2015/01/05 - 2015/01/05
186位(同エリア324件中)
滝山氏照さん
近鉄郡山駅から徒歩約10分、大和郡山城の鷺池をやや下った郡山高校グランド向かいの地に在る龍華山永慶寺(えいけいじ、奈良県大和郡山市永慶寺町)は享保9年(1724)幕命により甲府から15万石を以て当地に入封した柳沢家の菩提寺です。
もともとは五代将軍綱吉(つなよし)の側用人である柳澤吉保(やなぎさわ・よしやす、1658~1714)が任地の甲府藩主であった頃、萬福寺八代住持の悦峯道章を招聘し現在の甲府市に創立した永慶寺から始まります。
宝永6年(1709)2月吉保の後ろ盾というべき将軍綱吉が逝去したことで幕政の状況が一変します。即ち綱吉に代わる新将軍六代家宣(いえのぶ)と家宣を支える新井白石が権勢を握るようになり、吉保の立場は厳しくなり、同年6月、吉保は幕府の役職を退き併せて長男吉里に家督を譲り江戸駒込に隠居の場を構えますが、正徳4年(1714)11月に57歳の生涯を終えます。
享保元年(1716)八代将軍に就任した吉宗の主導による享保の改革の一環として幕府直轄領の拡大政策が実施され、享保9年(1724)3月に柳沢家が大和郡山への転封され甲府藩は廃され幕府直轄領化されます。これに伴い同寺院も柳沢家に従って移転することになります。
尚開祖の柳沢吉保の墓所は室と共に山梨県甲州市の恵林寺に、初代郡山藩主の柳沢吉里から第5代藩主の墓所は月桂寺(げっけいじ、東京都新宿区河田町)に、第6代藩主の柳沢保申以降の当主墓所は当該寺にそれぞれ分かれています。
永慶寺のパンフレットによれば次の如くその沿革が語られています。
「奈良県大和郡山市の龍崋山永慶寺は柳澤吉保を開基とする黄檗宗の寺院である。
旧郡山藩主柳沢家の初代藩主柳澤吉里の父親である柳澤吉保が宝永元年(1704)12月、5代将軍徳川綱吉から甲斐・駿河両国に12万石1200石余を与えられ柳澤氏の出自の地である甲府藩主となり、柳澤吉里が大和国に転封となる享保9年(1724)までの約20年、柳澤家は甲斐国を治めていた。
甲府藩主となった柳澤吉保は宝永7年(1710)に甲斐国巨摩郡岩窪村躑躅ケ崎(現在:甲府市岩窪町)に龍崋山永慶寺を建立し、正徳3年(1713)9月5日に逝去した正室の定子と正徳4年(1714)11月2日に逝去した吉保が同時に埋葬され菩提寺となるなど、柳沢家が甲斐国を治めた時代、永慶寺は順当な推移していったが、2代甲府藩主であった柳澤吉里の時代である享保9年(1724)3月、幕命により大和国郡山に転封となったことから、永慶寺も大和郡山に移転し現在に至っている。
なお、移転後の永慶寺は柳澤家の信仰の場として当地での別邸的な要素を兼ねて、歴代藩主の庇護の下で明治維新に至っている。」
そもそも柳沢氏は甲斐国北西部の在郷武士団である武川衆(むかわしゅう)に属し、日常は甲斐国境目の国境警備を担務する辺境武士集団で、武田氏滅亡後は天正10年(1582)甲斐国侵入の小田原北条氏と対峙する徳川家康が甲斐国支配を巡る戦い(天正壬午の乱)の際家康の呼びかけに呼応し家康の家臣に組み込まれ、吉保の祖父にあたる信俊(のぶとし、1548~1614)が家康の旗本として仕えることから始まります。
万治元年(1658)吉保は上野国館林藩に仕官する柳沢安忠(やなぎさわ・やすただ、1602?1687)の長男として生まれ、寛文4年(1664)藩主徳川綱吉に謁見、延宝3年(1675)に家督を相続し小姓組番衆(こしょうぐみばんしゅう、将軍に近侍し殿中の警護をする)を勤める事になります。
延宝8年(1680)綱吉が兄の家綱の将軍後継として江戸城に入城、吉保は幕臣の立場として小納戸役(こなんどやく、将軍の食事の際の毒見役と健康管理を兼ねた将軍の日常生活の世話をする)に任ぜられます。
元禄元年(1688)小納戸上席より綱吉親政に際し新設された側用人となり、1万2千石の知行を得て上総国佐貫城主に任ぜられ、大名に列せられます。
元禄5年(1692)に3万石を加増され、元禄7年(1694)には武蔵国川越藩に7万2千石を持って入封し、それまでの間将軍綱吉による柳沢邸への御成が行われ、以降数十回以上の御成がなされているほど綱吉と吉保との緊密の程度が覗い知れます。
宝永6年(1709)吉保の後ろ盾となっていた綱吉が亡くなると幕府の状況が変わり、後継の家宣(いえのぶ)には新井白石(あらい・はくせき)を主流とする側近に権勢が移ることになります。
