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広大な古河総合公園の中にひっそりと樹林に囲まれた敷地に古河公方の足利義氏(あしかが・よしうじ、1541~1583)の墓があります。<br />         <br />義氏は鎌倉から古河に移ってきた初代古河公方足利成氏(あしかが・しげうじ)から数えて5代目にあたり、父親は4代古河公方である足利晴氏(あしかが・はるうじ)で母親は小田原北条氏綱(ほうじょう・うじつな)娘の芳春院になります。<br /><br />遡れば文明10年(1478)、成氏は上杉氏と和睦して享徳の乱は終結、成氏の子政氏(まさうじ、1462~1531)の時代では鎌倉府の体制再構築を図ろうとしますが小田原北条氏などの新興勢力とも結ぶことを視野に入れていた子供の高基(たかもと、1485~1535)と山内・扇谷の両上杉氏をめぐり対立します。<br /><br />その後政氏が病死すると、高基は小田原北条氏と結びその結果北条氏の圧力を受けて、嫡子晴氏(はるうじ、1508~1560)に北条氏綱(ほうじょう・うじつな)の娘(芳春院)を後室として迎えることになります。<br /><br />そして晴氏は父親高基の弟にあたる、義明(よしあき、小弓公方、後の喜連川氏)の排除を北条氏に求め、天文7年(1538)、二代氏綱は下総の国府台(こうのだい)合戦で義明らを討取ります。<br /><br />然しながら天文14年(1545)河越合戦において山内・扇谷両上杉氏から出陣の要請を受け両上杉氏に与する事になり小田原北条氏と敵対しますが、北条氏の大勝利に終わった戦後に北条氏から詰問される立場となり晴氏は息子の義氏に家督を譲ります。<br /><br />一方で家督を譲った晴氏は公方家重臣の梁田晴助(やなだ・はるすけ、1524~1594)と連携し、晴助娘(正室)の子で嫡子藤氏(ふじうじ、生没不詳)を上杉謙信の承認のもと新公方として擁立し古河城に入り小田原北条氏に反抗を試みますが、公方義氏の外戚である小田原北条氏は義氏を背後で操り、下総・下野・常陸で公方に忠実な旧態然とした国衆らを支配下に組み入れてゆきます。<br /><br />義氏は天正11年(1583)2月死去しますが、嫡子の早世で娘の足利氏姫(あしかが・うじひめ・院号:徳源院、1574~1620)が9歳で家督を継ぐことになり、天正19年(1590)小田原北条氏没落後は氏姫は古河城から鴻巣に退去、そして名門家系であったことから豊臣秀吉に再興を許されます。<br /><br />具体的には衰亡していた小弓公方家の足利国綱(あしかが・くにつな)が古河公方家督を継いだ氏姫を娶ることで喜連川に4千5百石程度の知行を与えることになります。<br /><br />江戸時代に入っても1万石に満たなかったにも拘わらず立藩が許されたのは、征夷大将軍に任じられた徳川氏と先祖を同じとする足利氏の格式を重んじた結果であり、幕府は高位尊称である「御所号」を許すなど厚遇し、高家として遇され幕末まで存続します。<br /><br /><br />2023年1月5日追記<br /><br />現地に建てられた足利義氏に関する説明板には次の通り紹介されています・<br /><br />『 茨城県指定文化財<br />   史跡 古河公方足利義氏墓所<br /><br />古河公方5代目の足利義氏は天正10年(1582)12月古河城で没した。戦乱の中翌年正月久喜(埼玉県)の甘とう院で行われその近くに香雲院という寺も建てられたが今は残存しない。<br /><br />この墓所は義氏ゆかりの寺があった関係で遺骸ないしその一部が埋められたものと考えられる。明治初年までは鎌倉円覚寺末の徳源院という義氏の娘氏女の法号にちなんだ寺があったので「徳源院跡」と呼ばれている。<br /><br />義氏の墓石はないが氏女とその子義親(天寿院殿)の宝篋印塔 七地蔵を刻んだ石どうが子孫の足利氏による「古河公方義氏公墳墓」(裏面に墓地?修の文)の碑がある 』(一部判読困難箇所あり)

下総古河 川越合戦敗北以降凋落の一途をたどる中外戚小田原北条氏に政治権威を利用された5代古河公方足利義氏墓所『徳源院跡』散歩

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2014/10/25 - 2014/10/25

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滝山氏照

滝山氏照さん

広大な古河総合公園の中にひっそりと樹林に囲まれた敷地に古河公方の足利義氏(あしかが・よしうじ、1541~1583)の墓があります。
         
義氏は鎌倉から古河に移ってきた初代古河公方足利成氏(あしかが・しげうじ)から数えて5代目にあたり、父親は4代古河公方である足利晴氏(あしかが・はるうじ)で母親は小田原北条氏綱(ほうじょう・うじつな)娘の芳春院になります。

