2014/07/10 - 2014/07/10
23位(同エリア105件中)
まみさん
2014/07/10木 アイゼナハ観光
・カール通りからマルクト広場散策
・ゲオルク教会(修復中で入れず)
・ヴァルトブルク城見学(11:30~15:50)
11時50分からのガイドツアーに参加
14時頃まで博物館見学
塔に上る
・ニコライ教会でテレマンの室内楽コンサート(18:30~19:30)
【アイゼナハ泊:シュタインベルガー・ホテル・チューリンガーホフ】
吟遊詩人や騎士が活躍する中世ヨーロッパ宮廷。
まさにその舞台を味わえる城が、アイゼナハのヴァルトブルク城でした。
修復された部分もありますが、造りものではなく、オリジナルです。
ヴァルトブルク城は、ドイツ史上、いくつもの歴史的文化の足跡を残す城とのことですが、ひととおりドイツ史は学んだつもりでも、群雄割拠時代のエピソードまでは知らない私にとって、この城のエピソードでぴんときたのは、ここでルターが新約聖書をドイツ語に翻訳したことくらいでした。
お輿入れしたハンガリー王女エリーザベトの名や、ワーグナーがオペラ「タンホイザー」の題材にした、というのは知っていましたが、私にとってそれはあくまで表面的な知識でしかなかったので、残念ながら、ああここがそうなんだ、という感慨は、見学中にはほとんどありませんでした。
ヴァルトブルク城の見学は、豪華な本館はドイツ語か英語のガイドと一緒のツアーでなければできません。
できれば英語のガイドのツアーで回りたいとも思いましたが、英語ガイドによるツアーの本数は少なく、ジャパニーズ・スピーキングの私は、チケットを買った段階ですぐに予約できるツアーということで、問答無用でドイツ語ガイド付のツアーにふりわけられました。
ただし、ガイドからもらえた日本語の説明書は、要返却のものではなく、持ち帰りOKのリーフレットでした!
もし英語ガイドのときにこれがもらえないのであれば、ドイツ語ガイドでかえってよかったと思いました。
あとでそのリーフレットをよく読み返してみたら、推測ですが、ガイドが話してくれた内容のほとんどが網羅されていたのではないかと思えてきました。
ガイド付きで見学した本館は、フレスコや壁画や装飾ペインティングなどに金キラ豪華さはありましたが、レリーフや漆喰装飾が施されない時代で、城の構造自体は中世の城らしく質実剛健さが同居して、いいかんじでした。
でも、当然、ゆっくり写真が撮れたのは、各自で回れた後半部分の見学のときでした。
なので、リアルタイムのガイドの話が全然聞き取れないのであれば、1人で回りたかったと思ったのも確か。
ガイド付きでないと見学させてもらえないのだから仕方がないですけどね。
ルターが聖書翻訳をした有名な部屋は、各自で回る代官館の方にありました。
ヴァルトブルク城編の旅行記は前後編に分けたのですが、ルターの部屋の写真は後編です。
ちなみに、代官館のミュージーアム部分の展示は、さほど写欲はそそられずにさっさと回れるかと思ったのですが、興味をそそられるものが思ったよりたくさんありました。
考えてみたら、中世ヨーロッパの宮廷生活を偲ばせる品々だったので、城見学のあとにそそられたのは、当然でした。
<2014年ドイツ旅行:簡易旅程>
07/02水 職場から成田前泊
07/03木 成田第2空港からJALでヘルシンキ経由でベルリンへ
07/04金 ベルリン観光1日目
07/05土 ベルリン観光2日目
07/06日 ベルリン観光3日日
07/07月 ベルリン観光4日目
07/08火 ライプツィヒへ移動&観光
07/09水 ナウムブルク日帰り観光
07/10木 アイゼナハへ移動&観光★
07/11金 ゴタ日帰り観光
07/12土 エアフルト&ワイマール日帰り観光
07/13日 フランクフルトへ移動&観光
07/14月 イトシュタイン日帰り観光
07/15火 マールブルク日帰り観光
07/16水 ハーナウ&シュタイナウ日帰り観光
07/17木 フルダ日帰り観光
07/18金 ハイデルベルク日帰り観光
07/19土 フランクフルト半日観光~夕方出国
07/20日 JAL直行便で14時頃に成田第2空港着
※この旅行記の対象の日に★をつけました。
詳細旅程はこちら。
「2014年ドイツ旅行~12年ぶりの再訪~【旅程一覧】
http://4travel.jp/travelogue/10909977
準備編や帰国後の背全体の感想は、ブログ「まみ’s Travel Diary(http://4travel.jp/dynamic/jump.php?url=http://mami1.cocolog-nifty.com/travel_diary1/)」
に掲載しています。
「ドイツらしい中世の城ヴァルトブルク城
