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1010Lorchを通過,ノリッヒ城跡,Lorchhausenの教会,シュタールエック城などを眺めながら,1014Bachrach.徴税をするためのプファルツ城は川の中州にある.ねずみ塔と同様に面白い.日本の急流だったら流されてしまうのではないかな.グーテンフェルス城を通過し,Kaub 1030 5分遅れ.そしてOberwesel.Shonburg 城とLiebfrauen教会など見どころの多い街だ.翌日この街に行けばよかったかなと少し後悔.<br />Oberwesel 1040 5分遅れ.いよいよローレライ.確かに川が左に曲がった後すぐ右.幅も狭い.ハイネを思い出すね.昔は大変だったとおもう.特に霧の日や夜などは座礁が絶えなかったとおもう.St.Goashausenのネコ城や教会を眺めつつ,St.Goar 1100 5分遅れ.このままライン川を垂直にわたり,St.Goashausenに1105.ここで定刻.ここに観光バスが待っていてRudesheimから乗船していた日本人団体観光客は降りる.St.Goarでも結構下船したので船はだいぶ空いてきた.<br />城や教会等景観が素晴らしく全く飽きない.曇り時々小雨で,寒いが頑張って展望デッキに陣取っている

2015.4ライン・アルザス旅行4-ライン川クルーズ2 LorchからSt.Goashausenまで プファルツ城 ローレライ ネコ城など

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2015/05/01 - 2015/05/01

239位(同エリア594件中)

SUOMITA

SUOMITAさん

1010Lorchを通過,ノリッヒ城跡,Lorchhausenの教会,シュタールエック城などを眺めながら,1014Bachrach.徴税をするためのプファルツ城は川の中州にある.ねずみ塔と同様に面白い.日本の急流だったら流されてしまうのではないかな.グーテンフェルス城を通過し,Kaub 1030 5分遅れ.そしてOberwesel.Shonburg 城とLiebfrauen教会など見どころの多い街だ.翌日この街に行けばよかったかなと少し後悔.
Oberwesel 1040 5分遅れ.いよいよローレライ.確かに川が左に曲がった後すぐ右.幅も狭い.ハイネを思い出すね.昔は大変だったとおもう.特に霧の日や夜などは座礁が絶えなかったとおもう.St.Goashausenのネコ城や教会を眺めつつ,St.Goar 1100 5分遅れ.このままライン川を垂直にわたり,St.Goashausenに1105.ここで定刻.ここに観光バスが待っていてRudesheimから乗船していた日本人団体観光客は降りる.St.Goarでも結構下船したので船はだいぶ空いてきた.
城や教会等景観が素晴らしく全く飽きない.曇り時々小雨で,寒いが頑張って展望デッキに陣取っている

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
一人旅
交通手段
航空会社
ANA
旅行の手配内容
個別手配
  • ライン観光船の旅は続く 1010 東岸の小さな町 Lorch

    ライン観光船の旅は続く 1010 東岸の小さな町 Lorch

  • Ruin Nolling ノリッヒ城跡

    Ruin Nolling ノリッヒ城跡

  • ドイツにおいては珍しく、築城年代や城主、当時の規模など一切不明な謎の城である。現在目にしている塔部分は、内部の木製の塔の周囲に石壁をめぐらしたものである。この木製部分の塔は、12世紀初めごろにはすでに築かれていたのではないかともいわれているが、有力ではない。一般的には、石造部分から推定して14世紀初めごろに築かれたものと考えられている。現在は個人所有となっており、非公開である。http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.nollig.htm<br />

    ドイツにおいては珍しく、築城年代や城主、当時の規模など一切不明な謎の城である。現在目にしている塔部分は、内部の木製の塔の周囲に石壁をめぐらしたものである。この木製部分の塔は、12世紀初めごろにはすでに築かれていたのではないかともいわれているが、有力ではない。一般的には、石造部分から推定して14世紀初めごろに築かれたものと考えられている。現在は個人所有となっており、非公開である。http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.nollig.htm