遡れば文明10年(1478)、成氏は上杉氏と和睦して享徳の乱は終結、成氏の子政氏(まさうじ、1462~1531)の時代では鎌倉府の体制再構築を図ろうとしますが小田原北条氏などの新興勢力とも結ぶことを視野に入れていた子供の高基(たかもと、1485~1535)と山内・扇谷の両上杉氏をめぐり対立します。

その後政氏が病死すると、高基は小田原北条氏と結びその結果北条氏の圧力を受けて、嫡子晴氏(はるうじ、1508~1560)に北条氏綱(ほうじょう・うじつな)の娘(芳春院)を後室として迎えることになります。

そして晴氏は父親高基の弟にあたる、義明(よしあき、小弓公方、後の喜連川氏)の排除を北条氏に求め、天文7年(1538)、二代氏綱は下総の国府台(こうのだい)合戦で義明らを討取ります。

然しながら天文14年(1545)河越合戦において山内・扇谷両上杉氏から出陣の要請を受け両上杉氏に与する事になり小田原北条氏と敵対しますが、北条氏の大勝利に終わった戦後に北条氏から詰問される立場となり晴氏は息子の義氏に家督を譲ります。

一方で家督を譲った晴氏は公方家重臣の梁田晴助(やなだ・はるすけ、1524~1594)と連携し、晴助娘(正室)の子で嫡子藤氏(ふじうじ、生没不詳)を上杉謙信の承認のもと新公方として擁立し古河城に入り小田原北条氏に反抗を試みますが、公方義氏の外戚である小田原北条氏は義氏を背後で操り、下総・下野・常陸で公方に忠実な旧態然とした国衆らを支配下に組み入れてゆきます。

義氏は天正11年(1583)2月死去しますが、嫡子の早世で娘の足利氏姫(あしかが・うじひめ・院号:徳源院、1574~1620)が9歳で家督を継ぐことになり、天正19年(1590)小田原北条氏没落後は氏姫は古河城から鴻巣に退去、そして名門家系であったことから豊臣秀吉に再興を許されます。

具体的には衰亡していた小弓公方家の足利国綱(あしかが・くにつな)が古河公方家督を継いだ氏姫を娶ることで喜連川に4千5百石程度の知行を与えることになります。

江戸時代に入っても1万石に満たなかったにも拘わらず立藩が許されたのは、征夷大将軍に任じられた徳川氏と先祖を同じとする足利氏の格式を重んじた結果であり、幕府は高位尊称である「御所号」を許すなど厚遇し、高家として遇され幕末まで存続します。


2023年1月5日追記

現地に建てられた足利義氏に関する説明板には次の通り紹介されています・

『 茨城県指定文化財
   史跡 古河公方足利義氏墓所

古河公方5代目の足利義氏は天正10年(1582)12月古河城で没した。戦乱の中翌年正月久喜(埼玉県)の甘とう院で行われその近くに香雲院という寺も建てられたが今は残存しない。

この墓所は義氏ゆかりの寺があった関係で遺骸ないしその一部が埋められたものと考えられる。明治初年までは鎌倉円覚寺末の徳源院という義氏の娘氏女の法号にちなんだ寺があったので「徳源院跡」と呼ばれている。

義氏の墓石はないが氏女とその子義親(天寿院殿)の宝篋印塔 七地蔵を刻んだ石どうが子孫の足利氏による「古河公方義氏公墳墓」(裏面に墓地?修の文)の碑がある 』(一部判読困難箇所あり)

旅行の満足度
3.5
交通手段
JRローカル 徒歩
  • 古河公方御所広場<br /><br />移築の民家を終えて御所跡地の広場に出ます。民家の移築展示では古河公方御所跡を目指したファンの気持ちに応えておらず今後については現状企画を再興すべきと思います。

    古河公方御所広場

    移築の民家を終えて御所跡地の広場に出ます。民家の移築展示では古河公方御所跡を目指したファンの気持ちに応えておらず今後については現状企画を再興すべきと思います。

  • 古河公方御所東端<br /><br />自動車が入場する公園東側に当たる正門に近い駐車場が広めに占拠されています。

    古河公方御所東端

    自動車が入場する公園東側に当たる正門に近い駐車場が広めに占拠されています。

  • 茨城県地図<br /><br />駐車場背後に設置の茨城県全県の地図が設置されています。ここ古河市は行政区分けでは茨城県ですが、地勢的並びに旧国名でも違和感があります。即ち古河は地勢的には「関東のヘソ」で下野(栃木県)と武蔵(埼玉県)に接し、旧国名に於いても「下総国」に属し常陸とは全く様相が異なります。(ついでに言えばJR宇都宮線が停車する唯一の茨城県の駅です。)

