2015/01/28 - 2015/01/30
2464位(同エリア6114件中)
倫清堂さん
経験的に冬の旅はトラブルがつきものと知っているので、なるべく避けるようにしてはいるのですが、がんばって貯めたマイレージの有効期限が迫っているとなっては、使わずにはいられません。
仕事も良い具合に休みが取れる時期だったので、福岡空港を利用して山口県を訪れることにしました。
諸国一之宮巡りも、最終盤へ入っています。
山口県は令制時代、周防国と長門国とがあったので、両国の一之宮を参拝するのが今回の最大の目的です。
出発前夜。
天気予報では、寒波が来ているものの、まとまった雨が降るようなことは言われていませんでした。
仙台から福岡へ向かう全日空便は特にトラブルもなく、快適な空の旅を過ごすことができました。
福岡空港に到着し、JR線を乗り継いで、まずは下関駅を目指しました。
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駅を降りてペデストリアンデッキを登ると、目の前に西洋風の巨大な聖堂が現れました。
市役所や百貨店にしては凝っているし、美術館や博物館のようにも見えません。
あとで調べたところ、グランプラスセントヴァレンタインという名の結婚式場であることが分かりました。 -
行動を開始する前に、昼食をとって燃料補給をしなければなりません。
事前の調査では、下関のご当地名物は「瓦そば」であるとのこと。
そういえば山口県出身の友人が、いつかどこかで瓦そばのことを話していた記憶があります。
さらに調べたところ、瓦そばの発祥は豊浦町の川棚温泉だということが分かりました。
川棚温泉は下関港から距離があり、わざわざ食事だけのために訪れることは出来ません。
しかし嬉しいことに、下関駅の近隣で支店が営業しているようです。
その支店は駅から5分ほどのビルの7階にありました。
ランチもあるようですが、それほど空腹でもなかったので、瓦そばの単品を注文しました。
しばらく待って運ばれて来たのは、熱く焼けた大きな瓦に乗せられた緑色の蕎麦。
生地には宇治茶が練り込まれているそうです。
明治時代、西南戦争で薩摩軍の兵士が瓦で野草や肉などを焼いている姿をヒントに考案された料理なのだそうです。 -
イチオシ
下関市内は路線バスを利用しました。
バスのフリー乗車券は、下関駅などで購入することができます。
駅から10分ほどバスに揺られ、最初に降りたのは赤間神宮前です。
赤間ヶ関、つまり関門海峡を望むように建てられた社殿は朱に塗られ、まるで竜宮城に来たかのように錯覚してしまいます。
これほど豪華で煌びやかな社殿に祀られるのは、第81代安徳天皇です。赤間神宮 寺・神社・教会
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安徳天皇の母は平清盛の娘に当たる建礼門院徳子であり、安徳帝の即位によって清盛は天皇の外祖父にまでなり上がりました。
平家は権力をほしいままにしましたが、盤石と思われた支配体制も清盛の死によってあっさりと崩壊に向かうことになります。
平家の支配に不満を募らせる武士たちは源氏の旗の下に集まり、まず源義仲が平家から都を奪うと、平家の勢力は源義経によって西へ西へと追われ、ついに壇ノ浦の戦いで一族のほとんどが討たれたのでした。
安徳天皇も母や女官らとともに平家の軍勢に守られながら行動することとなり、壇ノ浦で「波の下にも都の候ぞ」と慰められながら、女官らとともに海へと身を投げ入れられたのでした。
安徳天皇はこのとき、満6才という幼さでした。 -
社殿に向かって左手にある宝物殿の奥へ進むと、平家一門の墓が並ぶ「七盛塚」があります。
前列には平有盛・平清経・平資盛・平教経・平経盛・平知盛・平教盛が、後列には平家光・忠光・景光・景俊・盛継・平忠房・平時子が眠っています。
唯一の女性である平時子は清盛の正室で、二位の尼と呼ばれていました。
彼女は、
今ぞしるみもすそ川のおんながれ
波の下にも都ありとは
と詠み、三種の神器を抱えて海へと身を投げたのでした。
安徳帝を抱いて入水した按察使局伊勢は、建礼門院と同様に引き上げられて一命を取りとめましたが、二位の尼と安徳帝は助かりませんでした。
七盛塚よりも海側に、安徳天皇陵があります。 -
この七盛塚は、ある有名な説話の舞台でもあります。
夜な夜な現れる平家の亡霊に招かれ、彼らの前で琵琶の演奏を行った人物がおりました。
盲目の坊主であった彼の名は、芳一です。
芳一は目が見えなかったため、貴人たちの宴会に呼ばれているものだとばかり思っていましたが、ひそかに後をつけた下男が見たのは、鬼火がたくさん浮いている墓場で一心不乱に演奏する芳一の姿でした。
寺の和尚は、このままでは芳一の身がもたないと心配になり、亡霊と縁を切るために芳一の全身に般若心経を書き込み、亡霊が迎えに来ても声を出すなと念を押したのでした。
はたしてその夜も亡霊が現れたのですが、般若心経の効力によって芳一の姿は亡霊には見えませんでした。
しかし、和尚は芳一の両耳にだけ経を書き忘れていたのです。
耳が浮かんでいるのを見付けた亡霊は、芳一を連れて帰れないことを悔しがり、二つの耳を両手に掴み、引きちぎって持ち帰ったのでした。
それから亡霊は、二度と現れることはありませんでした。
両耳を失った芳一は、その後も琵琶の名手として活躍したとのことです。
この説話はラフカディオ・ハーンこと小泉八雲によって紹介され、海外でも人気を博したのでした。 -
赤間神宮に隣接して、日清講和記念館が建てられています。
日清戦争の終結に際し、講和条約を結ぶための会議が行われたのが、料亭兼旅館であった春帆楼でした。
春帆楼は改築され、当時の面影は消えてしまいましたが、両国が結んだ下関条約の意義を後世に伝えるために春帆楼の敷地内に建てられたのが、日清講和記念館です。日清講和記念館 美術館・博物館
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日清戦争が勃発した背景には、朝鮮半島の権益をめぐる日本と清国との対立がありました。
明治27年に起きた東学党の乱をきっかけに、日本は清国に対して宣戦布告を行いました。
明治天皇は開戦に反対されていましたが、政府と軍に押し切られるように戦端は降開かれたのでした。
結果は日本の大勝に終わり、多額の賠償金を得た他、朝鮮半島の独立を認めさせ、遼東半島や台湾などを譲り受ける内容の下関条約を締結したのでした。
記念館には様々な文書などの資料が展示される他、中央には講和会議場の様子を忠実に再現した部屋が設けられています。 -
下関条約を調印した日本側の全権は、伊藤博文内閣総理大臣と陸奥宗光外務大臣でした。
また、清国側の全権は李鴻章と李経方でした。
記念館の庭には、日本人2名の銅像はあるものの、清国側2人の銅像はありません。
当たり前と言えば当たり前ですが、敵であろうと筋を通す人物は認めるというのが日本人の美徳ですから、清国側全権の像があってもよいと私は思います。