この城は1067年、ヴァルトブルクの山頂にテューリンゲンの伯爵ルートヴィヒ・デア・シュプリンガーが建てたといわれるが、現在残る主要部分は1170年、後期ロマネスク様式で建てられた。
内部の見学は、ドイツ語または英語のガイドツアーで回る。日本語のパンフレットも用意されている。騎士の間 Rittersaal、食事の間 Speisesaal は質素だが、エリーザベトの間 Elisabeth-Kamenate では、金色のモザイクの目が眩むような美しさに圧倒される。
13世紀初め頃のヴァルトブルク城には、多くの詩人やミンネゼンガーと呼ばれる宮廷恋愛歌人が招かれた。ドイツで最も有名なミンネゼンガーのヴァルター・フォン・フォーゲルワイデとヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハなどが、詩歌を競い合った様子は、歌合戦の大広間 Saengersaal の壁に『タンホイザー』の歌合戦のシーンとして描かれている。
約1時間のガイドツアーのあとは各自、博物館を見学しながら、質素な木製の渡り廊下を通って、マルティン・ルターが新約聖書をドイツ語に訳した小部屋ルターシュトゥーベ Lutherstube にたどり着く。部屋はとても質素で、1521年5月から翌年の3月までの10ヵ月間、厳しい状況で偉業を成し遂げたルターの偉大さに感服するだろう。ゲーテも1777年にここを訪れている。」
(「地球の歩き方 ドイツ 2013~14年版」より)
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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市バスを降りて、城までこの坂道を上がる
カールス広場発11時2分のバスに乗り、11時15分頃にヴァルトブルク城前のバス停に到着しました。
このあとさらに急な坂道を15〜20分ほど歩くというので、坂が苦手な私は城入口まで私営のミニバスで行くことにしました。
カールス広場から乗った市バスの運賃は1回券1.40ユーロ。
帰りは、城前の停留所に券売機はなく、車内で購入しなければならなかったので1.50ユーロでした。
(2014年7月現在、1ユーロ=約140円で換算) -
バス停の近くにあった駐車場案内所
Pendeibus zur Wartburg ab hier.
さらに城の前まで連れて行ってくれるミニバスは、ここから発車するのだと分かりました。 -
市バス到着にあわせたようにまもなくやってきたミニバス
8人乗りで1人2.00ユーロでした。
私以外の乗客はみな、ロマンスグレーの白髪が似合う60代70代くらいの老夫婦ばかりでした(苦笑)。
だって坂道の上りはいやなんだもーん! -
ゲートの前からの城の眺めは興ざめ
せっかくすてきな木組みの外壁が見えていたのに。 -
ヴァルトブルク城の外ゲート
このすぐ下までミニバスで来ることができたので、とってもラクできました@ -
外ゲートをくぐってすぐに見られたステキな城内の眺め
城壁は二重になっていて、あの木組みの家の脇にもうひとつ内ゲートともいえるタワーゲートがありました。 -
可愛らしい木組みの壁部分
ここは、各自で見学できる代官館(Vogtei/Bailiff’s lodge)(12〜15世紀)で、ルターの部屋のある方です。
さきほどの外から見えた通廊で、本館とつながっていました。 -
低い内側の城壁から眺めた木組みの壁の代官館
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白漆喰壁に木組みの美しい代官館の外観
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内壁の外の代官館側の中庭
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代官館側の中庭にあったドラゴンの井戸
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タワーゲート前からの代官館のある眺め
チケット売り場はこのあとのタワーゲートの建物内にありました。
チケット代は、ドイツ語のガイド付き見学ツアー代とあわわせて9.00ユーロでした。
11時50分開始のツアーが予約されました。
ちなみに、英語ガイドの場合も同じ値段かどうか不明。
東欧圏の場合、こういうときはたいてい現地語ガイドより英語ガイドの方が高かったものです。
もっともドイツは東欧圏よりはずっと英語が流通しているので、関係ないかもしれません。 -
タワーゲートの内側の中庭
ガイド付きツアーの集合場所はこの中庭だったので、ツアー開始までここを少しぶらぶら回りました。
ちなみに、この写真を撮ったのは、城見学を終えて14時頃で、それまでの強い雨がやんだばかりでしたので、人の姿が少ないときに撮れました。
