2007/09/22 - 2007/09/22
315位(同エリア336件中)
ひま人さん
今回は「老ノ坂峠」を越えて丹波路へと進んだ。山陰道の起点は正確には<丹波口>で、この街道は丹波街道、丹波路、篠山街道とも呼ばれた。
皇居のある洛中を避け丹波や但馬、さらに因幡などの山陰諸国の大名達は、参勤交代でこの街道を利用した。
そんな道筋に、どんな歴史の宝物が埋もれているのか興味しんしんと、まず老ノ坂へ国道の際から上って行き、古道を少々歩き首塚大明神を経て篠宿へ。篠村八幡宮旗立場から観音芝廃寺跡を見て、桑田神社参拝。亀山宿(亀岡)歩きでは、田中源太郎翁(現代のJR山陰線創設者)旧邸「楽々荘」で昼食を取った。日本庭園もある「楽々荘」は立ち寄る価値あり。
その後、旅篭町、称名寺、親水公園等、市内をボランティアガイドが案内してくれた。
あと丹波国分寺、那須与一堂を巡り帰途に着いた。
写真は山陰古道。
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 観光バス
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老ノ坂峠に首塚大明神が祀られている。
源頼光の鬼退治に登場する鬼が、即ち酒呑童子です。この物語は大江山にも語り継がれている。 -
篠村八幡宮本殿、足利高氏旗あげの地の石碑。
高氏が1万騎余の軍をこの地に集め、山陰古道を進んで京・六波羅に攻め込んだのは元弘4年(1333年)5月7日であった。高氏は源氏復興を願う願文や鏑矢を奉納し、旗立場に白旗をたてて京を目指し、六波羅探題を倒した。現代は2代目の旗立場が残っている。 -
足利高氏旗立ての楊。
5月7日京に攻め入るまでの間、高くそびえる境内の楊(やなぎ)の老木に足利の家紋の入った大白旗を掲げた。旗立場は2代目だが、楊はその寿命から見て6・7代は経ていると思われる。 -
観音芝廃寺跡。秦氏が7世紀後半に創建し、300年余り営まれていたようですが、平安時代に廃寺になったようです。保津川を開削した秦氏の拠点ではなかったかと思われるが、寺名や由緒は不明である。
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桑田神社、祭神は「いちきしまひめのみこと」他2神。保津の山峡を切り開き、亀岡盆地を干拓した由緒を持っています。
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那須与一堂、源義経が一の谷に向かう際、当地で那須与一が急病となり、同寺の本尊阿弥陀如来に祈願したところ、たちまちに回復して義経の行軍に復帰することが出来た。源平合戦が終り、与一が仏門に入った後、同寺は与一の帰依を受け保護された。
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丹波国分寺山門、国分寺は聖武天皇が五穀豊穣、国家鎮護のために、741年全国に勅旨を出し国分尼寺と共に各国に建立された寺で、奈良の東大寺が総国分寺にあたる。当地でも建立され、早い時期に焼失し、平安から鎌倉にかけ再建されたが明智光秀の亀山城築城の頃に焼失、荒廃した。
現代の建物は1780年頃建立された。 -
国分寺本堂。
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