李鴻章は3回目の会議を終えて宿舎へ帰る途中、小山豊太郎という青年に狙撃されて負傷しました。
いくら日本が戦争に勝利したとは言え、このような暴挙が許されるわけがありません。
結局日本側が多少の譲歩をやむなくされるのですが、李鴻章もこれを材料にことさら日本側を責めることもなく、会議は紳士的に続けられたのでした。
狙撃事件の後、李鴻章が大通りを避けて通るようになった小道は現在、李鴻章道と呼ばれています。 -
降りたのと同じバス停で待っていると、ほどなくバスがやって来ました。
このバスに15分ほど乗り、城下町長府バス停で下車しました。
目的地の忌宮神社までは、バス停からまっすぐ参道が伸びており、迷うことがありません。
途中、「維新発祥之地」と書かれた石碑を見つけました。
何をもって発祥とするのかというと、高杉晋作が元治元年、長州藩の俗論派を打倒するために起こしたクーデター「功山寺挙兵」のことを指しています。
禁門の変を起こしたことで朝敵となった長州藩は、三家老が切腹したことなどで俗論派に実権が移りました。
俗論派は粛清を行い、周布政之助を切腹させたり、五卿を太宰府へ追放したりしたため、高杉晋作の身辺にも危機が迫っていました。
晋作は、今は亡き師匠の吉田松陰の言葉を思い出し、起死回生の挙兵を断行したのでした。
そこに加わった人物として、伊藤博文の名前も挙げられます。
結果、どっちつかずだった藩士たちが晋作を支持し、長州藩は攘夷・討幕に向かってまとまったのでした。 -
そんなことを思いながら参道を進むと、忌宮神社の鳥居が見えて来ました。
忌宮神社 寺・神社・教会
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忌宮神社は長門国二之宮。
「いみのみや」神社と称します。
鎮座地は、第14代仲哀天皇の豊浦宮の跡と伝えられています。
仲哀天皇の御事績は、『古事記』と『日本書紀』の間で必ずしも一致していませんが、即位された後に熊襲を平定するために九州に行幸され、豊浦宮、香椎宮を興しますが、香椎宮で崩御されたとされます。
仲哀天皇4年には、始皇帝の14世の孫功満王が日本を訪れ、日本へ初めて蚕の卵をもたらした後、帰化しました。
ここは蚕の卵がもたらされた土地であると伝えられています。
御祭神は仲哀天皇・神功皇后・応神天皇の3柱。
両親と子の関係です。
聖武天皇の御代、仲哀天皇を祀る「豊浦宮」・神功皇后を祀る「忌宮」・応神天皇を祀る「豊明宮」の3社が建てられましたが、中世に火災によって忌宮のみが焼け残ると、3社を忌宮に合祀したことから、現在まで忌宮の名が残っているのだそうです。 -
境内では神鶏が放し飼いにされています。
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社殿の前方に「鬼石」があります。
熊襲を扇動して豊浦宮を攻めたのが、新羅の将塵輪でした。
皇居を守る皇軍は奮戦しましたが、塵輪の勢いはすさまじく、宮門を守る武将阿部高麿・助麿兄弟も討死してしまいました。
それを知った仲哀天皇は大いに怒り、自ら弓矢をお取りになって塵輪を討ったのでした。
塵輪を失った新羅軍は退散し、豊浦宮は持ちこたえることができたのでした。
塵輪の首は地中に埋められ、その上に石を置いたのが「鬼石」です。 -
境内には他に、武内宿禰の手植えと伝えられる公孫樹が命を今につないでいます。
豊浦宮の時代には、このあたりにたくさんの木々が植えられていたと思われますが、現存するのはこの公孫樹のみとなってしまいました。
どこが幹でどこが枝かも分からないほど老いた姿には、威厳というよりも悟りに近い神々しさを感じます。 -
裏の駐車場には、毛利藩校の後身である「集童場」の場長室が残されています。
集童場ははじめ、毛利藩士福田扇馬が自宅に開いた私塾でしたが、藩士熊野則之によって規模が拡大され、明治時代には藩校敬業館と合併しました。
長府の松下村塾と呼ばれた集童場では、少年期に親元から離して寄宿生活をさせるという、厳しい教育が施されました。
日露戦争で活躍した乃木希典も、集童場で学んだ一人です。 -
冬なので風邪が冷たいですが、良い天気なので周囲を歩くことにしました。
城下町長府は、古代には長門国の国府が置かれ、関ヶ原の戦いの後には毛利元就公の孫秀元公が入府し、長府毛利5万石の城下町として栄えました。
街角には、近世の雰囲気を残した塀や建物などの姿が見られます。
ちなみに長府城はどこにあったかというと、城下町よりも南東側の、関門海峡の海辺に築かれていました。
城跡は現在、関見台公園として整備されています。 -
長府藩の侍医を務めた菅家の長屋門は、そのまま残されています。
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当初は予定していませんでしたが、長府毛利邸が近いことが分かったので、見学することにしました。
長府毛利邸は14代当主元敏公が明治36年に建てた邸宅です。
この辺りにはかつて長門国総社が鎮座していましたが、どういう経緯があったのか、昭和40年代に消えてしまいました。
総社が置かれていた場所ということで、古代から長門国の中心地であったことは間違いなく、長府毛利氏の当主が住むには最もふさわしい場所と言えるかも知れません。長府毛利邸 名所・史跡
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明治35年11月、明治天皇が熊本で行われた陸軍大演習を御観閲に赴かれる際、行きと帰りの計2泊留まられた部屋が、そのまま残されています。
周囲の民家からも離れており、明治帝は庭の眺めを楽しみながらお寛ぎになったと思われます。 -
庭は書院庭園・池泉回遊式庭園・枯山水庭園という3つの様式でそれぞれ整備された区画に分かれます。
四季の花や、色を変える葉が楽しめます。
高杉晋作が挙兵した功山寺は毛利邸から歩いて行ける場所ですが、バスの時間が気になったのでそちらへは向かいませんでした。
功山寺には長府毛利家の墓所があり、仏殿は国宝に指定されます。
挙兵当時は毛利邸はありませんでしたが、城下町一帯を押さえられる地の利があるという意味で、功山寺を選んだ晋作は戦のプロと言えるでしょう。 -
この地域にある家々の軒先には、夏みかんの木が植えられています。
これは萩にも共通していますが、明治時代に多くの藩士が職を失ったため、新たな産業として栽培されたのが始まりです。
夏みかんは酸が抜ける冬まで待ってから収穫し、夏まで蔵で寝かせますが、蔵を持たない家では木につけたまま完熟させます。
ようやく夏に食べられるようになることから、夏みかんと呼ばれるようになったとのことです。 -
忌宮神社の方へ戻りながら、近くに鎮座しているはずの乃木神社を探し、ようやく見つけました。
乃木神社の御祭神は乃木希典大人之命・乃木静子刀自之命。
明治時代の日本で特に人気の高かった軍人と、その夫人です。
乃木大将は長府藩士の家の三男として生まれましたが、兄2人が早逝したため家を継ぐことになります。
出生地は江戸の上屋敷でした。
