2014/12/14 - 2014/12/17
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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
あみんちゅ暴走南国の旅その壹之⑤沖縄本島・石垣島~沖縄島縦走今帰仁城跡そして糸満へ編【2日目後編】~
2014年7月に沖縄本島と小浜・竹富・石垣を旅した後、10月に沖縄本島・宮古島・石垣島etcへという幻のプランがありました。諸々の理由で行くことが出来ず、一回分の旅行ができなかった状態での今回の旅でしたが、時期的なものもあり長期で出かけることが難しい状態でした。なので日数を大幅短縮し、弾丸ツアーを敢行すべく今回の旅の立案をしました。とはいえ所詮行程や予定表などは机上のものでありあてにはなりません。なので予定は未定編に比べ、観光した箇所が大幅に減っています。またそれも醍醐味だと改めて思い、4日間の旅行期間を振り返り書いてみることにします。
"あみんちゅ暴走南国の旅その壹之⑤沖縄本島・石垣島~沖縄島縦走今帰仁城跡そして糸満へ編【2日目後編】~"では、今帰仁城跡から沖縄道許田インターを経て南部糸満市のペンション喫茶南の楽園に至る道のりを書いています。
2014年12月15日月曜日
ホテルみゆきビーチ 09:15
辺戸岬 11:00(65.6km)
11:35
ヤンバルクイナ展望台 11:40(67.4km)
11:57
茅打バンタ 12:00(70.3km)
12:20
国頭郵便局 12:43(90.9km)
12:55
ウフギー自然館 13:09(93.7km)
13:13
道の駅おおぎみ 13:25(102.9km)
13:45
古宇利オーシャンタワー 14:18(126.5km)
15:35
---------------------------(ここから)------------------------
古宇利ふれあい広場 15:45(131.2km)
16:15
今帰仁城址 16:57(146.6km)
18:15
ペンション喫茶南の楽園 20:50(257.9km)(344.7km)
---------------------------(ここまで)------------------------
古宇利島ふれあい広場を後にし、古宇利大橋を渡って行きます。途中今帰仁郵便局で旅行貯金をして、今帰仁城跡へと向かいます。勿論有名な世界遺産登録の場所ですが、昨日の首里城といい2日続けての世界遺産の”ギリ入場”をしてしまいます。というより今帰仁城跡を目的地にしたのは、なにを隠そう古宇利島ふれあい広場で、周辺史跡の案内に18:00まで入れることを知ったからに他なりません(汗)。
とにかく今帰仁城跡の駐車場までやって来ました。トコトコ坂を登って行くとチケットブースがあります。大人400円、お得感を感じます。行くまで知らなかったことですが、この今帰仁城跡、有料区域に行くまでにもたくさん史跡があります。個人で訪れた方用に撮影コーナーには三脚まで置いてありました。パンフレットに載っている”外郭”のセクションが無料で見学できる場所になります。
チケットは今帰仁城跡と今帰仁村歴史文化センターの共通券になります。ということで今帰仁城跡の入口へと向かいます。平郎門から入りますが発掘調査中なのでしょうか?平郎門の左側にはシートがかぶせてあります。同じように今帰仁城跡には結構発掘調査中の箇所がありシートがかぶされていたり立ち入り禁止になっている場所もあります。全部見学できれば良いにこしたことはないのですが、まあ歴史遺産として恒久的な保存のことを考えればいたしかたないのかもしれません。写真では今回2014年12月15日現在のものとして”そのまま”を撮影しております。
今帰仁城跡のパンフレットより抜粋すると・・・、
城壁は語る
十四世紀、琉球に三大勢力が割拠したグスク時代
本島北部の覇者、山北王が
天険の地に築き上げた 百曲がりの城壁は
堂々と雄々しい
歴史的価値が認められた
世界遺産・今帰仁グスク
大切な文化財を守り
次世代に受け継いでいく
三大勢力が争ったグスク時代
14世紀の中国の史書に琉球国山北王「帕尼芝(ハニジ)」「眠(ミン)」「攀安知(ハンアンチ)」の三王が登場します。この頃の沖縄本島は北部地域を北山、中部地域を中山、南部地域を南山がそれぞれ支配した「三王鼎立の時代」でした。北山王は今帰仁城を拠点に沖縄島の北部を中心に支配下とし、中国と貿易をしていました。しかし1416年(1422年説もある)に中山の尚巴志(ショウハシ)によって滅ぼされ、北山としての歴史の幕を閉じることになります。
北山から監守時代へ
北山の敗北後、中山は北部地域の管理のために監守を今帰仁グスクに設置し、1422年以降、監守の居城としてグスクを利用します。しかし1609年に薩摩軍による琉球侵攻にあい、城は炎上したとされています。
