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第五章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~八重山:八重山平和祈念館・バンナ公園・米軍兵士慰霊碑編~<br /><br />2014年7月に訪れた沖縄戦跡国定公園の〝黎明之塔〟に端を発した戦争史跡巡りですが、今回は沖縄県石垣市にある八重山平和祈念館とバンナ公園へとやってきました。<br /><br />沖縄島から約400km離れた石垣島ですが、2013年3月17日に〝美ぬ島石垣空港〟として、登野城地区にあった旧空港が移転し、2,000mの滑走路を持つ八重山観光の中核となる空港へと生まれ変わりました。不定期ではあるものの国際線も就航し、〝国際線ターミナル〟を持つ〝異色の地方空港〟になっています。近年LCCの就航により来島者数が増え、〝離島は高くなくなった〟的に有名になったところでもあります。<br /><br />沖縄県でも南西部の端に位置する石垣島ですが、やはり第二次世界大戦中には戦火の渦中となりました。しかし一般的に〝沖縄の戦争〟というと、住民を巻き込んだ〝地上戦〟によって大多数の犠牲者を出したイメージがあるように思います。しかし実際には、沖縄島のような〝地上戦〟が石垣島であった訳ではありません。ではどのような戦闘があったかというと、英海軍の〝空襲や艦砲射撃〟に対する日本軍の〝高射砲〟での応戦といった〝防衛〟を主としたものでした。終戦間際石垣島には、第10軍(台湾:第32軍の上位組織)直轄の独立混成第45旅団(旅団長:宮嵜武之少将約3,400名)が駐留していました。この旅団の派遣は、昭和19(1944)年に米軍の上陸を想定した日本軍が、八重山の軍備強化を目的として行ったものでした。ここでひとつ補足しておくと、この独立混成第45旅団、旅団司令部は〝球 (たま)18801〟とされています。〝球部隊〟というと第32軍直属の部隊となりますが、これは昭和20(1945)年6月に〝第32軍司令部壊滅〟の報告を受けた大本営が、上位組織の〝第10軍直轄〟へと戻したためとされています。<br /><br />一般的な独立混成旅団の構成は約5,000名とされる中で、約3,400名という数に違和感を覚えます。実はこの〝差〟こそが昭和19(1944)年6月29日早朝に徳之島沖に於いて、米軍潜水艦スタージョン(Sturgeon)の魚雷によって沈没した〝富山丸〟による犠牲者の数になります。独立混成第45旅団の先遣隊として四国出身者により構成された独立歩兵第298・299・300・301大隊に属する約1,600名が、この〝富山丸沈没〟により犠牲となりました。この〝富山丸事件〟はまた別の機会に述べることとしますが、沖縄へと運ぶ〝ドラム缶1,500本〟の〝ガソリン〟を積んでいたため、それに引火した様はまさに〝地獄絵図〟でした。これにより乗船していた約4,600名のうち約3,800名が犠牲となり、救助された兵士も戦闘に耐えうるもの(歩行ができるかどうかで判断)とされたのは約500名だったとされています。その結果兵士は本来配置される隊ではなく、沖縄南部戦線へと回ることとなり、せっかく助かった命を落とすことになった方が多かった〝運命〟を思うとやるせない気持ちになります。<br /><br />10.10空襲、すなわち昭和19(1944)年10月10日に米軍が行った南西諸島一帯への空爆では、沖縄島那覇での被害が最も酷く、建物の90%が焼失し、別名〝那覇空襲〟とも呼ばれています。これが〝沖縄〟が受けた最初の大規模な空襲とされています。その中で八重山では、2日後の10月12日に米軍機3機による〝平喜名(ペーギナー)海軍飛行場(旧石垣空港)〟の空爆が最初とされています。その後も昭和19(1944)年12月、昭和20(1945)年元旦にも空襲を受けますが、その頃は〝軍事施設〟や〝兵舎〟などへの空爆に留まり、民家への被害はなかったとされています。しかし昭和20(1945)年3月からは〝戦略爆撃〟として集落への空爆を受けるようになり、石垣島民も強制疎開を余儀なくされます。また昭和20(1945)年5月には16才以上60才までの男子が、沖縄島同様徴用されることとなり、〝空爆の頻度〟と〝人手不足〟によって耕作もできず、食糧や物資の不足による〝物価の高騰〟を惹き起こし、その結果窃盗など〝治安の悪化〟をもたらすことになります。とはいえ終戦前のこの時期、沖縄島の県庁との連絡が途絶している状態では、犯人を検挙したとしても、裁判もできない、留置するにも〝食料もない〟状態では、恐らく〝なす術〟はなかったように思えます。<br /><br />戦況が日々悪化して行くなか、この八重山地区に於ける〝真の戦争犠牲者〟を出す〝あること〟が始まります。〝戦争マラリア〟という言葉、知る人ぞ知る言葉なのかも知れませんが、八重山地区で〝戦略爆撃〟による被害はさほど大きなものではなかったことは先述しました。当時八重山の一部島々では、〝熱帯性マラリア〟の有病地だった場所が存在し、その中には西表島の南風見田(はえみだ)のように〝マラリア〟によって廃村に追い込まれた集落もありました。昭和20(1945)年6月2日、石垣島住人の強制疎開先として石垣中心部はその郊外、大浜村は於茂登岳周辺等の山岳部へと(独立混成第45)旅団より指定されます。その時期より若干早く竹富島や波照間島の住人には、西表島への強制疎開を命じられています。その他の島の住人に於いても、この石垣島の山間部や西表島への強制疎開を余儀なくされることなりますが、八重山は沖縄島のように凄惨な戦場にはならなかったものの、食糧不足と栄養失調、それに疎開先で罹患した〝マラリア〟によって数千人の犠牲者を出した〝戦争マラリア〟の〝修羅場〟と化すことになってしまいます。勿論これは石垣に駐屯していた旅団の指示である〝軍災・人災〟として捉えることには疑う余地がないものの、当地八重山では〝戦争マラリア〟として〝知られていること〟が、その他地区特に本土ではその〝言葉〟ですら知られていないという背景も事実関係の解明が進まないひとつの理由ではないかと思います。当時の八重山の人口は31,681人とされていますが、そのうち半数を超える16,882人がマラリアに罹患し、死亡者数3,647人で実に人口の1割以上が犠牲となっています。<br /><br />この強制疎開に関しては、戦術上ほとんど意味を成していないという記述が多く見られます。元々石垣に駐屯する独立混成第45旅団は約3,400名であれば、いくら狭い石垣島でも〝強制収用〟をするまでもないようにも素人目には映ります。しかし現地召集の第506特設警備工兵隊通称〝みのかさ部隊〟他二個の特設警備中隊を除いて、海軍警備隊をはじめ第28師団第3野戦病院、飛行場大隊、野戦飛行場設定隊を含めた約8,000名もの兵士が島外から来たとされているものもあり、八重山群島全体で合わせて一時に13,000名もの人口を抱えていたと仮定するならば、居住地や食料といったライフラインの確保に軍が躍起になり、その〝維持〟のために住民に罹患地への疎開を強要したとするもの、それならば軍が住民を犠牲にしたと説明がつくとは思います。しかしただ〝記録の貼り合わせ〟をすることによって漠然と〝意味がない戦略〟のひとことで説明されているものも多いものの、辻褄の合わない〝事実〟を放置しているものもあり、それほど簡単に説明ができるものではないように思います。<br /><br />この強制疎開によって戦争マラリアに罹患し、多数の犠牲者を出した話に必ず出てくる軍人がいます。〝山下虎雄軍曹〟という人物ですが、軍の特務機関から波照間島の青年学校の指導者として送られていたこの山下軍曹の〝脅迫的指示〟によって、波照間島の住民は南風見田・古見・由布島へ移住地区へと強制疎開を余儀なくされます。間もなくマラリア患者が発生すると、山下軍曹は由布島へと移って行ったものの、その横暴さに耐えかねた当時の波照間国民学校の識名信升(しきな しんしょう)校長は、村民の罹患者も多いことも含めて宮嵜旅団長に直訴し、疎開命令解除を取りつけます。