この上屋敷は、仇討を終えた赤穂藩士のうち10名が預けられ、切腹した現場でもあったため、乃木大将の赤穂浪士への敬慕は強いものだったと言われています。乃木神社(山口県下関市) 寺・神社・教会
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父の希次は、藩のお家騒動に巻き込まれたため、安政5年に長府に下向することを命じられました。
幼年時代の乃木大将は泣き虫で、周囲の子供たちからもからかわれていたそうですが、集童場への入学などを経て成長し、将来は学者になることを志すようになったのでした。
そんな乃木大将が10歳から16歳まで過ごした屋敷を復元した建物が、神社の境内に建てられています。
また境内にある杉の御神木は、父希次が北風を防ぐために6本の苗木を植えたうちの一本が成長したものです。
乃木大将は16歳の時に騎兵隊の一員として戦っているので、高杉晋作と人生が交差したのではないかと考えられます。 -
司馬遼太郎は著作の中で、乃木大将のことをあまり高く評価していません。
日露戦争の旅順攻囲戦において、203高地の攻略のために多くの日本兵を死なせたことを批判しているのだと思われます。
確かに多数の尊い命が奪われましたが、その中には乃木大将の2人の子息も含まれていました。
苦しみの時代を生きるリーダーの辛さを、乃木大将は一人で背負う宿命だったのです。
境内には、ロシア側の司令官ステッセルと会見した水師営から移植された棗の木と、203高地から移植された松が植えられています。
敗軍の将ステッセルと乃木大将の会見の経緯は、唱歌「水師営の会見」が余すところなく伝えています。 -
乃木大将は明治時代の終焉とともに、この世を去りました。
明治天皇の崩御にともなう御大喪が斎行された日の夜、東京の邸宅で妻静子刀自とともに自刃したのです。
官軍の隊長として西南戦争に従軍した際、明治天皇から賜った連隊旗を西郷軍に奪われたことに対し、乃木大将は終生責任を感じていました。
乃木大将は学習院の院長も務め、まだ幼かった昭和天皇の教育に当たった経歴があります。
昭和の時代、未曽有の敗戦を迎えて昭和天皇は、「自分はどうなってもよい、飢えている国民を救ってほしい」という言葉をマッカーサーに述べられました。
昭和天皇の自己犠牲の大御心は、乃木大将の教育によって育まれたものであるとも言うことが出来るのです。 -
バス停でバスを待っていると、急に風が冷たくなりました。
バスに乗り込み、目的地に向けて揺られていると、急に雨が降り出しました。
ちょうど寒冷前線が通過したのでしょうか。
しばらくすると雨はやみ、バスは目的地近くへ到着しました。
本当はここで乗り換えたいのですが、時刻表を見ると、次のバスを待つよりも歩いた方が早そうです。
もう雨も降りそうにないので、スマートフォンの地図機能を頼りに、目的地まで歩くことにしました。
向かうのは長門国一之宮の住吉神社です。住吉神社 寺・神社・教会
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南側の大鳥居ではなく、西側の入口から境内に進みました。
住吉神社の御祭神、住吉三神は、伊邪那岐命が黄泉国から戻られて禊をした際に生まれた海の神です。
住吉三神を祀る一之宮は他に、摂津国の住吉大社、筑前国の住吉神社があります。
長門国の一之宮が他と異なるのは、住吉三神の「荒魂」を祀っていることです。
神功皇后が三韓征伐に赴かれる際、「わが荒魂は軍船を導かん」と教示を受けたことが理由とされます。
戦に勝利し無事に凱旋された神功皇后が、神恩に感謝して住吉三神の荒魂をお祀りしたのが、住吉神社の始まりです。
国宝に指定される本殿は応安3年、大内弘世公による寄進で、住吉大神(住吉三神)荒魂・応神天皇・武内宿禰命・神功皇后・建御名方命を祀る5社殿を連結した珍しい様式です。
参拝を終え、新下関駅へのバスに乗ろうと思いましたが、やはり歩く方が早く着きそうなので徒歩移動することにしました。
一日乗車券のお得感はあまりありませんでした。 -
新山口駅のホテルに宿泊し、翌日は朝一番でレンタカーを借りました。
そして約10年ぶりに萩へと向かいました。
思えばこうして旅の記録を取り始めたのは、萩を訪れたのが最初でした。
それはまた、諸国一之宮巡礼を決めた旅でもあったのでした。
山口市内から萩までは、部分開通の高速道路が建設されており、嬉しいことに無料で通行することが出来ます。
1時間ほど走ると、記憶に残る風景が見えてきました。
前回の萩の旅と同じように、まずは松陰神社を参拝しました。松陰神社 寺・神社・教会
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平日の午前中でしたが、境内には多くの参拝客の姿が見られました。
平日を自由に過ごせる世代が増えたこともありますが、今年のNHK大河ドラマの舞台が萩であり、主人公が松陰先生の妹であることの影響が大きいのでしょう。
なぜあえて女性を主人公にしなければならないのか理解出来ませんが。
こうして再訪するまで、我が身にもたくさんの変化がありました。
前回の参拝の時のことを、松陰先生の声は聞こえなかったと書いた記憶があります。
しかし今回は、松陰先生に対して約束することがあって訪れたのです。
故人の声が聞こえるほど霊感が強くはありませんが、きっと松陰先生なら「何があっても前向きに進め」と助言して下さるはずです。 -
2回目の訪問なので、松陰神社は別として、前回とは違う場所を尋ねてみたいと思います。
松陰先生の生家跡に近い所に、黄檗宗の東光寺という寺があります。
小さな駐車場があったので、そこへ車を停めることにしました。
元禄6年に建てられた総門は、段違いの瓦葺で両端に摩伽羅飾りのある黄檗宗特有の様式です。
総門をくぐり、境内へと進みました。東光寺(山口県萩市) 寺・神社・教会
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受付で拝観料を支払い、さらに先へと進みます。
次に現れるのは文化9年に建てられた総門です。
そしてその先に本堂がありますが、黄檗宗では本堂ではなく「大雄宝殿」と呼びます。
外から内部を伺うと、床は畳敷きではなく土間になっています。
これも黄檗宗特有の様式で、読経も立ったまま行われるのだそうです。
黄檗宗を日本に伝えたのはシナ明代の僧隠元隆琦で、インゲン豆は彼によって日本にもたらされたことから、その名が付いたとされます。
黄檗宗は禅宗に分類され、隠元自身は臨済宗の僧でしたが、江戸時代に日本へ渡って4代将軍徳川家綱公に拝謁した後、京都に黄檗山萬福寺を開いたことから、日本では黄檗宗の開祖とされるようになったのでした。 -
イチオシ
ここ東光寺は萩藩3代藩主、毛利吉就公によって元禄4年に開かれました。
大雄宝殿の背後には、毛利氏の廟所があります。
ここに眠る藩主は、3代吉就公・5代吉元公・7代重就公・9代斉房公・11代斉元公と、それぞれの婦人などです。
