2016/03/20 - 2022/10/23
226位(同エリア4228件中)
+mo2さん
国立西洋美術館は川崎造船所社長を務めた実業家松方幸次郎がイギリス、フランス、ドイツ等で収集した美術コレクション(松方コレクション)
を基に昭和34年に設立されています。
18世紀(ロココ美術など)の作品を纏めてました。
※写真は複数の時期のもの(メインは2016年3月)なので、現在公開されていない作品もあります。
2018年4月・2019年6月・2019年10月・2020年7月・2022年4月・6月・10月・2023年3月写真追加しました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
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ジャン=マルク・ナティエ「マリー=アンリエット・ベルトロ・ド・プレヌフ夫人の肖像」 1739年
ナティエはニコラ・ド・ラルジリエールの影響を受けて、宮廷の貴婦人たちを神話の中の人物の姿を借りて描くというフォンテーヌブロー派の伝統を復活させています。 -
マリー=ガブリエル・カペ「自画像」1783年頃
18世紀のフランスは、女性たちが社会のさまざまな場所で活躍し始めており、カペは、こうした当時の新進女性作家のひとり。 -
アンゲリカ・カウフマン「パリスを戦場へと誘うヘクトール」1770年代
スイスに生まれ、ローマやロンドンで活躍した新古典主義の画家カウフマンは、女性としては当時めずらしく歴史画の領域で国際的な成功をおさめました。充実したロンドン時代に描かれた本作は、トロイア戦争を詠った古代ギリシャの叙事詩『イーリアス』にもとづき、スパルタ王の妻ヘレネとの恋に溺れるトロイア王子のパリスに対して兄ヘクトールが戦場へ戻るように諌める場面を取りあげています。 -
ジョシュア・レノルズ「第四代ホルダネス伯爵ロバート・ダーシーの肖像 」1775年
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リチャード・ウィルソン「ティヴォリの風景(カプリッチョ)」1754年
イギリス風景画の創始者ともいえるウィルソンは1750年代にイタリアに滞在し、クロードやデュゲの強い影響を受けました。以前は主に肖像画を制作していた彼は、このイタリア滞在を契機に専ら風景画を制作するようになりました。本作品は1754年にローマで制作されました。前景にはヴィア・アッピア・ヌオーヴァにある古代の英雄ホラティウス兄弟の墓、反対側にはおそらくヴィラ・メディチの彫像に基づく女性像、中景にはマエケナスの別荘が配され、古代ローマの栄華が追想されています。作品に満ちているメランコリックな調子の中には、自分たちの文化も末裔に連なることを願った当時のイギリス貴族たちの、古代文化への憧憬が認められます。 -
ニコラ・ランクレ「眠る羊飼女」1730年頃
ランクレは、同時代人ヴァトーと同じく、雅宴画や田園の中での人物の描写を得意としました。この作品は、ルイXV世治下の財務長官兼公安長官であったジャン・ブーロンニュによって、パリのヴァンドーム広場に面していた彼の館のサロンの装飾として、やはりランクレの手になる他の8点の作品(現在、パリの装飾美術館など各地に分蔵される)と共に注文されたものです。サロンの中で、この作品は、中央の暖炉および鏡の上を飾っていたことが知られます。主題的に見ると、そのサロンを飾っていた9点の作品のうち、この作品をも含めた4点の作品はいずれも、田園風景の中で戯れる一組の男女の姿を描き出しています。この作品の主題は、ランクレの他の作品にもしばしば見られるものですが、人物の姿、服装は理想化、貴族化されています。 -
ピエトロ・ロンギ「不謹慎な殿方」1740年頃
ピエトロ・ロンギは、ヴェネツィアの18世紀という、あまり刺激的ではない世界での生活の一場面を主に描いた画家です。 -
アンリ=オラース・ロラン・ド・ラ・ポルト「桃、李、杏 」1760-63年頃
18世紀後半のフランスの静物画家ロラン・ド・ラ・ポルトの作品。 -
ジョゼフ・ヴェルネ「夏の夕べ、イタリア風景」1773年
