2016/01/09 - 2016/01/09
874位(同エリア1432件中)
滝山氏照さん
生実(北小弓)城は主家千葉氏の重臣である原胤清(はら・たねきよ、生誕不詳~1556)が天文7年(1538)足利義明(あしかが・よしあき、生誕不詳~1538)から小弓城を奪還した翌年に、北方1Kmほどの台地に新たに築城して移転したため小弓城は廃城となった経緯があります。
千葉氏が猪鼻城(千葉城)を築城し現在の千葉市に拠点を置いた頃、上総方面の抑えとして小弓城を築き応永年間から当主千葉兼胤(ちば・かねたね、1392~1430)の弟である原胤高(はら・たねたか、生誕不詳~1536)を配し以降原氏の居城でした。
永正14年(1517)上総真里谷津城城主の武田氏は、古河公方足利高基(あしかが・たかもと、1485~1535)に対抗するため高基の弟で鶴岡八幡宮若宮別当の僧籍であった空然が還俗改名した義明を擁して原氏の小弓城に攻め入り翌年義明は奪取した小弓城入城し小弓公方と称したことにより安房里見氏と上総武田氏を後ろ盾とする新たな勢力が形成されます。
かくして上総と下総にまたがる小弓城周辺を廻り、小田原北条氏・古河公方・千葉氏・原氏の勢力は上記勢力と衝突し、天文7年(1538)下総・国府台(こうのだい)における戦いが繰り広げられ、足利義明は嫡男義純(よしずみ、生誕不詳~1538)共々討死し武田・里見両氏は南に敗退する結果となります。
境内に掲示された生実(北小弓)城跡に関する説明は次の通りです。
「 生実城(北小弓城)跡と生実藩陣屋跡
ここ生実の地は、千葉氏が安房の里見氏や上総の武田氏に対峙する重要な拠点であったため、古くから幾多の争奪戦が繰り広げられました。天正十八年(1590)原胤栄が、徳川家康家臣酒井家次との野田十門字野の戦いで戦死するまでの52年間存続しました。その後、一時幕府の直轄領となりましたが、寛永四年(1627)森川出羽守重俊が生実藩1万石の藩主となり、明治初頭まで生実城の一郭に陣屋を構えていました。
生実城跡の南側を通過する都市計画道路の整備に伴う発掘調査により、戦国時代から近世に至る多量の遺構・遺物が検出され、いままで文献のみでしか知ることができなかった生実城の素顔が明らかになってきました。これまでに、戦国時代から近世まで使われた堀跡、4体の人骨を埋葬した地下式砿(墓)・井戸跡・建物跡などの遺構と、「享禄四年」(1531)銘のある庚申侍板碑や多数の陶磁器などの遺物が検出されています。
平成5年3月 千葉氏教育委員会」
- 旅行の満足度
- 4.0
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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森川氏城址石標
小田原北条氏の滅亡に伴い、原氏が築城した生実城が落城し、以降江戸幕府直轄領を経て寛永4年(1627)に入部した森川重俊が旧原氏の生実城跡に陣屋を構えます。 -
生実城跡
現在は生實神社となっています。 -
生實神社石柱
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生實神社社標
当該神社の創建時期は不詳ですが、生実城主であった原胤栄(はら・たねひで、1551~1590)の崇敬篤くその鎮守社とされ、更に寛永4年(1627)森川氏が生実城跡に陣屋を構えた時からも深く信仰したと伝えられています。 -
境内説明板
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生実城と生実神社説明板(近景)
「 生 実 城 と 生 実 陣 屋
今から500年ほど昔の戦国時代後半、千葉市南部は房総の里見・武田氏と千葉氏・小田原の北条氏が覇権を争う舞台となりました。
生実の大地上に広がる生実城は、1538(天文8)年の築城から1590(天正18)年の廃城までの約50年間に幾多の攻防戦が展開されています。
江戸時代になると、城の一部が陣屋に改められ、1627(寛永4)年から幕末までの約240年間、幕府の要職についた森川家の城下町として、また房総往還を臨む交通の要衝として生実町は栄えました。
生実城の堀跡は、戦国時代後半から江戸時代にかけての貴重な資料や情報を秘めた第一級の遺構です。
1995(平成7)年に最も良好に堀跡の形が残る生実神社西側の土地360坪が、宇野澤澤氏から生実神社に寄贈されました。生実町民挙げて謝意を表し、蘇mの功績を永く讃え、生実城の詳細を広く知っていただくため、説明板を設置いたします。
1996(平成8)年10月吉日
生実神社(千葉市教育委員会・村田六郎指導)」 -
古城跡森川内膳正陣屋之絵図(近景)
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堀跡(近景)
戦国時代の生実城の堀跡はいわゆる「薬研堀(やげんぼり)」と称される深さ6mのV字形の断面をしていましたが、江戸時代になると広めのU字形に改められています。 -
生実神社説明板
「 生 実 神 社
千葉市中央区生実町1550番地
北小弓城内の一画にあるこの生実神社は、崇道天皇や藤原広嗣など朝廷により冤罪をかけられた人々の霊を祭神としており、もとは御霊神社と呼ばれていました。創建は詳かではありませんが、天文年間に小弓城主であった原氏が祀ったものと考えられています。後年、城内に陣屋を構えた森川氏は当社を崇敬し、4代俊種の宝永4年(1707)に武運長久の祈願を行い、同7年に社殿を造影しました。
明治4年には北生実305戸の鎮守となり、更に同43年村内の諸社を境内に移して合祀し、生実神社と社名を改めました。祭礼は10月10日ですが、宵宮(前日の夜)に湯立神事が行われています。
平成11年3月
千葉市教育委員会 」 -
生実神社・拝殿
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生実神社・境内
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生実神社本殿
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土塁
生実神社と陣屋跡の間に施された土塁が南北に走っています。 -
土塁
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土塁
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土塁
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空堀
土塁の向こう側にはU字形の空堀が施されています。(初期にはV形の空堀だったそうです) -
空堀
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空堀
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生実神社本殿(左側)
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本殿と土塁
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生実町ホームページ掲載資料
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社務所
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小弓城(北小弓城)跡と生実藩陣屋跡説明板
「 生実城(北小弓城)と生実藩陣屋後
所在地 中央区生実町1551 他
ここ生実の地は、千葉氏が安房の里見氏や上総の武田氏に対峙する重要な拠点であったため、古くから幾多の争奪戦が繰り広げられました。生実城(北小弓城)は、天文8年(1539)千葉氏の重臣・原胤清が、ここ生実神社一帯に築城したとされています。天正18年(1590)原胤栄が、徳川家家臣・酒井家次との ”野田十門字野の戦い”で戦死するまでの52年間存続しました。その後、一時幕府の直轄領となりましたが、寛永4年(1627)森川出羽守重俊が生実藩1万石の藩主となり、明治初期まで生実城の一部に陣屋を構えていました。
生実城跡の南側を通過する都市計画道路の整備に伴う発掘調査により、戦国時代から近世に至る多量の遺構・遺物が検出され、いままで文献のみでしか知ることができなかった生実城の素顔が明らかになってきました。これまでに、戦国時代から近世まで使われた堀跡、4体の人骨を埋葬した地下式コウ(墓)・井戸跡なの遺構・遺物と、「享禄4年」(1531年)銘のある庚申待板碑や多数の陶磁器などの遺物が検出されています。
平成5年3月
千葉市教育委員会 」 -
北小弓城大手口跡石標
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北小弓城大手口跡石標(近景)
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北小弓城大手口跡
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