2015/08/21 - 2015/08/23
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nakaohidekiさん
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「ね、なぜ旅をするの?」
「苦しいからさ」
「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちっとも信用できません」
「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、齋藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚節三十七、芥川龍之介三十六、嘉村磯多三十七」
「それは、何の事なの?」
「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでいる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとって、これくらいの年齢の時が、いちばん大事で」
「そうして、苦しい時なの?」
「何を言ってやがる。ふざけちゃあいけない。お前にだって、少しは、わかっている筈だがね。もう、これ以上は言わん。言うと、気障(きざ)になる。おい、おれは旅に出るよ」
そういって、太宰治は津軽の旅に出たのである。
これは太宰治の旅行記『津軽』の一節であるが、太宰ほどの苦しみもなにもない僕なのであるが、この夏、太宰治を訪ねる旅に僕は出たのである。太宰の名作『津軽』を携えてである。主たる目的は太宰の生家「斜陽館」へ行くこと。館の名称は太宰治の長編小説『斜陽』に因っている。太宰文学の原点を知りたいと思ったからである。
八月末、青森行の伊丹発14時30分のANA2154便に乗ると、それはプロペラ機であった。
青森に行くのはプロペラかよ、と、ちょっと情けない気持ちになったのであるが、青森はそれほどの田舎なのかと、しかし、帰りのJALはジェット機だったのでこれはこれで航空会社の都合なのかと納得したのである。
青森空港には1時間15分ほどのフライトで着いた。さっそくレンタカー会社に向かう。空港ビルの外にレンタカー会社はあった。大型車は値段が高いので小型普通車を簡単な手続きで借りると、今日の一泊目の宿泊地、大鰐温泉に向かった。二日目の予定は奥入瀬渓流と十和田湖を観光した後、午後から目的の太宰の生家「斜陽館」に向かうことである。二日目の宿泊地は弘前のホテルにしていた。レンタカー会社のおじさんに、この予定の行程ルートを尋ねると、十和田湖経由、「斜陽館」はかなりキツイという。十和田湖・奥入瀬渓流は青森県の南部に位置し、「斜陽館」は津軽北部に位置しているという。しかし、めったに来ない青森県であるから欲張りな行程は止むを得ないと自分に言い聞かせ、とにかく道順だけを聞いて一泊目の大鰐温泉に向かった。太宰治の『津軽』にも大鰐温泉は次のような記述がある。
−津軽に於いては、浅虫温泉は最も有名で、つぎは大鰐温泉という事になるかも知れない。大鰐は、津軽の南端に近く、秋田との県境に近いところに在って、温泉よりも、スキイ場のために日本中に知れ渡っているようである。山麓の温泉である。ここには津軽藩の歴史のにおいが幽かに残っていた。−
太宰が書いているように、大鰐温泉に近づくにつれて津軽平野から山間部へ入って行った。周辺の山の斜面には緑のスロープが多く見えるようになる。やはりここは太宰が生きていた時代と変わらずスキーのメッカのようだ。しかし大鰐温泉の温泉街は太宰の時代と違って津軽藩の幽な雰囲気はどこにも漂っていなかった。目抜き通りにはシャッターが閉められた店がいくつも点在しており、ここにも過疎化の波は迫って来ているようだ。
宿泊は「不二やホテル」に予約済みである。大鰐温泉でも有名な温泉宿であるが、東京からの宿泊客も多く、宿のもてなしや夕食も満足のいくものであった。大浴場にも露天風呂があり湯量も豊富でいい温泉宿だと思った。一日目の旅の疲れをこの宿で充分癒やすことができて満足であった。
翌日の予定は、午前中に山越えをして十和田湖・奥入瀬渓流へ入り、午後から津軽北部の金木町「斜陽館」へ向かうのである。
出発前にフロントで行程について再び尋ねると、やはりかなり厳しい行程だという。しかし、今回は予定通り行くしかないのである。フロントで十和田湖・奥入瀬渓流に向かうルートを聞いて出発した。
大鰐温泉を出てから国道454号に入り、さらに国道102号で山越えをすると十和田湖まで1時間30分ぐらいで着くとフロントのお姉さんは言っていたのであるが、ところが、途中で道を間違ってしまい3時間ぐらい掛かって「奥入瀬渓流館」に着いてしまった。道を間違ったとはいえ、しかし、このあたりの風景には心洗われるような素晴らしいものがあった。国立公園とはこういうものであろうと改めて実感した次第。木々のあいだで流れる清流や、飛び交う小鳥の声に自然の美しさを満喫できたのである。「奥入瀬渓流館」での休憩を終えると十和田湖の方に車を向けた。
30分ほどで着いた十和田湖もまた素晴らしいものだった。ここも自然に溢れもとより観光地化していないのがいいと思った。自然の美しさをそのまま残し、さらに人が訪れるにふさわしい観光地にしているところが素晴らしい。それが矜持に違いないと思った。十和田湖と奥入瀬渓流にはリゾートホテルとおぼしきホテルが幾つか建っている。こういうところに一泊して、ゆっくりこのあたりを散策するべきだったのではないかと、十和田湖・奥入瀬渓流の自然を見て、今回の旅の計画の反省をするのであった。しかし、今回はこの地でゆっくりしていられないので、駆け足で十和田湖を見て回ると、午後からは津軽北部の「斜陽館」へ車を走らせたのである。