その日昭和20(1945)年7月30日、既に沖縄での組織的抵抗は終わっていた時でした。<br /><br />波照間島へと戻った住民を待っていたものは、全て山下軍曹の言うがまま処分した家畜と4ヵ月放置したままの農地でした。そのまま元通りであったならともかくこの有様、加えて栄養不良と疲労が重なっており、しかも西表島からマラリアを運んできているという最悪の状態で罹患者は増え続け、その結果波照間島民1,590名のうち、マラリア罹患者1,587名で罹患率は99.7%、ほぼ全島民がマラリアで苦しみ、その内477名が亡くなっている、つまりほぼ3人に1人が亡くなったという悲劇に見舞われます。波照間島での話がよく〝戦争マラリア〟の話として挙げられることの背景には、この罹患率と死亡率の高さがあることには違いありませんが、それに加えて日本軍の横暴さの象徴ともされる〝山下軍曹〟の姿も被っているのではと思います。山下虎雄というのは偽名であり、陸軍中野学校・離島残置工作員の陸軍軍曹〝酒井清〟というのがその人であり、大戦末期の昭和20(1945)年にスパイ養成機関である陸軍中野学校から離島工作員として波照間島へと派遣された人物であります。同一人物の〝はず〟であるこの山下軍曹と酒井軍曹には、少し理解し難い違いを感じます。勿論いくら戦争中とはいえ、山下の取った行動は許されるものではありません。しかし宮嵜旅団長への直訴の結果、取り敢えず波照間島民は島へと帰〝れ〟ることとなります。しかしその時期は既に沖縄戦は終わっており、徴兵でなく正規の軍人なら〝終戦〟と〝敗戦〟はわかっていたはずだと思われます。しかし山下は波照間島へとついて行った。そして2ヶ月後の10月に、人知れず波照間島を後にします。ここまでならば〝離島残置工作員〟の言葉からも推測できる範疇ではあるものの、なぜその後波照間を訪れたのか、それも3回も。正気であれば訪れて〝歓迎されるか否か〟位はわかることだと思います。それが私には理解できません、山下ではなく酒井元軍曹の行動が。結果として昭和56(1981)年8月7日の来島時には当時の波照間公民館長浦仲浩氏をはじめとした島代表19名連名での〝抗議文〟を読み上げられています。そこまでするものは〝何か〟を知りたいと思います。もし〝離島残置工作員〟を辞書的に〝将来的にゲリラ要因を担うための人員の確保〟というのであれば、戦後36年経ってもその必要性を持っておられたのであればそれ以上言うことはありません。またそれを〝しなければいけない〟時代だったのかも含めて…。<br /><br />疎開命令の解除を受けて、昭和20(1945)年8月7日から波照間島民の帰島が始まります。その際宮嵜旅団長に疎開解除を突きつけた波照間国民学校の識名信升校長が、西表の地でマラリアに罹患し、帰島叶わずに没した学童の慰霊意味も込めて、南風見田の地で小石に刻んだ言葉が〝忘勿石 ハテルマ シキナ〟。〝忘勿石(わするないし)〟として〝うっすら〟ではありますが今尚見ることができるものになっています。この〝忘勿石〟ですが、実はずっと保管されていたものではなく、昭和28(1953)年に偶然発見されたものだそうです。その確率的にすごく低い中で、〝写真〟ではあるものの今尚見ることができることは本当に感慨深い気持ちにさせられました。<br /><br />この西表島南風見田の地にある〝忘勿石の碑〟、昭和54(1984)年に波照間小学校創立90周年事業として建立された〝学童慰霊碑〟と向かい合っているそうです。このあたりの話なのですが、両方の場所は訪れたことがあるものの〝謂れ〟については、〝今〟まで知らなかったことでした。〝忘勿石 波照間 識名(わするないし はてるま しきな)〟だったことも含めて…。偉そうに言いながら恥ずかしい次第ですが、沖縄全土が背景は異なるものの〝特徴的な被害〟を受けてきたことは、上部だけしかわからない私にも理解できます。それに纏わるものは、知られていないものも数多くあるように思います。どこまでのことができるのか私自身もわかりませんが、可能な限り〝見て〟〝聞いて〟〝感じて〟いければと思います。<br /><br />ここまで波照間島に於ける〝戦争マラリア〟とそれに纏わる〝出来事〟を紹介しましたが、それは〝島民の数〟に於ける〝罹患者〟そして〝死者数〟が著しいことから話題に上ることが多いという理由であり、石垣島を含む八重山列島でも、強制疎開によってマラリアに罹患し亡くなられた数の多い事実は、空襲による死者178名に対し、戦争マラリアでの死者3,647名という桁違いの数の多さからも知ることができます。疎開をするにも〝若い人手〟がおらず時間を要し、疎開先では与えられるものは、雨露がやっとしのげる茅葺き小屋位なものでそれもほとんどが狭い共同小屋でした。そのため〝蚊帳〟を吊るすこともできずに、結果マラリアを媒介する〝ハマダラカ〟に対しても刺されっぱなしとなり、加えて整地されていないために多く見られただろう〝水たまり〟なども、蚊の幼虫である〝ボウフラ〟の発生を助長されたとしています。<br /><br />また山岳地域への疎開によって働き手を失った〝農業〟は中断せざるをえず、そして頼みの配給も6月以降はほとんど無くなり、医療物資の欠乏、慢性的な栄養不良の状況下にあった背景で、マラリア罹患者が爆発的に増加していきます。掘立小屋には病人が何人も横たわり、そして次々に死者が出ていきました。当時のマラリアの特効薬〝キニーネ〟がない中での治療といえば、八重山平和祈念館の展示にもある〝清水をそのまま額の上に垂らし〟て熱が下がるのを待つしかありませんでした。そのような状況が続くなかで昭和20(1945)年7月23日には、八重山を守備していた独立混成第45旅団は強制疎開の命令を解除し、一部ではあるものの元の居住地である各集落へと戻ることを許可しますが、その命令そのものが徹底されなかったため、住人に伝わらず、結果帰ることが遅れました。さらに昭和20(1945)年8月15日の終戦後も、当時の部隊長クラスが避難先の住民にこれを知らせず、避難解除命令を出さなかったことにより混乱が続いた地区もあったそうです。これらのことが有病地へと疎開していた住民の退避を遅らせることとなり、さらにマラリア被害を広げたとされています。<br /><br />しかしこのあたりの話は〝軍=軍人=悪〟と〝決めつけて〟記載されているものに書かれています。確かに〝軍〟指導の元で行われた強制疎開によって、罪のない民間人がマラリアに罹患し、それで多くの方が亡くなったことは事実であり、そのように解釈されるのも仕方がないところはあるとは思います。しかし軍=軍人と決めつけるのもどうでしょうか。事実八重山でも、沖縄島同様〝鉄血勤皇隊〟や〝従軍看護婦〟、そして〝特設警備隊員〟として現地徴収された方もおられます。〝軍属〟〝準軍属〟と呼ばれるその方々に〝あなたは軍人だから私たち住民の気持ちはわかる訳がない〟と言い切れるでしょうか。地元民であり軍人でもある方々は、どちらの立場も理解できる方達だと私は思います。その方々ですら容易に〝伝令〟としての役割ができなかったこと、その背景には解釈上の〝沖縄戦の終結〟問題、それが原因ではないかと思います。昭和20(1945)年6月23日(22日説あり)の日本軍の組織的抵抗の終結、そして8月15日の終戦で〝戦争は本当に終わっていた〟のでしょうか。以前記述したことがありましたが、〝本当の沖縄戦の終結〟を昭和20(1945)年9月7日の現米軍嘉手納基地内森根での降伏調印式をもってとしており、その日を〝沖縄市民平和の日〟としている旧コザ市を含む沖縄市の例も存在することは、紛れもない事実です。2ヶ月半もの間の開きがあるのが事実であれば、〝情報網の途絶〟があった上に職業軍人ですら〝何が正しいのかわからない〟となってもおかしくはなかった状況だとは推測します。ただ〝なにも悪くはない〟とは言いません。