ツアー開始前の11時頃は、雨が降っていなかったし、複数の見学ツアー客が待っていたので、もっと観光客であふれていました。 -
イチオシ
タワーゲートの内側の中庭(指揮官の庭)のテラスからの眺め
眼下の町は、おそらくアイゼナハ。
オレンジ屋根の家が緑に映える前景と、橋の向こう、なだらかな丘陵が入り組むところがまるで湖がいくつもあるように見える後景のコントラストがすばらしかったです@ -
イチオシ
右はかつてのゲストハウス(Gadem/1874-1877)で現在カフェ、左は1320年頃の南塔
奥の南塔は、上って見学することができます。
あそこからの眺めはすばらしかったです。城見学の後に上りました。その写真はヴァルトブルク城の後編の旅行記に。 -
ツアー開始はまずこの模型を使っての城の説明から
分かりにくいけれど、城壁は二重となっていました。
1067年の建築当初は簡単な国境防御施設にすぎなかった城ですが、次々と増改築され、13世紀には広大なライン地域からザール地域、そしてチューリンゲンやヘッセンまで所有したルートヴィンガー一族の重要な城となりました。 -
現在位置のある一番古い部分の中庭を中心に
広場の向こうサイドにあるのが、築1155-1170の城の本館と、ゲートホール(Torhalle/1866-1867)。
左側に隣接しているのが兵器庫(Dirnitz/1865-1867)
手前にあるのが現在カフェのゲストハウス(Gadem/1874-1877)。
右にあるのが1320年頃建築の南塔。
この城は早くから暖房装置が整った進歩的な城で、建築年代が19世紀の部分は、きちんと暖房がきいていた建物だったようです(Heated hall building)。 -
城の西端側
手前は20世紀の新しい塔。右の建物が城の本館。
城の本館に付属している小さな建物は、1889-1890年の騎士のバスルーム(Ritterbad)。
あとで城壁と城壁の間に下りました。
そこには職人エリアがありました。 -
ツアー開始、はじめの部屋はロマネスク様式の騎士の間
ロマネスク様式らしいこの壁の浮彫は、ドラゴンと戦う騎士がテーマでしょうか。 -
「騎士の間」にあったルードヴィヒ・デン・シュプリンガーの記念像(14世紀の複製)
1067年に最初にこの城を建設したマインフランク地域の伯爵の像です。
彼の一族は、のちにルートヴィンガー一族と呼ばれ、開墾、城の建設、町や修道院の設立をしたり、土地の強奪や勢力結婚によっても勢力をつけて中世ドイツの有力者となりました。
息子のローター・フォン・シュプリングがチューリンゲンのランドグラーフ(国王の土地を守護する職)になり、ここから見学したのはランドグラーフの居城でした。
ランドグラーフは、思うに、鎌倉時代の御家人みたいなかんじかな。
ルートヴィンガー一族は、言うなれば、はじめは御家人レベルで、やがて力をつけて大名レベルへと発展していったということでしょう。 -
中世ドイツのイーヴェイン・サーガからの場面を描いた壁画(1227年の作品の複製)
ランドグラーフの部屋にあった1227年作品の複製。
イーヴェイン・サーガとは、「アーサー王伝説に関係した騎士物語と、贖罪をテーマとした宗教的物語」とのことです。
中世騎士文学を説明したサイトにあらすじがありました。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~moonover/2goukan/parzival/iwein.htm -
ロマネスク様式の騎士の間
このあたりは1970年代から1982年にかけて復元されました。 -
復元された柱頭のレリーフに注目
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この扉の外の階段を上がり、ランドグラーフの居所階へ
階段の写真は撮らなかったですが、中世の城は、階段は建物の外にあるのがふつうだったので、建物の中にある階段はとても珍しい例だそうです。 -
ランドグラーフの部屋の家具
「食堂の間」だったと思います。
壁はきれいに漆喰に覆われていますが、かつてのレンガ壁と思われる部分が、漆喰の一部が向き出しとなった形で見えていました。 -
16世紀フランス製の衣裳入れ
ランドグラーフが力をつけて各国から品物を取り寄せることができた証みたいな品ですが、なによりステキな家具だったので写真を撮りました。 -
タイルのペインティングが美しいストーブ
中世のこの城の復元にあたり、当時として進歩的な暖房設備の復元には特に力が入れられたそうです。
床下暖房設備も整っていたそうです。 -
復元された柱頭の鬼と植物装飾のレリーフ
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目が眩むような金のモザイクの壁画のある「エリザベートの間」
