2016/01/09 - 2016/01/09
391位(同エリア956件中)
滝山氏照さん
信楽山・無量寺(むりょうじ、千葉県市原市八幡)に戦国時代の武将で千葉宗家を武力で奪取し一時的に千葉家当主となった庶流の馬加康胤(まくわり・やすたね、?~1456))及び息子の胤持(たねもち)親子の供養塔があります。
足利尊氏は室町に幕府を創設に際し、一族の出身地である関東を重視し関東八ケ国に甲斐と伊豆を加えて十か国を統治するため鎌倉府と称する機関を設置、二男基氏(もとうじ)を鎌倉に下向させます。
鎌倉に配された基氏を初代として基氏の子孫が鎌倉府の首長(鎌倉公方)となり、尊氏死後基氏から指名された上杉憲顕(うえすぎ・のりあき)とその家系が代々補佐役(関東管領)を務めます。
その後一時鎌倉公方が断絶しますが、宝徳元年(1449)、四代持氏(もちうじ)の遺児であった成氏(しげうじ)が五代公方に就任、父持氏を死に追いやった上杉憲実の長男上杉憲忠(のりただ)が関東管領として成氏を補佐することになります。
享徳3年(1455)成氏は憲忠を御所に呼び寄せ謀殺し、憲忠の後を継いだ弟の房顕(ふさあき)は上野国に退避し成氏に対抗します。
これにより、主に下野・常陸・下総・上総・安房を勢力とする古河公方(幕府命により駿河守護今川範忠が留守中の鎌倉を占拠したため下総国古河を本拠を移しし以降古河公方と呼称)と上野・武蔵・相模・伊豆を勢力範囲とする幕府の支持を得た関東管領上杉氏とが関東を二分して約30年ほど戦うことになります。(享徳の乱)
当然ながら下総守護である千葉宗家当主千葉胤直(ちば・たねなお、1419~1455)は幕府の意向に従い上杉方となって古河公方と戦います。
この頃千葉氏内部では家老である原胤房(はら・たねふさ、生誕不詳~1471)と円城寺尚任(えんじょうじ・ひさのり)が対立、胤房は公方に通じ、尚任は上杉氏に味方して千葉氏家中は二分される事態となり、結果当主胤直は円城寺氏と結び上杉方に属する事になります。
この時一族の馬加康胤(まくわり・やすたね、1374(又は1398)~1456)は息子孝胤(たかたね)は古河公方側に加わり原胤房と共に宗家当主胤直・宣胤(のぶたね、生誕不詳~1455)父子居城の猪鼻城(千葉城)を攻め胤直父子を追放、更に後退した多古城に籠る胤直父子を攻め自害に追い込み、これによって千葉氏嫡流が滅亡に至ります。
室町将軍義政はこの乱を鎮圧するため千葉氏一族で篠脇城主東常緑(とうの・つねより、1401~1484)を急遽関東に派遣、下総に着陣した常緑は幕府に従う千葉一族を束ねて原胤房が本拠とする千田庄を攻め、胤房は東氏の攻撃を防ぐことできず康胤の居城である馬加城を経て千葉へ敗走、その後の足取りは不明ながら文明3年(1471)に小弓館にて討死にしたと推察されます。
他方康胤については千葉氏嫡流没落後古河公方足利成氏より千葉氏の家督継承を認められ馬加城に居住の康胤は康生2年(1456)、東常緑が指揮する幕府討伐軍に追い込まれ上総国八幡の村田川の戦いで常緑に討たれたと伝えられています。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 交通手段
- JRローカル
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