  • ずいぶん高いところに集落 西岸 Neurath

    ずいぶん高いところに集落 西岸 Neurath

  • Lorchhausenの集落

    Lorchhausenの集落

  • St. Bonifatius教会

    イチオシ

    St. Bonifatius教会

  • 街の上の方に小さな

    街の上の方に小さな

  • たぶんClemenskapelleという名前

    イチオシ

    たぶんClemenskapelleという名前

  • Burg Stahleck シュタールエック城

    Burg Stahleck シュタールエック城

  • 11世紀頃、ケルン大司教によって築かれたと考えられている。城将が配置され、築城当初から規模の大きい城であった。1135年に、記録として初めて現れる城主として、ゴスヴィン・フォン・シュタールエックの名が見える。1214年にヴィッテルスバッハ家のバイエルン大公オットー2世がライン宮中伯とシュタールエック城を受け継ぎ、以降550年以上にわたってヴィッテルスバッハ家が続いた。三十年戦争最中の1620年、シュタールエック城とバッハラッハの町は、スペインの名将スピノラによって占領された。スペイン軍は、1632年にスウェーデン軍によって駆逐された。その後、1635年には神聖ローマ帝国によって、また同年ヴァイマール軍によって、1640年にはバイエルン、次いで再びスペインによって、さらに1644年にはフランスによって、城と町は攻囲され著しく荒廃した。続くプファルツ継承戦争の際、1689年にフランス軍によって城は爆破され、塔や城壁が吹き飛んだ。ナポレオン戦争が起こると、リュネヴィルの和約によってライン左岸はフランス領となり、シュタールエック城は、1804年にフランス政府によって売りに出された。1828年、当時プロイセン王国の皇太子であったフリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、ヴィッテルスバッハ家出身の妻エリーザベトのために、シュタールエック城を買い戻した。翌年エリーザベトに城はプレゼントされたが、修復はされず、登城路が整備されただけであった。1909年、「文化財保全と景観保護のためのライン協会が城を買い取り、修復を始めた。戦後再びユースホステルとして開業し、1965年からは、戦中に中断されていた主塔の再建が再開された。この塔は1967年に完成し、現在に至っている。http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.stahleck.htm

    イチオシ

    11世紀頃、ケルン大司教によって築かれたと考えられている。城将が配置され、築城当初から規模の大きい城であった。1135年に、記録として初めて現れる城主として、ゴスヴィン・フォン・シュタールエックの名が見える。1214年にヴィッテルスバッハ家のバイエルン大公オットー2世がライン宮中伯とシュタールエック城を受け継ぎ、以降550年以上にわたってヴィッテルスバッハ家が続いた。三十年戦争最中の1620年、シュタールエック城とバッハラッハの町は、スペインの名将スピノラによって占領された。スペイン軍は、1632年にスウェーデン軍によって駆逐された。その後、1635年には神聖ローマ帝国によって、また同年ヴァイマール軍によって、1640年にはバイエルン、次いで再びスペインによって、さらに1644年にはフランスによって、城と町は攻囲され著しく荒廃した。続くプファルツ継承戦争の際、1689年にフランス軍によって城は爆破され、塔や城壁が吹き飛んだ。ナポレオン戦争が起こると、リュネヴィルの和約によってライン左岸はフランス領となり、シュタールエック城は、1804年にフランス政府によって売りに出された。1828年、当時プロイセン王国の皇太子であったフリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、ヴィッテルスバッハ家出身の妻エリーザベトのために、シュタールエック城を買い戻した。翌年エリーザベトに城はプレゼントされたが、修復はされず、登城路が整備されただけであった。1909年、「文化財保全と景観保護のためのライン協会が城を買い取り、修復を始めた。戦後再びユースホステルとして開業し、1965年からは、戦中に中断されていた主塔の再建が再開された。この塔は1967年に完成し、現在に至っている。http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.stahleck.htm