17世紀以降の中世の女性の部屋でしたが、モザイクは20世紀に作られました。
モザイクのテーマは、ヴァルトブルク城の最も有名な住人である、ハンガリーからお輿入れした聖エリザベートの人生だそうです。 -
金きらモザイクで覆われた天井と壁の上部・その1
ハンガリー王女エリーザベトは、1211年にチューリンゲン伯と結婚するためにやって来たときは、まだ4才でした。
彼女はヴァルトブルク城や周辺の姉妹城で生活し、1221年、14才になったときにテューリンゲン方伯ルードヴィヒ4世と結婚しました。
ウィキペディアで彼女の生涯をもう少し調べてみたところ、当初の婚約者だったヘルマンが夭折したため、その弟のルートヴィヒと結婚したようです。
そのルードヴィヒは1227年に第6回十字軍に従軍中に疫病のため亡くなり、20才の若さで未亡人となりました。 -
金きらモザイクで覆われた天井と壁の上部・その2
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金きらモザイクで覆われた天井の交差ヴォールトとシャンデリア
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金きらモザイクで覆われた天井と壁の上部・その3
モザイク画は、どれがなんの場面か分からないまま、撮りまくりました。
エリーザベトは、聖フランシスコを手本とした禁欲的な生活と貧しい人々への施しや病人に対する献身で知られています。
また、数々の救貧院を設立し、ヴァルトブルクの山麓にあったその施設の1つで、彼女自身も下層階級の人々の仕事を手伝ったそうです。 -
祭壇に向かって跪く、光輪のある聖女がいるモザイク画
モザイク画のテーマは
・キリスト教への恭順の印としてランドグラーフの冠を放棄する
・召使いたちの和にいるエリーザベト
・夫ルードヴィヒがいた十字軍の船(彼は1227年にイタリア海岸で死亡)
・未亡人がその子供たちとヴァルトブルク城を後にする
だそうです。
これはどれかしら。冠の放棄かな。 -
交差する天井ヴォールトの輪郭の美しい模様に注目
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宴会場面と赤い衣裳の隠遁者風の老人がいるモザイク画
ここに描かれた赤い衣裳の老人は、ひょっとしたらエリーザベトの誕生を予言したハンガリー出身の伝説の魔術師であり詩人でもあるマイスター・クリングゾァかもしれませんが、推測です。 -
エリーザベトよりむしろ伯らしき人物の方が目立つモザイク画と
夫の死後、ヴァルトブルク城を去ったエリーザベトは、マールブルクの修道教会で生活し、救貧所の1つで働きながら、1231年に24才の若さで亡くなりました。
ウィキペディアフリー百科事典でもう少し詳しく調べてみました。
「(前略)長男のヘルマンはまだ5歳だったため、ルートヴィヒ4世の弟ハインリヒ・ラスペがテューリンゲンの摂政となった。おそらくは未亡人の化粧料の取り扱いをめぐってハインリヒあるいは姑に疎まれ、ヴァルトブルク城を追われた。(中略)
1228年に夫の遺骨を修道院に埋葬した後、師父であるコンラートのいるマールブルクに赴く。聖フランシスコ会に入会してテューリンゲンから化粧料の代金として受け取った2000マルクを寄進し、マールブルクに病院を建設して貧民・病人のために尽くした。コンラートによる厳しい監督、監視の下、エリザベート自身も貧民のような生活をしたという。娘ゲルトルートは2歳のときにエリーザベトから引き離されて修道院に送られた。1231年、24歳の若さで死去。」
(ウィキペディアフリー百科事典「エルジェーベト(ハンガリー王女)」より引用) -
天井を支える柱のリブの模様に注目
エリーザベトは1235年に聖人の列に加わりましたが、てっきり彼女の生前中、その行いが評価されたからだと思い込んでいましたが、死後の奇跡がきっかけでした。
「(前略)エリーザベトの墓には死の直後から奇跡が起き始め、巡礼が来るようになった。召使のイルムガルトの証言によれば、遺体を3日間だけ公開したところ巡礼者が殺到し、聖遺物としてエリザベートの顔を覆っていた布、爪、果ては指を切り取って持ち去る者があったという。コンラート・フォン・マールブルクから報告を受けたローマ教皇は、エリーザベトの死の翌年に列聖のため調査団を設置し、奇跡や生前の行いを調べさせた。1233年にコンラートが殺害されていったん頓挫するが、エリザベートの義理の兄弟にあたるコンラート・フォン・テューリンゲン(のちドイツ騎士団総長)の尽力により調査が再開された。コンラートはフリッツラーを破壊した罪で破門されていたが、教皇の許しを請うために教会やドイツ騎士団に尽くしていたのだった。1235年の聖霊降臨祭の日、教皇グレゴリウス9世はエリーザベトを列聖した。(後略)」