本作品は、ヴェルネの画歴の上では比較的晩年に近い1773年の制作になります。形式としては、一日の各時間を複数のタブローによって描き分けるという、イタリア時代以来ヴェルネが好んだ17世紀からの伝統に従っていると思われ、同じ1773年制作の作品《朝》が対作品として存在していたことも確認されています(現在所在不明)。 -
「夏の夕べ、イタリア風景」(部分拡大)
画面には、川辺で水浴びをする人々を点景に、夏の長い一日が暮れようとする時刻の風景が表わされています。右側の大きな岩と樹、画面の中心を占める川と橋などはヴェルネの作品にしばしば見られる道具立てです。遠景となっている町の風景は現時点では特定できず、いくつかの実景の組み合わせでしょう。 -
カルロ・インノチェンツォ・カルローネ 「聖フェリックスと聖アダウクトゥスの栄光」1759年頃
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ジョヴァンニ・パオロ・パニーニ 「古代建築と彫刻のカプリッチョ」1745-50年頃
パニーニは1691年にピアチェンツァで生まれ、20歳でローマに移り、1718年頃からローマの画家アカデミーで幾何学遠近法の教鞭をとりました。彼の作品は、派手な遠近法を駆使しながら、そこに優美な人物像を配置したローマの都市景観図や古代遺跡の景観を取り入れたカプリッチョ(現実と空想が融合した風景画)、さらには祝祭記念画などを特徴として、フランス王室やスペイン王室をはじめとして、ヨーロッパ各国で人気を博しました。またパニーニは1754年にローマの画家アカデミーの第58代総裁に推挙され、その翌年にはローマのフランス・アカデミーの総裁にも推挙された、18世紀半ばのローマで極めて重 要な役割を果たした画家です。ピラネージとも親交の深かったパニーニは、17世紀以来の古代遺跡や文物をモチーフとした景観画のジャンルを最も成熟させた画家で、ユベール・ロベールもローマ滞在の折に彼の薫陶を受けた画家のひとりです。 この作品は、北ウェールズの初代ペンライン男爵のコレクションに1860年頃に入った後、ペンライン男爵、ダグラス=ペナント家が代々所蔵していた由緒ある作品です。作品そのものはパニーニが最も精力的に活動をしていた1745年から50年頃にかけて制作されたものと考えられ、いわゆるカプリッチョながら非常に独創的な構図と内容となっています。画面中央には「ファルネーゼのヘラクレス」として知られるヘラクレス像、その奥には現在ルーヴル美術館に所蔵される《通称キンキンナートゥス像》、画面中央奥には《聖コンスタンツァの石棺》、画面右奥には《ヤヌス・クワドリフロンス門》などの古代遺跡や彫像が描かれています。一方でヘラクレス像に向かって何かを話しかけている中央の白いトガを着た人物は哲学者ディオゲネスで、ヘラクレス像相手に物乞いをして、周囲の兵士に冷やかされている場面を表わしています。 -
ジャン=オノレ・フラゴナール「丘を下る羊の群」1763-65年頃
フラゴナールは18世紀を代表する画家のひとりです。パリで研鑚を積み、やがて1756年にはローマ留学を果たしました。 この作品は、フラゴナールが最初のイタリア滞在からパリに戻った時期の作品です。 -
ジャン=ヴィクトール・ベルタン「ギリシアの風景」1812年
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ジャン=ヴィクトール・ベルタン「イタリア風景」1812年
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ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ「ヴィーナスによって天上に導かれるヴェットール・ピサーニ提督 」1743年頃
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ヤン・ボト「ニンフのいる風景 」
