2016/03/30 - 2016/03/31
132位(同エリア890件中)
tadさん
戦艦大和の資料を20年以上前だったと思うが、呉で見たことがあり、「大和ミュージアム」はその延長だろうと思っていたのだが、大規模化し、大変な人気スポットになっていることをしった。新館ができて10年目で1000万人の訪問者があったそうだから、大変なヒットだ。今回、ここを訪問し、人気の理由を納得した。
先ず目を引くのは263mの戦艦大和の10分の1サイズの大型模型だ。呉で製作されたそうだが、迫真のモデル。大和のプラモデルを青少年時代に組み立てたことがある人なら、これだけでも興奮するだろう。さらに、理屈抜きに興奮させられるのは、一室に零戦と回天と海龍が並んでいるところだ。私が見た零戦はワシントンのスミソニアン博物館だし、回天はイギリスのマンチェスターの博物館だった。日本では靖国神社の展示でも見たが、まさか、市立の博物館でこういった実物を見ようとは思わなかった。さらに大和の砲弾なども陳列されている。
そこには栄の航空機用エンジンも置いてあるが、なんと、昨日の訪問日に、新しく三菱の太平洋戦争で使用された爆撃機用のエンジンがアメリカのスミソニアン博物館から寄贈されて、そのお披露目の式に偶然出くわした。三菱のMRJにもこういった国産のエンジンを積んで欲しいものだと思わず思った。
驚いたのは、館長さんが戸高一成さんというので、その名前はすぐに思い出した。文芸春秋の「あの戦争はなぜ負けたのか」などの文は読んでいたからだ。ともかくも、刺激が少々強すぎるくらいのおぜん立てのされた場所なのだが、名誉館長の名前が半藤一利や、さらに石坂浩二の名前がでてくる。シンポジウムの司会には池上彰の名前などがでてくるので、これは、なかなか、、、市立の施設なのだが、呉という海軍や造船の歴史を持ち、今では海上自衛隊の基地もあり、さらに小規模だと思うが米軍の施設もある特殊な町なのだ。
そういった特殊な町のなかで、大和ミュージアムは確かに多くの訪問者を集める施設となっている状況をしっかり見てきた。「アレイからすこじま」にも行き、実際の自衛隊の活動中の潜水艦を見たし、「てつのくじら館」にも入場した。三菱の退役した潜水艦内部に入れる。そういえば、今オーストラリアが三菱の潜水艦を採用するかどうかで、話題の渦中にある。それに安保関連法案もスタートした。。。これらは過去を振り返るだけでは済まされない話題なのだ。勿論、大和がカッコいいなどと思う少年時代からの気持ちも嘘ではないが、現実世界はもっと、どろどろとうごめいている。呉というところは複雑な反応を起こさせる街だ!
とりあえず、最初に訪問した「大和ミュージアム」の旅行記を書きたい。ここは、パンフレットを見ると、「呉市海事歴史科学館」ともいうそうだが、どちらが正式にしろ、両方の名称の差に違和感がある。そこで、今、ホームページの英語版を参照したら、なんと、これもまた違う名称だ!Yamato Museum, Kure Maritime Museumとある。3種類の名称がかなり異なるのはいかがなものだろうか?「歴史」「科学館」と「ミュージアム」が同一ということになってしまう。展示内容が拡大化されてきたのであろうから、「大和」だけでもそぐわなくなっている。英訳名も含めた館の名称の整理が必要だろう。
イギリスではこのタイプはThe National Maritime Museum(Greenwich)と呼ばれるが、私は何度も訪問したことのある素晴らしい博物館だ。この日本語訳は「国立海事博物館」となっているから、呉の場合は市立なので、「呉市立海事博物館」という名称が普通だろうと思う。勿論、英語ではKure City Maritime Museumとなるだろうが。。。
- 旅行の満足度
- 5.0
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市立のミュージアムとしては出色のレベル! by tadさん
呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) 美術館・博物館
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読めるでしょうか?
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零戦の展示してある部屋に、この大和の直径46cmの世界一の巨大砲弾がある。下関市の火の山の頂上に昔から本物の大和の砲弾が野外展示してあり、これは見慣れている。
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大和の設計図。これらは20年以上前の別の展示室で見たことがある。
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大和建造の呉のドックの写真
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最後の特攻作戦の日程、コース説明図。1945年3月29日に呉を出港し、4月6日まで徳山湾沖に停泊していた。徳山(現在の周南市)には海軍燃料廠が当時あって地下燃料タンクがあった。ここにしばらく停泊していたが、徳山には当時沖合に停泊している巨大な島のような戦艦大和を目撃した人がたくさんおり、私もその話しは聞いたことがある。そこで見た人達が最後の戦艦大和を見たことになる。近くには人間魚雷回天の基地があった。私の伯父もその隊員の一人であった。
4月6日に徳山湾から出港し、翌日7日午後2時23分に沈没した。 -
大和の海底調査の写真
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大和から引き揚げた品。
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同。
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戦艦大和の戦死者名簿
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特攻隊員を「後で追うからな!」と送り出した上官達は自決した少数名を除き、誰も死ななかったが、「大和」の上官達は、珍しく共に戦士した!(または、させられた。)
文芸春秋の「あの戦争になぜ負けたのか」の中の戸高一成(この大和ミュージアムの館長!)の書いた文「果たされなかった死者との約束」を読むと、「無責任な指揮官は、部下の命を無責任に浪費した(249頁)。」と書いているが、敗軍の将はそんなものだろう。幕末の会津城の松平や小倉城の小笠原など部下を残して生き延びた上官の話はいくらでもある。今の大企業も似たようなことをやっていそうなところはある。
戦艦大和の時代遅れの発想と無駄遣いについては、既にあまりにも多く語られてきた。最後の犬死の特攻作戦に出さずに、呉に残しておいたらどうなったであろうか?
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