初代秀就公を除き、奇数代の藩主が眠っています。
藩主の墓は鳥居の奥にありますが、その鳥居までの参道の左右には、数え切れないほどの石灯籠が立ち並んでいます。
その数は500基にも上ります。
なぜこれほどの石灯篭が並ぶのかというと、家臣の殉死を禁じた毛利藩では、藩主の死去に伴って家臣がそれぞれ1基ずつ石灯篭を寄進することにしたのだそうです。
なお、初代秀就公と偶数代の藩主の墓所は大照院にあります。 -
境内にある開梆(かいぱん)は木魚の原形で、萬福寺にも同じものがあるそうです。
食事や法要の時間を知らせるため、叩いて音を出したのです。 -
東光寺からは目と鼻の先なので、松陰先生の生家跡を再び訪れることにしました。
今回は車で登る坂道は10年前、汗を流しながら自転車で登ったことを覚えています。
生家のあった場所から見える指月城の眺めは、全く変わっていません。
しかし、すぐの所にある墓所は、手すりなどが新たに設置されたような気がしないでもありません。
また公衆トイレも当時はなかったと思います。
萩を訪れる観光客が増え、一人でも多くの日本人が松陰先生の生き方や思想に触れることができれば嬉しいです。吉田松陰誕生地 名所・史跡
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松陰先生の生誕地の近くには、高杉晋作草庵跡地顕彰碑が建てられています。
松陰の刑死を知った晋作は討幕を決意します。
その頃、晋作は藩主敬親公の継嗣である定広公の小姓役に就き、藩政に関わるようになります。
晋作は江戸の久坂玄瑞や桂小五郎などと連絡を密にしていたため、過激な行動に出ることを恐れた藩は、彼を上海へ留学に出させたのでした。
しかし上海で晋作が見たのは、まさに西欧列強のアジアに対する侵略意欲だったのでした。
帰国した晋作は藩に対し、公武合体政策を捨てて富国強兵を進めるよう進言しますが、重臣たちはこれに聞く耳を持ちませんでした。
晋作は周布政之助に富国強兵と討幕を進言すると、政之助は10年待てと言いました。
その言葉を受けて、10年の暇を頂戴しますと言った晋作は、剃髪して名を東行と改め、この地に草案を結んで引きこもったのでした。 -
前回の萩訪問で唯一予定通りにならなかったのが、高杉晋作誕生地の見学でした。
管理者の都合が悪かったのか、不定期の休館日にちょうど当たってしまったのです。
今回こそは実現したいと強く願っていましたが、事前に確認することもせず、縁があれば見学がかなうだろうという程度の気持ちでおりました。
期間限定で、旧明倫小学校体育館に大河ドラマ館が設けられており、広い駐車場も整備されていました。
車を停め、高杉晋作生誕地を目指して中央公園を通ると、山縣有朋の騎馬像に出会いました。
彼とは10年前にも出会っています。
松陰先生から直接教えを受けたのはごく短い期間だったにもかかわらず、山縣は門下生であったことを誇らしげに語るのが常でした。
奇兵隊に参加したことから彼の人生は華やかなものとなりますが、日清・日露戦争を主導したことや、朝鮮利権のために日本の血税を際限なく流出させたことなど、彼の経歴には闇の部分が多すぎます。
おそらく現在の日本が直面している衰退への道は、山縣が設計した歪んだ地方自治制度が根幹にあるのでしょう。
この仮説は、まだ根拠と言えるものもありませんので、今後の自分への課題にしたいと思います。 -
中央公園に久坂玄瑞の像を発見しました。
久坂玄瑞は、高杉晋作とともに「松門の双璧」と評価された人物です。
久坂家は代々、萩藩の藩医を務めていました。
玄瑞の両親は教育熱心であったため、評判であった吉松塾に玄瑞を通わせていました。
高杉晋作と出会ったのは、この吉松塾でのことでした。
玄瑞は15歳までに母・兄・父を立て続けに失い、早くも家督を継ぐことになったのでした。
その後、九州へ遊学した際に山鹿流兵学者の宮部鼎蔵から吉田松陰のことを聞き、萩へ帰郷すると松陰と手紙のやりとりを始めたのでした。
1年ほど文通を続け、18歳の時に松下村塾に入門。
松陰は玄瑞の人柄を認め、大事な妹を嫁に入れました。
この方が、今年の大河ドラマの主人公です。
玄瑞はその後、江戸や京を訪れて尊皇攘夷の志士たちと交流しますが、安政の大獄が行われて彼らが次々に死罪となる中、ついに師の松陰も囚われ、江戸で刑死することになります。
玄瑞は討幕を決意し、公武合体を進める藩の重臣長井雅楽の暗殺を企てますが失敗。
しかし彼が謹慎している間に、桂小五郎らの働きかけによって藩論は攘夷へ変更され、4ヶ月の謹慎が解けると江戸に向かい、高杉晋作らと連携してイギリス公使館の焼き討ちを実行したのでした。
その後、京に入って真木和泉たちと行動をともにしますが、八・一八の政変で長州藩が朝廷から追い出されると、実力で失地回復を狙う来嶋又兵衛に引きずられる形で、御所に向けて進軍を開始したのでした。
来嶋隊は蛤御門で薩摩兵とぶつかり、来嶋は銃撃された後自刃。
遅れて到着した玄瑞は、鷹司邸に裏門から進入することに成功し、鷹司公に朝廷への取り次ぎを懇願しました。
しかし受け入れられるはずもなく、玄瑞はその場で自刃したのでした。久坂玄瑞進撃像 (萩市中央公園内) 名所・史跡
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晋作誕生地へ向かう途中、晋作公園で像を発見しました。
松陰先生が明治維新の燃料であるとすれば、晋作は明治維新へと進む車を猛烈な勢いで走らせた運転手です。
そんな晋作が残した数々のエピソードには、このようなものもあります。
上海から帰国した晋作は、下関戦争の後始末を任されたことがありました。
長州藩が攘夷を実行し、英仏蘭米との間で起こった軍事衝突は、下関戦争と呼ばれています。
近代的な兵器で武装した西欧の強国からすれば、長州を屈服させるなど赤子の手をひねるようなものでした。
苦労して設けた砲台はことごとく破壊され、長州藩は講和をもちかけるのですが、その舞台に押し出されたのが監禁中の身であった高杉晋作でした。
関門海峡の自由な通行を認め、非常時には上陸することも許可しましたが、巨額の賠償金については、攘夷を決定した幕府に押し付けるという離れ業まで見せたのでした。
そして晋作最大の功績とされるのが、連合国が要求する彦島の租借を断固はねつけたことです。
ここで晋作が妥協していたら、彼が上海で実際に見た、アジア人が西洋人から奴隷のように扱われる風景が、日本でも現実になっていたかもしれません。
このエピソードには異説もありますが、一つの伝説としてもっと知られても良いのではないかと思います。
一方でもし彦島が租借地になっていたら、その後の香港よりも規模の大きな金融都市に成長し、日本が軍事的に背伸びしすぎることは回避されたかも知れません。 -
晋作生誕地の並びには、個人宅の壁に竹製の花入が飾ってありました。
そこには字が書かれており、よく見るとそれは変体仮名まじりの和歌でした。
最近、変体仮名に興味を持ったため勉強しましたが、こうして日常生活で見ることが出来たのは驚きです。