やはり結果として〝不用意な犠牲者〟を出してしまった責任は、〝疎開命令〟を出した〝軍〟にあることは間違いありません。まして解釈によっては、〝犠牲者を増やす〟ことに拍車をかけてしまったことは、遺族感情として当然永久に〝許せない〟ものであることは容易に想像がつきます。ただそれをひとりの軍人のこととするには、〝決めつけられない要素〟があまりにも多すぎるように思います。<br /><br />勿論戦後の〝遺族談話〟に於いて、身内を悪く言われる方はおられません。そのため内容的に〝擁護〟しているものもあるものの、〝一観点〟からの論述では〝決定的な結論〟を導くことができない現実を〝どのように解釈する〟のかという点に於いて聊か疑問に思います。もしこれが〝時が解決〟してくれるといった〝理由〟であるならば、ひとつ考えて頂きたいことがあります。間もなく戦後70年を経過しようとしています。戦後統治されていた沖縄が日本復帰して43年経過しました。〝言論の自由〟が当たり前とされる現在、〝理由はある〟にしても〝表舞台〟に出てくることのなかった〝出来事〟は、生存者が年々減るに従い、〝闇のままの出来事〟となってしまいます。ということであれば、これからまた数十年の月日が経過し〝戦争マラリア〟を含む戦時中の出来事に対し、既成概念を覆すような記録や発表が出てくることは〝ありえない〟ことではないでしょうか。無責任な言い方かも知れませんが、勿論〝論議すること〟でその意見が正当化され、その結果犠牲になられた〝戦争で亡くなった方々〟が時を越えて行き返るのであれば、その論議は生きてくるものだと思います。しかし現在の科学ではあり得ないことです。それではどうすればよいのか。答えは簡単です。暗黒の戦争時代に逆戻りしないように〝権力を牽制すること〟、ただそれだけのように思います。〝不戦主義〟などという〝立派な言葉〟は必要ありません。しかし周りが〝戦争色〟に染まってしまうことは、結果〝勝つための目的〟がすべてとなってしまい、それが〝世論の大義名分〟となってしまうと〝聊か(いささか)の犠牲〟自体が〝止むをえないこと〟になってしまいます。誤解のないように言いますが、私はそのことを〝過去に起こった出来事〟にまで遡って当てはめるつもりはありません。思想教育を含め〝そこまで〟のことを考えられなかった時代のことを言っても〝こじつけ〟以外なにものでもありません。しかし未来将来にわたることであれば、今から考えておけば〝対策を講じる〟ことは難しくはないことだと思います。<br />〝歴史を知らずして未来は語れない〟…、それを実行に移さなければいけないときを迎えているのではないでしょうか。<br /><br />〝戦争マラリア〟の問題は、平成11(1999)年の〝八重山平和祈念館〟の設立とバンナ公園に建立された〝戦争マラリア犠牲者慰霊之碑〟によって一応の解決をみたかのように書かれているものが多い中、やはり納得のいかない〝被害者遺族〟もあるようにもあるように感じます。設立の経緯に触れていることは多いものの、〝その後〟まで触れているものはほとんどありません。立派な〝建物〟や〝慰霊碑〟はできましたが、その後はどうなっているのでしょうか。〝慰霊〟は、〝モニュメント〟の完成によって〝完結〟するものではありません。むしろそれが〝スタートライン〟であり、犠牲者の方々を〝なぜ慰霊するのか〟、〝安らかに眠って頂く〟ためには〝なにが必要なことなのか〟。それらを考えなければ、〝過去の過ち〟を繰り返すことに繋がる可能性は高いように思います。<br /><br />この八重山地区で多数の犠牲者を出した〝マラリア〟という〝病気〟ですが、日本では〝撲滅宣言〟が出されているものの、アフリカなどでは今尚〝風土病〟として残っているものであり、耐性を持たない〝子供達〟の犠牲者があとを絶ちません。しかし記載されているものの中には〝誤記〟も多く見られるため、簡単に説明を加えると、〝マラリア〟とは〝雌ハマダラカ(亜種も含む)〟が〝マラリア原虫(亜種も含む)〟を媒介することによって引き起こされる〝原虫感染症〟のひとつです。〝マラリア罹患者〟から〝ハマダラカ〟が吸った血液中に〝マラリア原虫〟が含まれており、その〝マラリア原虫〟は〝ハマダラカ〟の体内で〝有性生殖〟をして増殖し、唾液腺に集まります。一般的な〝蚊〟の吸血のメカニズムである吸血前に、体内にヘパリン様物質を含んだ唾液を出すことで、吸血時の血液凝固を防ぎますが、同様のことを〝キャリア〟である〝ハマダラカ〟が健常者に対し行うことで〝マラリア原虫〟が体内へと入ります。そしてマラリア原虫は僅かな時間で肝臓に到着し、そこで1~3週間かけて成熟増殖を繰り返します。その後肝細胞を破壊して赤血球内に浸入し、ここでもまた分裂をした後に赤血球を破壊して血液中に出た後、同じように新たな赤血球内に浸入することを繰り返します。結果赤血球が破壊されて溶血を起こすので、体内循環に於いて赤血球が受け持つ機能障害〝低血糖〟〝重症貧血〟、肝臓機能として〝黄疸〟〝肝不全〟の他、〝マラリア脳症〟〝脾臓肥大〟等の合併症が起こり〝死に至る〟〝悪性の風土病〟のひとつとされています。<br /><br />八重山で戦争マラリアが蔓延した頃の治療薬は、〝キニーネ〟と呼ばれるものでした。これはマラリア原虫が赤血球に取り付いた際に、ヘモグロビンを取り込み栄養源としていますが、その際に血色素ヘム(鉄)と言う原虫にとって有害な物質が産生するのを、酵素を利用し無毒化していますが、その過程を阻害するものとしての役割を担っているという説が一般的のようです。またマラリアが蔓延した理由の記述の中に、よく〝粗悪な居住環境〟とあります。確かに〝掘立小屋〟に〝大人数での生活〟ということは疑う余地のないことだと思います。しかしその他に〝不衛生な〟という記述も多くみられるなかで説明のつかないことも多く記述されています。<br />〝マラリア〟を媒介する〝ハマダラカ〟の〝幼虫〟、即ち〝ボウフラ〟の種類についてですが、機能的なことによって〝他のボウフラ〟と比較すると余計に〝清水〟を好むという特徴があります。〝ボウフラ〟自身にも言えることではあるのですが、不衛生な水場を敬遠する傾向があるため、〝汲み取り式共同便所〟等には発生しなかったように思います。このあたりは推論の域でしかありませんが、沖縄戦の悲惨さを取り上げたものに記載されている〝傷口にウジがわいた〟と〝表現〟に〝紛れて〟いるように捉えると話は繋がるものの、それでは〝戦争マラリア〟についての記載ではなくなってしまいます。勿論〝戦争マラリア〟という〝史実〟の悲惨さを表現するための手法かも知れません。しかし他の内容はともかく、この様な〝事実誤認〟的な内容を知ってしまうと、〝誤解〟を生むのではないでしょうか。〝マラリア菌〟に侵されている場所というものに至っては、1880年頃に〝マラリア原虫〟によるものであることが証明されている事実すら〝知らないのか〟と疑ってしまいます。<br />記載の仕方で〝解釈〟が変わってしまうこともあり付け加えておきますが、汲み取り式トイレに於いて、固形物が沈むと上澄みは綺麗なものであるという解釈について〝肥ダメ〟なら話はわかりますが、トイレとなると〝使用頻度〟を考えると〝確率的に低い〟ものだと考えます。<br />また〝ハエ〟の幼虫である〝ウジ〟が〝傷口〟にわくことを〝劣悪な衛生環境〟の〝表現〟として使われているものも多く見受けられますが、これもどうなのでしょうか。傷口にわいた〝ウジ〟は壊死や腐敗した〝組織だけ〟を食べ、決して生きている正常な組織を食べることはありません。そして綺麗に食した患部は分泌液によって〝消毒〟されます。それによって感染症を予防するといった一連の流れの治療、つまり〝ウジ〟が〝傷口を治す〟役割を担っているのです。現在でも〝マゴットセラピー〟として用いられているこの治療法、戦時中まともな薬品もない状況で怪我をした〝兵士〟の治療として〝軍医〟が用いていた記録もあります。確かに〝ハエ〟にしても〝ウジ〟にしても〝不潔の代名詞〟と捉えられているため、〝戦争の悲惨さ〟を言い表すには〝うってつけ〟なのかも知れません。