監守が住まなくなって以後は拝所として精神的拠り所として広く県内から参拝者が訪れています。
平郎門から入場し、奥へとまっすぐに伸びる石畳の通路と階段があります。あまりにも建物と馴染んでいるので当時のものか?と錯覚しそうですが、今帰仁城がグスクとして機能していたときにはこのような道はありません。まっすぐの道=攻め込まれやすいため、わざと歩きにくくされています。当時の道は旧道として再現されています。ということでまずは観光用に整備された道を歩いて行きます。平郎門とは、本門で現在見る門は昭和37(1952)年の琉球政府時代に修復されました。琉球国由来記に「北山王者、本門、平郎門をヲ守護ス」として登場します…とありました。
まず平郎門を潜ると左手に大隅のセクションが広がっています。大隅とは、戦時中に備え馬を養い、兵馬を訓練した場所として伝えられています。最も高い石垣が築かれた堅牢な城郭です。本州の城郭とはまったく異なるこの今帰仁城、敷地の広さもありますが、見方によっては城であり城下町であったようにも思えます。石垣などは沖縄にある琉球石灰岩を使って構築されているところは独特な文化を感じますし、その石垣からアンモナイトの化石が発見されるなどグスク時代から遡った歴史の生き証人になっていることは深い趣を感じました。
順路を上がっていくと御内原(ウチーバル)に入ります。ウチーバルとは城内における御嶽(ウタキ)があり、今帰仁城跡に使えた女官の生活の場所として伝えられ、城内でも神聖な場所です。北側から海を一望することができます。
そして大庭(ウーミャ)、ウーミャを正殿(主郭)、北殿、南殿の建物が囲むように配置されていたと考えられ、行事等に利用された重要な広場です。
そして一番奥にある主郭(俗称本丸)ですが、主郭は発掘調査によって築城から廃城までの時期変遷を確認することができました。城内でも最も中心的な建物があった場所です。とパンフレットにもあるようにここが一番奥になり海も見える場所だと思います。う~ん・・・絶景ですが既に時間は17:30、日没も過ぎあたりは暗くなり始めています。残念ですがまた改めて来たときの楽しみに取っておきます。
降りようとするとなにやら奥の方に通路があります。なんとなく行ってみると志慶真門郭の方に延びているようです。志慶真門郭とは、城主に仕えた身近な人々が住んだと考えられ発掘調査によって4つの建物があったことがわかっているそうです。今帰仁城跡の一番奥ではありますが高さが城郭に比べ低いのと通路が手前までしか続いておらず海までは見えません。ここも残念ながらあたりが暗くなってしまっているんで先を急がねばなりませんでした。
帰り道は旧道を通って行きます。これが当時の通路を再現していますが、やはり歩きづらいです。この道だとたとえグスクに敵が攻め込んできたとしてもそう易々とは城郭まで攻め込めなかっただろうと思います。ただ薩摩軍の琉球侵攻の際に今帰仁グスクが炎上してしまったということはよほどの数の軍勢が攻め込んできたんだろうと思うしかないです。暗い過去のように思いますが、それも時代の流れなのでしょうか。
歴史に思いを馳せながら平郎門を出て行きます。辺りはかなり暗くなっていますが、最後に今帰仁村歴史文化センターへと向かいます。さすがにこの時間だと有料区域以外を散策されている方が若干いるだけのようです。歴史文化センターでも閉館の準備をしておられる中、KY的に入って行きました。閉館までの10分間で、駆け足で今帰仁の歴史を見て回りました。
18:00ちょうどに出て行くとすぐに閉館になりました。最後に今帰仁村歴史文化センターを撮ってみましたが写真の通りです。そして向かう先は今日一泊お世話になる糸満市のペンション喫茶南の楽園になりますが、ナビの行き先を間違って登録していたみたいで、今帰仁城跡から沖縄自動車道経由でも約100kmあり、2時間かかることが判明。実は二食付きでお願いしていたので、予定の20:00でも遅いくらいでした。それがナビいわく21:00の到着と表示され、うわ~っ状態(汗)。かと言って飛ばすわけにもいかないので、とりあえず許田IC近くの道の駅許田から連絡を入れることにしてとりあえず出発します。
ナビの示す道は一旦名護に戻って許田ICを使うルート。本当にこの道でいいのか疑問を持ちながらも走って行くと、途中名護パイナップルパークなんかを見つけながら国道58号線に合流してしばらく南下して道の駅許田に到着。とりあえずナビの示す20:30をペンション喫茶南の楽園に連絡します。ゆっくりいらして下さいとのお母さんの言葉に救われて、初沖縄自動車道に入ります。内地の人は高速=100kmの感覚がありますが、沖縄道は80km制限です。とは言え適度に飛ばして沖縄道唯一のサービスエリアである伊芸SAで一服し、またまた快走を続け西原JCTから那覇空港連絡道豊見城ICを経て糸満の市街地へとやってきました。中心部からさほど遠くない場所のはずですが、どうも道がわかりません。同じところをぐるぐる回ってさあどうしましょう?なんですが、ふとナビの地図に細い裏道を発見、もしやと思って入って行くと、ありました。ペンション喫茶南の楽園の看板が。多分メイン通りにも面しているのでしょうが、この裏道から入ったところが本当の入口だったようなのでわからなかったようです。予定に遅れること45分で無事到着し、荷物を置いてまず食事。遅い時間になったにもかかわらず時間を聞いて食事を出して頂いたママさんに感謝です!