ヤン・ボトは親イタリア派を代表するオランダの画家であり、この作品の風景にも例外的な雰囲気が窺われます。写実主義理論が一方的に拡大され、ともすると17世紀のオランダ絵画にはオランダ的風景しか存在しなかったかのような誤解が生まれました。しかし、実は当時のオランダではイタリア的風景画が非常に人気を博し、また、価格も高かったことが記録から知られています。こうした状況を反映し、本作品に描かれた風景にも、イタリア的な雰囲気がみなぎっています。 小品ながら、本作品はボトの特質をよく示す作品です。入念な筆運び、密集した樹木や植物の表現は比較的早い制作年代(1640年代)を示唆し、また、右上部に広がる明るい空はどこか牧歌的な雰囲気を画面に与えています。こうした牧歌性は手前にたむろする裸のニンフたちによって一層強試されています。ここに描かれるニンフたちがなんらかの主題に関わるものであることを否定することはできないが、明確な根拠をもって特定の主題との関わりを指摘することは難しい。風景の中に多数のニンフを配する主題として当時好まれたディアナとカリストの物語があるが、このような物語に発想を受けながら、より自由な風景描写を試みた作品と考えるのが妥当なところでしょう。柔らかく暖かな陽光、神話的主題、牧歌的風景など現実のオランダとは対照的な風景が描出されています。 -
ニコラ・ド・ラルジリエール「幼い貴族の肖像 」1714年頃
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ジョヴァンニ・ドメニコ・ティエポロ「聖母子と三聖人」 1759-62年頃
ジョヴァンニ・ドメニコ・ティエポロ、通称ジャンドメニコ・ティエポロは、18世紀ヴェネツィア派の巨匠ジャンバッティスタ・ティエポロの息子で、彼は父の忠実な助手として仕事をする一方、父の死後は当時の風俗を中心とした作品を描いています。 -
ユベール・ロベール「モンテ・カヴァッロの巨像と聖堂の見える空想のローマ景観」と「マルクス・アウレリウス騎馬像、トラヤヌス記念柱、神殿の見える空想のローマ景観 」1786年
国立西洋美術館 美術館・博物館
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「マルクス・アウレリウス騎馬像、トラヤヌス記念柱、神殿の見える空想のローマ景観 」「廃墟のロベール」と呼ばれたこのフランス人画家は、イタリアの古代遺跡や名勝をモチーフとした数々の奇想の風景によって歴史に名を残しています。ここに見る二点の作品[もう1点は《モンテ・カヴァッロの巨像と聖堂の見える空想のローマ景観》(P.1977-0002)を指す]は、イタリアから帰国後、ロベールの活動が最も充実した時期に制作された対作で、右の作品[本作品]の水盤の縁に署名と1786年の年記が認められます。彼の数多くの風景画と同様、ローマ市内に実在するモニュメントを自由に選択して複合構成した、空想の眺めとなっています。例えば、右の作品[本作品]にはマルクス・アウレリウス帝騎馬像やトラヤヌス帝記念柱が、左の作品[《モンテ・カヴァッロの巨像と聖堂の見える空想のローマ景観》]にはカンピドリオ広場とコンセルヴァトーリ宮が描かれています。
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「モンテ・カヴァッロの巨像と聖堂の見える空想のローマ景観」
この一対をなす作品は、イタリアから帰国後、ロベールの筆致が最も円熟した時期に制作されたものです。彼の数多くの風景画に見られるように、この《ローマのファンタジー》においても、例えば、カンピドリオ広場にあるマルクス・アウレリウス帝騎馬像やトラヤヌス帝記念柱など、実際には別々の場所にある古代の有名な作品が、一画面上に複合構成されています。 ロベールは1782年および91年にロシアの女帝エカテリーナから招きを受けるほど、当時のロシアでも高く評価されていましたが、ロシアには赴かず、その代わりに数多くの作品を同地に送りました。 -
アンソニー・ヴァンダイク・コプリー・フィールディング「ターベット、スコットランド」制作年不詳
フィールディングは、ドラクロワと親しく交わったイギリス人風景画家兄弟のひとり。 -
ヨハン・ハインリヒ・フュースリ「グイド・カヴァルカンティの亡霊に出会うテオドーレ」1783年頃
フュースリはイギリスで活躍したスイス人画家で、本作は彼の重要な初期作品です。 -
アリ・シェフェール 「戦いの中、聖母の加護を願うギリシャの乙女たち」1826年