(ウィキペディアフリー百科事典「エルジェーベト(ハンガリー王女)」より引用) -
分厚い壁にある窓
窓ガラスは後世につけられたものでしょう。
ステキな模様ですけど@ -
イチオシ
絢爛豪華だけど構造は中世の教会のような厳かさがあったエリーザベトの間・その1
その荘厳さも、こうやって人がいない瞬間の写真が撮れたからこそ。 -
絢爛豪華だけど構造は中世の教会のような厳かさがあったエリーザベトの間・その1
アングルを変えてもう一枚。
どの部屋もガイドツアー・グループでいっぱいになってしまうくらいこぢんまりしていました。
それでもこういう写真が撮れたのは、私はいつものように、ついつい殿になりがちだったから(苦笑)。
ガイドのドイツ語の聞き取りにチャレンジしようと思ったのですが、全然ダメだったものだから、殿になってしまったのでした。
ガイドの話をしっかり聞きたかったら、むしろできるだけ先頭のガイドのそばにいるようにするんですけどネ。 -
城内のロマネスク様式の礼拝堂
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礼拝堂の祭壇の前で説明する城のガイドさんと
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礼拝堂に残る古い壁画
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現在オルガン・コンサートやミサが行われる礼拝堂
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エリザベート・ギャラリー
エリーザベトの生涯をテーマとしたフレスコ絵で飾られた通廊です。
そのフレスコ画は、ヴァルトブルク城が修復された時代、19世紀中頃の後期ロマン派画家たちによるもので、全部で14枚ありました。 -
24才の若さで亡くなったエリーザベトの死の場面
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おそらく、エリーザベトが子供たちを連れてヴァルトブルク城を追われた場面
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おそらく、夫ルートヴィヒの十字軍遠征を見送る場面
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イチオシ
救貧所の人々に手をさしのべるエリーザベト
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吟遊詩人による歌合戦が行われた「歌の間」
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歌合戦の場面が描かれた、ヴァルトブルク城内でおそらく1番有名な絵
19世紀のドイツの画家モーリッツ・フォン・シュヴィントが1855年に制作。
ちなみに、歌合戦の碑文は修復中で見られませんでした。 -
吟遊詩人たちに歌を捧げられる宮廷領主のヘルマン王とゾフィー
この女性はエリーザベトじゃなかったんだ、と今更知った私でした。
ワーグナーがモチーフに使った「タンホイザー」の歌合戦では、聖エリーザベトではないとは思いますが、歌を捧げられる女性はヴァルトブルク領主のエリーザベトとなっていたので、ごっちゃになりました。 -
吟遊詩人とヘルマン王とゾフィー
吟遊詩人は、最も有名なヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデだと思います。
主催者の領主を褒め称えるのがテーマだったこの歌合戦は、なんと敗者は絞首刑にされることになっていました。 -
ランドグラーフ(テューリンゲン方伯)の部屋の壁画
壁画は同じくモーリツッ・フォン・シュヴィント制作。
狩猟中のランドグラーフを描いたものでしょう。 -
天井と壁画
ここにある7枚の絵は、ランドグラーフの伝説を題材にしたものだそうです。 -
城の鍛冶職人とランドグラーフを描いた壁画「ヴァールトヴルクの誕生」
ドイツ語ガイドツアーのときにもらった日本語リーフレットによると、ヴァルトブルクの「名前の由来は、伯爵であるルートヴィッヒ・デア・シュプリンガーが狩りの最中にこの山頂に到達し、景色の美しさに深く感動し『山よ(ヴァルトベルク)、私のためにどうか一つの城(ブルク)を!』と叫んだことにちなんでいる」そうです。 -
出征の場面の壁画がある壁
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建築現場にライオンが飛び込んできた場面?