お腹がふくれて一服した後、飲み物を買って来なかったことに気付き、最寄りのコンビニを聞いて車を走らせます。最寄りと聞いた場所はひめゆりを越えたところなんですが、糸満に着くまでは本当に余裕がなく、周辺や位置関係をまったく把握していませんでした。でも今回は場所がわかっているだけに、ひめゆりまでって結構あるなと思いました。でもでも…、本当にすぐにひめゆりの塔に着いてしまいます。こんな時間に来たことはなかったので、様子を伺うと中には入れるようです。そしてファミリーマートを見つけて飲み物を調達した後、本当は今日訪れる予定だった場所を見て回りました。平和祈念公園は22:00迄でしたが、ちょうどこの時期はイルミネーションが夜についているそうです。今は22:45…残念。健児之塔のすぐ近くまで行ける道も確認できました。あと何ヶ所か回りたかったのですが、あまり遅いと心配かけてしまうのでここで切り上げて戻ります。戻る途中に気になった畑の中の電飾、行きはなかったはずなので不思議に思い帰って聞いてみると、これが電照菊だとわかりました。光害を考慮して23:00から点灯されるのでなかなか見られないものだと思います。
ペンション喫茶南の楽園を選択したのは、あえて那覇市内を外して二食付きと言う理由からでした。建物はログハウスでベッドは二つ、エアコン(暖房)付きでバストイレは別ですが、どちらも綺麗で気持ち良く一晩を過ごせました。ママさん&オーナー夫妻皆さん感じが良くいろんな話を聞くことができました。ご飯も美味しく頂けましたので。
今回の旅の特徴でもあり欠点でもあるのですが、宿泊先での滞在時間が大変短いこと。このペンション喫茶南の楽園でも同様で7:30に朝食を頂き8:00に出発という慌ただしい行程です。いつもの半分にしてしまうとこんなに慌ただしくなるものかと行程を組んだ自分を責めたくなりましたが、所詮甘ちゃんなんで仕方がないと思い、次回につなげようと心に決めた瞬間、眠気が襲ってきていつものようにzzz。こうして沖縄島最終日の夜は更けていきました。
これで"あみんちゅ暴走南国の旅その壹之⑤沖縄本島・石垣島~沖縄島縦走今帰仁城跡そして糸満へ編【2日目後編】~"は終了です。次は、"あみんちゅ暴走南国の旅その壹之⑥沖縄本島・石垣島~そして石垣へ編【3日目】~"へと続きます
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- レンタカー スカイマーク JR特急 JRローカル 自家用車 徒歩 Peach
- 旅行の手配内容
- 個別手配
- 利用旅行会社
- 楽天トラベル
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ではそろそろ古宇利島ふれあい広場を出発し、世界遺産今帰仁城跡へと向かいます。
古宇利島物産センタ- お土産屋・直売所・特産品
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古宇利大橋を渡って行きます。
古宇利大橋 名所・史跡
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今帰仁城跡に到着しました。
チケットブースの前にあった撮影コーナー。今帰仁城跡 名所・史跡
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今帰仁城跡のパンフレット。
今帰仁城跡 名所・史跡
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今帰仁城跡のパンフレット、城壁は語る。
今帰仁城跡 名所・史跡
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今帰仁城跡のパンフレット、城跡の地図。
今帰仁城跡 名所・史跡
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今帰仁城跡のパンフレット、施設概要。
今帰仁城跡 名所・史跡
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今帰仁城跡、概要マップ。
今帰仁城跡 名所・史跡
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今帰仁城跡、立体マップ。
今帰仁城跡 名所・史跡
