2015/05/30 - 2015/05/30
269位(同エリア473件中)
滝山氏照さん
都営新宿線曙橋徒歩約10分、正覚山・月桂寺(げっけいじ、東京都新宿区河田町)は寛永9年(1632)関叔碩三座原が現在の市ヶ谷に庵を造り、後に江戸城外堀普請に伴い移転を迫られ、寛永11年(1634)当地に移り遠渓山平安寺と改称の寺院を中興した月桂院(げっけいいん、1568~1655)の墓所となっています。
かつては室町幕府の関東統治機関である鎌倉府が支配を進めるなか、首長である公方を補佐すべき関東管領上杉氏との攻防で公方勢力が衰退、鎌倉から古河に逃れた公方の庶流が小弓公方と称された足利義明(あしかが・よしあき、生誕不詳~1538)の孫にあたる嶋姫(しまひめ、1568~1655・後の月桂院)は小田原征伐後奥州仕置のため宇都宮に立ち寄った秀吉に面会し家系断絶していた旧鎌倉公方足利氏の復興を懇願します。
秀吉は嶋姫に自分の血を引く子供を期待して嶋姫を側室にする一方、姫の悲願である旧鎌倉公方の足利氏再興については天正19年(1591)嶋姫の弟・足利国朝(あしかが・くにとも、1572~1593)と古河公方足利義氏(あしかが・よしうじ、1541~1583)の嫡女である足利氏姫(あしかが・うじひめ・後の芳春院、1574~1620)との婚姻により、先に嶋姫の嫁先であった喜蓮川塩屋氏の跡目を相続させることで鎌倉公方足利氏の再興を果たします。
慶長3年(1598)8月18日秀吉は病死して62年の人生を終え、嶋姫は京都・東寺にて出家、後に徳川家康に召し出され、会津から江戸に移り住み、江戸市ヶ谷にて平安寺を再興して月桂寺と改称します。
明歴元年(1655)、月桂院となった嶋姫は88歳にて死去、開基の月桂寺に埋葬されます。
その後の足利氏は下野喜連川氏として3千5百石の知行を得ますが文禄2年(1593)に国朝が病死すると国朝の弟頼氏(よりうじ、1580~1630)と氏姫が縁組をして家督を継続します。
慶長4年(1600)の関ヶ原の戦いでは頼氏は出陣しませんが、東軍の勝利を祝う使者を派遣したことで徳川家康から加増があり4千5百石となります。
知行禄高を考えれば大名でもない喜連川氏を家康は清和源氏で足利将軍家に連なる一族という認識のもと10万石大名の格式として処遇し、しかも徳川幕臣ではなく客分として遇したため江戸城での席次はなく、参勤交代制度も無縁とされていました。
従って家康以降の歴代将軍も足利氏に繋がる喜連川氏を重んじ国主並みの家格として厚遇、喜連川氏は初代頼氏から12代続き大政奉還後は足利氏に復姓し明治政府から華族(子爵)に遇せられます。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 交通手段
- 私鉄
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月桂寺・寺門
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月桂寺・石標
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切支丹石灯籠
境内の左隅には地味な石碑が建ちその左にはなにやら説明板があります。 -
切支丹灯籠
高さ約70Cm石質は白みかげ石で月桂寺の旧墓地内から出土されたものだそうで、江戸時代に禁教とされたため隠れキリシタンが密かに礼拝したもので、十字架を意識して変形させていることが判ります。 -
「月桂寺の切支丹灯籠」説明板
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月桂寺・鐘楼堂
カーブを描いた屋根は他所では見られない独特な様式です。 -
月桂寺・鐘楼堂屋根
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月桂寺・本堂
鉄筋二階建ての現代的な本堂となって入ます。階段手前には柵が設置され登ることができません。正式には正覚山月桂寺と称する臨済宗円覚寺派の寺院です。 -
月桂寺・境内
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月桂寺・墓地入場門
門扉が閉められ施錠されて入門できません。 -
月桂寺・墓地内部
閉ざされた門扉の隙間から墓地を覗くと下り階段の向こうに墓地が控えています。 -
「児玉坂通り」標柱
月桂寺を離れて通りを進むと「児玉坂通り」の標柱が視野に入ります。日露戦争で活躍した明治時代の陸軍大将であった児玉源太郎の邸宅がこの付近にあった由です。
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