オランダに生まれ、フランスで活動したシェフェールは、ロマン主義を代表する画家の一人です。この作品は、オスマン・トルコ帝国からのギリシャの独立戦争(1821-30年)を題材としています。 -
ウジェーヌ・ドラクロワ「馬を連れたシリアのアラブ人」 1829年頃
フランスの19世紀ロマン主義を代表する画家ドラクロワの作品。 -
ウジェーヌ・ドラクロワ「墓に運ばれるキリスト」1859年
この作品は、ボストン美術館にある1848年の「キリストの埋葬」とも関連するもので、1859年のサロンに「レベッカの掠奪」(ルーヴル美術館)や「十字架を背負うキリスト」(メッツ、市立美術館)などと共に出品されています。 -
ウジェーヌ・ドラクロワ「聖母の教育」1852年
1842年、ドラクロワはノアンにあった、当代随一の女流作家ジョルジュ・サンドの邸に招かれ、彼女が使っていた農婦とその娘をモデルにして《聖母の教育》(聖母マリアの母アンナがマリアに旧約聖書の読み方を教えている場面)と題する油彩画を描いていますが、この作品はその10年後に同じ主題で描かれたもの。 -
ルイ・ガレ「芸術と自由」
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テオドール・シャセリオー「アクタイオンに驚くディアナ」1840年
2017年「シャセリオー展―19世紀フランス・ロマン主義の異才」開催されましたが、アングル門下の異端児テオドール・シャセリオーは、10代の初めに師に入門を許された早熟の天才です。 -
ウィリアム・アドルフ・ブーグロー 「音楽」1855-56年頃
ウィリアム=アドルフ・ブーグロー(1825-1905)は美術アカデミーの重鎮として19世紀後半のフランスの美術界に君臨した画家です。古典の伝統と高度な技術に支えられた神話画や宗教画の大作によってサロンで成功を収めました。念入りに仕上げられた滑らかな肌を持つ甘美で官能的な女性像はとくに知られています。 -
ウィリアム・アドルフ・ブーグロー「クピドの懲罰」1855-56年頃
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ウィリアム・アドルフ・ブーグロー「武器の返却を懇願するクピド」1855-56年頃
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ウィリアム・アドルフ・ブーグロー「少女 」1878年
小さな手を胸もとであわせて祈りのポーズをとる幼い少女の半身像を描いた本作品は、こうした商業的な人物画のひとつと考えられます。母子の情愛や愛らしい少女などを描いたブーグローの人物画や風俗画は、当時、英米のコレクターのあいだで広い人気を博しました。この絵が描かれた年、ブーグローは、サロンやパリ万国博などに出品するための大作のほか、グーピル画廊のために《春の花々》を制作、好評を得たことから、そのヴァリアント《花を抱える子供》を弟子と共同制作しています。本作品の少女はこれらの作品に描かれた少女に酷似しています。もちろん必ずしもモデルの現実的な姿が描かれるわけではありませんが、ブーグローはしばしば家族や近所の少女たちをモデルとして使いました。また1865年に描かれた同主題の作品(《祈り》)に見られる類型的で演出された少女像と比べると、本作品にはより抑制的で自然な表現が見られ、現実のモデルの存在を感じることができそうです。 -
ウィリアム・アドルフ・ブグロー「小川のほとり」1875年
この画では、少女とも女性とも言えないような、子供らしさと大人らしさが複雑に混じり合った、若い女性を中心に置いて描かれています。 -
アドルフ・ピエール・ルルー「鵞鳥を連れた子供たち」1855年
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ギュスターヴ・ドレ「ラ・シエスタ、スペインの思い出」 1868年頃
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ジョン・エヴァリット・ミレイ「あひるの子 」1889年
