラーメゾティントの制作に情熱を傾けるようになりました。デンマークを代表する作家ヴィルへルム・ハンマースホイとの出会いは、彼の画歴におして重要な出来事となります。ハンマースホイがイルステッドの妹イーダと1891年に結婚したことで、二人の画家は急速に接近し、イルステッドはハンマースホイの主題や冷ややかな色調に強い影響を受けました。

    ピーダ・イルステズ「イーダの肖像」1889年頃
    デンマークの画家、版画家。1878年から83年にかけて、コペンハーゲンの美術学校で学びます。1889年に国費でパリの万国博覧会を訪れ、また1891年には奨学金を得てイタリアとパリへ赴く。室内画を得意とするが、その際立った特徴は、絵画よりもむしろ版画に表われています。レンブラントの版画を収集していましたが、初期のエッチング作品にはその影響が色濃い。1882年から1904年の間に47点のエッチング、それ以降に5点を制作しました。1906年以降は、カラーメゾティントの制作に情熱を傾けるようになりました。デンマークを代表する作家ヴィルへルム・ハンマースホイとの出会いは、彼の画歴におして重要な出来事となります。ハンマースホイがイルステッドの妹イーダと1891年に結婚したことで、二人の画家は急速に接近し、イルステッドはハンマースホイの主題や冷ややかな色調に強い影響を受けました。

  • アリスティード・マイヨール 「花の冠」1889年

    アリスティード・マイヨール 「花の冠」1889年

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