しかしその働きを〝利用している事実〟を知らなければ、結果として〝事実誤認〟を惹き起こすことは明らかだと思います。<br /><br />昨今日本を取り巻く地域で〝うさんくさい〟出来事が頻発していても、間もなく戦後70年を迎える今日、一日が無事終わり明日もそうだろう…といった〝見かけの平和〟が〝あたりまえ〟とされている節があります。私自身もそのような時代を生きてきたのは事実です。しかしそれは〝過去〟の話であって〝未来〟に渡って保証されているものではありません。〝70年目の8月15日正午〟を迎えるにあたり、もし〝徴兵されたら私はどうなるの?〟という議論をすることは、必要な時期に差し掛かってきているのではないでしょうか。〝資料館〟の〝写真〟の中での話でしかないと思う前に…。<br /><br />昭和20(1945)年8月15日正午の〝昭和天皇の玉音放送〟では、沖縄戦は終結していません。9月7日に米第10軍司令部のある沖縄県越来村森根で、守備軍を代表して第28師団長納見敏郎中将、独立混成第64旅団長高田利貞少将および海軍沖縄根拠地隊参謀長加藤唯雄少将が署名し、米軍を代表して第10軍司令官J・W・スティルウェル陸軍大将が受託し、終結となったものの、八重山の駐留部隊の〝軍備解除〟まではその後約1ヶ月を要しています。また戦争は終わったものの〝マラリア〟は依然として猛威を奮っていました。奇しくもその〝マラリア〟を収束に向かわせたのが、戦後統治をした米軍でした。<br /><br />その後琉球政府による〝移住政策〟によりマラリアは息を吹き返しますが、最終的には1960年代にアメリカのウィーラー・プランによって完全に撲滅されます。撲滅作戦は〝八重山民政府衛生部〟の主導で行われ、当時衛生部長であった〝大浜信賢(おおはま しんけん)医師〟が陣頭指揮を取っていました。この〝開拓と移住計画〟は〝マラリア撲滅無くして開拓無し〟と言うスローガンの下で率先して行われたものであり、石垣島をはじめとする八重山群島へ3,000名余りの〝開拓移民〟を迎えるにあたり、風土病として恐れられていた〝熱帯性マラリア〟の撲滅は必須条件でした。それまでの〝マラリア〟への対策というものが患者への〝原虫対策(投薬も然り)〟と呼ばれる〝罹患後〟に重きを置いていたことに対し、〝ウィーラー・プラン〟や〝大浜医師〟の考えは、それ以前の〝防蚊対策〟を重視しました。戦後なにかにつけてばらまかれた〝DDT(ジクロロジフェニルトリクロロエタン)〟も効果的であり、〝人そのものへの噴霧〟や〝屋内残留噴霧〟により〝ハマダラカ〟を激減させていきました。<br /><br />太平洋戦争中に〝戦争マラリア〟によって多くの方々が亡くなられた〝八重山の島々〟では、時の流れとともにその〝史実〟が〝風化〟することなど〝考えられない〟ことだと思います。しかしこの〝戦争マラリア〟というものがやはり〝知名度不足〟なのは否めない事実でもあります。確かに石垣島をはじめとする〝八重山の島々〟には観光客が激増しました。しかし〝来島者〟が増えても〝知名度〟が上る訳でもありません。沖縄の島々を訪れる観光客は、最近〝二極化〟しているように思います。なにも考えないで〝安い飛行機〟を使って〝遊んで帰る〟だけの者、遊びの要素はあれど〝沖縄〟の〝歴史的要素〟を〝踏まえ〟ている者。どちらが良いかはわかりませんが、やはり闇雲に〝平和〟を〝安売りの如く〟連呼するのではなく、〝史実〟を踏まえた〝考えた〟ものに繋げて貰いたいとはなにかにつけて思います。TPOを弁えない、また弁えられない〝抗議活動〟を含む行動は、結果として〝賛同〟を得ることは年々難しくなって行きます。〝賛同〟をするかしないかは、個人の考えに依るものであるにしても、〝効果的〟なものを〝卒なくこなす〟ことは、戦後に産まれて〝知らないなり〟に過去を知り、それに基づいた〝対策〟を講じることができる今の〝大人〟の使命ではないだろうか、そう思えてなりません。勿論私が全て〝正論〟を言っているとは思っていません。しかし〝物事の繋がり〟を〝理解できない〟ため、問題提起をしているだけの話であり、状況証拠だけを突き詰めるだけのことで〝覆す〟ことができると言った〝明らかに間違っている〟ことを指摘しているだけの話です。勿論〝客観的〟に見て間違っているならば訂正します。加筆もします。しかし〝マスメディア〟ですら間違ったり、検証不足と思えることを平気で書いている現状でありながら、その〝指摘〟すらないことはまわりが〝無関心〟のひと言で片付けてしまっているように思えてなりません。私はそのことが〝一番の問題〟ではなかろうか、そう思うのです。<br /><br /><br />内容は昨年末2014年12月に訪れた時の知識や考えを元にしております。若干今と考えが異なっていますのでご了承下さい。長文お付き合い頂き有り難うございました。これにて〝第十章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~八重山:八重山平和祈念館・バンナ公園・米軍兵士慰霊碑編~〟を終わります。<br /><br />《よろしければご覧下さい》<br />第一章あみんちゅ戦争を学ぶ旅鹿児島陸軍特攻戦跡~万世・知覧編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10933877<br /><br />第二章あみんちゅ戦争を学ぶ旅鹿児島海軍特攻戦跡~笠之原・串良・鹿屋編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10933914<br /><br />第三章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~沖縄:旧海軍司令部壕編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10963283<br /><br />第四章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~沖縄:嘉数(かかず)高台公園《私見》沖縄戦解釈編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10981023<br /><br />第五章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~滋賀:滋賀県平和祈念館・陸軍八日市飛行場跡編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10974454<br /><br />第六章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~福岡:碓井平和祈念館編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10990537<br /><br />第七章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~福岡:武富戦争資料館(兵士・庶民の戦争資料館)編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10990699<br /><br />第八章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~福岡:筑前町立大刀洗平和記念館編~<br />http://4travel.jp/travelogue/10990539<br /><br />第九章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~喜界島:戦闘指揮所跡・海軍航空基地戦没者慰霊之碑・掩体壕編~<br />http://4travel.jp/travelogue/11015120<br />