1848年に、ウィリアム・ホルマン・ハントやダンテ・ガブリエル・ロセッティとともに、ラファエル前派兄弟団を結成したミレイは、1850年代には人気画家となり、1853年にアカデミー準会員、63年には正会員となり、85年には準男爵に叙せられたことからもわかるように、次第にその的確な技術を受け入れられやすい作品の制作へと向けていきました。1880年代には、肖像画家としても名声を博し、その巧みな人物表現は、いかにもヴィクトリア朝好みの、感傷的な子供の絵などにも発揮されました。それらの多くは、初期の原色も鮮やかな緻密な描写とは異なり、ベラスケスなどに学んだ大胆な筆遣いを見せるようになり、しばしば子供達に当てられる光が、暗い背景からその姿を浮かび上がらせ、印象的な効果を高めています。 本作品は、画面上の年記から1889年に描かれたものであり、同年リーンズ・ギャラリーにDucklings(あひるの子)として出品された作品にあたると考えられます。特定の少女の肖像画として描かれたものではなく、その題名が示すように、画面の手前に見えるあひるの子と少女が重ね合わされた、寓意的風俗画と解釈されます。 -
2020年度新収蔵品 ジョン・エヴァレット・ミレイ「狼の巣穴」1863年
19世紀イギリス美術を代表するミレイの優品であり、旧松方コレクションに由来します。 -
ギュスターヴ・クールベ「眠れる裸婦」1858年
クルーベらしい生々しい官能的な裸婦像。 -
ギュスターヴ・クールベ「罠にかかった狐 」1860年
冬の狩の光景は、自らも狩猟を趣味としたクールベ特有のレパートリーのひとつです。 -
ギュスターヴ・クールベ「 雪景色」
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ギュスターヴ・クールベ「肌ぬぎの女」1867年
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ギュスターヴ・クールベ「もの思うジプシー女」1869年
クールベが描く裸婦は、《水浴する女たち》にも見られるように、理想化されない武骨な姿態ゆえに公衆の憤激を買い、しばしばスキャンダルを引き起こしましたが、着衣の婦人を描いた作品は対象を的確に捉える彼の見事な写実力によって概して好評を博しました。本作品はクールベが社会的にも認められ、ますます円熟味を増していった1869年の作です。若いジプシー女はあらわな肩の上に豊かに垂れ下がる乱れ髪を片手で無心にもてあそびながらじっともの思いに耽っています。画面いっぱいにクローズアップされた女の上半身はクールベの卓越した技量によってほのかな官能性すら感じさせますが、それでいて卑俗な風俗描写に終わらず、静謐な詩情を漂わせています。クールベは生涯にわたり権力に対して攻撃的な姿勢を貫き、また自己顕示欲の強い人物でありましたが、ここでは、このような女性の忘我の状態に詩情を感じる一面もあったことが示されています。 -
ギュスターヴ・クールベ「波」1870年頃
ノルマンディー地方、エトルタの嵐の海を描いた本作は、1870年ごろに制作されたものです。 -
ギュスターヴ・クールベ「馬小屋」1873年
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ギュスターヴ・クールベ「狩猟者のいる風景 」1873年
本作品は、パリ・コミューンに関わって投獄されたクールベが、スイス亡命直前に故郷オルナンを描いたものです。狩猟画はクールベの得意のジャンルの一つであった。陽光を受けた岩山を背景に、2匹の愛らしい鹿とこれを物陰で窺う漁師との間の緊張感が、みずみずしい情感に溢れた自然描写と一体となって描かれています。 -
アンリ・ファンタン=ラトゥール「自画像」
添嶋一氏の寄附金により購入(旧松方コレクション) -
アンリ・ファンタン=ラトゥール「花と果物、ワイン容れのある静物 」1865年
正方形に近いプロポーションをもつこの画面に表されているのは、美しい花々や美味しそうな果物、そしてガラスのカラフ(ワイン容れ)に注がれた赤ワインなど、五感を刺激するような品々を並べた食卓の様子です。 -
アンリ・ファンタン=ラトゥール「聖アントニウスの誘惑 」