生け花の家元なのでしょうか、郷土愛と教養を備えた方が住んでおられるのでしょう。 -
いよいよ晋作誕生地に到着。
見ると門は開いています。
今回は受け入れてもらえるようです。
受付に人の姿が見えないので、入場料を容器の中へ入れて、中へと進みました。
高杉晋作はこの屋敷で天保10年に生まれました。
本名は高杉春風という、なんとも風流な名前です。
しかし10歳の時に天然痘にかかってしまい、一命を取りとめたものの、風流な名前から想像するのとは正反対の、あばた面にあってしまったのでした。
そんな顔になったため、周囲の友人たちは晋作に「あずきもち」というあだ名をつけて呼びましたが、晋作はその悔しさを剣道の稽古にぶつけたのでした。
藩校明倫館に通うものの、学問に面白さを全く感じることがなく、8年間も在学してしまいました。
ある日、吉松塾の同門である久坂玄瑞に誘われて、松下村塾の吉田松陰を訪ねました。
松陰は晋作の能力と性格を一目で見抜き、その後も何かと玄瑞と競わせ、彼を伸ばそうと工夫したのでした。
一方高杉家では、海外への密航を企てた罪人の所へ一人息子が通うことを快しとせず、晋作に松下村塾へ行くことを禁じたのでした。
しかし晋作は、両親が寝静まった夜に、密かに松下村塾を訪れることを繰り返したのでした。
それでもついに彼の行動は家族に知られることとなり、晋作は家族への孝を尽くす道を選んで、松下村塾へ通うことを諦めたのでした。高杉晋作誕生地 名所・史跡
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晋作は江戸への遊学を許されましたが、両親にとっては松陰との縁が切れるという思惑がありました。
しかし遊学のために手配してくれたのは松陰自身であり、出立の際には励ましの手紙まで渡されたのでした。
江戸で暮らし始めた晋作は昌平坂学問所で学びますが、かつての明倫館と同じように、そこで学ぶ学問は晋作の心を揺さぶるものではありませんでした。
そうした中、萩の松陰が老中間部勝詮の襲撃を計画し、江戸で暮らす晋作や玄瑞らにも決起に加わるよう呼びかけたのでした。
晋作らは時期尚早として思いとどまるよう訴えますが、松陰は萩で計画遂行のために行動を起こし、野山獄へ送られてしまったのです。
松陰は江戸の伝馬町の獄へと送られ、晋作はそこで師匠と再会を果たします。
そして師匠の助言に従って萩へ戻りますが、到着した時にはすでに松陰はこの世の人ではありませんでした。
いつの間にか受付に人の姿がありました。
パンフレットを頂き、旧宅をすみずみまで拝見して、その場を去りました。 -
イチオシ
駐車場に戻り、2度めの萩を去りました。
まだ1日の予定の半分も過ぎていません。
萩の次は山口市内の名所を巡ります。
まずは五重塔で有名な瑠璃光寺に向かいました。
お寺の場合は駐車場がなかったり、あったとしても有料の所が多いのですが、山口県内で行く先々のお寺はみな無料駐車場が整備されています。
瑠璃光寺もかなり広い無料駐車場を持っていました。
車を停めて境内に向かうと、すぐに五重塔が目の前に姿を現します。国宝瑠璃光寺五重塔 寺・神社・教会
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瑠璃光寺の五重塔は、その姿が優雅で美しいため、法隆寺と醍醐寺のものとともに「日本三名塔」に数えられます。
建立されたのは室町時代中期に当たる嘉吉2年のことでした。
かつてこの地は香積寺の境内で、五重塔は大内義弘公の菩提を弔うため、弟の盛見公によって建立されました。
江戸時代の初めに香積寺は萩へ移り、その跡に瑠璃光寺が移って来たため、瑠璃光寺五重塔と呼ばれるようになったのでした。
平成16年に日本列島を襲った巨大台風は、山口で瞬間最大風速50.5メートルを記録し、甚大な被害をもたらしました。
それにもかかわらずこの五重塔は、全くの無傷で台風の勢いをしのいだのでした。
日本建築の強さ、そして建築者たちの技術の高さに、ただただ驚嘆するだけです。 -
五重塔と対面するように、大内弘世公の騎馬像が建てられています。
大内弘世公は大内家の24代目当主に当たります。
足利家の内紛に際しては、足利直義公や直冬公に味方して南朝方につきました。
その後、周防・長門を平定すると、2代将軍義詮公が持ちかけた取引に応じ、2国を安堵することと引き換えに北朝側につきました。
そして、直冬公が拠点としていた石見国の平定に乗り出し、これに成功して石見国も手中に収めたのでした。
戦国時代に将軍家を上回るほどの栄華を手にした大内家の基は、弘世公の時代に築かれたと言っても過言ではありません。
しかし晩年は、息子同士の家督争いが起こるなど、決して幸せなものではありませんでした。 -
弘世公の後を継いだのが、弟満弘公との家督争いに勝利した義弘公です。
彼は室町幕府2代将軍義詮公から偏諱を受け、義弘を名乗りました。
家督争いに勝った背景には、3代将軍義満公の影響力がありました。
なお、満弘公との間には和議が成立し、満弘公は豊前国を与えられて九州に拠点を移したのでした。
義弘公は、当時最も多くの所領を持っていた山名氏の分裂工作を企て、山名氏は分裂して内紛状態となり、その旧領であった和泉・紀伊の2国を手にすることに成功します。
しかし、将軍義満公との間に亀裂が生じ、義弘公は足利家を討つための挙兵を敢行。
和泉国の堺に籠城して足利の大兵団と戦い、ついに討たれて死去したのでした。
ともに籠城していた弟の弘茂公は、降伏して大内家の家督相続を許されますが、国許に残っていた盛見公との間で相続争いとなり、盛見公が後継ぎとなることが正式に決まったのでした。 -
大内氏の全盛期、31代義隆公は家臣の陶晴賢の謀反によって討たれます。
しかしその陶氏の天下も長くは続かず、新興勢力の毛利氏によって滅ぼされます。
徳川幕府の成立まで中国地方を支配したのが毛利氏であり、その繁栄の基礎を築いたのが毛利元就公でした。
毛利家は源頼朝に側近として仕えた学者の大江広元を祖にすると自称し、鎌倉時代後期には楠木正成公に兵法を伝授したという毛利時親を輩出したと伝えられますが、元就公の時は山名氏と大内氏に挟まれて、それ以上の領土拡大が難しい状況に置かれていました。
しかし優れた軍略化であった元就公は厳島の戦いで陶晴賢を討ち、続いて大内氏32代義長公を倒して大内氏を滅ぼし、大内氏の領地のほとんどを手に入れたのでした。
その後、山陰を治める尼子氏をも攻略し、中国地方の全土を支配下に収めます。
山口市内に鎮座する豊栄神社には、毛利元就公が祀られています。
元就公の孫に当たる輝元公が、関ヶ原の戦いで西軍の将にまつりあげられたのが運の尽きとなり、毛利氏は領地のほとんどを召上げられて長門国の萩に追いやられてしまったのでした。
輝元公は萩に鎮座する春日神社の境内に元就公の御霊を祀り、その後指月城内に遷座されましたが、明治維新後に「豊栄」の新号を賜って山口市内に遷座したのでした。
毛利家は江戸時代を通し、年賀の礼物を送ることを許された唯一の大名家でした。