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戦いから戻って来た場面かな
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ランドグラーフの結婚式の場面
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16世紀頃のアイゼナハ
右上の方にあるのがアイゼナハ城でしょうか。
この写真では拡大しないと分かりにくいですが、手前の行列を迎える左端の3人の騎手は骸骨でした。 -
アイゼナハの町の部分に注目
右手にあるのがマルクト広場ではないかと思います。
現代のマルクト広場の面影が感じられました。 -
オリジナルのものと思える獅子の石像
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イチオシ
そして、城内ツアーの最後のハイライトの部屋である祝宴の間
バイエルン国王ルートヴィヒ2世がノイシュヴァンシュタイ城内にこれに似せて祝宴の間を作ったという部屋です。
私はノイシュヴァンシュタイ城の方を先に見ているのですが、残念ながら20年異常も昔の話なので、ほとんど記憶に残っていません(苦笑)。
祝宴の間はいまはこのようにコンサートのためにイスが並べられていましたが、本来はもっと中世の城らしいだだっ広い広間です。 -
豪華な祝宴の間
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入口近くの美しい装飾
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イチオシ
居城よりも広かったという祝宴の間
350平方メートルあるそうです。
そして中世には珍しく、3つも暖房設備(ストーブ)がありました。 -
中世ドイツの王冠のようなシャンデリアと美しい天井
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華やかな壁のペインティングやアーチ飾り
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10年来、ドイツラジオ文化局とMDRが生放送するヴァルトブルク・コンサートが開催される祝宴の間
その他にもさまざまな文化イベントがここで行われているそうです。 -
中世の写本のような装飾のあるアーチの壁
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中世建築には珍しい暖房の1つ
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おそらく十字軍として出征し、病死したルードヴィヒ4世
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ルードヴィヒ4世像(おそらく)の絵のある壁とアーチ窓
ここまでが城内ツアーで撮った写真です。
このあとは各自めいめいで回りました。 -
「北東側から見たヴァルトヴルク城(Die Wartburg von Nortoste)」
1790年頃
各自で回るコースでは、はじめ博物館展示が続きました。
いまいるヴァルトブルク城の絵画には注目しました。
現在もこちら側が城への入口となっています。 -
「南塔の眺め(Blick auf den Suedturm)」
1859年
August von Wille作
いかにもロマン派な絵画ですが、けっこう好みです。 -
「ヴァルトブルク城での吟遊詩人の歌合戦(Der Saengerkrieg auf der Wartburg)」
1838年
Carl Alexander Simon作
吟遊詩人の様子がまさに求愛のよう。 -
新ロマン派の宝石箱
1860年頃 -
ルードヴィヒ王と思われる人物が描かれている部分に注目
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ルターやデューラーと同時台の人文学者Willibald Pirckheimerの書斎のベッド
ニュルンベルクにあったオリジナルの部屋が1863年に移設されたそうです。 -
Willibald Pirckheimerの書斎の壁とシャンデリア
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Willibald Pirckheimerの書斎の、いかにも中世らしい窓辺と家具
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ユニークな顔つきの動物の形をした水差し
14世紀 -
これはひょっとするとライオンかな
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聖遺物入れ
リモージュ産/13世紀初頭 -
中世の楽器リュート
ニュルンベルク産/1450年頃 -
リュートの美しい装飾
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「ヴァルトブルクのハープ」
チロル産/1450年頃 -
聖エリーザベトの生涯を描いたタペストリーより・その1
バーゼル産/1480年頃
左にいるのが聖エリサベスですね。 -
聖エリーザベトの馬を連れた貴人と出会うシーン