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今帰仁城跡、外郭。
無料で回れる場所にあります。昭和50年、沖縄海洋博覧会の工事の進む中、石垣が積まれた箇所の発見がありました。これが城郭の一部であることが確認され、昭和54年12月28日に国の史跡として追加指定されました。高さは2メートル 前後と比較的低い石垣が延長数百メートル蛇行して続きます。石垣で囲まれた空間を外郭(がいかく)と呼んでいます。調査がまだなされておらず、近年まで畑として利用されていたため、現状からはどのような機能を持っていたか解っていません。今帰仁城跡 名所・史跡
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今帰仁城跡、外郭。
今帰仁城跡 名所・史跡
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今帰仁城跡、外郭。
今帰仁城跡 名所・史跡
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今帰仁城跡、外郭。
今帰仁城跡 名所・史跡
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今帰仁城跡、外郭。
今帰仁城跡 名所・史跡
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今帰仁城跡、外郭。
今帰仁城跡 名所・史跡
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今帰仁城跡、外郭。
今帰仁城跡 名所・史跡
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今帰仁城跡、外郭の古宇利(フイ)殿内火神。
小さな祠(ほこら)に香炉(こうろ)が置かれている簡単な作りで、東北の方向を拝み、古宇利島(こうりじま)の人々が旧8月に参拝します。今帰仁城跡 名所・史跡
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今帰仁城跡、外郭の撮影コーナー。
右手に見える三脚は来館者の撮影用です。今帰仁城跡 名所・史跡
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今帰仁城跡、外郭の撮影コーナー。
今帰仁城跡 名所・史跡
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今帰仁城跡、外郭。
今帰仁城跡 名所・史跡
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今帰仁城跡にて。
右手に史跡指定の碑、左手には世界遺産登録の碑があります。時間がないので入場するとしましょう。今帰仁城跡 名所・史跡
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史跡今帰仁城跡の石碑。
史跡指定は沖縄が日本復帰と同時に行われたようです。今帰仁城跡 名所・史跡
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今帰仁城跡にて。
世界遺産登録の碑。今帰仁城跡 名所・史跡
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今帰仁城跡、入口の平郎門です。
右奥のブースでチケットを見せます。今帰仁城跡 名所・史跡
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今帰仁城跡、平郎門の謂れ。
平郎門(へいろうもんと)は今帰仁城の正門で、その名称は『琉球国由来記』に、「北山王者、本門、平郎門ヲ守護ス」として登場します。
現在見る門は、昭和37年(1962年)に修復(しゅうふく)されたもので、左右に狭間(はざま)があり、門の天井は大きな一枚岩を乗せた堅牢(けんろう)な作りとなっています。今帰仁城跡 名所・史跡
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今帰仁城跡にて。
平郎門から大庭(うーみゃー)に至る七五三の階段。当時はこのようなまっすぐの道ではありませんでした。
この参道は戦前に地元民によって桜の植栽とともに直線道に整備され ます。戦後まもなく米軍の車両が城内へ登ることから、戦災文化財の修理として文化財保護委員会の指導のもと、今見る階段の整備が行われました。今帰仁城跡 名所・史跡
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志慶真乙樽(しげまうとぅだる)の歌碑
今帰仁の城 しもなりの九年母
