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旧街道「中山道」を熊谷宿より深谷宿までウォーキング。<br /><br />関東平野の中央部田園地帯ものぞめる住宅街です。<br /><br />普段歩くこともない地区ですが、曇り空と風に助けられながら、深谷に向けて汗ダクになり北上、拙い歴史知識をかき出しながらお勉強がてらの歩きです。<br /><br />深谷宿の飯盛り女は有名で、天歩14年には80軒の旅館が軒を並べていた。宿場の入口も女性のほうが多かったといわれるぐらいの繁盛で、中山道きっての賑やかさであった。明治になってからはレンガ製造で近代化をはかり深谷ねぎ、野菜、の栽培が盛ん。<br /><br />

中山道NO-6熊谷宿から深谷宿へ

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2008/09/23 - 2008/09/23

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ムッシュ

ムッシュさん

旧街道「中山道」を熊谷宿より深谷宿までウォーキング。

関東平野の中央部田園地帯ものぞめる住宅街です。

普段歩くこともない地区ですが、曇り空と風に助けられながら、深谷に向けて汗ダクになり北上、拙い歴史知識をかき出しながらお勉強がてらの歩きです。

深谷宿の飯盛り女は有名で、天歩14年には80軒の旅館が軒を並べていた。宿場の入口も女性のほうが多かったといわれるぐらいの繁盛で、中山道きっての賑やかさであった。明治になってからはレンガ製造で近代化をはかり深谷ねぎ、野菜、の栽培が盛ん。

  • 【熊谷宿竹井本陣跡碑】<br />宿並の左側に戻ると、足利銀行の向いに本陣跡標石があります、竹井家が勤めました、敷地1600坪、建坪700坪坪、部屋数47室を有する、屈指の規模を誇る本陣でしたが、明治の大火と、終戦前夜の空襲で失われました。<br /><br />皇女和宮二十一目の宿泊所でした。<br /><br />本陣は、江戸時代初期の寛永12年(1635)諸大名に対する、参勤交代制度が確立されてから、各街道の宿場町に置かれたものである。諸大名や幕府役人・公家貴族などのための特別な旅館であり、門・玄関・上段の間を具えることができて、一般の旅館(旅籠屋)とは区別されていた。<br /> したがって本陣の経営者も土地の豪家で苗字帯刀を許されるものが多かった。<br /> 熊谷宿は江戸時代は忍藩領であった。熊谷宿の本陣は、明治17年(1884)の火災と、昭和20年(1945)の戦災で跡形もなく灰燼に帰してしまったが、嘉永2年(1849)一条忠良の娘寿明姫宿泊の折、道中奉行に差し出した、本陣絵図の控えが、竹井家に残っており、その絵図によって内部の模様が細々と分かる。中山道に面し、間口14間5尺(約27m)で奥は星川にまで至り、上手の御入門・下手の通用門・建坪・部屋数・畳数など全国に現存する旧本陣と比べても規模・構造共に屈指のものである。

    【熊谷宿竹井本陣跡碑】
    宿並の左側に戻ると、足利銀行の向いに本陣跡標石があります、竹井家が勤めました、敷地1600坪、建坪700坪坪、部屋数47室を有する、屈指の規模を誇る本陣でしたが、明治の大火と、終戦前夜の空襲で失われました。

    皇女和宮二十一目の宿泊所でした。

    本陣は、江戸時代初期の寛永12年(1635)諸大名に対する、参勤交代制度が確立されてから、各街道の宿場町に置かれたものである。諸大名や幕府役人・公家貴族などのための特別な旅館であり、門・玄関・上段の間を具えることができて、一般の旅館(旅籠屋)とは区別されていた。
     したがって本陣の経営者も土地の豪家で苗字帯刀を許されるものが多かった。
     熊谷宿は江戸時代は忍藩領であった。熊谷宿の本陣は、明治17年(1884)の火災と、昭和20年(1945)の戦災で跡形もなく灰燼に帰してしまったが、嘉永2年(1849)一条忠良の娘寿明姫宿泊の折、道中奉行に差し出した、本陣絵図の控えが、竹井家に残っており、その絵図によって内部の模様が細々と分かる。中山道に面し、間口14間5尺(約27m)で奥は星川にまで至り、上手の御入門・下手の通用門・建坪・部屋数・畳数など全国に現存する旧本陣と比べても規模・構造共に屈指のものである。