暗く沈んだ色調で描かれる肖像画の系列とは異なり、ファンタン=ラトゥールの構想画は、豊饒な色彩と動勢に満ちた筆致で制作されています。本作品は、画家自身より「想像力のもくろみ」と呼ばれたそのような傾向の作品の中では比較的初期のものと推定され、彼がルーヴル美術館で研究した、ティツィアーノやヴェロネーゼ、ルーベンス、ワトーなどの影響を窺うことができます。 -
ヴィクトリア・デュブール(ファンタン=ラトゥール)「花」
デュブールは、肖像および花と果物の静物を専門に描いた女流画家で、画家のアンリ・ファンタン=ラトゥールの妻でした。 -
ジョヴァンニ・セガンティーニ「風笛を吹くブリアンツァの男たち」1883-85年頃
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ジョヴァンニ・セガンティーニ 「羊の剪毛 」1883-84年
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ジャック=エミール・ブランシュ「若い娘 」
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ジャン=バティスト=カミーユ・コロー「ナポリの浜の思い出 」1870-72年
バルビゾン派の一人コローの作品です。 -
ジャン=フランソワ・ミレー 「春(ダフニスとクロエ)」1865年
『ダフニスとクロエ』は、古代ギリシャの詩人ロンゴスが書いたとされる恋愛物語であり、農民画で知られるミレーでは珍しい作品ではないでしょうか。 -
レオン・ボナ「ド・ラ・パヌーズ子爵夫人の肖像 」1879年
レオン・ボナは、フランス領バスクの中心都市であるバイヨンヌで生まれた肖像画家。 -
ジャン=ジャック・エンネル 「ノエツラン夫人の肖像」
松方コレクションの1枚 -
シャルル=ルネ・ド・ポール・ド・サン・マルソー「マリー・バシュキルツェフの胸像」1895年頃
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オノレ・ドーミエ「果物を取り合う二人の童子 」1845-50年頃
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ウジューヌ・カリエール「クレマンソー」1889年
この絵のモデルとなっているのは、第三共和制期代を通じて、令名をはせた政治家ジョルジュ・クレマンソー(1841-1929)です。第一次世界大戦の際には首相を務め、不屈の闘志をもって戦い抜いた急進共和派のこの政治家は、「虎」の異名をとるほど敵対する保守派の陣営からは恐れられていましたが、同時に、多くの書物を著し、美術を愛好する文人でもありました。印象派のグループを初めとする多くの美術家と親しく交わり、カリエール以外にもマネや、ロダンなどによってその肖像が残されています。また、現在は四散してしまったものの相当量の日本の浮世絵や工芸品のコレクションを持っていたこともよく知られています。 -
ウジューヌ・カリエール「母と子」
こちらも松方コレクション -
ウジューヌ・カリエール「自画像」1895-1900年頃
ウジューヌ・カリエールは、初期には自然主義風の描写でしたが、1880年代には、ほとんど単色に近い朦朧とした闇の中からスフマート(ぼかし技法)で描かれたメランコリックな相貌の人物が浮かび上がる、というような神秘的な表現に変わっていきました。 -
ウジェーヌ・ブーダン「トルーヴィルの浜 」1867年
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アルフォンス・ルグロ「海岸警備の兵舎」
フランス生まれで、後年イギリスで働いた、画家、版画家の作品。松方コレクション -
ジャン=バティスト・カルポー「ナポリの漁師の少年」1857-58年(原型)
1856年にローマに留学したカルポーは、翌1857年、パリへ送る留学課題作品としてこの《ナポリの漁師の少年》を制作しました。友人に宛てた手紙の中で、カルポーは次のように述べています。「私の作品の主題は、自然から取材したものです。これは、微笑みながら貝の響きに耳を澄ませている11歳の漁師の少年です」。 -
フランソワ・ボンヴァン 「静物」1863年
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