志慶真乙樽が ぬきゃいはきゃい
大意:今帰仁グスクの南にある志慶真ムラという集落に「乙樽」という美女がいました。黒髪が美しい乙女の噂は国中に広がり「今帰仁御神」と呼ばれ時の山北王も側室として仕えさせました。なに不自由なく暮らす幸福な毎日を過ごしましたが、高齢の王には長い間後継ぎが泣く、王妃も乙樽も世継ぎが授かることばかり祈っていました。やがて王妃が子を授かり、そのことに季節はずれの蜜柑が実ったことに例え、子供のはしゃぐ声に満ちた平和な様子を謡っています。
今帰仁城跡、主郭にて。今帰仁城跡 名所・史跡
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今帰仁城跡、御内原(うーちばる)の撮影コーナー。
今帰仁城跡 名所・史跡
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今帰仁城跡、御内原(うーちばる)から見る海。
今帰仁城跡 名所・史跡
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今帰仁城跡、御内原(うーちばる)から見る海。
今帰仁城跡 名所・史跡
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テンチジアマチジ(城内上の御嶽)
御内原の隅に自然石が、高さ1メートルくらいの石垣で囲まれた拝所となっています。今帰仁城の中で最も神聖な場所です。オモロで「今帰仁(みやきせん)のカナヒヤブ」と謡われています。今帰仁城跡 名所・史跡
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カラウカー
大庭の東南側に窪んだ自然の岩石があり、常時水をたたえています。かつて女官達が髪を洗ったり、水量で吉凶を占ったと伝えられています。今帰仁城跡 名所・史跡
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歴代の今帰仁城主郭の様子。
今帰仁城跡主郭にて。今帰仁城跡 名所・史跡
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火神の祠と山北今帰仁城監守来歴碑記。
火神の祠(ひのかんのほこら)とその前に石灯寵(いしとうろう)4基と山北今帰仁城監守来歴碑記(さんほくなきじんじょうかんしゅらいれきひき)が立っています。火神の祠の建築年は不明ですが、今帰仁城監守が首里へ引き揚げた1665年頃に設置されたと考えられます。1713年の琉球国由来記や1742年の具志川家家譜(ぐしかわけかふ)の図に記されていることから、少なくとも17世紀頃には設置されていた事が伺えます。現在の火神の祠は戦後に改築したものを、整備事業に伴い移築し現在の位置にあります。碑は今帰仁王子朝忠(今帰仁按司十世宣謨)によって、乾隆(けんりゅう)14年に立てられています。乾隆14年は尚敬王(しょうけいおう)37年(1749年)にあたります。碑は現在今帰仁村歴史文化センターに保管展示されています。祠には、第二監守一族の火神が奉(まつ)られ、旧暦8月10日には今帰仁ノロ以下の神人(かみんちゅ)が城ウイミの祭祀(さいし)を現在も行っています。また、今帰仁上りの重要な拝所として参詣者が絶えません。
(県指定有形文化財平成14年1月18日)
今帰仁城跡主郭跡地にて。今帰仁城跡 名所・史跡
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山北今帰仁城監守来歴碑記。
今帰仁城跡主郭跡にて。今帰仁城跡 名所・史跡
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今帰仁城跡主郭全体の様子。
今帰仁城跡 名所・史跡
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志慶真門郭(しじまじょうかく)
今帰仁城跡の主郭より一段低いところにあります。ここは今帰仁城の裏門にあたり、戦略上重要な所であったと思われます。城壁は原形に近い形で残っており、築城技術を知る上で重要な場となっています。この郭(くるわ)は昭和55年〜57年(1980年〜1982年)に発掘調査が行われ、埋もれた階段や石畳道、段々畑のように宅地造成された平場やそこに築かれた建物跡がいくつか発見されました。現在そのうち4棟の掘立柱建物跡の遺構を表示しています。建物は約6メートル×4メートルの広さで中には炉跡も確認されています。城内の重要な郭の一つで、按司(あじ)の家臣たちが生活した場所と考えられています。発掘調査では多くの遺物が出土しており当時の生活の様子が伺えます。今帰仁城跡 名所・史跡
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主郭から見た、志慶真門郭(しじまじょうかく)。