それが毛利の誇りでもあったし、討幕を実現できたエネルギーの源でもあったのです。
ただ、現在の豊栄神社の境内を見た限りでは、地元の人々とのつながりが弱い気がします。
なお、西に並ぶように野田神社も鎮座しています。
社殿の様式は全く同じように見えますが、それぞれ独立した神社となっているとのことです。
野田神社には、最後の藩主毛利敬親公をお祀りしています。豊栄神社 寺・神社・教会
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境内には「百万一心」の碑があります。
毛利元就公の居城であった郡山城の石垣に、この文字が彫られた石があったため、文化13年に藩士武田泰信がその文字の拓本を取り、神社に奉納しました。
おそらく郡山城を築城する際に人柱の代わりに埋められた礎石ではないかと思われますが、現在はその所在地も分からなくなってしまいました。
「百」の字は「ノ」を取って「一」「日」とし、「万」の字は略字を用いて「一」「力」としていることから、「一日、一力、一心」つまり行動と努力と精神を一つにせよとも解釈できるのです。 -
豊栄神社が鎮座するあたりは、大内氏が治めた時代から周防国の中心地でした。
24代弘世公から大内氏が本拠地とした居館は堀に囲まれたほぼ正方形の敷地で、現在は龍福寺が建てられています。
龍福寺は、大内義隆公の菩提を弔うために毛利隆元公が再建した寺です。
天文18年に日本に渡ったポルトガル人フランシスコ・ザビエルは、この居館で義隆公に面会し、キリスト教布教の許可を得ました。
その際に掘ったとされる井戸が残されています。 -
居館の庭を飾るための巨岩はすべて豊後国から運ばれたものです。
しかし岩たちは、雨の夜には豊後へ帰りたいと言って泣いたのだそうです。大内氏館跡(大内氏遺跡) 名所・史跡
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大内氏の全盛期、京は応仁の乱によって焼野原同然の姿でした。
山口に花開いた文化は「大内文化」と呼ばれ、京都と大陸の文化を融合させた独自の文化が発展したのでした。
大内氏ほどの大名でも、滅ぶ時というのはまことに呆気なく滅ぶのです。
辞世に
討つ人も討たるゝ人も諸ともに
如露亦如電応作如是観(にょろやくにょでんおうさにょぜかん)
と詠んでいます。
人の一生のははかなさが詠み込まれています。 -
龍福寺資料館には大内義隆公の肖像画などが収められていますが、入館はせずに入口の大内義興公の騎馬像だけを見ました。
義興公は大内氏30代目当主で、義隆公の父に当たります。
室町幕府から管領代に任命されるとともに、西日本の7ヶ国を治め、大内氏の最盛期を築き上げた人物と言えます。 -
イチオシ
その大内氏が築いた高嶺城は、その後毛利氏の居城となり、現在は官公庁が立ち並ぶ区域となっています。
現在の庁舎の他に、近代日本が築いた西洋風建築物が残されています。
その一つ、旧山口県議会議事堂は大正5年に完成したもので、現在は国の重要文化財に指定されています。
山口県で初めて議会が開かれたのは明治6年12月のことでした。
太政官布告によって、全国の府県で議会の開催が定められたのは明治11年7月。
明治維新を主導した地域だけあって、地方自治もかなり先進的であったことが分かります。 -
旧山口県議会議事堂の隣にある旧山口県庁舎も国の重要文化財。
旧議会棟と同時に建設されました。
これら2棟を設計したのは、後に国会議事堂の設計にも携わる建築家、妻木頼黄でした。
調和の取れた見事なフォルムは、西欧列強と対峙できる強国に成長した日本の誇りを表しているように思えます。 -
近代建築の庁舎が整備された一方で、より古い時代の遺構もしっかり保存されました。
関ヶ原の戦いに敗れた毛利家はかろうじて長州一国を安堵された際、山口の地へ築城を希望したものの、幕府に却下されて萩へ移ったと伝えられます。
しかし最後の藩主敬親公の時、萩では海上からの砲撃に弱いことを理由に、ここ山口に新たな城が築かれました。
第一次長州征討で、幕府軍の撤兵を条件に城の一部を破却して萩に戻りますが、第二時長州征討では幕府軍と戦うための拠点とされたのでした。
最も古い以降である表門は、廃藩置県までは藩政門と呼ばれ、現在も歩行者が通り抜けられるようになっています。旧山口藩庁門 名所・史跡
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昼食時になったので、瓦そば以外の山口の名物、ばりそばを食べるために発祥の店春来軒を訪ねました。
長崎皿うどんに似ていますが、スープはとろみがなくサラッとしていて、麺は細麺です。
瓦そばは高級感がありましたが、ばりそばは庶民的な料理で、「山口のソウルフード」と呼ばれるのも理解できます。春来軒 中市店 グルメ・レストラン
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山口市内で最後に訪れたのは山口県護国神社。
戦争で散華された山口県出身の御英霊はもちろんですが、他の都道府県にはあまり例がない、明治維新を見ることなく殉難した先覚者の御魂が合祀されています。
吉田寅次郎命(松陰)、久坂義助命(玄瑞)、来島又兵衛命、高杉晋作命、月性命などです。
他に、日本陸軍の創始者で靖国神社参道の真ん中に像があることで知られる大村益次郎命も祀られています。
名の知れた偉人の命も、名前も知られない一兵卒も、命の重さに違いはありません。
それでも名前も知られない御英霊は、郷土出身の有名人たちと同じ御社に鎮まることを誇らしく思っているのではないでしょうか。 -
境内のたくさんの石碑の中に、「戦争裁判殉国烈士之碑」を見つけました。
およそ文明国が行うことではない、一方的な報復劇であった戦争裁判によって、多くの日本人が命を奪われ、または自決してこの世を去りました。
この碑には、山口県出身の殉難者33名の名前が記されています。
判事でさえ正当性に疑義を表明した東京裁判が、不当な裁判であったことは間違いありませんが、かと言って誰も責任を取らずに過去に流すことはできません。
日本人の手であの戦争の全てを検証し、どこでどう失敗したのかを解明しなければ、本当の意味で戦後は終わらないのだと思います。
たとえもし何名かの個人が戦争犯罪者に指定されても、日本人が日本人を裁くのであれば、当人の御魂も納得するのではないでしょうか。山口県護国神社 寺・神社・教会
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次に南の防府市へと向かいました。
防府とはつまり周防国の府(中心地)のことで、山口市とは違った文化が育った土地です。
調べて分かったことですが、私自身の遠い祖先である源頼親公は周防の国司を務めたことがあったようです。
ということは、この防府にあった役所で政務を行っていたはずです。
その防府に鎮座する「日本三大天神」の一つ、防府天満宮を参拝しました。
ちなみに残り2社は、福岡県の太宰府天満宮と京都府の北野天満宮です。防府天満宮 寺・神社・教会
