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深谷城(ふかやじょう、埼玉県深谷市本住町)はJR高崎線深谷駅から徒歩15分の国道17号から北進した深谷城址公園の中に在ります。<br /><br />寛永4年(1627)にそれまで在藩していた酒井氏が武蔵国河越に転封、深谷藩の廃藩を経て寛永11年(1634)廃城となるまで戦国時代を軸として古河に拠点を置く足利公方と対峙する北武蔵における戦略的な地として認識されていました。<br /><br />地勢的には南北に流れる唐沢川と東西に流れる福川などに囲まれた低湿地に築かれた平城となっています。<br /><br />現状の深谷城はすっかり埋め立てられ住宅化され、往時を感じさせるものは見当たらず、本丸跡を始めとする他の城郭は広場と化し、そして広場を囲む石垣と壁は当時の姿と無縁なもので歴史の香りがしないのは城郭ファンとして興覚めです。<br /><br />本丸跡の一角に設置の「深谷上杉氏家紋碑」に刻されている説明文を引用すれば下記の通りです。<br /><br />「深谷上杉氏は関東管領として勢威を振った山内上杉憲実の子上杉憲英を初祖に、南北朝の動乱期に北関東の新田氏の勢力や一揆を抑えるため、廰鼻和(ごばなわ)に城を構え、憲光、憲長、憲信と北武蔵を治め康生2年5代房憲のとき古河公方の侵攻にそなえ廰鼻和より要害の深谷城を築いた。<br /><br />その後、憲清、憲賢、憲盛、氏憲が深谷城を守り続け、天正18年豊臣秀吉の関東攻略により開城するまで戦乱戦国の世を一族9代にわたり深谷の治世に盡し今日の深谷の礎を築いた。<br /><br />深谷上杉氏の家紋「竹に雀」は環状の竹の内に二羽の雀を配した図柄である。この家紋は公家の藤原系勸修寺家が用い、その子孫の武家上杉氏がこの紋章を東国にもたらしたものである。<br /><br />上杉諸家は多少図柄は異なるがいずれも、「竹と雀」の紋章を用いている。この深谷上杉氏家紋に昔日の2百有年余年の星霜の原点を偲ぶものである。<br /><br />平成2年3月1日    深谷ライオンズクラブ 」<br /><br /><br /><br />-----------------------------------------------------------------<br /><br />深谷上杉氏は関東管領となった上杉憲顕(うえすぎ・のりあき、1306~1368)の六男である憲英(のりふさ、生誕不詳~1404)から始まり9代の氏憲(うじのり、生誕不詳~1637)までを指し、その間は約230年に及びます。<br /><br />公方方と争う状況に陥った関東管領職の上杉氏はその後鎌倉から古河に移った足利成氏(あしかが・しげうじ)と対抗するため各地に包囲拠点を配置、その一つとして憲顕の命により憲英は現在の深谷東部に庁鼻和城(こばなわじょう・現在の国済寺)を築城します。<br /><br />5代房憲(ふさのり)は廰鼻和の防御に不安を感じ西方の唐沢川と福川に囲まれた湿地に深谷城を築きその城域は現在の城址公園から深谷小学校までを含む広い敷地を占めています。<br /><br />7代憲賢(のりかた)時代には武蔵南部から勢力を北進させた小田原北条氏の脅威を受けることとなり、山内・扇谷の両上杉氏は足利晴氏にも支援を得るなか、一度奪われた河越城奪還をめざし少数で籠城している北条綱成(ほうじょう・つなしげ)軍を取り囲みますが巧妙な戦術によって決定的な敗退を喫しこれによって北条氏の武蔵北部と上野南部までの支配を確立します。<br /><br />この合戦に参陣して深谷に逃げ帰った憲賢は方針転換し北条氏に誼(よしみ)を通じことで本領安堵を狙い、孫の9代氏憲(うじのり)の代には北条氏政の養女を室に迎える事により小田原北条氏の傘下に入り鉢形城の北条氏邦(ほうじょう・うじくに)と共に各地を転戦するになります。<br /><br />天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに際しては小田原城に詰めていた氏憲は北条氏と共に敗れ、他方深谷城籠城の家臣たちは秀吉派遣の軍攻撃を目前にして開城しこれにより深谷上杉氏は没落します。

武蔵深谷 敵対する古河公方の足利氏成の進攻に堅個な防御を目指し庁鼻和から移転し築城した関東管領上杉家一門で深谷上杉憲英の『深谷城』訪問

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2014/11/23 - 2014/11/23

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滝山氏照

滝山氏照さん

深谷城(ふかやじょう、埼玉県深谷市本住町)はJR高崎線深谷駅から徒歩15分の国道17号から北進した深谷城址公園の中に在ります。

寛永4年(1627)にそれまで在藩していた酒井氏が武蔵国河越に転封、深谷藩の廃藩を経て寛永11年(1634)廃城となるまで戦国時代を軸として古河に拠点を置く足利公方と対峙する北武蔵における戦略的な地として認識されていました。

地勢的には南北に流れる唐沢川と東西に流れる福川などに囲まれた低湿地に築かれた平城となっています。

現状の深谷城はすっかり埋め立てられ住宅化され、往時を感じさせるものは見当たらず、本丸跡を始めとする他の城郭は広場と化し、そして広場を囲む石垣と壁は当時の姿と無縁なもので歴史の香りがしないのは城郭ファンとして興覚めです。

本丸跡の一角に設置の「深谷上杉氏家紋碑」に刻されている説明文を引用すれば下記の通りです。

「深谷上杉氏は関東管領として勢威を振った山内上杉憲実の子上杉憲英を初祖に、南北朝の動乱期に北関東の新田氏の勢力や一揆を抑えるため、廰鼻和(ごばなわ)に城を構え、憲光、憲長、憲信と北武蔵を治め康生2年5代房憲のとき古河公方の侵攻にそなえ廰鼻和より要害の深谷城を築いた。

