2014/10/09 - 2014/10/09
460位(同エリア667件中)
滝山氏照さん
JR日豊本線中津駅より徒歩約7分、智光山・合元寺(ごうがんじ、大分県中津市寺町)は別名赤壁寺(あかかべでら)と言われ、浄土宗西山派で開山の空誉上人(くうよしょうにん)は天正5年(1587)島津氏征伐での戦功が秀吉に認められ豊前6郡(12万石)を与えられた黒田孝高(後の如水)(くろだ・よしたか、1546~1604)に従って姫路から中津に入ります。
豊前に入った孝高と長政父子は中津川を臨む地に中津城を築城しますが、旧領を奪われた宇都宮鎮房(うつのみや・しげふさ、1536~1588)の反乱に頭を悩まします。
天正14年(1586)豊臣秀吉の島津征伐を機にそれまでの島津方から秀吉に従いますが、自身は病気として出陣せず、代わりに息子である朝房(ともふさ、1571~1588)に僅かな軍勢を付けて参陣させ結果秀吉の不信を招きます。
翌天正15年(1587)秀吉は知行割りをする中で鎮房を伊予国へ移封を命じますが、鎌倉時代からの伝来の地に固執する鎮房はこれに反発し朱印状受取を拒否、秀吉はの怒りを買います。
同年10月一度明け渡した城井谷城を奪回し秀吉軍に反旗を翻し同城に籠り、攻撃してきた黒田長政率いる軍勢をゲリラ戦で撃退、苦戦を続ける黒田勢は兵站を断つ持久戦に持ち込まざるを得ません。
やがて12月下旬に本領安堵と鎮房娘を人質とする条件で鎮房は降伏を受入れる事になります。
それでも過去における度重なる背信行為が将来に禍根を残すと判断した黒田長政は一大決心をします。
天正16年(1588)4月一揆鎮圧のため肥後国に出陣の孝高留守中に長政は鎮房を中津城に迎え入れ酒宴の席で謀殺します。
事の経過としては40数名の家臣を引連れた鎮房は中津城下に入り合元寺に宿を取りますが城内へ許されたのは鎮房と小姓の2名で残りの家臣は合元寺に留め置かれます。
鎮房が小姓らと共に城内で騙し討ちにあった後、黒田家臣の急襲によって
合元寺は戦場の修羅場と変わり不意を突かれた宇都宮氏家臣全員討死します。
その際寺の壁面に飛び散った血痕が赤く染まり、以降門前の城壁は幾度塗り替えても白壁から血がしみ出てくる為結局朱色に塗り替えられるようになったのが赤壁の由来となっています。
尚鎮房嫡男である朝房は孝高と共に肥後出陣中の折り孝高により殺害され、娘は磔の刑に処され、実父の長房も城井谷城に攻め寄せた黒田勢により殺害されます。
2022年6月21日追記
境内に立っている説明板には下記の通り紹介されています。
『 合 元 寺
黒田官兵衛が姫路から恵心素僧都作と伝わる阿弥陀如来を移して空誉上人という僧を開山に迎えて寺院を建立しました。
黒田氏の入国に反対した宇都宮鎮房が中津城内に誘殺された時、鎮房の従臣たちが待機していたこの合元寺にも黒田の手勢が押しかけました。鎮房の従臣は奮戦しましたが、ことごとく斬り伏せられ、壁はその血で赤く染まったそうです。その後は何度白く塗っても血が染み出してくるので、ついに赤く染まったと言います。寺は赤壁寺ともよばれています。
中津市教育委員会 』
- 旅行の満足度
- 3.5
- 交通手段
- JRローカル
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JR小倉駅舎
前泊地小倉駅から9:05発中津行に乗ります。 -
JR中津駅舎
小倉駅を出て約1時間後の10:9に中津に到着します。 -
中津駅時刻表
中津から大分方面の本数は少なくかつ特急主体となっており、「秋の乗り放題」切符を利用する自分としては冷遇?されています。 -
福沢諭吉像
中津市が生んだ福沢諭吉の立像が駅前にあります。 -
顕彰碑
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なかつ観光マップ
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中津駅北口周辺マップ
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イチオシ
合元寺山門
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合元寺石標
山門左側には「西山 浄土宗 赤壁 合元寺」と刻された石標が建立されています。 -
合元寺説明板
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合元寺山門
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合元寺赤壁(左側)
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合元寺赤壁(右側)
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本堂
正式には「智光山合元寺」で浄土宗・西山派の寺院となっています。 -
境内風景
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合元寺山門
境内内側から山門を捉えます。 -
境内
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鐘楼堂
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経堂
お経などを収納する建物となっています。 -
経堂近景
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赤壁合元寺説明板
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