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境内には巨大な「扶桑菅廟最初」の碑が建てられています。
扶桑とは日本のことで、菅廟とは菅原道真公の御魂を祀る場所を意味します。
社伝によると道真公が亡くなった次の時である延喜2年、日本で初めて道真公を祀る御社として創建されたとされます。
菅原道真公の他に天穂日命、武夷鳥命、野見宿禰を祀ります。
天穂日命は出雲国造の祖で、武夷鳥命はその子。
野見宿禰も天穂日命の子孫です。
菅原氏は野見宿禰から始まった土師氏の同族です。 -
イチオシ
朝廷で政敵から讒言を受けて無実の罪を着せられた道真公は、左遷先の太宰府へ赴く途中、ここ周防の地に立ち寄られました。
そして、国司を努める同族の土師氏を頼り、無実の知らせを待っていてほしいとの言葉を残して、勝間浦から船出をしたのでした。
道真公が大宰府で亡くなった日、勝間浦に神光が現れて酒垂山に珍しい雲がかかったため、住民たちは道真公がお帰りになったと悟り、国司は廟所を造営したのでした。
それが防府天満宮の始まりとされます。
一の鳥居からしばらく石段を登り、二層建ての楼門をくぐると、広い大庭に辿り着きます。
現在の社殿は昭和38年までに再建された、比較的新しい建物です。 -
境内で毛利重就公の像を発見しました。
長州藩7代藩主ということで、先ほど訪れた萩の東光寺に墓所があります。
重就公の時代は藩の財政が厳しく、彼は農地や塩田の開発を進め、藩政の改革を行いました。
晩年の8年間を防府で過ごした縁もあり、像が建てられたのでしょう。 -
また、野村望東尼の胸像や歌碑も置かれています。
野村望東尼は勤王の女流歌人で、自分の山荘に多くの勤王の志士を匿い、密会のために便宜を図ったのでした。
しかし慶應元年に福岡藩によって捕えられ、姫島に流されます。
翌年、高杉晋作に指示された奇兵隊士らによって望東尼は島抜けに成功し、奇兵隊のパトロン的な存在であった豪商白石正一郎の屋敷に匿われたのでした。
なお、白石正一郎は赤間神宮の初代宮司でもあります。
この頃の晋作の体はすでに肺結核という病に侵されていました。
松陰先生の意思を継いで戦い続けた晋作は慶応3年、29歳の若さで世を去ったのでした。
晋作は死の床で
おもしろきこともなき世をおもしろく
と辞世を読みました。
晋作の死後、その続きを
住みなすものは心なりけり
と詠んだ望東尼自身も、後を追うかのように同じ年に防府で亡くなったのでした。 -
イチオシ
徐々に厚い雲が垂れ込め、間違いなく天気は崩れるだろうと思われます。
予報では、明日にかけて東北地方は大雪になるだろうと伝えられています。
天気が悪くならないうちにレンタカーを返したいとは思いつつ、予定した目的地を減らすのも惜しい気がします。
なるようになると思いながら、阿弥陀寺へと向かいました。
文治3年に東大寺の別所として建立された寺です。
最大の見どころである山門は、工事のため素屋根がかけられており、外からはまったく見ることがかないませんでした。
本堂へと続く石段はおそらく開山当時からあまり変わっていない姿をしており、一人で無心になって歩くには絶好の雰囲気となっています。東大寺別院 阿弥陀寺 寺・神社・教会
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山門と石段にくらべると、瓦葺きの本堂は新しいものにさえ見えます。
ここには、東大寺建立のために材木を集めた人夫たちに使わせた石風呂が、残されているそうです。 -
防府で最後の目的地は、周防国一之宮の玉祖神社です。
御祭神は玉祖命。
延喜式には、御祭神が2座とだけあり、神様の具体的な名前は書かれておりません。
1柱が玉祖神であることは間違いないのですが、もう1柱の神は現在まで不明とされています。
ですが、正体は分からなくとも神様はそこにおられるので、お供物は必ず2座分奉ることになっています。玉祖神社 寺・神社・教会
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御祭神の玉祖命は『古事記』神代の巻にも登場する神様です。
最初に登場するのは、天照大御神が天岩戸にお籠りになった場面です。
世が闇に包まれ、魑魅魍魎が跋扈することになったため、思金神は天照大御神を岩戸の外に出すために知恵をしぼりました。
そして決まった作戦に、玉祖命は「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を作る役割を持って参加することとなったのでした。
他にも多くの神がそれぞれの特技を生かして祭器を作り、それらを使って儀式を行い、天照大御神を計画通りに岩戸から引き出すことに成功したのでした。
八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠は「八尺瓊勾玉」として、現在は皇室の三種の神器の一つとなっています。
また、天岩戸で特に重要な役割を担った5柱の神は、天孫ニニギの命の降臨の場面でもお供として登場します。
玉祖命もそのなかの一人に選ばれ、後に中国地方の平定を果たしたと伝えられます。
神社から近い場所に、玉祖命の陵墓と伝えられる石積土壇の「玉の岩屋」が残されています。 -
防府市の散策を終え、レンタカーを山口市の事務所に返却し、JRで宿泊地の小倉へと向かいました。
小倉駅で降りてホテルに向かうまでの道で、ついに雨に当たってしまいました。
翌朝も雨は強く降り続いており、予定していた小倉城の見学は取りやめることにしました。
そのかわり、屋内の施設の見学により長い時間を割くことを決めました。
西鉄天神駅のコインロッカーにバッグを預け、西鉄線で太宰府天満宮を目指します。
電車内から外を見ると、雨はやみそうな気配です。
それならそれで予定を柔軟に変更し、修験道の聖地とされた竃門神社を目指すことにしました。
神社へ向かうバスは、西鉄の到着時刻に合わせて運行しているようです。
電車を降りてバス停の方を見ると、向こうから走って来るバスの姿が見えたため、慌ててバス停に駆け付けました。
バスに揺られること20分で、山岳信仰の雰囲気が漂う参道入口に到着しました。宝満宮 竈門神社 寺・神社・教会
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霧に包まれた山道の石段を登って行くと、近代的な建築物と、比較的新しい社殿が見えて来ます。
近代的な建築物には社務所や結婚式場が入っており、参拝者がお守りなどを頂く授与所も、他の神社では見たことがないような、まるで都会の専門店のような洒落た内装です。
女性の参拝客を意識しているのだと思いますが、私のように男性が一人で居るにはどうも腰がそわそわしてしまう雰囲気です。
少し雨がぱらついて来ましたが、社殿の周囲を散策してみることにしました。
竃門神社は大宰府政庁の鬼門に位置し、大宰府鎮護の神として、また九州総鎮守として、古代から崇敬されて来ました。