  • Bachrachの街に近づく.St. Peter教会

    Bachrachの街に近づく.St. Peter教会

  • Wernerkapelle

    Wernerkapelle

  • 1014 定刻にBacharach

    1014 定刻にBacharach

  • 出発 教会とシュタールエック城

    出発 教会とシュタールエック城

  • 東岸 544kmポスト ライン上流ボーデン湖のコンスタンツからの距離

    東岸 544kmポスト ライン上流ボーデン湖のコンスタンツからの距離

  • 左に大きく曲がる

    左に大きく曲がる

  • Burg Pfaltzgrafenstein プファルツ城 川の中州にある

    Burg Pfaltzgrafenstein プファルツ城 川の中州にある

    プファルツ城 城・宮殿

  • 上バイエルン公兼ライン宮中伯ルートヴィヒ4世は、ライン右岸のカウプの町とグーテンフェルス城でライン川を航行する船から徴税していたが、徴収力を高めるため、1326年にカウプ眼前の中洲に五角形の塔を建築を開始した。塔は翌年完成した。ルートヴィヒ4世の跡を継いだ甥のルドルフ2世は1339年から42年にかけて塔に外壁を増築し、このころから「城」と呼ばれるようになった(以下「プファルツ城」)。川の中州に築かれたプファルツ城は、年を経るにつれて水に晒され続けた影響や、なかんずく春先に融けて上流から流れてくる氷の破片によるダメージが顕著になった。1606年から翌年にかけて、プファルツ選帝侯フリードリヒ4世は、この問題を解決するために城の上流側を南極観測船の舳先のように尖らせるよう改築した。1714年、城はバロック調に改修され、現在の外容が整えられた。ナポレオン戦争に続く解放戦争さなかの1814年、プロイセン陸軍元帥ゲープハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘルは6万の兵とともに、このプファルツ城の前でライン川を渡河した。もともと戦闘や駐屯のためではなく徴税のための城であったため、プファルツ城はその後も戦闘は経験せず、徴税基地としてのみ機能していた。1866年の普墺戦争以後はライン川での徴税の必要もなくなり、1960年代までライン川航行の船のための信号塔として利用された。http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.pfaltzgrafenstein.htm

    イチオシ

    上バイエルン公兼ライン宮中伯ルートヴィヒ4世は、ライン右岸のカウプの町とグーテンフェルス城でライン川を航行する船から徴税していたが、徴収力を高めるため、1326年にカウプ眼前の中洲に五角形の塔を建築を開始した。塔は翌年完成した。ルートヴィヒ4世の跡を継いだ甥のルドルフ2世は1339年から42年にかけて塔に外壁を増築し、このころから「城」と呼ばれるようになった(以下「プファルツ城」)。川の中州に築かれたプファルツ城は、年を経るにつれて水に晒され続けた影響や、なかんずく春先に融けて上流から流れてくる氷の破片によるダメージが顕著になった。1606年から翌年にかけて、プファルツ選帝侯フリードリヒ4世は、この問題を解決するために城の上流側を南極観測船の舳先のように尖らせるよう改築した。1714年、城はバロック調に改修され、現在の外容が整えられた。ナポレオン戦争に続く解放戦争さなかの1814年、プロイセン陸軍元帥ゲープハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘルは6万の兵とともに、このプファルツ城の前でライン川を渡河した。もともと戦闘や駐屯のためではなく徴税のための城であったため、プファルツ城はその後も戦闘は経験せず、徴税基地としてのみ機能していた。1866年の普墺戦争以後はライン川での徴税の必要もなくなり、1960年代までライン川航行の船のための信号塔として利用された。http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.pfaltzgrafenstein.htm