第五章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~八重山:八重山平和祈念会館・バンナ公園・米軍兵士慰霊碑編~

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2014/12/14 - 2014/12/17

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

第五章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~八重山:八重山平和祈念館・バンナ公園・米軍兵士慰霊碑編~

2014年7月に訪れた沖縄戦跡国定公園の〝黎明之塔〟に端を発した戦争史跡巡りですが、今回は沖縄県石垣市にある八重山平和祈念館とバンナ公園へとやってきました。

沖縄島から約400km離れた石垣島ですが、2013年3月17日に〝美ぬ島石垣空港〟として、登野城地区にあった旧空港が移転し、2,000mの滑走路を持つ八重山観光の中核となる空港へと生まれ変わりました。不定期ではあるものの国際線も就航し、〝国際線ターミナル〟を持つ〝異色の地方空港〟になっています。近年LCCの就航により来島者数が増え、〝離島は高くなくなった〟的に有名になったところでもあります。

沖縄県でも南西部の端に位置する石垣島ですが、やはり第二次世界大戦中には戦火の渦中となりました。しかし一般的に〝沖縄の戦争〟というと、住民を巻き込んだ〝地上戦〟によって大多数の犠牲者を出したイメージがあるように思います。しかし実際には、沖縄島のような〝地上戦〟が石垣島であった訳ではありません。ではどのような戦闘があったかというと、英海軍の〝空襲や艦砲射撃〟に対する日本軍の〝高射砲〟での応戦といった〝防衛〟を主としたものでした。終戦間際石垣島には、第10軍(台湾:第32軍の上位組織)直轄の独立混成第45旅団(旅団長:宮嵜武之少将約3,400名)が駐留していました。この旅団の派遣は、昭和19(1944)年に米軍の上陸を想定した日本軍が、八重山の軍備強化を目的として行ったものでした。ここでひとつ補足しておくと、この独立混成第45旅団、旅団司令部は〝球 (たま)18801〟とされています。〝球部隊〟というと第32軍直属の部隊となりますが、これは昭和20(1945)年6月に〝第32軍司令部壊滅〟の報告を受けた大本営が、上位組織の〝第10軍直轄〟へと戻したためとされています。

一般的な独立混成旅団の構成は約5,000名とされる中で、約3,400名という数に違和感を覚えます。実はこの〝差〟こそが昭和19(1944)年6月29日早朝に徳之島沖に於いて、米軍潜水艦スタージョン(Sturgeon)の魚雷によって沈没した〝富山丸〟による犠牲者の数になります。独立混成第45旅団の先遣隊として四国出身者により構成された独立歩兵第298・299・300・301大隊に属する約1,600名が、この〝富山丸沈没〟により犠牲となりました。この〝富山丸事件〟はまた別の機会に述べることとしますが、沖縄へと運ぶ〝ドラム缶1,500本〟の〝ガソリン〟を積んでいたため、それに引火した様はまさに〝地獄絵図〟でした。これにより乗船していた約4,600名のうち約3,800名が犠牲となり、救助された兵士も戦闘に耐えうるもの(歩行ができるかどうかで判断)とされたのは約500名だったとされています。その結果兵士は本来配置される隊ではなく、沖縄南部戦線へと回ることとなり、せっかく助かった命を落とすことになった方が多かった〝運命〟を思うとやるせない気持ちになります。

10.10空襲、すなわち昭和19(1944)年10月10日に米軍が行った南西諸島一帯への空爆では、沖縄島那覇での被害が最も酷く、建物の90%が焼失し、別名〝那覇空襲〟とも呼ばれています。これが〝沖縄〟が受けた最初の大規模な空襲とされています。その中で八重山では、2日後の10月12日に米軍機3機による〝平喜名(ペーギナー)海軍飛行場(旧石垣空港)〟の空爆が最初とされています。その後も昭和19(1944)年12月、昭和20(1945)年元旦にも空襲を受けますが、その頃は〝軍事施設〟や〝兵舎〟などへの空爆に留まり、民家への被害はなかったとされています。しかし昭和20(1945)年3月からは〝戦略爆撃〟として集落への空爆を受けるようになり、石垣島民も強制疎開を余儀なくされます。また昭和20(1945)年5月には16才以上60才までの男子が、沖縄島同様徴用されることとなり、〝空爆の頻度〟と〝人手不足〟によって耕作もできず、食糧や物資の不足による〝物価の高騰〟を惹き起こし、その結果窃盗など〝治安の悪化〟をもたらすことになります。とはいえ終戦前のこの時期、沖縄島の県庁との連絡が途絶している状態では、犯人を検挙したとしても、裁判もできない、留置するにも〝食料もない〟状態では、恐らく〝なす術〟はなかったように思えます。

戦況が日々悪化して行くなか、この八重山地区に於ける〝真の戦争犠牲者〟を出す〝あること〟が始まります。〝戦争マラリア〟という言葉、知る人ぞ知る言葉なのかも知れませんが、八重山地区で〝戦略爆撃〟による被害はさほど大きなものではなかったことは先述しました。当時八重山の一部島々では、〝熱帯性マラリア〟の有病地だった場所が存在し、その中には西表島の南風見田(はえみだ)のように〝マラリア〟によって廃村に追い込まれた集落もありました。昭和20(1945)年6月2日、石垣島住人の強制疎開先として石垣中心部はその郊外、大浜村は於茂登岳周辺等の山岳部へと(独立混成第45)旅団より指定されます。その時期より若干早く竹富島や波照間島の住人には、西表島への強制疎開を命じられています。その他の島の住人に於いても、この石垣島の山間部や西表島への強制疎開を余儀なくされることなりますが、八重山は沖縄島のように凄惨な戦場にはならなかったものの、食糧不足と栄養失調、それに疎開先で罹患した〝マラリア〟によって数千人の犠牲者を出した〝戦争マラリア〟の〝修羅場〟と化すことになってしまいます。勿論これは石垣に駐屯していた旅団の指示である〝軍災・人災〟として捉えることには疑う余地がないものの、当地八重山では〝戦争マラリア〟として〝知られていること〟が、その他地区特に本土ではその〝言葉〟ですら知られていないという背景も事実関係の解明が進まないひとつの理由ではないかと思います。当時の八重山の人口は31,681人とされていますが、そのうち半数を超える16,882人がマラリアに罹患し、死亡者数3,647人で実に人口の1割以上が犠牲となっています。

この強制疎開に関しては、戦術上ほとんど意味を成していないという記述が多く見られます。元々石垣に駐屯する独立混成第45旅団は約3,400名であれば、いくら狭い石垣島でも〝強制収用〟をするまでもないようにも素人目には映ります。しかし現地召集の第506特設警備工兵隊通称〝みのかさ部隊〟他二個の特設警備中隊を除いて、海軍警備隊をはじめ第28師団第3野戦病院、飛行場大隊、野戦飛行場設定隊を含めた約8,000名もの兵士が島外から来たとされているものもあり、八重山群島全体で合わせて一時に13,000名もの人口を抱えていたと仮定するならば、居住地や食料といったライフラインの確保に軍が躍起になり、その〝維持〟のために住民に罹患地への疎開を強要したとするもの、それならば軍が住民を犠牲にしたと説明がつくとは思います。しかしただ〝記録の貼り合わせ〟をすることによって漠然と〝意味がない戦略〟のひとことで説明されているものも多いものの、辻褄の合わない〝事実〟を放置しているものもあり、それほど簡単に説明ができるものではないように思います。

この強制疎開によって戦争マラリアに罹患し、多数の犠牲者を出した話に必ず出てくる軍人がいます。〝山下虎雄軍曹〟という人物ですが、軍の特務機関から波照間島の青年学校の指導者として送られていたこの山下軍曹の〝脅迫的指示〟によって、波照間島の住民は南風見田・古見・由布島へ移住地区へと強制疎開を余儀なくされます。間もなくマラリア患者が発生すると、山下軍曹は由布島へと移って行ったものの、その横暴さに耐えかねた当時の波照間国民学校の識名信升(しきな しんしょう)校長は、村民の罹患者も多いことも含めて宮嵜旅団長に直訴し、疎開命令解除を取りつけます。その日昭和20(1945)年7月30日、既に沖縄での組織的抵抗は終わっていた時でした。

