2016/01/09 - 2016/01/09
839位(同エリア1367件中)
滝山氏照さん
生実(北小弓)城は主家千葉氏の重臣である原胤清(はら・たねきよ、生誕不詳~1556)が天文7年(1538)足利義明(あしかが・よしあき、生誕不詳~1538)から小弓城を奪還した翌年に、北方1Kmほどの台地に新たに築城して移転したため小弓城は廃城となった経緯があります。
千葉氏が猪鼻城(千葉城)を築城し現在の千葉市に拠点を置いた頃、上総方面の抑えとして小弓城を築き応永年間から当主千葉兼胤(ちば・かねたね、1392~1430)の弟である原胤高(はら・たねたか、生誕不詳~1536)を配し以降原氏の居城でした。
永正14年(1517)上総真里谷津城城主の武田氏は、古河公方足利高基(あしかが・たかもと、1485~1535)に対抗するため高基の弟で鶴岡八幡宮若宮別当の僧籍であった空然が還俗改名した義明を擁して原氏の小弓城に攻め入り翌年義明は奪取した小弓城入城し小弓公方と称したことにより安房里見氏と上総武田氏を後ろ盾とする新たな勢力が形成されます。
かくして上総と下総にまたがる小弓城周辺を廻り、小田原北条氏・古河公方・千葉氏・原氏の勢力は上記勢力と衝突し、天文7年(1538)下総・国府台(こうのだい)における戦いが繰り広げられ、足利義明は嫡男義純(よしずみ、生誕不詳~1538)共々討死し武田・里見両氏は南に敗退する結果となります。
境内に掲示された生実(北小弓)城跡に関する説明は次の通りです。
「 生実城(北小弓城)跡と生実藩陣屋跡
ここ生実の地は、千葉氏が安房の里見氏や上総の武田氏に対峙する重要な拠点であったため、古くから幾多の争奪戦が繰り広げられました。天正十八年(1590)原胤栄が、徳川家康家臣酒井家次との野田十門字野の戦いで戦死するまでの52年間存続しました。その後、一時幕府の直轄領となりましたが、寛永四年(1627)森川出羽守重俊が生実藩一万石の藩主となり、明治初頭まで生実城の一郭に陣屋を構えていました。
生実城跡の南側を通過する都市計画道路の整備に伴う発掘調査により、戦国時代から近世に至る多量の遺構・遺物が検出され、いままで文献のみでしか知ることができなかった生実城の素顔が明らかになってきました。これまでに、戦国時代から近世まで使われた堀跡、4体の人骨を埋葬した地下式砿(墓)・井戸跡・建物跡などの遺構と、「享禄四年」(1531)銘のある庚申侍板碑や多数の陶磁器などの遺物が検出されています。
平成5年3月 千葉氏教育委員会」
- 旅行の満足度
- 4.0
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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森川氏城址石標
小田原北条氏の滅亡に伴い、原氏築城した生実城が落城した後江戸幕府直轄領を経て寛永4年(1627)が入部し旧原氏の生実城跡に森川氏が陣屋を構えています。 -
生実城跡
現在は生實神社となっています。 -
生實神社石柱
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生實神社社標
当該神社の創建時期は不詳ですが、生実城主であった原胤栄(はら・たねひで、1551~1590)の崇敬篤くその鎮守社とされ、更に寛永4年(1627)森川氏が生実城跡に陣屋を構えた時からも深く信仰したと伝えられています。 -
境内説明板
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生実城と生実神社説明板(近景)
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古城跡森川内膳正陣屋之絵図(近景)
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堀跡(近景)
戦国時代の生実城の堀跡はいわゆる「薬研堀(やげんぼり)」と称される深さ6mのV字形の断面をしていましたが、江戸時代になると広めのU字形に改められています。 -
生実神社説明板
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生実神社・拝殿
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生実神社・境内
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生実神社本殿
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土塁
生実神社と陣屋跡の間に施された土塁が南北に走っています。 -
土塁
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土塁
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土塁
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空堀
土塁の向こう側にはU字形の空堀が施されています。 -
空堀
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空堀
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生実神社本殿(左側)
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本殿と土塁
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生実町ホームページ掲載資料
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社務所
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小弓城(北小弓城)跡と生実藩陣屋跡説明板
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北小弓城大手口跡石標
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北小弓城大手口跡石標(近景)
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北小弓城大手口跡
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