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都立谷中霊園(とりつやなかれいえん、東京都台東区谷中)には幕末最後の姫路10代藩主であった酒井忠邦(さかい・ただくに、1854~1879)とその室の墓があります。<br /><br />酒井氏と言えばご存じの通り徳川(松平)氏の最古参の譜代筆頭で、遡れば松平氏初代の親氏(ちかうじ)の庶子長男である広親(ひろちか)が酒井氏の祖と言われ、広親には長男氏忠(うじただ)と二男家忠(いえただ)の二系に分かれ、後世では後裔は前者は左衛門尉酒井氏(庶流)、後者は雅楽頭(うたのかみ)酒井氏(嫡流)と呼ばれそれぞれが幕閣にて老中や大老の要職を勤めます。<br /><br />雅楽頭系の正親(まさちか)は家康の祖父・清康や父・広忠に仕え、家康誕生の際は「御胞刀(臍の緒を切る)」役を勤める松平宗家の家老格の役割を果たし、広忠没後の岡崎衆の先頭に立ち、幼い家康を守り、家康が駿府に人質として赴くときには随行し家老の職責を果たします。<br />         <br />西三河統一の過程で正親は吉良氏居住の西尾城を攻略して家康より居並ぶ武勲に長じた譜代大名の中で初めて城主として西尾城を与えられます。<br /><br />正親嫡子重忠(しげただ、1549~1617)は天正18年(1590)家康の関東入部に伴い川越城で1万石の知行を与えられ、重忠息子忠世(ただよ、1572~1636)は元和3年に父の遺領を引継ぎそれまでの自領と合わせて8万5千石の知行を受け、後に年寄を経て老中に昇進、そして曾孫の忠清(ただきよ、1624~1681)は老中から将軍家綱時代には大老に昇任し幕閣の権勢を振うほどになります。<br /><br />さて忠邦については幕末の嘉永7年(1854)、上野伊勢崎藩主である酒井忠恒(さかい・ただつね)の九男として江戸藩邸で生まれます。<br /><br />姫路9代藩主酒井忠惇(さかい・ただとし、1839~1907)が鳥羽伏見の戦で将軍慶喜に従って行動し佐幕の立場を堅持したため戊辰戦争では朝敵とみなされたため、慶応4年(1868)5月、忠惇は強制的に隠居となり一族の忠邦が養子として宗家に入り家督を相続することになります。<br /><br />忠邦は朝廷側に起つことを明確にするため15万両の献金や佐幕派の家臣の処分を行い、明治元年には諸藩に先駆けて版籍奉還の建白書を提出、その実施によって一時藩知事を勤めた後上京して慶應義塾大学を経てアメリカ留学、4年後帰国するも明治12年(1879)3月に26歳という若さで生涯を閉じます。

武蔵谷中 家康遠祖と異母兄弟の出自とする徳川最古参の筆頭譜代の酒井氏の後裔『酒井忠邦墓所』散歩

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2015/05/30 - 2015/05/30

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滝山氏照

滝山氏照さん

都立谷中霊園(とりつやなかれいえん、東京都台東区谷中)には幕末最後の姫路10代藩主であった酒井忠邦(さかい・ただくに、1854~1879)とその室の墓があります。

酒井氏と言えばご存じの通り徳川(松平)氏の最古参の譜代筆頭で、遡れば松平氏初代の親氏(ちかうじ)の庶子長男である広親(ひろちか)が酒井氏の祖と言われ、広親には長男氏忠(うじただ)と二男家忠(いえただ)の二系に分かれ、後世では後裔は前者は左衛門尉酒井氏(庶流)、後者は雅楽頭(うたのかみ)酒井氏(嫡流)と呼ばれそれぞれが幕閣にて老中や大老の要職を勤めます。

雅楽頭系の正親(まさちか)は家康の祖父・清康や父・広忠に仕え、家康誕生の際は「御胞刀(臍の緒を切る)」役を勤める松平宗家の家老格の役割を果たし、広忠没後の岡崎衆の先頭に立ち、幼い家康を守り、家康が駿府に人質として赴くときには随行し家老の職責を果たします。
         
西三河統一の過程で正親は吉良氏居住の西尾城を攻略して家康より居並ぶ武勲に長じた譜代大名の中で初めて城主として西尾城を与えられます。

正親嫡子重忠(しげただ、1549~1617)は天正18年(1590)家康の関東入部に伴い川越城で1万石の知行を与えられ、重忠息子忠世(ただよ、1572~1636)は元和3年に父の遺領を引継ぎそれまでの自領と合わせて8万5千石の知行を受け、後に年寄を経て老中に昇進、そして曾孫の忠清(ただきよ、1624~1681)は老中から将軍家綱時代には大老に昇任し幕閣の権勢を振うほどになります。

さて忠邦については幕末の嘉永7年(1854)、上野伊勢崎藩主である酒井忠恒(さかい・ただつね)の九男として江戸藩邸で生まれます。

姫路9代藩主酒井忠惇(さかい・ただとし、1839~1907)が鳥羽伏見の戦で将軍慶喜に従って行動し佐幕の立場を堅持したため戊辰戦争では朝敵とみなされたため、慶応4年(1868)5月、忠惇は強制的に隠居となり一族の忠邦が養子として宗家に入り家督を相続することになります。

忠邦は朝廷側に起つことを明確にするため15万両の献金や佐幕派の家臣の処分を行い、明治元年には諸藩に先駆けて版籍奉還の建白書を提出、その実施によって一時藩知事を勤めた後上京して慶應義塾大学を経てアメリカ留学、4年後帰国するも明治12年(1879)3月に26歳という若さで生涯を閉じます。

旅行の満足度
3.0
交通手段
私鉄
  • 酒井家廟全景<br /><br />

    酒井家廟全景

  • 酒井家墓所

    イチオシ

    酒井家墓所

  • 酒井忠邦・忠興墓石<br /><br />酒井家廟の右には酒井忠邦夫妻と息子忠興夫妻の墓石が並んでいます。

    酒井忠邦・忠興墓石

    酒井家廟の右には酒井忠邦夫妻と息子忠興夫妻の墓石が並んでいます。

  • 酒井忠邦夫妻墓石

    酒井忠邦夫妻墓石

  • 酒井忠興夫妻墓石<br /><br />忠興(ただおき、1879~1919)は父忠邦が死去した3か月後に生まれ、幼少のため一族が家督を預かり、8年後の明治20年(1887)に家督を継承、伯爵に叙せられます。園芸を好み屋敷に多数の草花栽培をなし、大正8年(1919)40歳で死去。

    酒井忠興夫妻墓石

    忠興(ただおき、1879~1919)は父忠邦が死去した3か月後に生まれ、幼少のため一族が家督を預かり、8年後の明治20年(1887)に家督を継承、伯爵に叙せられます。園芸を好み屋敷に多数の草花栽培をなし、大正8年(1919)40歳で死去。

  • 酒井家廟内部風景

    酒井家廟内部風景

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