波照間島へと戻った住民を待っていたものは、全て山下軍曹の言うがまま処分した家畜と4ヵ月放置したままの農地でした。そのまま元通りであったならともかくこの有様、加えて栄養不良と疲労が重なっており、しかも西表島からマラリアを運んできているという最悪の状態で罹患者は増え続け、その結果波照間島民1,590名のうち、マラリア罹患者1,587名で罹患率は99.7%、ほぼ全島民がマラリアで苦しみ、その内477名が亡くなっている、つまりほぼ3人に1人が亡くなったという悲劇に見舞われます。波照間島での話がよく〝戦争マラリア〟の話として挙げられることの背景には、この罹患率と死亡率の高さがあることには違いありませんが、それに加えて日本軍の横暴さの象徴ともされる〝山下軍曹〟の姿も被っているのではと思います。山下虎雄というのは偽名であり、陸軍中野学校・離島残置工作員の陸軍軍曹〝酒井清〟というのがその人であり、大戦末期の昭和20(1945)年にスパイ養成機関である陸軍中野学校から離島工作員として波照間島へと派遣された人物であります。同一人物の〝はず〟であるこの山下軍曹と酒井軍曹には、少し理解し難い違いを感じます。勿論いくら戦争中とはいえ、山下の取った行動は許されるものではありません。しかし宮嵜旅団長への直訴の結果、取り敢えず波照間島民は島へと帰〝れ〟ることとなります。しかしその時期は既に沖縄戦は終わっており、徴兵でなく正規の軍人なら〝終戦〟と〝敗戦〟はわかっていたはずだと思われます。しかし山下は波照間島へとついて行った。そして2ヶ月後の10月に、人知れず波照間島を後にします。ここまでならば〝離島残置工作員〟の言葉からも推測できる範疇ではあるものの、なぜその後波照間を訪れたのか、それも3回も。正気であれば訪れて〝歓迎されるか否か〟位はわかることだと思います。それが私には理解できません、山下ではなく酒井元軍曹の行動が。結果として昭和56(1981)年8月7日の来島時には当時の波照間公民館長浦仲浩氏をはじめとした島代表19名連名での〝抗議文〟を読み上げられています。そこまでするものは〝何か〟を知りたいと思います。もし〝離島残置工作員〟を辞書的に〝将来的にゲリラ要因を担うための人員の確保〟というのであれば、戦後36年経ってもその必要性を持っておられたのであればそれ以上言うことはありません。またそれを〝しなければいけない〟時代だったのかも含めて…。

疎開命令の解除を受けて、昭和20(1945)年8月7日から波照間島民の帰島が始まります。その際宮嵜旅団長に疎開解除を突きつけた波照間国民学校の識名信升校長が、西表の地でマラリアに罹患し、帰島叶わずに没した学童の慰霊意味も込めて、南風見田の地で小石に刻んだ言葉が〝忘勿石 ハテルマ シキナ〟。〝忘勿石(わするないし)〟として〝うっすら〟ではありますが今尚見ることができるものになっています。この〝忘勿石〟ですが、実はずっと保管されていたものではなく、昭和28(1953)年に偶然発見されたものだそうです。その確率的にすごく低い中で、〝写真〟ではあるものの今尚見ることができることは本当に感慨深い気持ちにさせられました。

この西表島南風見田の地にある〝忘勿石の碑〟、昭和54(1984)年に波照間小学校創立90周年事業として建立された〝学童慰霊碑〟と向かい合っているそうです。このあたりの話なのですが、両方の場所は訪れたことがあるものの〝謂れ〟については、〝今〟まで知らなかったことでした。〝忘勿石 波照間 識名(わするないし はてるま しきな)〟だったことも含めて…。偉そうに言いながら恥ずかしい次第ですが、沖縄全土が背景は異なるものの〝特徴的な被害〟を受けてきたことは、上部だけしかわからない私にも理解できます。それに纏わるものは、知られていないものも数多くあるように思います。どこまでのことができるのか私自身もわかりませんが、可能な限り〝見て〟〝聞いて〟〝感じて〟いければと思います。

ここまで波照間島に於ける〝戦争マラリア〟とそれに纏わる〝出来事〟を紹介しましたが、それは〝島民の数〟に於ける〝罹患者〟そして〝死者数〟が著しいことから話題に上ることが多いという理由であり、石垣島を含む八重山列島でも、強制疎開によってマラリアに罹患し亡くなられた数の多い事実は、空襲による死者178名に対し、戦争マラリアでの死者3,647名という桁違いの数の多さからも知ることができます。疎開をするにも〝若い人手〟がおらず時間を要し、疎開先では与えられるものは、雨露がやっとしのげる茅葺き小屋位なものでそれもほとんどが狭い共同小屋でした。そのため〝蚊帳〟を吊るすこともできずに、結果マラリアを媒介する〝ハマダラカ〟に対しても刺されっぱなしとなり、加えて整地されていないために多く見られただろう〝水たまり〟なども、蚊の幼虫である〝ボウフラ〟の発生を助長されたとしています。

また山岳地域への疎開によって働き手を失った〝農業〟は中断せざるをえず、そして頼みの配給も6月以降はほとんど無くなり、医療物資の欠乏、慢性的な栄養不良の状況下にあった背景で、マラリア罹患者が爆発的に増加していきます。掘立小屋には病人が何人も横たわり、そして次々に死者が出ていきました。当時のマラリアの特効薬〝キニーネ〟がない中での治療といえば、八重山平和祈念館の展示にもある〝清水をそのまま額の上に垂らし〟て熱が下がるのを待つしかありませんでした。そのような状況が続くなかで昭和20(1945)年7月23日には、八重山を守備していた独立混成第45旅団は強制疎開の命令を解除し、一部ではあるものの元の居住地である各集落へと戻ることを許可しますが、その命令そのものが徹底されなかったため、住人に伝わらず、結果帰ることが遅れました。さらに昭和20(1945)年8月15日の終戦後も、当時の部隊長クラスが避難先の住民にこれを知らせず、避難解除命令を出さなかったことにより混乱が続いた地区もあったそうです。これらのことが有病地へと疎開していた住民の退避を遅らせることとなり、さらにマラリア被害を広げたとされています。

しかしこのあたりの話は〝軍=軍人=悪〟と〝決めつけて〟記載されているものに書かれています。確かに〝軍〟指導の元で行われた強制疎開によって、罪のない民間人がマラリアに罹患し、それで多くの方が亡くなったことは事実であり、そのように解釈されるのも仕方がないところはあるとは思います。しかし軍=軍人と決めつけるのもどうでしょうか。事実八重山でも、沖縄島同様〝鉄血勤皇隊〟や〝従軍看護婦〟、そして〝特設警備隊員〟として現地徴収された方もおられます。〝軍属〟〝準軍属〟と呼ばれるその方々に〝あなたは軍人だから私たち住民の気持ちはわかる訳がない〟と言い切れるでしょうか。地元民であり軍人でもある方々は、どちらの立場も理解できる方達だと私は思います。その方々ですら容易に〝伝令〟としての役割ができなかったこと、その背景には解釈上の〝沖縄戦の終結〟問題、それが原因ではないかと思います。昭和20(1945)年6月23日(22日説あり)の日本軍の組織的抵抗の終結、そして8月15日の終戦で〝戦争は本当に終わっていた〟のでしょうか。以前記述したことがありましたが、〝本当の沖縄戦の終結〟を昭和20(1945)年9月7日の現米軍嘉手納基地内森根での降伏調印式をもってとしており、その日を〝沖縄市民平和の日〟としている旧コザ市を含む沖縄市の例も存在することは、紛れもない事実です。2ヶ月半もの間の開きがあるのが事実であれば、〝情報網の途絶〟があった上に職業軍人ですら〝何が正しいのかわからない〟となってもおかしくはなかった状況だとは推測します。ただ〝なにも悪くはない〟とは言いません。やはり結果として〝不用意な犠牲者〟を出してしまった責任は、〝疎開命令〟を出した〝軍〟にあることは間違いありません。まして解釈によっては、〝犠牲者を増やす〟ことに拍車をかけてしまったことは、遺族感情として当然永久に〝許せない〟ものであることは容易に想像がつきます。ただそれをひとりの軍人のこととするには、〝決めつけられない要素〟があまりにも多すぎるように思います。