  • 【熊谷寺。(ゆうこくじと称します)】<br />浄土宗の古刹で、1205年(元久2年)に熊谷直実らが、出家し、蓮生と号し熊谷館のあったこの地に草庵を結んだのが始まり。この草庵跡に幡随意(ばんずいい)上人が伽藍を建立した。墓地には直実の墓といわれる宝篋印塔があります、家康は深く帰依し朱印三十石を寄進しています。<br />(熊谷市仲町の上熊谷駅に近い)<br /><br />熊谷直実が蓮生坊として出家し,承元元年(1207)に入滅した際,居住していた草庵の跡に天正年間(1573~92)に,幡随意上人が伽藍を建立したのが始まりという。熊谷直実は源平合戦「一の谷の戦い」で平敦盛(16歳)を討ち取った武将で,後に久下直光との所領争いで破れ出家して蓮生坊と名乗った。<br /> 本尊は阿弥陀如来で,両脇に観世音菩薩が脇侍し,本堂屋根の四隅に逆さ獅子が配され,熊谷家の家紋 「ほやに向かい鳩」・徳川家家紋 「三つ葉葵」 ・浄土宗宗紋 「月影杏葉」 が付けられている。 三つ葉葵が付いているのは,徳川家康から御朱印三十石を賜わっていたことによる。

    【熊谷寺。(ゆうこくじと称します)】
    浄土宗の古刹で、1205年(元久2年)に熊谷直実らが、出家し、蓮生と号し熊谷館のあったこの地に草庵を結んだのが始まり。この草庵跡に幡随意(ばんずいい)上人が伽藍を建立した。墓地には直実の墓といわれる宝篋印塔があります、家康は深く帰依し朱印三十石を寄進しています。
    (熊谷市仲町の上熊谷駅に近い)

    熊谷直実が蓮生坊として出家し,承元元年(1207)に入滅した際,居住していた草庵の跡に天正年間(1573~92)に,幡随意上人が伽藍を建立したのが始まりという。熊谷直実は源平合戦「一の谷の戦い」で平敦盛(16歳)を討ち取った武将で,後に久下直光との所領争いで破れ出家して蓮生坊と名乗った。
     本尊は阿弥陀如来で,両脇に観世音菩薩が脇侍し,本堂屋根の四隅に逆さ獅子が配され,熊谷家の家紋 「ほやに向かい鳩」・徳川家家紋 「三つ葉葵」 ・浄土宗宗紋 「月影杏葉」 が付けられている。 三つ葉葵が付いているのは,徳川家康から御朱印三十石を賜わっていたことによる。

  • 【八木橋デパート 旧中山道跡】 <br />八木橋百貨店の正面です。<br />旧中山道はこの建物をよぎっています(=このデパート内にあった)。そう、中山道の上に建設されてますので店内通路を歩くことになります。館内通路が旧中山道跡です。平成元年にこのデパートが増築した際に旧中山道が建物内に取り込まれてしまったと言う。

    【八木橋デパート 旧中山道跡】 
    八木橋百貨店の正面です。
    旧中山道はこの建物をよぎっています(=このデパート内にあった)。そう、中山道の上に建設されてますので店内通路を歩くことになります。館内通路が旧中山道跡です。平成元年にこのデパートが増築した際に旧中山道が建物内に取り込まれてしまったと言う。

  • 百貨店正面の三叉路である、一番街通りでこれは旧中山道です。<br /><br />これから、そちら方面に歩きます。

    百貨店正面の三叉路である、一番街通りでこれは旧中山道です。

    これから、そちら方面に歩きます。

  • 百貨店正面玄関脇にたつ石碑。

    百貨店正面玄関脇にたつ石碑。

  • 【新島の一里塚】(熊谷市新島)<br />高さ12m、幹の周囲3.6m樹齢300年の大ケヤキが聳える。江戸日本橋より数えて17里目です。<br />一里塚には、普通は榎(えのき)が植えられているが、ここでは欅であった<br />この辺では冬の空っ風が有名であるが欅は農家の防風林として利用されている樹木であった<br />

