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小弓城(おゆみじょう、千葉県千葉市中央区南生実町)は戦国時代下総国守護千葉氏が本城である猪鼻城(千葉城)への攻略を阻止すべく上総武田氏・安房里見氏の北攻を防御するため上総国境目の高台に築城した平城です。<br /><br />築城時期は定かではありませんが大治年間と推定され、応永年間(1394~1428)宗家千葉兼胤(ちば・かねたね、1392~1430))弟原胤高(はら・たねたか)が居城、以降歴代原氏の持城でした。<br /><br />一方下総進出を図る上総国武田信保(たけだ・のぶやす・法名:怒鑑)は千葉氏所領の南端に位置する小弓城の原氏と対峙するも念願成就できず、打開策として奥州会津に居た古河公方高基の実弟である足利義明(あしかが・よしあき、?~1538))を迎い入れます。<br />              <br />永正14年(1517)足利義明を総大将とする武田氏・里見氏の連合軍は小弓城を奪い、義明を小弓城に入城させます。<br /><br />小弓城に入った義明は古河公方足利高基に対抗するため小弓公方足利家を興し兄高基と古河公方の地位を巡って戦いと称し上総武田氏らの豪族支援を背景に大勢力に急伸していきます。<br /><br />天文3年(1534)足利義明は上総武田氏内訌に介入し小田原北条氏方の信隆に勝利し鎌倉に追放、その勢いを以て小田原北条氏が支える第4代古河公方足利晴氏(あしかが・はるうじ、1508~1560)本拠とする関宿城攻めを決断、天文7年(1538)10月途中の下総国府台で小田原北条軍と戦い、義明は合戦で敗死、弟の基頼並びに嫡男義純(よしずみ)も討死するという大敗北に終りここに小弓公方と称する足利義明一族は没落に帰し、上総・安房の勢力は南方へ駆逐されます。<br /><br />戦後原氏当主原胤清(はら・たねきよ、生誕不詳~1556)はかつての居城である小弓城を奪還しますが北方1.5Kmの台地に新たに生実(おゆみ)城を築城して移転したので小弓城は廃城となります。<br /><br /><br />広照寺から北に飛地の墓地に設置の「小弓城跡」と題された看板には次の文言が記載されています。<br /><br /><br />「小弓城跡<br /><br />千葉城築城の頃に小弓城も千葉城の南部の守りの要衛として築かれ、重臣の原氏に守らせました。永正6年(1509)連歌師柴屋軒宗長は城主原胤高に招かれ、小弓館で猿楽や連歌に興じたことをその旅日記「東路の津登」に記しています。永正15年10月15日、真里谷城(木更津市)の武田怒鑑は古河公方高基の弟足利義明を奉じて胤高の守る小弓城を落とした。ここを本拠とした義明は「小弓御所」とも「小弓公方」とも呼ばれるようになり、里見氏の支援を受け、後北条方の千葉・原氏と争った。天文7年(1538)国府台の戦いに義明は敗死し、再び原氏が入城したが、城を北西1.5Kmのところに新たに築き(北小弓城)、本拠地としました。<br /><br />城は南・西側は水田で、北は支谷に、東は大百池にそれぞれ画された標高20~25mの台地一帯で、城跡の内外に古城・東堀・城出下など城郭に関係した地名が残され、ここが城跡であったことを示しています。現在まで、城の西北端(千葉市埋蔵文化財調査センター裏)と、南西端の墓地脇に土塁状のものが認められます。<br /><br />     昭和10年3月 <br />                  千葉市教育委員会 」

下総南生実 第3代古河公方足利高基に対抗するため上総武田氏が僧籍の実弟を還俗させ足利義明(小弓公方)とした『小弓城』訪問

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2016/01/09 - 2016/01/09

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滝山氏照

滝山氏照さん

小弓城(おゆみじょう、千葉県千葉市中央区南生実町)は戦国時代下総国守護千葉氏が本城である猪鼻城(千葉城)への攻略を阻止すべく上総武田氏・安房里見氏の北攻を防御するため上総国境目の高台に築城した平城です。

築城時期は定かではありませんが大治年間と推定され、応永年間(1394~1428)宗家千葉兼胤(ちば・かねたね、1392~1430))弟原胤高(はら・たねたか)が居城、以降歴代原氏の持城でした。