竃門神社が鎮座する山はかつて「宝満山」と呼ばれていました。
神仏習合の観念では、この山の神は「宝満大菩薩」とされたからと言われています。
宝満山の名前は山伏たちによって広められ、かつて伝教大師最澄が唐へ留学するために滞在した宝満山寺も、この地にあったと考えられています。
現在は玉依姫命・応神天皇・神功皇后の3柱を御祭神としてお祀りしています。 -
帰りのバスに乗り、大宰府天満宮の最寄りのバス停で下車しました。
太宰府天満宮は、かつての萩行きで初日に参拝したのを覚えています。
あの時、御祭神である学問の神様に申し上げた、学校を作るという約束は、半分は達成され半分は未達成となりました。
理想として描を100パーセント実現することはできなかったものの、私塾を開いて年に1度の行事を行うことで、それに近い教育ができたことは事実です。
しかし、やはり保護者のニーズと自らの目標との間にある落差をどうすることも出来ず、1年ほど前に無期限で休業することとなりました。
7年余りという期間ではありましたが、あの大震災を乗り越えられ、無謀とも言える毎年の合宿を事故なく実施できたのは、神様にお守り頂いたおかげだと思います。
そのお礼も含め、こうして参拝に参りました。
バス停から最も近い西門から境内に入ると、樹齢1200年の大樟が出迎えてくれました。 -
記憶している限りでは、前回の参拝では本殿の裏手までは散策していないはずです。
西門から入ると、菅公歴史観の建物が左手に見えますが、これは今回初めて見る建物だと思います。
本殿を後ろから見るのも、おそらく初めてです。 -
さきほどの大樟は最も古いものですが、境内には合計で51本の樟の御神木が植えられています。
本殿裏の樟は夫婦楠で、2本が仲良く寄り添っています。 -
廻廊の内部に進み、御本殿に参拝。
平日にもかかわらず、参拝客でにぎわっていました。
アジア系の外国人が多いのは、アジア地域が豊かになった証拠なのでしょう。
ただし金銭的に豊かになったとは言っても、精神的にも豊かになっているかは別問題です。太宰府天満宮 寺・神社・教会
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境内を散策していると、東門のあたりに末社の中島神社を発見しました。
御祭神の田道間守は、垂仁天皇の命によって唐や天竺に渡り、「非時香菓(ときじくのかぐのみ)」を探し求めました。
非時香菓は一年中甘く実る果実で、不老不死の薬であるとも言われています。
田道間守はようやくそれを見付け、日本へ持ち帰りますが、帰国した時にはすでに垂仁天皇は崩御した後でした。
田道間守は兵庫県出石に祀られていますが、篤く崇敬する太宰府の菓子業者たちが社殿を造営し、御霊を勧請したのでした。 -
麒麟の像は、境内と境外の境界線を示しています。
キリンビールの社名の由来となっています。
キリンビール社を買い取った長崎の商人グラバー氏は、足しげく太宰府天満宮を訪れ、特にこの麒麟の像が大のお気に入りだったそうです。 -
政変によって京都を追放された尊皇攘夷派の七卿は、長州藩に身を寄せている間に1名は病没し、1名は脱出。5名に減っていました。
俗論派が権力を伸ばしたことにより、長州にもいられなくなった五卿は、大宰府に移されることとなりました。
彼らが身を寄せた延寿王院は大宰府天満宮の参道にありますが、現在は太宰府天満宮宮司の邸宅として使用されているため、立ち入ることが出来ません。
高杉晋作をはじめ、龍馬や西郷などの維新の志士たちが、幽閉されている五公卿に会うために延寿王院を訪ねました。
きっと太宰府天満宮も参拝したことでしょう。 -
旅の締め括りとして、平成17年にオープンした九州国立博物館へ向かいます。
約10年前にここを訪れた時は、オープンして間もない時期だったようです。
しかし、東北にいて九州の事情など全く知らなかった自分は、国立博物館がオープンしたなど知る由もありませんでした。
もっとも、その時は松下村塾を尋ねることが大きな目的だったので、知っていたとしても入場までしただろうとは思えません。
今回は二度目の参拝ということもあり、目的地を幅広く設定することが出来ます。
下調べで目に付いたのが、特別展「古代日本と百済の交流」のことでした。
なんと皇室の三種の神器にも匹敵する神宝が、期間限定で公開されるというのです。 -
太宰府天満宮から九州国立博物館までは、トンネルに設置されたエスカレーターに乗って向かいます。
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その神宝とは、奈良県天理市に鎮座する石上神宮に納められる「七支刀」です。
一振りの太刀の刃の部分が、左右3つずつ枝分かれしており、本体を合わせると7つの枝を持った姿をしているのです。
そのため「七支刀」と名付けられました。
この特別展は1月1日から3月1日までの日程で行われていますが、実物が展示されるのは1月15日から2月15日までと、半分の期間しかありません。
ちょうどその期間に太宰府を訪れる予定を組んでいたのも何かの縁であろうと、引き寄せられるようにやって来たのでした。
いざ実物を前にすると、感動のあまりしばらくそこから動けませんでした。
その表面に彫られた文字は、はっきり読み取れます。
4世紀に百済で作られ日本に渡って来た金属器が、今もほとんど姿を変えずに残っているというのは、まさに奇蹟以外の何物でもありません。
他の展示品も見ごたえがありましたが、七支刀だけは何度も繰り返し見てしまいました。
おそらく警備員に顔を覚えられるほど。
他にも「発掘された日本列島2014」も興味深かったです。
1年間で日本各地の代表的な遺跡からどのような資料が出土したのか、研究の成果を俯瞰することが出来ました。
東日本大震災で被災した地域の埋蔵文化財を守るための調査が進んでいるという事実は、非常に嬉しく思いました。
見学を終えて外に出ると、雨が降り出していました。
少し早目ですが、もう心残りがないので空港へ向かうことにしました。
しかし空港に到着してみると、仙台行きの飛行機は天候調査中となっていました。
いやな予感がしましたが、間もなく大雪のためフライト中止が決定し、大幅に予定が狂うこととなりました。
生徒たちのために補講を予定しているので、翌日の昼までには仙台に戻らなければなりません。
ここで一泊して明日の朝の飛行機が飛ぶことを祈るか、羽田まで飛行機に乗り新幹線を利用するか。
前者であれば出費は低くおさえられますが、翌朝必ず飛ぶという保証はありません。
結局、出費は大きいが必ず帰れる後者を選ぶことにしました。
新幹線の指定席がいっぱいだったり、仙台駅から仙台空港まで車を取りに行ったりと、余計にかかったのは費用だけではなく時間もでした。
翌朝きれいに晴れたのには、お天気に文句の一つでも言ってやりたくなりましたが、責任を果たせたのでよしとします。九州国立博物館 美術館・博物館
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