慣れない土地で車の運転の心配をしていたのであるが、交通量は極めて少なく、対向車も追い越す車もほとんどいない。十和田湖から金木町へは国道454号、国道102号を通り東北自動車道から津軽自動車道へとスムーズにつながっていて比較的楽に運転できる。
しかし、「斜陽館」に着くと、またまた、驚嘆してしまったのである。この館は噂には豪邸だと聞いていたがこれほど凄いとは思わなかった。それも、たんなる成金趣味ではなく、豪奢な佇まいの中にセンスの良さが随所に感じられたのである。太宰治の父・津島源右衛門が明治40年に建てた入母屋造りの家屋であるが、1階11室278坪、2階8室116坪、泉水や庭園を併せると宅地面積680坪の大邸宅となっている。父・源右衛門は青森県知事から衆議院議員、貴族院議員を務めた人で津軽地方の大地主であった。その所有した土地は東京ドーム53個分だったというから驚かされる。これでも津軽で4番目の地主だそうだ。「斜陽館」も太宰が幼少の頃は2000坪の敷地に建っていたという。想像を絶する金持であったということが窺い知れるが、この生家について太宰治は『苦悩の年鑑』の中で次のように書いている。
−私の家系には、ひとりの思想家もいない。ひとりの学者もいない。ひとりの芸術家もいない。役人、将軍さえいない。実に凡俗の、ただの田舎の大地主というだけのものであった。父は代議士にいちど、それから貴族院にも出たが、べつだん中央の政界に於いては活躍したという話しも聞かない。この父は、ひどく大きい家を建てた。風情も何もない。ただ大きいのである。間数が三十ちかくもあるであろう。それも十畳二十畳という部屋が多い。おそろしく頑丈なつくりの家ではあるが、しかし、何の趣もない。
書画骨董で、重要美術級のものは、ひとつもなかった。
この父は、芝居が好きなようであったが、しかし、小説は何も読まなかった。
「死線を越えて」という長編を読み、とんだ時間つぶしたと愚痴を言っていたのを、私は幼い時に聞いて覚えている。
しかし、その家系には、複雑な暗いところはひとつもなかった。財産争いなどということはなかった。要するに誰も、醜態を演じなかった。津軽地方で最も上品な家のひとつに数えられていたようである。この家系で、人からうしろ指をさされるような愚行を演じたのは私ひとりであった。−
太宰は自分の出自をこのように書き嘆いているが、そのことで多くの人が救われるのであるが、それでも、この「斜陽館」の威容はすさまじく、もう驚嘆の声が僕の内面で湧き起こっていた。さらに太宰文学の原点をまさにここに見るようで、あちこちと、大邸宅をくまなく動き回って疲れもひとしきりであった。それにしても、金持ちのいやらしさがまったくないということに、最近テレビでよく見るお金持ちや成り上がりの社長さんのお宅とは明らかに違うことに驚いた。まさに本当のお金持ちと納得したのである。貧乏な庶民の僕は、特にそう思ったのである。
「斜陽館」をひととおり見終わると、向いにある「金木町観光物産館」で昼食を兼ねて休憩をすることにした。食べたのは名物の「太宰ラーメン」である。このラーメンを食べると、また驚かされることが起こってしまった。食べ進めるうちにラーメン鉢に、なんと、太宰文学が浮かびあがってきたのである。そこには小説『津軽』のなかの一文があったのだ。
−私には、また別の専門科目があるのだ。世人は仮にその科目を愛と呼んでいる。−
この文が目に飛び込んでくると、太宰さんも、さすがに、
「私もついに、ラーメン鉢にまでなったか。これまた失敬!」
そう云って、淋しそうに微笑んでいる姿が目に浮かんでくるようではないか。
この文の後には、『津軽』では次のように続く。
−人の心と人の心の触れ合いを研究する科目である。私はこのたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追及した。どの部門から追求しても、結局は、津軽の現在生きている姿を、そのまま読者に伝える事が出来たならば、昭和の津軽風土記として、まずまあ、及第ではなかろうかと私は思っているのだが、ああ、それが、うまくゆくといいけれど。−
太宰治は津軽の旅の趣旨をこのように述べている。僕のこの旅行記も、太宰ほどではないけれど、なにかのお役に立つものとなったのであれば幸いなのだが。
小説『津軽』の最後はこうである。
−津軽の生きている雰囲気は、以上でだいたい語り尽くしたようにも思われる。私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ。命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬ー
最後は太宰治らしくひょうきんな言葉で締めくくられている。
十和田湖に廻ったとき湖畔に立つ「乙女の像」を訪ねた。この像は高村光太郎により制作されたものである。さすが高村光太郎の作品らしく十和田湖・奥入瀬渓流の自然に似つかわしく美しいものであったが、これには次のような因縁もある。
十和田湖・奥入瀬渓流が国立公園に制定されてから15周年を記念して「乙女の像」が作られたのであるが、当時の知事の尽力が大きかったという。知事は津島文治であった。太宰治(本名津島修治)の兄なのであった。
僕のこの旅行記も、ではまた、ここで、失敬。
みなさん、元気で、「グッド・バイ」。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- レンタカー JALグループ ANAグループ JR特急 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