勿論戦後の〝遺族談話〟に於いて、身内を悪く言われる方はおられません。そのため内容的に〝擁護〟しているものもあるものの、〝一観点〟からの論述では〝決定的な結論〟を導くことができない現実を〝どのように解釈する〟のかという点に於いて聊か疑問に思います。もしこれが〝時が解決〟してくれるといった〝理由〟であるならば、ひとつ考えて頂きたいことがあります。間もなく戦後70年を経過しようとしています。戦後統治されていた沖縄が日本復帰して43年経過しました。〝言論の自由〟が当たり前とされる現在、〝理由はある〟にしても〝表舞台〟に出てくることのなかった〝出来事〟は、生存者が年々減るに従い、〝闇のままの出来事〟となってしまいます。ということであれば、これからまた数十年の月日が経過し〝戦争マラリア〟を含む戦時中の出来事に対し、既成概念を覆すような記録や発表が出てくることは〝ありえない〟ことではないでしょうか。無責任な言い方かも知れませんが、勿論〝論議すること〟でその意見が正当化され、その結果犠牲になられた〝戦争で亡くなった方々〟が時を越えて行き返るのであれば、その論議は生きてくるものだと思います。しかし現在の科学ではあり得ないことです。それではどうすればよいのか。答えは簡単です。暗黒の戦争時代に逆戻りしないように〝権力を牽制すること〟、ただそれだけのように思います。〝不戦主義〟などという〝立派な言葉〟は必要ありません。しかし周りが〝戦争色〟に染まってしまうことは、結果〝勝つための目的〟がすべてとなってしまい、それが〝世論の大義名分〟となってしまうと〝聊か(いささか)の犠牲〟自体が〝止むをえないこと〟になってしまいます。誤解のないように言いますが、私はそのことを〝過去に起こった出来事〟にまで遡って当てはめるつもりはありません。思想教育を含め〝そこまで〟のことを考えられなかった時代のことを言っても〝こじつけ〟以外なにものでもありません。しかし未来将来にわたることであれば、今から考えておけば〝対策を講じる〟ことは難しくはないことだと思います。
〝歴史を知らずして未来は語れない〟…、それを実行に移さなければいけないときを迎えているのではないでしょうか。

〝戦争マラリア〟の問題は、平成11(1999)年の〝八重山平和祈念館〟の設立とバンナ公園に建立された〝戦争マラリア犠牲者慰霊之碑〟によって一応の解決をみたかのように書かれているものが多い中、やはり納得のいかない〝被害者遺族〟もあるようにもあるように感じます。設立の経緯に触れていることは多いものの、〝その後〟まで触れているものはほとんどありません。立派な〝建物〟や〝慰霊碑〟はできましたが、その後はどうなっているのでしょうか。〝慰霊〟は、〝モニュメント〟の完成によって〝完結〟するものではありません。むしろそれが〝スタートライン〟であり、犠牲者の方々を〝なぜ慰霊するのか〟、〝安らかに眠って頂く〟ためには〝なにが必要なことなのか〟。それらを考えなければ、〝過去の過ち〟を繰り返すことに繋がる可能性は高いように思います。

この八重山地区で多数の犠牲者を出した〝マラリア〟という〝病気〟ですが、日本では〝撲滅宣言〟が出されているものの、アフリカなどでは今尚〝風土病〟として残っているものであり、耐性を持たない〝子供達〟の犠牲者があとを絶ちません。しかし記載されているものの中には〝誤記〟も多く見られるため、簡単に説明を加えると、〝マラリア〟とは〝雌ハマダラカ(亜種も含む)〟が〝マラリア原虫(亜種も含む)〟を媒介することによって引き起こされる〝原虫感染症〟のひとつです。〝マラリア罹患者〟から〝ハマダラカ〟が吸った血液中に〝マラリア原虫〟が含まれており、その〝マラリア原虫〟は〝ハマダラカ〟の体内で〝有性生殖〟をして増殖し、唾液腺に集まります。一般的な〝蚊〟の吸血のメカニズムである吸血前に、体内にヘパリン様物質を含んだ唾液を出すことで、吸血時の血液凝固を防ぎますが、同様のことを〝キャリア〟である〝ハマダラカ〟が健常者に対し行うことで〝マラリア原虫〟が体内へと入ります。そしてマラリア原虫は僅かな時間で肝臓に到着し、そこで1~3週間かけて成熟増殖を繰り返します。その後肝細胞を破壊して赤血球内に浸入し、ここでもまた分裂をした後に赤血球を破壊して血液中に出た後、同じように新たな赤血球内に浸入することを繰り返します。結果赤血球が破壊されて溶血を起こすので、体内循環に於いて赤血球が受け持つ機能障害〝低血糖〟〝重症貧血〟、肝臓機能として〝黄疸〟〝肝不全〟の他、〝マラリア脳症〟〝脾臓肥大〟等の合併症が起こり〝死に至る〟〝悪性の風土病〟のひとつとされています。

八重山で戦争マラリアが蔓延した頃の治療薬は、〝キニーネ〟と呼ばれるものでした。これはマラリア原虫が赤血球に取り付いた際に、ヘモグロビンを取り込み栄養源としていますが、その際に血色素ヘム(鉄)と言う原虫にとって有害な物質が産生するのを、酵素を利用し無毒化していますが、その過程を阻害するものとしての役割を担っているという説が一般的のようです。またマラリアが蔓延した理由の記述の中に、よく〝粗悪な居住環境〟とあります。確かに〝掘立小屋〟に〝大人数での生活〟ということは疑う余地のないことだと思います。しかしその他に〝不衛生な〟という記述も多くみられるなかで説明のつかないことも多く記述されています。
〝マラリア〟を媒介する〝ハマダラカ〟の〝幼虫〟、即ち〝ボウフラ〟の種類についてですが、機能的なことによって〝他のボウフラ〟と比較すると余計に〝清水〟を好むという特徴があります。〝ボウフラ〟自身にも言えることではあるのですが、不衛生な水場を敬遠する傾向があるため、〝汲み取り式共同便所〟等には発生しなかったように思います。このあたりは推論の域でしかありませんが、沖縄戦の悲惨さを取り上げたものに記載されている〝傷口にウジがわいた〟と〝表現〟に〝紛れて〟いるように捉えると話は繋がるものの、それでは〝戦争マラリア〟についての記載ではなくなってしまいます。勿論〝戦争マラリア〟という〝史実〟の悲惨さを表現するための手法かも知れません。しかし他の内容はともかく、この様な〝事実誤認〟的な内容を知ってしまうと、〝誤解〟を生むのではないでしょうか。〝マラリア菌〟に侵されている場所というものに至っては、1880年頃に〝マラリア原虫〟によるものであることが証明されている事実すら〝知らないのか〟と疑ってしまいます。
記載の仕方で〝解釈〟が変わってしまうこともあり付け加えておきますが、汲み取り式トイレに於いて、固形物が沈むと上澄みは綺麗なものであるという解釈について〝肥ダメ〟なら話はわかりますが、トイレとなると〝使用頻度〟を考えると〝確率的に低い〟ものだと考えます。
また〝ハエ〟の幼虫である〝ウジ〟が〝傷口〟にわくことを〝劣悪な衛生環境〟の〝表現〟として使われているものも多く見受けられますが、これもどうなのでしょうか。傷口にわいた〝ウジ〟は壊死や腐敗した〝組織だけ〟を食べ、決して生きている正常な組織を食べることはありません。そして綺麗に食した患部は分泌液によって〝消毒〟されます。それによって感染症を予防するといった一連の流れの治療、つまり〝ウジ〟が〝傷口を治す〟役割を担っているのです。現在でも〝マゴットセラピー〟として用いられているこの治療法、戦時中まともな薬品もない状況で怪我をした〝兵士〟の治療として〝軍医〟が用いていた記録もあります。確かに〝ハエ〟にしても〝ウジ〟にしても〝不潔の代名詞〟と捉えられているため、〝戦争の悲惨さ〟を言い表すには〝うってつけ〟なのかも知れません。しかしその働きを〝利用している事実〟を知らなければ、結果として〝事実誤認〟を惹き起こすことは明らかだと思います。

