2016/01/09 - 2016/01/09
1072位(同エリア1388件中)
滝山氏照さん
重俊院(ちょうしゅんいん、千葉県千葉市中央区生実町)は下総生実(おゆみ)藩の初代藩主で後に老中に昇進した森川重俊(もりかわ・しげとし、1584~1632)を弔うため二代藩主重政開基の菩提寺です。
森川氏は慶長2年(1597)、秀忠の近習となり、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では秀忠軍に従って信濃上田城にて真田昌幸と戦い、更に慶長14年(1609)には下野国に3千石の知行を与えられます。
然しながら慶長19年(1614)、譜代中の譜代の実力者小田原藩主大久保忠隣(おおくぼ・ただちか)の突然の改易に伴い、忠隣の養女を正室とした経緯から連座し上野国高崎藩酒井家次(さかい・いえつぐ)に身柄を預けられます。
慶長20年(1615)、大坂夏の陣では重俊は酒井氏に属して参陣し軍功挙げたため秀忠の近習に復帰、寛永4年(1627)1万石を以て下総生実藩を立藩初代藩主となり、更に寛永8年(1631)には老中に昇進するも翌年1月24日に秀忠逝去すると翌日秀忠を追って49歳で殉死します。
重俊死後は長男重政(しげまさ、1608~1663)が家督を継ぎ、寛永11年(1634)三代将軍家光の上洛に随行、寛永18年(1641)と正保4年(1647)に大坂加番(おおさかかばん・大坂城警備の役職)に任じられるなど幕府要職を勤めるなか、幕府に願い出て亡父重俊の霊を弔うため重俊院を建立します。
重俊院石門脇に配された重俊院に関する説明は下記の通りです。
「森川山重俊院
漕洞宗に属し、釈迦如来を本尊とする。小弓藩主森川氏の菩提寺です。初代森川重俊は、徳川秀忠の近侍でしたが、軍功によって寛永4年(1627)1万石の大名として小弓に封ぜられ、北小弓城址に陣屋を構えました。重俊は老中職に昇進しましたが、寛永9年正月、秀忠の逝去により報恩のため殉死しました。重俊院はその埋葬の地です。
仏殿には優雅な聠が数多く掲げられていましたが、昭和49年不慮の災にあって堂宇とともに失いました。仏殿の奥の裏山に並び立つ森川氏一族の雄大な墓碑は、千葉子重要文化財に指定されています。
昭和57年3月 千葉氏教育委員会
協力:生浜郷土史研究会」
- 旅行の満足度
- 4.0
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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重俊院・参道
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重俊院・寺門
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禅苑森川閣石柱
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森川山重俊院説明板
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重俊院・山門
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重俊院・山門扁額
山門上部には「森川山」の山号が掲載されています。 -
重俊院・本堂(全景)
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重俊院本堂(近景)
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重俊院・本堂扁額
本堂上部には「重俊禪院」と揮毫された扁額があります。 -
宗旨紹介
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重俊院・境内
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重俊院・境内
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森川氏廟・入口
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「森川氏累代之墓」石標
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森川家累代の墓碑説明板
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累代墓碑(写真)
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森川氏累代廟門
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森川氏歴代廟
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「森川重俊公並累代廟」石標
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歴代の墓
森川氏歴代当主13代の墓碑が並んでおり初代の碑に倣い舟形をしています。 -
初代森川重俊墓石
初代重俊の墓石は正室並びに二代の同様に高さ2.8m、幅1.0m、厚さ0.3mの大型となっています。 -
二代森川重政墓石
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初代重俊正室墓石
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森川重名墓石
初代重俊の二男にあたり、三代家光並びに四代家綱の近習として6千石の旗本として輩出しています。 -
イチオシ
森川氏廟風景
当廟には一族合わせて46基の墓碑が配されているそうです。 -
森川氏廟風景
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森川氏廟風景
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森川氏歴代廟風景
墓石群から廟の入口方向を捉えます。
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