2017/06/18 - 2017/06/18
654位(同エリア1367件中)
山帽子さん
平成29年6月18日、稲毛浅間神社、旧武見家住宅(愛新覚羅溥傑が新婚時代を過ごした家)、そして大正時代の鉄筋コンクリート造りの旧神谷伝兵衛稲毛別荘を訪ねた。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
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京成稲毛駅から徒歩約5分、稲毛浅間神社に到着。緑に包まれた参道を本殿に向かう。
稲毛浅間神社は大同3(808)年に富士山本宮浅間大社の御分霊を奉祭したと伝えられる。のちに源頼朝や千葉氏の信仰を得て現在に至る。 -
参道を本殿に向かう。
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参道の先を右に折れて本殿へ。
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石段を登って本殿へ。
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稲毛浅間神社本殿。昭和39(1964)年に焼失し、昭和41(1966)年に再建された。
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本殿。
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本殿に向かって左手に建つ神楽殿。
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本殿正面の参道。二の鳥居の前から見る。
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二の鳥居。この鳥居から参道が本殿に続く。一の鳥居は国道14号を隔てて、向こう側にひっそりと立つ。かつてはその先に、美しい海が広がっていた。明治21(1888)年に県内初の海水浴場が設けられ、明治32(1899)年に錦糸町・佐倉間の総武鉄道に稲毛駅が開設され、大正10(1921)年に船橋・千葉間に京成電鉄が開通し、海水浴や潮干狩りに訪れる客が増え、稲毛海岸付近には、多くの旅館や別荘などが建てられた。当時の稲毛は関東を代表する風光明媚な避暑地であった。現在は海が埋め立てられ住宅地となっている。
この二の鳥居の左手の小道を少し歩くと、愛新覚羅溥傑が新婚時代に半年ほど暮らした旧武見家住宅が・・・。 -
左手の崖の上の家が「千葉ゆかりの家いなげ」。稲毛には明治中期以降、多くの文人墨客が訪れ、海岸線の松林を中心に別荘・別邸が建てられた。その中の一つである旧武見家住宅を千葉市が取得して、平成9(1997)年4月から「千葉ゆかりの家いなげ」として一般公開した。
この旧武見家住宅には、中国清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀の弟愛新覚羅溥傑が新婚時代の昭和12(1937)年に半年ほど暮らしていた。 -
旧武見家住宅の玄関から・・・。
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主屋の床の間。
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主屋。
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主屋の欄間と格天井。
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主屋から見る庭。
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主屋の洋間。
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庭から見る主屋。
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庭から見る主屋
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庭から見る主屋。
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離れ。
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離れの床の間。
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庭から見る離れ。
旧武見家住宅の見学後、国道14号沿いに歩いて、千葉市市民ギャラリーに向かう。 -
千葉市民ギャラリー。右の石段を登ると庭園の奥に、千葉市民ギャラリーと旧神谷伝兵衛稲毛別荘が並んで建つ。。
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庭園の奥に千葉市民ギャラリーが・・・。
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千葉市民ギャラリー。
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千葉市民ギャラリーに隣接する旧神谷伝兵衛稲毛別荘。
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旧神谷伝兵衛稲毛別荘。
神谷伝兵衛は日本の「ワイン王」といわれた実業家。安政3(1856)年に三河に生まれ、17歳で横浜の外国人居留地でワインの製造法を学び、その後、輸入葡萄酒との合成酒「蜂印の葡萄酒」や速成ブランデー「電気ブラン」をつくり販売した。さらに茨城県牛久でブドウを栽培し、明治36年にワイン醸造所牛久シャトーを建設した。 -
旧神谷伝兵衛稲毛別荘は大正7(18)年に竣工した。鉄筋コンクリート造りの建築物としては千葉市内で最も古いもの。1階は洋間、2階は和室。
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1階ベランダ。
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1階洋間。
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玄関ホール。子の階段を植えに行くと、本格的な書院造の和室。
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2階和室。床柱は葡萄の古木を使用。
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2階和室。
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床の間脇の付け書院の障子の下部に描かれた漆絵。
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床の間脇の付け書院の障子の下部に描かれた漆絵。
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2階和室。
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2階和室の欄間と格天井。
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2階広縁から床の間を見る。
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付け書院広縁側の上部の葡萄の彫刻。
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付け書院の障子広縁側の下部の漆絵。
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付け書院の障子広縁側の下部の漆絵。
今回訪れた旧武見家住宅と旧神谷伝兵衛稲毛別荘は、幸いにも他に見学者はおらず、一人でゆっくりと大正・昭和期の雰囲気を味わうことができ、おおいに満足している。
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