これに対し吉保は幕閣の職務を辞し、併せて家督を嗣子吉里に譲り江戸駒込にて隠居生活を送り、正徳4年(1714)11月に57歳で死去、吉里知行地の甲府永慶寺に葬られますが、吉里の大和郡山転封により同国塩山にある恵林寺に改葬されることにます。
尚吉保は生前から自らの出自については認識深く、宝永元年(1714)綱吉の後継として甲府藩主徳川綱豊(後の綱宣)が決まると綱豊後任として甲斐国甲府藩主となり、同年4月に甲斐塩山の恵林寺にて武田信玄(晴信)の百三十三回忌の法要を行っています。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 交通手段
- JRローカル
-
永慶寺山門
旧二ノ丸跡の郡山高校から鷺池をすぎて暫く歩くと右側に立派な山門を配した寺院があり、これが柳沢家菩提寺となっている永慶寺となっています。説明によれば羽柴秀長時代に郡山城の南御門として建築されたもので、その後幕末に永慶寺の山門として移築されたものです。 -
「永慶寺山門」説明
-
「永慶寺」説明板
柳沢吉保公・旧郡山藩主 柳沢家 歴代菩提寺
龍 華 山 永 慶 寺
・ 宗派 黄檗宗 禅宗(黄檗宗・臨済宗・曹洞宗の総称)
・ 本山 黄檗宗大本山万福寺(京都府宇治市)
・ 本尊 釈迦牟尼仏坐像
・ 開山 悦畔道章禅師(黄檗宗第8代管長・1655~1734)
・ 開基 柳沢吉保公(側用人・甲斐甲府城主・1658~1714)
戒名 永慶寺殿保山元養大居士
・ 永慶寺由緒
宝永元年(1704)藩祖柳沢吉保公が15万石余の俸禄で、甲斐国
甲府城主(現山梨県甲府市)に任ぜられる。
宝永7年(1711)甲斐国岩窪村躑躅ヶ崎に祖霊の冥福の供養と一族の
武運長久を祈願し、菩提寺を建立する。
寺号は吉保公の戒名から龍華山永慶寺と名付け、 黄檗
第8代悦湖畔禅師を開山とし、寺領370石を賜る。
享保9年(1724)柳沢家2代吉里公時代、幕府の命により、甲府柳沢藩
が大和郡山へ国替えとなり、永慶寺も柳沢家と共に
現在地に移る。
この際、甲府永慶寺に在った吉保公夫妻の墓所は、
乾山恵林寺(現山梨県塩山市内・臨済宗・妙心寺派・
武田信玄公菩提寺)に改葬される。
大和郡山に移転後、永慶寺は柳沢家の信仰の場として、大和郡山での別邸的な要素も兼ねて、歴代藩主の庇護の下で明治維新を迎える。
明治維新後、一般の要望に応えて山内の梅林を開拓し、墓地として開放。今日、柳沢家をはじめ、数多くの関係者に支えられて新しい時代へと歩んでいる。
以下省略」 -
柳沢家墓所
一般の墓の塀により囲まれており、入口には門が設置されています。 -
柳沢家墓所門
当墓所には最後の郡山藩主であった6代藩主であった保申以降の当主の墓所となっています。尚始祖の吉保は正室と共に山梨県甲州市にある恵林寺、初代郡山藩主吉里から五代藩主保申までの墓所は当寺院ではなく、東京都新宿区にある月窓寺に在しています。 -
6代藩主柳沢保申の墓所(全景)
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6代藩主柳沢保申の墓石
明治2年6月の版籍奉還に伴い知藩事となり、明治4年廃藩置県により任を解かれ、明治17年伯爵となります。 -
6代柳沢保申正室遺髪碑
保申の正室は明子といい、左大臣一条忠香の娘でここは遺髪碑であって墓所は東京品川区の東海寺となっています。 -
7代柳沢保惠墓石
柳沢保恵(やなぎさわ・やすとし、1871~1936)は六代藩主柳澤保申の養子となり家督を相続、華族(伯爵)で貴族議員を務め、日本の統計学者、実業家でありました。 -
5代藩主 柳沢保興正室墓石
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本堂
正式には龍崋山永慶寺という奈良では珍しい黄檗宗(おうばくしゅう)寺院でご本尊は釈迦三尊、旧地は山梨県甲府市岩窪町で享保9年(1724)の甲斐一国の幕府直轄領化に伴い柳沢氏の大和郡山への転封に従って当地に移転した経緯があります。 -
鐘楼堂
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香厳院と庫裏
右側の建物が柳沢家仏間である香巌院で、中央部の木陰の向こうの建物は当寺院の庫裏戸なっています。尚香厳院には柳沢吉保と正室の坐像が納められています。 -
参道
高台にある境内から勾配の参道石段を降りていきます。
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