今帰仁城跡にて。今帰仁城跡 名所・史跡
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主郭から見た、志慶真門郭(しじまじょうかく)。
今帰仁城跡にて。今帰仁城跡 名所・史跡
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志慶真門郭(しじまじょうかく)。
今帰仁城跡にて。今帰仁城跡 名所・史跡
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志慶真門郭(しじまじょうかく)の遊歩道。
今帰仁城跡にて。今帰仁城跡 名所・史跡
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下りは旧道を歩いてきます。
当時の道はこのように歩きにくいものだったと考えられています。
今帰仁城跡の高い位置にて。今帰仁城跡 名所・史跡
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下りは旧道を歩いてきます。
当時の道はこのように歩きにくいものだったと考えられています。
今帰仁城跡の低い位置にて。今帰仁城跡 名所・史跡
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今帰仁城跡、カーザフ。
カーザフとは平郎門からはずれた右側のくぼ地になったところをいいます。ここは、一段と低い所でその両側は切り立った「谷底」になっています。この地名の語義は「川迫(さこ)」つまり、川の谷間として理解されています。露頭(ろとう)した岩盤に直接積んだ堅固(けんこ)な石積みは、かつて城壁として鉄壁を誇ったものと想像することが出来ます。今帰仁城跡 名所・史跡
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平郎門に戻ってきました。
今帰仁城跡 名所・史跡
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最後に今帰仁村歴史文化センターに入館します。
今帰仁村歴史文化センター 美術館・博物館
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沖縄自動車道唯一のサービスエリア"伊芸SA"。
伊芸サービスエリア (上り) 道の駅
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伊芸サービスエリアにて。
寒暖計は19℃を指していますが、体感気温はもっと寒かった…。伊芸サービスエリア (上り) 道の駅
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伊芸サービスエリアの物見台。
展望台のようになっているのでしょが、寒いのと時間がないので飛ばします。物見台 (伊芸サービスエリア上り線) 名所・史跡
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伊芸サービスエリアの駐車場には屋根がついています。
伊芸サービスエリア (上り) 道の駅
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予定に遅れること45分、糸満市のペンション喫茶南の楽園に到着します。
ペンション・喫茶 南の楽園 宿・ホテル
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ペンション喫茶南の楽園、看板。
ペンション・喫茶 南の楽園 宿・ホテル
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ペンション喫茶南の楽園にて、客室のある2階までは階段があります。
ペンション・喫茶 南の楽園 宿・ホテル
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ペンション喫茶南の楽園、201号室廊下から眺めます。
ペンション・喫茶 南の楽園 宿・ホテル
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ペンション喫茶南の楽園、201号室ツインベット。
ペンション・喫茶 南の楽園 宿・ホテル
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ペンション喫茶南の楽園201号室の屋根。
ログハウス調でまとまっています。
照明とエアコンの位置関係。ちなみにエアコンは無料です。ペンション・喫茶 南の楽園 宿・ホテル
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