- 利用旅行会社
- JTB
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ANA2154便のプロペラ機。出発時は不安であった。
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「不二やホテル」外観
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「不二やホテル」ロビー
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大鰐温泉「不二やホテル」の大浴場
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青森はもう林檎が実っている
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大鰐温泉から奥入瀬渓流に向かう国道。ほとんど車の通行はない。
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奥入瀬渓流。素晴らしい清流の流れである。自然の美しさに心打たれる。
雨で、水量は多いが。 -
八月末とはいえ、青森はもう紅葉が始まっている。
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十和田湖畔に立つ「乙女の像」。高村光太郎の詩文もある。
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乙女の像、正面から。
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十和田湖と遊覧船。湖は霧に霞んでいる。しかし素晴らしい自然の美しさを見ることができる。
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霧に霞む十和田湖。周辺のリーゾトホテルに泊まるのも避暑には最高だろう。
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斜陽館外観
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1階の大広間
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壁ほどの大きさの仏壇。ガラスケースで覆われている
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見事な襖絵の居室
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二階へ続く階段。国会議事堂を思わす。
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太宰が疎開していた離れ。太宰が執筆した机に座ってみた。
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金襖の間もある
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二階の母の居室。西洋風に造られている。
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家の中に蔵がある。いまは太宰治の私物や衣服、原稿などが展示されている。
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名物の太宰ラーメン。食券に太宰ラーメンと書いてある
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太宰ラーメンを食べ進むと、太宰文学が浮かび上がる。
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太宰治直筆の津軽の地図。(新潮文庫『津軽』より)
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太宰が疎開した家のお土産。「斜陽館お越し文」と「ポストカード」
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今年の五月、又吉直樹もここを訪れているようである。芥川賞おめでとうの文字。金木町観光物産館にて。
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太宰も在籍した旧制弘前高等学校。現在は弘前大学。
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津軽藩の居城、弘前城
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弘前城から、名峰岩木山を望む。生憎の天気で、山頂部は雲に隠れていた。
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弘前に泊まったとき、ホテルの近くの居酒屋で「津軽三味線」を聴く。津軽の旅の楽しみのひとつ。
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