    【新島の一里塚】(熊谷市新島)
    高さ12m、幹の周囲3.6m樹齢300年の大ケヤキが聳える。江戸日本橋より数えて17里目です。
    一里塚には、普通は榎(えのき)が植えられているが、ここでは欅であった
    この辺では冬の空っ風が有名であるが欅は農家の防風林として利用されている樹木であった

  • 新島一里塚説明文

    新島一里塚説明文

  • 【忍領石標(おしりょうせきひょう)】<br />安永9年(1780)、忍城主が他藩との境界争いを避けるため、領地の境界を示そうと建てた石碑。 ”従是南忍領”の文字が刻まれてる。<br />「従是南忍領」と掘られたこの石領は、忍藩が他藩の土地との境界を明らかにするため、藩境の16箇所に建てたものの一つです。始めは木材を用いていましたが、安永9年(1780)に石標として建て直されました。その後、明治維新の際に撤去されることとなりましたが、昭和14年にこの石標が 再発見されると、保存の道が講じられ、元の位置に再建され現在に至っています。<br /> 

    【忍領石標(おしりょうせきひょう)】
    安永9年(1780)、忍城主が他藩との境界争いを避けるため、領地の境界を示そうと建てた石碑。 ”従是南忍領”の文字が刻まれてる。
    「従是南忍領」と掘られたこの石領は、忍藩が他藩の土地との境界を明らかにするため、藩境の16箇所に建てたものの一つです。始めは木材を用いていましたが、安永9年(1780)に石標として建て直されました。その後、明治維新の際に撤去されることとなりましたが、昭和14年にこの石標が 再発見されると、保存の道が講じられ、元の位置に再建され現在に至っています。
     

  • 【忍領石標(おしりょうせきひょう)】熊谷市新島<br />*安永9年(1780年)、忍城主が他藩との境界争いを避けるため、領地の境界を示そうと建てた石碑。「従是南忍領」

    【忍領石標(おしりょうせきひょう)】熊谷市新島
    *安永9年(1780年)、忍城主が他藩との境界争いを避けるため、領地の境界を示そうと建てた石碑。「従是南忍領」

  • こちらで昼食。

    こちらで昼食。

  • 【愛宕神社】<br />境内に昭和十二年(1937)建立の芭蕉句碑「冬枯れや 世は一色の 風のおと」があります。

    【愛宕神社】
    境内に昭和十二年(1937)建立の芭蕉句碑「冬枯れや 世は一色の 風のおと」があります。

  • 【稲荷町常夜灯】(深谷市原郷29)<br />宿の入口辺りです。反対側の入口にもあります。<br />天保11年の建立で、高さ4mは中山道でも最大級のもの。<br />旧深谷宿常夜燈があります、ここが深谷宿の江戸(東)口です、深谷宿に到着です!

    【稲荷町常夜灯】(深谷市原郷29)
    宿の入口辺りです。反対側の入口にもあります。
    天保11年の建立で、高さ4mは中山道でも最大級のもの。
    旧深谷宿常夜燈があります、ここが深谷宿の江戸(東)口です、深谷宿に到着です!

  • 【堂々とした和洋折衷造りの大谷邸】<br />江戸時代からの豪商で、昭和の大恐慌時に失業者救済の為に建てもの。

    【堂々とした和洋折衷造りの大谷邸】
    江戸時代からの豪商で、昭和の大恐慌時に失業者救済の為に建てもの。

  • 米屋の貯蔵倉

    米屋の貯蔵倉

  • 明治時代風のレンガ造りの駅舎、【深谷駅】<br />深谷には、渋沢栄一らにより明治20年(1887)に創業した日本煉瓦製造㈱があり、東京駅など明治・大正の近代建築物がこの会社の煉瓦を用いて建設された。<br /><br />なんだか高崎線ではないみたい。<br /><br />東京駅に似てるかもーーー!!