  • その先に城が見えてきた.Burg Gutenfels城

    その先に城が見えてきた.Burg Gutenfels城

  • 下はKaubの街

    下はKaubの街

  • グーテンフェルス城は、当初はカウプ城(Burg Kaub)と呼ばれ、13世紀初頭ごろに神聖ローマ帝国の命令で築かれたといわれている。城と町の直接の所有者はファルケンシュタイン家であった。同家は、グーテンフェルス城を拠点に、ライン川を航行する船から税を徴収していた。1277年、ファルケンシュタイン家は城とカウプの町ならびに徴税の権限を、上バイエルン公兼プファルツ伯(Pfaltzgraf:ライン宮中伯)のルートヴィヒ2世に譲渡した。ルートヴィヒ2世の子ルートヴィヒ4世は、1326年にカウプの眼前の中洲にプファルツ城を築き、徴税の拠点を同城へ移した。しかし、プファルツ城建設によってグーテンフェルス城の重要性が減じた訳ではなく、ルートヴィヒ4世は、同じころグーテンフェルス城も増築し外壁を設けるなどした。1503年にはじまるランツフート継承戦争に際して、グーテンフェルス城は1504年、ヴィルヘルム・フォン・ヘッセンの軍に39日間にわたって包囲された。またしてもグーテンフェルス城は包囲軍の撃退に成功し、1508年に改修された際に、城は戦勝の記念としてプファルツ選帝侯ルートヴィヒ5世によりグーテンフェルス城(直訳すると「良岩城」)」と改称された。1806年に、ナポレオンによって城は廃され、その後城の建材は競売にかけられた。1833年、廃墟となった城を城郭建築家のフリードリヒ・グスタフ・ハーベルが買い取り、修復が始まった。http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.gutenfels.htm

    グーテンフェルス城は、当初はカウプ城(Burg Kaub)と呼ばれ、13世紀初頭ごろに神聖ローマ帝国の命令で築かれたといわれている。城と町の直接の所有者はファルケンシュタイン家であった。同家は、グーテンフェルス城を拠点に、ライン川を航行する船から税を徴収していた。1277年、ファルケンシュタイン家は城とカウプの町ならびに徴税の権限を、上バイエルン公兼プファルツ伯(Pfaltzgraf:ライン宮中伯)のルートヴィヒ2世に譲渡した。ルートヴィヒ2世の子ルートヴィヒ4世は、1326年にカウプの眼前の中洲にプファルツ城を築き、徴税の拠点を同城へ移した。しかし、プファルツ城建設によってグーテンフェルス城の重要性が減じた訳ではなく、ルートヴィヒ4世は、同じころグーテンフェルス城も増築し外壁を設けるなどした。1503年にはじまるランツフート継承戦争に際して、グーテンフェルス城は1504年、ヴィルヘルム・フォン・ヘッセンの軍に39日間にわたって包囲された。またしてもグーテンフェルス城は包囲軍の撃退に成功し、1508年に改修された際に、城は戦勝の記念としてプファルツ選帝侯ルートヴィヒ5世によりグーテンフェルス城(直訳すると「良岩城」)」と改称された。1806年に、ナポレオンによって城は廃され、その後城の建材は競売にかけられた。1833年、廃墟となった城を城郭建築家のフリードリヒ・グスタフ・ハーベルが買い取り、修復が始まった。http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.gutenfels.htm

  • Kaub 1030 5分遅れ

    Kaub 1030 5分遅れ

  • さて対岸の西岸にはOberweselの街が見えている

    さて対岸の西岸にはOberweselの街が見えている

  • Shonburg 城とLiebfrauenkirche

    Shonburg 城とLiebfrauenkirche

  • 12世紀前半頃に、マクデブルク大司教もしくは神聖ローマ帝国によって築かれた。城主であったシェーンブルク家は、分家することなく一族で城を共同相続する珍しい形態をとった。共同所有者は、最も多い時で約250人を数えたという。彼ら全員ではないにしろ、多くが城内に住んでいた。そのため、城中には居住用の建物が3つと、塔が3つ増築された。シェーンブルク家は、神聖ローマ帝国の城代としてライン川を航行する船から税を徴収していた。1688年に始まったプファルツ継承戦争において、オーバーヴェーゼルを含めライン地方はその主戦場となり、翌年シェーンブルク城も戦火によって破壊された。1719年、シェーンブルク家の男子直系が絶え,城はトリーア選帝侯の所有に帰した。<br />ドイツ系アメリカ人ラインランダーが城を購入し、1885年から1901年にかけて部分的な再建を行った。この再建には200万マルクが投じられたといわれる。1950年にオーバーヴェーゼル市がラインランダーの息子から城を買い戻した。1957年からはヒュットゥル家が城を借り受け、以来ホテルとして改装され、現在も同家が営業を続けている。<br />http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.schoenburg.htm