一方下総進出を図る上総国武田信保(たけだ・のぶやす・法名:怒鑑)は千葉氏所領の南端に位置する小弓城の原氏と対峙するも念願成就できず、打開策として奥州会津に居た古河公方高基の実弟である足利義明(あしかが・よしあき、?~1538))を迎い入れます。
              
永正14年(1517)足利義明を総大将とする武田氏・里見氏の連合軍は小弓城を奪い、義明を小弓城に入城させます。

小弓城に入った義明は古河公方足利高基に対抗するため小弓公方足利家を興し兄高基と古河公方の地位を巡って戦いと称し上総武田氏らの豪族支援を背景に大勢力に急伸していきます。

天文3年(1534)足利義明は上総武田氏内訌に介入し小田原北条氏方の信隆に勝利し鎌倉に追放、その勢いを以て小田原北条氏が支える第4代古河公方足利晴氏(あしかが・はるうじ、1508~1560)本拠とする関宿城攻めを決断、天文7年(1538)10月途中の下総国府台で小田原北条軍と戦い、義明は合戦で敗死、弟の基頼並びに嫡男義純(よしずみ)も討死するという大敗北に終りここに小弓公方と称する足利義明一族は没落に帰し、上総・安房の勢力は南方へ駆逐されます。

戦後原氏当主原胤清(はら・たねきよ、生誕不詳~1556)はかつての居城である小弓城を奪還しますが北方1.5Kmの台地に新たに生実(おゆみ)城を築城して移転したので小弓城は廃城となります。


広照寺から北に飛地の墓地に設置の「小弓城跡」と題された看板には次の文言が記載されています。


「小弓城跡

千葉城築城の頃に小弓城も千葉城の南部の守りの要衛として築かれ、重臣の原氏に守らせました。永正6年(1509)連歌師柴屋軒宗長は城主原胤高に招かれ、小弓館で猿楽や連歌に興じたことをその旅日記「東路の津登」に記しています。永正15年10月15日、真里谷城(木更津市)の武田怒鑑は古河公方高基の弟足利義明を奉じて胤高の守る小弓城を落とした。ここを本拠とした義明は「小弓御所」とも「小弓公方」とも呼ばれるようになり、里見氏の支援を受け、後北条方の千葉・原氏と争った。天文7年(1538)国府台の戦いに義明は敗死し、再び原氏が入城したが、城を北西1.5Kmのところに新たに築き(北小弓城)、本拠地としました。

城は南・西側は水田で、北は支谷に、東は大百池にそれぞれ画された標高20~25mの台地一帯で、城跡の内外に古城・東堀・城出下など城郭に関係した地名が残され、ここが城跡であったことを示しています。現在まで、城の西北端(千葉市埋蔵文化財調査センター裏)と、南西端の墓地脇に土塁状のものが認められます。

     昭和10年3月 
                  千葉市教育委員会 」

旅行の満足度
4.0
交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 京成電鉄千原線学園前駅周辺地図<br /><br />JR千葉駅乗換京成電鉄千原線にて学園前下車して八劔神社と広照寺を訪問、まずは八劔神社を目指します。