    明治時代風のレンガ造りの駅舎、【深谷駅】
    深谷には、渋沢栄一らにより明治20年(1887)に創業した日本煉瓦製造㈱があり、東京駅など明治・大正の近代建築物がこの会社の煉瓦を用いて建設された。

    なんだか高崎線ではないみたい。

    東京駅に似てるかもーーー!!

  • JR深谷駅<br />深谷には明治20年(1887)郷土の英雄渋沢栄一等が設立した、日本で最初の機械式煉瓦製造工場があり、利根川の氾濫によって生じた堆積土が煉瓦に適しており、又深谷は江戸時代には瓦が名産であり、この技術が煉瓦造りに活かされた。

    JR深谷駅
    深谷には明治20年(1887)郷土の英雄渋沢栄一等が設立した、日本で最初の機械式煉瓦製造工場があり、利根川の氾濫によって生じた堆積土が煉瓦に適しており、又深谷は江戸時代には瓦が名産であり、この技術が煉瓦造りに活かされた。

  • 観れば見るほど東京駅に似てるかな??<br />【JR深谷駅】<br />現在の駅舎は1996年(平成8年)に完成。東京駅の丸の内側駅舎をモデルにした赤煉瓦風のもので、1999年(平成11年)には関東の駅100選のひとつに選ばれている。明治初期には日本の資本主義の父とも呼ばれる実業家の渋沢栄一を輩出し、市内に設立された日本煉瓦製造会社で製造された煉瓦は東京駅の赤煉瓦駅舎を建設するためにも用いられ、深谷駅の駅舎が赤煉瓦風の造りであるゆえんとなっている。

    観れば見るほど東京駅に似てるかな??
    【JR深谷駅】
    現在の駅舎は1996年(平成8年)に完成。東京駅の丸の内側駅舎をモデルにした赤煉瓦風のもので、1999年(平成11年)には関東の駅100選のひとつに選ばれている。明治初期には日本の資本主義の父とも呼ばれる実業家の渋沢栄一を輩出し、市内に設立された日本煉瓦製造会社で製造された煉瓦は東京駅の赤煉瓦駅舎を建設するためにも用いられ、深谷駅の駅舎が赤煉瓦風の造りであるゆえんとなっている。

  • 深谷市の生んだ【偉人”渋沢栄一”の像】が駅前広場に建つ。<br />(新一万円札を飾る人物)<br />日本初の機械式レンガ工場を設立したので、町には明治期のレンガ造りの建物が数々残っている。<br />2021年NHK大河ドラマの主役です。今年は脚光を浴びる人材ですね。<br />天保11年(1840)血洗島の農家に生まれ、尊皇攘夷に奔走し、後に一橋家に仕え、慶応3年(1867)徳川慶喜の名代として徳川昭武に随行して渡欧。明治元年(1868)に帰国し、大隈重信の勧めで大蔵省に入るも、大久保利通と対立して辞職、以後は実業界で活躍した。<br /><br />正二位勲一等子爵澁澤栄一は、天保11年(1840)2月13日深谷市大字血洗島に生まれました。幼いときから読書を好み、家業を助け、少荘の頃は国事に奔放、慶応3年第 十五代将軍慶喜の命令により渡欧して見聞を広め、帰国後明治新政府に出仕し、近代国家形成のための諸制度、諸事業を策定しました。明治6年富国の道を求めての野に下り、わが国最初の銀行を創立し、続いて製紙・紡績・製鋼・造船・鉄道・ガス・電気・窯業等先進諸国が有する諸事業のすべてを創立あるいは援助育成しました。一方、福祉・教育・医療等数多くの分野にそれぞれの機関を創設してその運営に挺身、その他労働協調・国際親善に心を砕き、昭和6年11月11日、91年の生涯を閉じた。<br /><br />【渋沢榮一像】  <br />JR深谷駅前の「青淵広場」に渋沢榮一の像が建てられている。渋沢榮一は天保11年(1840)深谷市大字血洗島に生まれた。幼い時から読書を好み、家業を助け、少壮の頃は国事に奔走、慶應3年第15代将軍慶喜公の命令により渡欧して見聞を広め、帰国後明治新政府に出仕し、近代国家形成のための諸制度、諸事業を策定した。明治6年富国の道を求めて野に下り、第一国立銀行、王子製紙、大阪紡績、東京瓦斯、製鋼・造船・鉄道・電気・窯業等約500社の先進諸国が有する諸事業のすべてを創立・援助育成した。福祉・教育・医療等数多くの分野にそれぞれの機関を600余も創設してその運営に挺身、その他労資協調・国際親善に心を砕き、昭和6年に91年の生涯を閉じた。死後1週間もたたぬうち、政府は日本軍の満州における軍事行動を追認(満州事変)し世界戦争に突入、渋沢栄一の願った世界平和も経済発展による豊かさも吹き飛んだ。