昨今日本を取り巻く地域で〝うさんくさい〟出来事が頻発していても、間もなく戦後70年を迎える今日、一日が無事終わり明日もそうだろう…といった〝見かけの平和〟が〝あたりまえ〟とされている節があります。私自身もそのような時代を生きてきたのは事実です。しかしそれは〝過去〟の話であって〝未来〟に渡って保証されているものではありません。〝70年目の8月15日正午〟を迎えるにあたり、もし〝徴兵されたら私はどうなるの?〟という議論をすることは、必要な時期に差し掛かってきているのではないでしょうか。〝資料館〟の〝写真〟の中での話でしかないと思う前に…。

昭和20(1945)年8月15日正午の〝昭和天皇の玉音放送〟では、沖縄戦は終結していません。9月7日に米第10軍司令部のある沖縄県越来村森根で、守備軍を代表して第28師団長納見敏郎中将、独立混成第64旅団長高田利貞少将および海軍沖縄根拠地隊参謀長加藤唯雄少将が署名し、米軍を代表して第10軍司令官J・W・スティルウェル陸軍大将が受託し、終結となったものの、八重山の駐留部隊の〝軍備解除〟まではその後約1ヶ月を要しています。また戦争は終わったものの〝マラリア〟は依然として猛威を奮っていました。奇しくもその〝マラリア〟を収束に向かわせたのが、戦後統治をした米軍でした。

その後琉球政府による〝移住政策〟によりマラリアは息を吹き返しますが、最終的には1960年代にアメリカのウィーラー・プランによって完全に撲滅されます。撲滅作戦は〝八重山民政府衛生部〟の主導で行われ、当時衛生部長であった〝大浜信賢(おおはま しんけん)医師〟が陣頭指揮を取っていました。この〝開拓と移住計画〟は〝マラリア撲滅無くして開拓無し〟と言うスローガンの下で率先して行われたものであり、石垣島をはじめとする八重山群島へ3,000名余りの〝開拓移民〟を迎えるにあたり、風土病として恐れられていた〝熱帯性マラリア〟の撲滅は必須条件でした。それまでの〝マラリア〟への対策というものが患者への〝原虫対策(投薬も然り)〟と呼ばれる〝罹患後〟に重きを置いていたことに対し、〝ウィーラー・プラン〟や〝大浜医師〟の考えは、それ以前の〝防蚊対策〟を重視しました。戦後なにかにつけてばらまかれた〝DDT(ジクロロジフェニルトリクロロエタン)〟も効果的であり、〝人そのものへの噴霧〟や〝屋内残留噴霧〟により〝ハマダラカ〟を激減させていきました。

太平洋戦争中に〝戦争マラリア〟によって多くの方々が亡くなられた〝八重山の島々〟では、時の流れとともにその〝史実〟が〝風化〟することなど〝考えられない〟ことだと思います。しかしこの〝戦争マラリア〟というものがやはり〝知名度不足〟なのは否めない事実でもあります。確かに石垣島をはじめとする〝八重山の島々〟には観光客が激増しました。しかし〝来島者〟が増えても〝知名度〟が上る訳でもありません。沖縄の島々を訪れる観光客は、最近〝二極化〟しているように思います。なにも考えないで〝安い飛行機〟を使って〝遊んで帰る〟だけの者、遊びの要素はあれど〝沖縄〟の〝歴史的要素〟を〝踏まえ〟ている者。どちらが良いかはわかりませんが、やはり闇雲に〝平和〟を〝安売りの如く〟連呼するのではなく、〝史実〟を踏まえた〝考えた〟ものに繋げて貰いたいとはなにかにつけて思います。TPOを弁えない、また弁えられない〝抗議活動〟を含む行動は、結果として〝賛同〟を得ることは年々難しくなって行きます。〝賛同〟をするかしないかは、個人の考えに依るものであるにしても、〝効果的〟なものを〝卒なくこなす〟ことは、戦後に産まれて〝知らないなり〟に過去を知り、それに基づいた〝対策〟を講じることができる今の〝大人〟の使命ではないだろうか、そう思えてなりません。勿論私が全て〝正論〟を言っているとは思っていません。しかし〝物事の繋がり〟を〝理解できない〟ため、問題提起をしているだけの話であり、状況証拠だけを突き詰めるだけのことで〝覆す〟ことができると言った〝明らかに間違っている〟ことを指摘しているだけの話です。勿論〝客観的〟に見て間違っているならば訂正します。加筆もします。しかし〝マスメディア〟ですら間違ったり、検証不足と思えることを平気で書いている現状でありながら、その〝指摘〟すらないことはまわりが〝無関心〟のひと言で片付けてしまっているように思えてなりません。私はそのことが〝一番の問題〟ではなかろうか、そう思うのです。


内容は昨年末2014年12月に訪れた時の知識や考えを元にしております。若干今と考えが異なっていますのでご了承下さい。長文お付き合い頂き有り難うございました。これにて〝第十章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~八重山:八重山平和祈念館・バンナ公園・米軍兵士慰霊碑編~〟を終わります。

《よろしければご覧下さい》
第一章あみんちゅ戦争を学ぶ旅鹿児島陸軍特攻戦跡~万世・知覧編~
http://4travel.jp/travelogue/10933877

第二章あみんちゅ戦争を学ぶ旅鹿児島海軍特攻戦跡~笠之原・串良・鹿屋編~
http://4travel.jp/travelogue/10933914

第三章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~沖縄:旧海軍司令部壕編~
http://4travel.jp/travelogue/10963283

第四章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~沖縄:嘉数(かかず)高台公園《私見》沖縄戦解釈編~
http://4travel.jp/travelogue/10981023

第五章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~滋賀:滋賀県平和祈念館・陸軍八日市飛行場跡編~
http://4travel.jp/travelogue/10974454

第六章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~福岡:碓井平和祈念館編~
http://4travel.jp/travelogue/10990537

第七章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~福岡:武富戦争資料館(兵士・庶民の戦争資料館)編~
http://4travel.jp/travelogue/10990699

第八章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~福岡:筑前町立大刀洗平和記念館編~
http://4travel.jp/travelogue/10990539

第九章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~喜界島:戦闘指揮所跡・海軍航空基地戦没者慰霊之碑・掩体壕編~
http://4travel.jp/travelogue/11015120

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
レンタカー スカイマーク JR特急 JRローカル 徒歩 Peach
旅行の手配内容
個別手配

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  • 琉球熱さん 2015/08/16 03:12:52
    ハテルマシキナ
    たかティムさん

    戦争マラリアに絡んだ話で、波照間小学校の壁に描かれた歌はご存知ですか?
    『星になった子供たち』という題名で、子供たちが創作したものですが、この歌詞がまさに戦争マラリアと強制疎開をテーマにしており、泣けてきます。

    南風見田の忘勿石の現物も(当然モニュメントも)、数年前に写真を撮ってきました。
    波照間に上陸した中野学校出身の軍人「山下」は、戦後ものうのうと生存し、97年に他界しています。こんな点にも理不尽さを感じずにはいられません。
    一方、忘勿石は識名校長没後、波照間出身の保久盛長正氏により偶然発見されたものであることは、ご指摘の通りです。
    識名校長がなぜ存命中このことを誰にも言わなかったのか、どんな思いで石に刻んだかを考えると、本当に胸が詰まります。

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