    京成電鉄千原線学園前駅周辺地図

    JR千葉駅乗換京成電鉄千原線にて学園前下車して八劔神社と広照寺を訪問、まずは八劔神社を目指します。

  • 八劔神社参道

    八劔神社参道

  • 八劔神社鳥居

    八劔神社鳥居

  • 八劔神社説明<br /><br />書かれた内容はすっかり色あせて判読不可能です。

    八劔神社説明

    書かれた内容はすっかり色あせて判読不可能です。

  • 八劔神社参道<br /><br />鳥居を過ぎると長い参道が続きます。正月明けで初詣の幟が立っています。

    八劔神社参道

    鳥居を過ぎると長い参道が続きます。正月明けで初詣の幟が立っています。

  • 八劔神社拝殿<br /><br />石段を上りきると正面に拝殿が控えています。

    八劔神社拝殿

    石段を上りきると正面に拝殿が控えています。

  • 神楽殿

    神楽殿

  • 手水舎

    手水舎

  • 拝殿正面

    拝殿正面

  • 境内風景

    境内風景

  • 八劔神社本殿

    八劔神社本殿

  • 本殿周辺

    本殿周辺

  • 八劔神社本殿後方<br /><br />神社本殿を土塁が取り囲んでいる状況が見えます。

    八劔神社本殿後方

    神社本殿を土塁が取り囲んでいる状況が見えます。

  • 石碑

    石碑

  • 八劔神社・本殿

    八劔神社・本殿

  • 八劔神社本殿後方<br /><br />本殿後方は台地に広がる畑に繋がります。

    八劔神社本殿後方

    本殿後方は台地に広がる畑に繋がります。

  • 境内風景

    境内風景

  • 広照寺入口<br /><br />八劔神社を離れ幹線道路際に在る広照寺を散策します。

    広照寺入口

    八劔神社を離れ幹線道路際に在る広照寺を散策します。

  • 広照寺・石門

    広照寺・石門

  • 広照寺諸堂落成記念碑

    広照寺諸堂落成記念碑

  • 広照寺・本堂

    広照寺・本堂

  • 広照寺・境内<br /><br />区画された境内には墓地は見当たりません。(後に住職の説明で判ったのですが北方の高台に墓地がありかつてはそこに本堂があった由です)

    広照寺・境内

    区画された境内には墓地は見当たりません。(後に住職の説明で判ったのですが北方の高台に墓地がありかつてはそこに本堂があった由です)

  • 広照寺・本堂<br /><br />境内には寺院を紹介する看板などありません。本堂に隣接する住職宅のチャイムを押しますと高齢の住職が対応してくれます。

    広照寺・本堂

    境内には寺院を紹介する看板などありません。本堂に隣接する住職宅のチャイムを押しますと高齢の住職が対応してくれます。

  • 小弓城跡に関する住職説明<br /><br />訪問目的を話すと住職の説明では寺の墓地に小弓城を説明する看板が在るとの事。地図で説明受けると広照寺の北方向の高台に墓地があるとのことです。<br /><br />

    小弓城跡に関する住職説明

    訪問目的を話すと住職の説明では寺の墓地に小弓城を説明する看板が在るとの事。地図で説明受けると広照寺の北方向の高台に墓地があるとのことです。

  • 上総方面風景<br /><br />広照寺から南方の上総を一望します。かつての城郭は東西に走っている幹線道路敷設により遺跡は消えています。

    上総方面風景

    広照寺から南方の上総を一望します。かつての城郭は東西に走っている幹線道路敷設により遺跡は消えています。

  • 堀跡?<br /><br />幹線道路の中央部は大きな長い溝が東西を貫いています。

    堀跡?

    幹線道路の中央部は大きな長い溝が東西を貫いています。

  • 広照寺<br /><br />幹線道路から広照寺を捉えます。

    広照寺

    幹線道路から広照寺を捉えます。

  • 小弓城跡方向

    小弓城跡方向

  • 切通<br /><br />住職の説明に従って飛地の墓地に向かいます。八劔神社の左側には切通がありこの間を北進します。

    切通

    住職の説明に従って飛地の墓地に向かいます。八劔神社の左側には切通がありこの間を北進します。

  • 八劔神社<br /><br />切通の左側から八劔神社方向を捉えます。

    八劔神社

    切通の左側から八劔神社方向を捉えます。

  • 切通<br /><br />左側に八劔神社を見ながら切通の南側を一望します。

    切通

    左側に八劔神社を見ながら切通の南側を一望します。

  • 主郭跡<br /><br />切り開かれた台地は民家の畑と化し、その中央部に広照寺の墓地となっており、往時の城主であった原氏が堂宇をここに建て広照寺としたそうです。

    イチオシ

    主郭跡

    切り開かれた台地は民家の畑と化し、その中央部に広照寺の墓地となっており、往時の城主であった原氏が堂宇をここに建て広照寺としたそうです。

  • 広照寺墓地

    広照寺墓地

  • 小弓城跡石碑

    イチオシ

    小弓城跡石碑

  • 小弓城跡説明板<br /><br />石碑の傍らには「小弓城跡」と題した説明文があります。

    小弓城跡説明板

    石碑の傍らには「小弓城跡」と題した説明文があります。

  • 小弓城跡図

    小弓城跡図

  • 小弓城跡石碑

    小弓城跡石碑

  • 墓地周辺風景

    墓地周辺風景

  • 主郭跡下道路

    主郭跡下道路

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