2008/11/28 - 2008/11/28
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ドクターキムルさん
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江戸城には内桜田門と外桜田門があり、皇居となった今でもどちらも高麗門と渡櫓門とが残っている。門の名の由来は、古くこの辺りを桜田郷と呼んでいたことによる。
Webで申し込む皇居参観での入退城門は吉梗門である。地図には「吉梗門」と記載されているが、Webで「江戸城吉梗門」と検索してもヒットしない。この「吉梗門」が江戸城内桜田門である。普段は公開されてはいないので看板や標石などもない。ただ、宮内庁車輌などの速度制限の標識が立っているだけである。
古くからの町名が変更・区画区分整理されて「○△何丁目」に変わるのはやむおえないところもあろうか。しかし、何100年前に築かれた城門の名称が変更されるのはどういう理由からであろうか?
「吉梗門」と案内される内桜田門は、東御苑の入退場門で戦後に再建された大手門と、昨年から春と秋に行なわれる乾門通り一般公開の入場門である坂下門との中間に位置している。また、現在では大手門と「吉梗門」との間のお堀は「吉梗濠」と呼ばれており、吉梗濠の角の櫓は「桜田巽二重櫓」という名称である。現在のようにお堀が埋め立てられる以前は外桜田門と内桜田門との間のお堀は「桜田濠」とでも呼ばれていたのであろうか?
知られているのは門の外に警視庁などがある外桜田門の方であり、通称は「桜田門」と呼ばれている。幕末に大老職に任じられた彦根藩主井伊直弼が水戸浪士に襲われ、暗殺された「桜田門外の変」(安政7年3月3日(1860年3月24日))とはここ外桜田門外で起こった事件である。井伊家は譜代大名の筆頭であり、井伊家上屋敷は現在の永田町国会前庭一帯にあった井伊掃部頭邸である。「外桜田門外の変」と呼ばないのも不思議ではある。また、「桜田門外の変」から半月後に改元され、万延元年(3月18日から)となっている。すなわち、「平成元年1月1日(元旦)」が存在しないように、歴史上「万延元年3月3日(桃の節句)」も存在しない。したがって、設置されている看板には「桜田門外の変」が「万延元年(1860年)」と記載されている(Webにも多い)が、安政7年(1860年)の間違いである。
(表紙写真は江戸城内桜田門)
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