    12世紀前半頃に、マクデブルク大司教もしくは神聖ローマ帝国によって築かれた。城主であったシェーンブルク家は、分家することなく一族で城を共同相続する珍しい形態をとった。共同所有者は、最も多い時で約250人を数えたという。彼ら全員ではないにしろ、多くが城内に住んでいた。そのため、城中には居住用の建物が3つと、塔が3つ増築された。シェーンブルク家は、神聖ローマ帝国の城代としてライン川を航行する船から税を徴収していた。1688年に始まったプファルツ継承戦争において、オーバーヴェーゼルを含めライン地方はその主戦場となり、翌年シェーンブルク城も戦火によって破壊された。1719年、シェーンブルク家の男子直系が絶え,城はトリーア選帝侯の所有に帰した。
    ドイツ系アメリカ人ラインランダーが城を購入し、1885年から1901年にかけて部分的な再建を行った。この再建には200万マルクが投じられたといわれる。1950年にオーバーヴェーゼル市がラインランダーの息子から城を買い戻した。1957年からはヒュットゥル家が城を借り受け、以来ホテルとして改装され、現在も同家が営業を続けている。
    http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.schoenburg.htm

  • Our Ladyという名前がいいねえ.英語にするとそうなる.

    Our Ladyという名前がいいねえ.英語にするとそうなる.

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  • Oberwesel 1040 5分遅れ

    Oberwesel 1040 5分遅れ

  • Oberweselの街並み WernerkapelleとSt. Martin教会

    Oberweselの街並み WernerkapelleとSt. Martin教会

  • St. Martin教会 この街は寄ってみたい街だ

    St. Martin教会 この街は寄ってみたい街だ

  • Oberweselを振り返る

    Oberweselを振り返る

  • Die 7 Jungfrauenという岩礁があるはずだが増水でわからなかった

    Die 7 Jungfrauenという岩礁があるはずだが増水でわからなかった

  • 長大編成の貨物列車 日本では見なくなった

    長大編成の貨物列車 日本では見なくなった

  • このトンネルから先,ライン川は左に曲がりすぐ右に曲がる.そう難所!

    このトンネルから先,ライン川は左に曲がりすぐ右に曲がる.そう難所!

  • 警告灯がある

    警告灯がある

  • そうローレライだ!

    そうローレライだ!

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    ローレライセンター 博物館・美術館・ギャラリー

  • この岩山は、スイスと北海をつなぐライン川の中で、一番狭いところにあるため、流れが速く、また、水面下に多くの岩が潜んでいることもあって、かつては航行中の多くの舟が事故を起こした。 この「ローレライ付近は航行の難所である」ことが、「岩山にたたずむ美しい少女が船頭を魅惑し、舟が川の渦の中に飲み込まれてしまう」という伝説に転じ、ローレライ伝説が生まれた。Wikipedia

    この岩山は、スイスと北海をつなぐライン川の中で、一番狭いところにあるため、流れが速く、また、水面下に多くの岩が潜んでいることもあって、かつては航行中の多くの舟が事故を起こした。 この「ローレライ付近は航行の難所である」ことが、「岩山にたたずむ美しい少女が船頭を魅惑し、舟が川の渦の中に飲み込まれてしまう」という伝説に転じ、ローレライ伝説が生まれた。Wikipedia