    茨城県地図

    駐車場背後に設置の茨城県全県の地図が設置されています。ここ古河市は行政区分けでは茨城県ですが、地勢的並びに旧国名でも違和感があります。即ち古河は地勢的には「関東のヘソ」で下野(栃木県)と武蔵(埼玉県)に接し、旧国名に於いても「下総国」に属し常陸とは全く様相が異なります。(ついでに言えばJR宇都宮線が停車する唯一の茨城県の駅です。)

  • 古河総合公園<br /><br />公方沼を経て桃林に向けて小路を散策してゆきます。

    古河総合公園

    公方沼を経て桃林に向けて小路を散策してゆきます。

  • 桃林に囲まれた公園

    桃林に囲まれた公園

  • 徳源院跡<br /><br />源徳院は鎌倉の円覚寺末の臨済宗禅寺でいつ頃廃寺になったのかは不明ですが、義氏死去後家督を引き継いだ娘の氏女の法号である事から、古河公方は小田原北条氏に属していた事情により敗者の立場であったので古河城を明け渡し源徳院が在る当地に退去したと思われます。

    徳源院跡

    源徳院は鎌倉の円覚寺末の臨済宗禅寺でいつ頃廃寺になったのかは不明ですが、義氏死去後家督を引き継いだ娘の氏女の法号である事から、古河公方は小田原北条氏に属していた事情により敗者の立場であったので古河城を明け渡し源徳院が在る当地に退去したと思われます。

  • 徳源院跡<br /><br />総合公園の一角には樹林に囲まれた廟が視野に入ります。

    徳源院跡

    総合公園の一角には樹林に囲まれた廟が視野に入ります。

  • 標石

    標石

  • 足利義氏墓所(全景)<br /><br />古河公方初代成氏(しげうじ)から数えて5代に当たる義氏(よしうじ)の墓がこの廟内にあるそうです。

    イチオシ

    足利義氏墓所(全景)

    古河公方初代成氏(しげうじ)から数えて5代に当たる義氏(よしうじ)の墓がこの廟内にあるそうです。

  • 廟標石<br /><br />廟の入口には「古河公方足利義氏墓所」と刻された石標があります。

    廟標石

    廟の入口には「古河公方足利義氏墓所」と刻された石標があります。

  • 足利義氏に関する説明板

    足利義氏に関する説明板

  • 足利義氏廟内部

    足利義氏廟内部

  • 義氏墳墓石標<br /><br /><br />廟の正面奥に義氏の墓を示す石標が建っています。

    義氏墳墓石標


    廟の正面奥に義氏の墓を示す石標が建っています。

  • 足利義氏墓<br /><br />廟の入口にある説明板によれば、特に墓石は建っていませんが石で仕切られ盛土された部分が義氏の墓といわれています。

    足利義氏墓

    廟の入口にある説明板によれば、特に墓石は建っていませんが石で仕切られ盛土された部分が義氏の墓といわれています。

  • 足利義氏廟内部<br /><br />廟の奥には義氏から家督を継いだ娘の氏女(うじめ)の石塔が、そして手前には石憧があります。

    足利義氏廟内部

    廟の奥には義氏から家督を継いだ娘の氏女(うじめ)の石塔が、そして手前には石憧があります。

  • 氏女の石塔<br /><br />石材の柵で囲まれた氏女の宝篋印塔が立脚しています。

    氏女の石塔

    石材の柵で囲まれた氏女の宝篋印塔が立脚しています。

  • 義親石塔<br /><br />廟右側手前に在するのは氏女の息子に当たる義親(よしちか)の宝篋印塔です。義親は秀吉の命により足利国朝と氏女との縁組した後、国朝病死後弟の頼氏(よりうじ)との縁組が成立、この二人の間に生まれたのが義親となります。

    義親石塔

    廟右側手前に在するのは氏女の息子に当たる義親(よしちか)の宝篋印塔です。義親は秀吉の命により足利国朝と氏女との縁組した後、国朝病死後弟の頼氏(よりうじ)との縁組が成立、この二人の間に生まれたのが義親となります。

  • 石憧

    石憧

  • 長塚節・若杉鳥子の歌碑

    長塚節・若杉鳥子の歌碑

  • 長塚節・若杉鳥子

    長塚節・若杉鳥子

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