うーん、彼女の生涯にこんな場面があったかどうかよく分からないです。 -
聖エリーザベトによる聖フランシスコ会への寄進の場面かな
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病人を見舞う聖エリーザベトというところかな
ヴァルトブルク城の旅行記の前編は博物館展示の途中ですがここでおわり。
後編へとつづきます。
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この旅行記へのコメント (2)
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- jijidarumaさん 2015/04/09 18:44:29
- 聖女エリザベートと末子ゲルトルート・アルテンベルク
- まみさん
はじめまして、こんにちは。
アイゼナハのヴァルトブルク城の旅行記を拝見しました。
2001年に16年ぶりにドイツを訪れた時にここを訪れました。当時よりはさらに改装が進み、美しくなった写真に感慨を覚えました。
さて、聖女エリザベートの伝説に興味を持ちましたが、旅をしていると思いがけない所で、その遺品や足跡を見ることが出来ました。
2006年5月にライン・モーゼルを走り、最後にLahn-Ferienstrasseラーン休暇街道を巡りました。
以下はご参考までに:
最後の1泊をBraunfelsブラウンフェルズという町にしました。この町は高タウナス山系の国立自然公園内にあり、ラーン川の南に、750年以上の古い歴史をもつFachwerk木組みの家並みが美しい町です。今は人口11400人が住む保養地となっている。
町の中心に見事なSchloss Braunfelsブラウンフェルズ城があって、古城好きとしては外せない所です。
城の成り立ちは1280年にSolmsゾルムス伯がNassauナッサオ伯との戦いの為に、砦を築いたことに始まり、15世紀に城は完成するが、17世紀の30年戦争で被害をうける。
その後、ネオ・ゴシック様式の城が1891年に出来上がり、第二次大戦では、隣町のWetzlerヴェツラー(ゲーテの名作『若きウェルテルの悩み』の舞台になった)は英軍の空襲により殆ど壊滅したが、この町は幸いにも被害も受けずに現在に至り、城は博物館となっている。
「Schloss Braunfels見学」:(抜粋)
皇帝フリードリッヒ三世が1887年にこの城を訪れ、
【ブラウンフェルズを見ずに、老いてゆけようか?!(日本的には“日光を見ずに、結構と言うな!”かな?!)】と言ったという。
この城のおびただしい文化遺産は絵画であり、武器、家具調度品、陶磁器等のコレクションである。
次の?ゴシックの間に進む。ここにはマールブルグ・聖女エリザベートの一番下の娘ゲルトルート・アルテンベルクGertrud von Altenberg(1227〜1297);彼女は母が死んだ時、たった3歳であった為、Kloster Altenbergアルテンベルク女子修道院で育ったという。)が持っていたゴシック様式の櫃がある。となりの、
?祭壇の間には、最も、興味深い、聖女エリザベートの指輪が展示されている。テューリンゲン方伯である、夫ルートヴィッヒ四世が十字軍に出かける際に、聖女エリザベートに与えた指輪であると・・・【この城で聖女エリザベートの話を聞くとは想像だにしませんでした。夫ルートヴィッヒがイタリアの南・Otrantoオトラントで戦死した時、エリザベートのしていた指輪のオパールの石が血を流したと】・・・伝えられているそうだ。
指輪の横にある、13世紀の銀製のピッチャーは聖女エリザベートが貧者や病人に、それでワインを与えたと云う。
(注)ブラウンフェルズ城はSolms-Braunfels ゾルムス・ブラウンフェルズ伯家の居城であり、近隣のNassauナッサオ伯家などと共に、アルテンベルク女子修道院の支援者であった関係で、聖女エリザベートや娘のゲルトルート・アルテンベルク女子修道院長の遺品が展示されたようである。
jijidaruma
- まみさん からの返信 2015/04/10 19:14:25
- RE: 聖女エリザベートと末子ゲルトルート・アルテンベルク
- jijidarumaさん、こんにちは。こちらも有益な情報をたくさんありがとうございます。
ゲルトルートの話、興味深かったです。
jijidarumaさんのマールブルクとブラウンフェルズの旅行記を拝見しました。
実は私はこのときマールブルクに行ったんですが、痛恨、エリザベート聖堂には入り損ねたんですよ〜。ガイドブックの夏季開館時間は、現地ではずれていたので。
アイゼナハ城を見学したとき、それから旅行記を作成していたとき、なんとなくアイゼナハ城やエリサべーとにまつわる伝説を知っていたつもりでいて、実際に城にまつわる歴史や彼女の生涯をテーマにした城内の絵などを見ても、なんの場面かほとんど分からなくて、ショックを受けたものです。
歌合戦も、ちゃんと知っていたわけではなかったです。
当たり前ですが、古城の価値をきちんと味わうには、その歴史や伝説を知っていなければなりませんね。
jijidarumaさんの旅行記をリスト表示でざっと拝見させていただけましたが、興味深い城やその伝説を扱った旅行記が多いようで、お気に入りに登録させていただきました。
また勉強させてもらいに行きます!
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