  • 岩山の上には旗が

    岩山の上には旗が

  • 通り過ぎたところを撮影.確かに昔は難所だったとおもう

    通り過ぎたところを撮影.確かに昔は難所だったとおもう

  • 通り過ぎてから半島のように砂洲が伸びていて

    通り過ぎてから半島のように砂洲が伸びていて

  • 歩いて15分くらいいったところに

    歩いて15分くらいいったところに

  • ローレライの乙女の像 ハイネの詩,ジルヒャーの曲を思い出す

    ローレライの乙女の像 ハイネの詩,ジルヒャーの曲を思い出す

  • すぐにSt.Goashausenの街が見えてきた.いわゆる「ネコ城」Burg Katzだ.正式名称はBurg Neukatzenelnbogen

    すぐにSt.Goashausenの街が見えてきた.いわゆる「ネコ城」Burg Katzだ.正式名称はBurg Neukatzenelnbogen

  • ねこ城は、1360年から71年にかけて、カッツェネルンボーゲン伯ヴィルヘルム2世によって築かれた。ノイ(neu)とは「新しい」という意味で、対岸のラインフェルス城に対するカッツェネルンボーゲン家の新しい城を指すものと思われる。また通称のねこ城については、北西3kmほどのところにあるねずみ城との対比によるものといわれている。ねこ城は17世紀前半を中心に攻囲による破壊と改修を繰り返した。プファルツ継承戦争さなかの1692年、ねこ城はフランス国王ルイ14世軍によって包囲され破壊された。七年戦争さなかの1758年にも再びフランス軍によって占領され、63年に戦争が終結するとねこ城は返還された。1806年にナポレオンが侵攻すると、城は爆破され完全に廃墟となった。1896年には当時の郡長フェルディナント・ベルクによって買い取られた。この後、城の修復が計画的に進められた。現在は、日本人の個人所有となっている。http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.katz.htm

    ねこ城は、1360年から71年にかけて、カッツェネルンボーゲン伯ヴィルヘルム2世によって築かれた。ノイ(neu)とは「新しい」という意味で、対岸のラインフェルス城に対するカッツェネルンボーゲン家の新しい城を指すものと思われる。また通称のねこ城については、北西3kmほどのところにあるねずみ城との対比によるものといわれている。ねこ城は17世紀前半を中心に攻囲による破壊と改修を繰り返した。プファルツ継承戦争さなかの1692年、ねこ城はフランス国王ルイ14世軍によって包囲され破壊された。七年戦争さなかの1758年にも再びフランス軍によって占領され、63年に戦争が終結するとねこ城は返還された。1806年にナポレオンが侵攻すると、城は爆破され完全に廃墟となった。1896年には当時の郡長フェルディナント・ベルクによって買い取られた。この後、城の修復が計画的に進められた。現在は、日本人の個人所有となっている。http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.katz.htm

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    ねこ城 城・宮殿

  • 教会が二つある 右の黒っぽいのはSt. Johannes カソリック 白いのはEvangelische Kirche 福音主義

    教会が二つある 右の黒っぽいのはSt. Johannes カソリック 白いのはEvangelische Kirche 福音主義

  • もうすぐSt.Goar

    もうすぐSt.Goar

  • 1100 5分遅れ

    1100 5分遅れ

  • ここから船は直角に川を渡る.

    ここから船は直角に川を渡る.

  • 1105 ここで定刻になる.5分で対岸のSt.Goashausenにつく.ここに観光バスが待っていてRudesheimから乗船していた日本人団体観光客は降りる.St.Goarでも結構下船したので船はだいぶ空いてきた.

    1105 ここで定刻になる.5分で対岸のSt.Goashausenにつく.ここに観光バスが待っていてRudesheimから乗船していた日本人団体観光客は降りる.St.Goarでも結構下船したので船はだいぶ空いてきた.

  • 奥の山が段々になっている

    奥の山が段々になっている

  • 出航 後ろを振り向き,St.Goarshausenの街とネコ城

    出航 後ろを振り向き,St.Goarshausenの街とネコ城

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