    深谷市の生んだ【偉人”渋沢栄一”の像】が駅前広場に建つ。
    (新一万円札を飾る人物)
    日本初の機械式レンガ工場を設立したので、町には明治期のレンガ造りの建物が数々残っている。
    2021年NHK大河ドラマの主役です。今年は脚光を浴びる人材ですね。
    天保11年(1840)血洗島の農家に生まれ、尊皇攘夷に奔走し、後に一橋家に仕え、慶応3年(1867)徳川慶喜の名代として徳川昭武に随行して渡欧。明治元年(1868)に帰国し、大隈重信の勧めで大蔵省に入るも、大久保利通と対立して辞職、以後は実業界で活躍した。

    正二位勲一等子爵澁澤栄一は、天保11年(1840)2月13日深谷市大字血洗島に生まれました。幼いときから読書を好み、家業を助け、少荘の頃は国事に奔放、慶応3年第 十五代将軍慶喜の命令により渡欧して見聞を広め、帰国後明治新政府に出仕し、近代国家形成のための諸制度、諸事業を策定しました。明治6年富国の道を求めての野に下り、わが国最初の銀行を創立し、続いて製紙・紡績・製鋼・造船・鉄道・ガス・電気・窯業等先進諸国が有する諸事業のすべてを創立あるいは援助育成しました。一方、福祉・教育・医療等数多くの分野にそれぞれの機関を創設してその運営に挺身、その他労働協調・国際親善に心を砕き、昭和6年11月11日、91年の生涯を閉じた。

    【渋沢榮一像】  
    JR深谷駅前の「青淵広場」に渋沢榮一の像が建てられている。渋沢榮一は天保11年(1840)深谷市大字血洗島に生まれた。幼い時から読書を好み、家業を助け、少壮の頃は国事に奔走、慶應3年第15代将軍慶喜公の命令により渡欧して見聞を広め、帰国後明治新政府に出仕し、近代国家形成のための諸制度、諸事業を策定した。明治6年富国の道を求めて野に下り、第一国立銀行、王子製紙、大阪紡績、東京瓦斯、製鋼・造船・鉄道・電気・窯業等約500社の先進諸国が有する諸事業のすべてを創立・援助育成した。福祉・教育・医療等数多くの分野にそれぞれの機関を600余も創設してその運営に挺身、その他労資協調・国際親善に心を砕き、昭和6年に91年の生涯を閉じた。死後1週間もたたぬうち、政府は日本軍の満州における軍事行動を追認(満州事変)し世界戦争に突入、渋沢栄一の願った世界平和も経済発展による豊かさも吹き飛んだ。

  • 著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています<br />【岐阻街道 深谷之驛 英泉画】10<br />天保14年(1843)頃、深谷宿の宿内家数は525軒、うち本陣1、脇本陣4、旅籠80軒で、宿内人口は約1900人でした。<br />英泉は深谷宿内の飯盛女たちを艶やかに、その風景を描いています。<br /><br />次へ   中山道NO-7(埼玉県)深谷宿から本庄宿へ<br />https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10286787/

    著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています
    【岐阻街道 深谷之驛 英泉画】10
    天保14年(1843)頃、深谷宿の宿内家数は525軒、うち本陣1、脇本陣4、旅籠80軒で、宿内人口は約1900人でした。
    英泉は深谷宿内の飯盛女たちを艶やかに、その風景を描いています。

    次へ   中山道NO-7(埼玉県)深谷宿から本庄宿へ
    https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10286787/

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