2015/05/30 - 2015/05/30
371位(同エリア609件中)
滝山氏照さん
都立谷中霊園(やなかれいえん、東京都台東区谷中)には寛永寺の飛地として2ケ所の「徳川家将軍廟」とは別に第15代将軍である徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ、1837~1913)の墓所があります。
徳川歴代将軍の墓地がある寛永寺(上野)並びに増上寺ではなく、慶喜のみが当墓地に祀られている理由の一つは神式墓所であるためと言われています。歴代将軍の葬儀は全て仏式であったのに対し慶喜は明治天皇を十分意識して神式の葬儀を遺言としたといわれています。
幼名が七郎麻呂(しちろうまろ)の慶喜は天保8年(1837)、水戸藩主徳川斉昭の七男として生まれ、弘化4年(1847)、12代将軍家慶の意向により8代将軍吉宗が起こした御三卿の一つである一橋家の世嗣となります。
後に13代将軍家定の後嗣問題で後継者として浮上しますが紀伊藩主慶福(後の将軍家茂)と争い敗れるも将軍後見人役となり、幕府の権力維持と公武合体策を推進します。
家茂没後は第15代将軍となり幕政改革に勤めますが慶応3年(1867)の大政奉還を上奏後は駿府に移り謹慎の日々を送ります。
廟の門扉横に掲載の説明書によれば次のように記されています。
「 徳川慶喜墓
徳川慶喜(1837~1913)は、水戸藩主徳川斉昭の第七子で、はじめは一橋徳川家を継いで、後見人として将軍家茂を補佐しました。慶応2年(1866)、第十五代将軍職を継ぎましたが、翌年、大政を奉還し慶応4年(1868)正月に鳥羽伏見の戦いを起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。
駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治31年(1898)には大政奉還以来30年ぶりに明治天皇に謁見しています。明治35年(1902)には公爵を受爵、徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正2年(1913)11月22日に77歳で没しました。
お墓は、間口3.6m、奥行き4.9mの切石土留を囲らした土壇の中央奥に径1.7m、高さ0.72mの玉石畳の墓壇を築き、その上は葺石円墳状を成していす。
平成22年3月 東京都教育委員会 」
- 旅行の満足度
- 3.5
- 交通手段
- 私鉄
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谷中霊園(全景)
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江戸時代の谷中周辺絵図
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谷中霊園区画地図
ひときわ目に留まるのは徳川家の墓地が2ケ所、そして十五代将軍慶喜の廟が見えます。 -
著名人墓碑リスト
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著名人墓碑リスト(拡大)
この中には酒井氏(姫路範主)や伊達宗城(宇和島藩主)の名前が確認されます。 -
徳川慶喜墓所案内板
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徳川慶喜廟入口
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徳川慶喜墓所門扉
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徳川慶喜説明板
門扉の右側には「徳川慶喜墓」と題する説明板が建てられています。 -
徳川慶喜廟門扉
葵の家紋が施された門扉は閉ざされたままで参詣はできません。 -
徳川慶喜墓
歴代の将軍と異なり円墳となっています。(閉ざされた門扉の隙間から)
また、円墳の右に立っている標柱には「従一位勲一等徳川慶喜墓」とあります。 -
徳川慶喜夫人墓
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徳川慶喜公事顕彰碑
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慶喜墓所敷地
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