その後、憲清、憲賢、憲盛、氏憲が深谷城を守り続け、天正18年豊臣秀吉の関東攻略により開城するまで戦乱戦国の世を一族9代にわたり深谷の治世に盡し今日の深谷の礎を築いた。

深谷上杉氏の家紋「竹に雀」は環状の竹の内に二羽の雀を配した図柄である。この家紋は公家の藤原系勸修寺家が用い、その子孫の武家上杉氏がこの紋章を東国にもたらしたものである。

上杉諸家は多少図柄は異なるがいずれも、「竹と雀」の紋章を用いている。この深谷上杉氏家紋に昔日の2百有年余年の星霜の原点を偲ぶものである。

平成2年3月1日    深谷ライオンズクラブ 」



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深谷上杉氏は関東管領となった上杉憲顕(うえすぎ・のりあき、1306~1368)の六男である憲英(のりふさ、生誕不詳~1404)から始まり9代の氏憲(うじのり、生誕不詳~1637)までを指し、その間は約230年に及びます。

公方方と争う状況に陥った関東管領職の上杉氏はその後鎌倉から古河に移った足利成氏(あしかが・しげうじ)と対抗するため各地に包囲拠点を配置、その一つとして憲顕の命により憲英は現在の深谷東部に庁鼻和城(こばなわじょう・現在の国済寺)を築城します。

5代房憲(ふさのり)は廰鼻和の防御に不安を感じ西方の唐沢川と福川に囲まれた湿地に深谷城を築きその城域は現在の城址公園から深谷小学校までを含む広い敷地を占めています。

7代憲賢(のりかた)時代には武蔵南部から勢力を北進させた小田原北条氏の脅威を受けることとなり、山内・扇谷の両上杉氏は足利晴氏にも支援を得るなか、一度奪われた河越城奪還をめざし少数で籠城している北条綱成(ほうじょう・つなしげ)軍を取り囲みますが巧妙な戦術によって決定的な敗退を喫しこれによって北条氏の武蔵北部と上野南部までの支配を確立します。

この合戦に参陣して深谷に逃げ帰った憲賢は方針転換し北条氏に誼(よしみ)を通じことで本領安堵を狙い、孫の9代氏憲(うじのり)の代には北条氏政の養女を室に迎える事により小田原北条氏の傘下に入り鉢形城の北条氏邦(ほうじょう・うじくに)と共に各地を転戦するになります。

天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに際しては小田原城に詰めていた氏憲は北条氏と共に敗れ、他方深谷城籠城の家臣たちは秀吉派遣の軍攻撃を目前にして開城しこれにより深谷上杉氏は没落します。

旅行の満足度
3.5
交通手段
JRローカル

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  • 「笛を吹く武者」立像<br /><br />国道17号に面した「笛を吹く武者」が深谷城に繋がる道路となっています。

    「笛を吹く武者」立像

    国道17号に面した「笛を吹く武者」が深谷城に繋がる道路となっています。

  • 深谷城<br /><br />整備された大通りを進むと間もなく右側に模擬の石垣と白壁が視野に入ります。

    深谷城

    整備された大通りを進むと間もなく右側に模擬の石垣と白壁が視野に入ります。

  • 深谷城

    深谷城

  • 深谷城址公園<br /><br />玄関と思われる開口が見え、ここから内部に入ります。

    深谷城址公園

    玄関と思われる開口が見え、ここから内部に入ります。

  • 深谷城址公園<br /><br />深谷城はすっかり公園化されています。

    深谷城址公園

    深谷城はすっかり公園化されています。

  • 公園内部<br /><br />整備された直線道路が東西に走っています。

    公園内部

    整備された直線道路が東西に走っています。

  • 深谷城址公園案内

    深谷城址公園案内

  • 深谷上杉氏家紋石碑<br /><br />公園の片隅に「深谷氏家紋碑」と題する石碑が建っています。

    深谷上杉氏家紋石碑

    公園の片隅に「深谷氏家紋碑」と題する石碑が建っています。

  • 深谷上杉氏家紋碑<br /><br />石碑の上部には「上杉」氏家紋が施され、中央部には深谷上杉氏の沿革と家紋について説明がなされています。<br /><br /><br /><br />

    深谷上杉氏家紋碑

    石碑の上部には「上杉」氏家紋が施され、中央部には深谷上杉氏の沿革と家紋について説明がなされています。



  • 公園内部風景

    公園内部風景

  • 公園広場

    公園広場

  • 周辺の史跡案内板

    周辺の史跡案内板

  • 史跡説明<br /><br />案内板の下部には案内する史跡説明があります。

    史跡説明

    案内板の下部には案内する史跡説明があります。

  • 深谷城跡<br /><br />本拠を廰鼻和城から移転し、上杉氏四代が134年に亘って城主として支配していました。

    深谷城跡

    本拠を廰鼻和城から移転し、上杉氏四代が134年に亘って城主として支配していました。

  • 深谷城跡拡大図<br /><br />本丸、二の丸を中心に城郭は水濠に取り囲まれて敵の進入を防御しています。

    深谷城跡拡大図

    本丸、二の丸を中心に城郭は水濠に取り囲まれて敵の進入を防御しています。

  • 深谷城石垣<br /><br />当然ながら模擬石垣ですが碁盤上の道路平行して整然と造られた様は見事です。

    深谷城石垣

    当然ながら模擬石垣ですが碁盤上の道路平行して整然と造られた様は見事です。

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