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JR小倉駅から徒歩で約20分、小倉城北の丸跡に鎮座する八坂神社(やさかじんじや、福岡県北九州市小倉北区城内)は元和3年(1617)に小倉藩主である細川忠興(ほそかわ・ただおき、1563~1646)が鋳物師町に創建したものです。<br /><br />八坂神社の起源としては貞観12年(870)に疫病が流行したので山城国八坂郷の祇園社を長尾(現在の小倉南区長尾辺り)に勧請して同地の総鎮守としたことによります。<br /><br />ご存じの通り細川忠興は室町幕府13代将軍である足利義輝に仕えていた細川藤孝(ほそかわ・ふじたか、1534~1610)を父に持ち、義輝が永禄の変で討死後は父藤孝は織田信長を頼り、義輝弟の義昭を15代将軍に擁立、然しながら信長と義昭との対立から義昭追放によって藤孝は信長に、忠興は信長嫡男である信忠にそれぞれ仕えます。<br /><br />本能寺の変により信長及び信忠は明智光秀により殺害され、忠興室が光秀娘という関係から光秀から味方になるよう誘いを受けますがこれを拒否、中国地方で毛利軍と対峙している羽柴秀吉方に転じ山崎の戦いで光秀に勝利した後は秀吉承認のもと丹後一国の領有を果たします。<br /><br />豊臣政権では天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いに参陣、天正15年(1587)には島津征伐、天正18年(1590)には小田原北条征伐にそれぞれ従軍、更に打ち続く文禄・慶長の役でも活躍し秀吉の信任を得ます。<br /><br />慶長3年(1598)秀吉の死去後は武断派の一人である忠興は官僚派の石田三成と対立が激化し次第に徳川家康に交流を深めていく中、慶長5年(1600)関ヶ原戦いでは家康方として出陣、石田軍勢と激しく戦い軍功を挙げます。<br /><br />戦後の忠興は家康から高い評価を受け丹後国12万石から豊前一国とそれまで与えられた知行である豊後2郡の6万石を合わせて39万9千石の大大名となり、一時中津入城を経てその後先に改易を受けた毛利氏居城の小倉城に入り大規模改修と拡充をはかります。<br /><br />慶長20年(1615)大坂夏の陣に参陣、元和6年(1620)三男の忠利(ただとし、1586~1641)に家督を譲り隠居、寛永9年(1632)忠利が肥後熊本藩54万石に転封の際忠興も忠利に従い支城に当たる八代城にて隠居生活を送り正保2年(1646)12月に死去します。<br /><br />尚 忠興時代には祇園社の地に大規模な社殿を建立し、細川氏転封後小笠原氏の治世になっても小倉城下町の人々の信仰を集め、明治時代に入り呼称が祇園社から八坂神社に変わり更に昭和9年に現在の地である小倉城内に遷座されます。<br /><br /><br />2022年12月18日追記<br /><br />当該神社ホームページにか下記の通り説明がなされています。<br /><br />『 八 坂 神 社 の 縁 起<br /><br />「小倉のぎおんさん」と親し身を込めて呼称され、7月に斎行される例大祭(小倉ぎおんまつり)は「太鼓の祇園」としてその名を馳せています。<br /><br />関が原の合戦で徳川家康に従い、多大な勲功のあった細川越中守忠興公は慶長6年(1601年)に豊前一国と豊後二郡の合わせて39万9千石の大大名として入国されました。その細川公が元和2年の秋、勝山城(小倉城)の西方にある愛宕山にて鷹狩の時、山の頂上で一基の苔むした石の祠(ほこら)があることに気づき、中を覗こうと開けようとして群れ出た蜂に刺されたのです。公は痛みに苦しみ、家臣たちはあわてて城につれ帰り、御殿医師の手厚い看護を受けましたが失明同然となったのです。<br /><br />公は深く恐れいり、家臣に命じ祠の由緒(いわれ)を調べさせたところ、須佐之男命を祀ってあることがわかり、生国京都の祇園社と同じ御祭神なので改めて城下の土地に(鋳物師町)に神殿を造営しました。南殿に愛宕山(不動山)の祇園社を遷宮し、篠崎八幡宮の宮司川江左衛門橘種茂を大宮司として奉職させ、通称「口の宮」と言いました。対し北殿は当時三本松に鎮祭されていた祇園社を併祇申し上げ、蒲生八幡の宮司高山孫太夫定直を大宮司として奉職させ、通称「奥の宮」と称しました。元和3年(1617年)2月起工し、同9月竣工、同月11日に眼病平癒の「願解」の祭典を盛大に催しました。この時の祭典は主として「能」を奉祭したので秋祭り「神事能」として大正末期まで継続されました。<br /><br />小倉祇園社の現在の正しい名称は八坂神社です。元和3年創設当時は小倉祇園社感応院と称し、寛永9年12月(1632年)小笠原忠真公が藩主となってからもそのまま小倉城の守護神として尊崇され、あわせて領内の総鎮守として明治4年(1871年)廃藩置県の新制度施行まで続きました。<br /><br />また、有栖川宮?仁親王が、初代福岡県令として赴任の途中、参拝され京都の八坂神社と御祭神が同じ須佐之男命であることから「八坂神社」の神号を親しく描き与えられたと言うことです。御本社の幣殿と正面の大鳥居に掲げられている神額の文字は有栖川宮様の御親筆の写しを刻んだものです。<br /><br />昭和9年7月8日、鋳物師町より勝山城北の丸(二の丸)後に遷宮され今日に至っています。<br /><br />主祭神の須佐之男命様の他十二柱の神々の御神徳は、厄除け・疫病退散・商売繁盛・家内安全・産業隆昌・縁結び・縁切り・陸海空交通安全・芸能上達・五穀豊穣・医療医薬・温泉の神・禁?・学問・酒造りと広範に渡ります。 』<br /><br />

豊前小倉 鷹狩時に目を痛めた藩主細川忠興が眼病平癒祈願の為京都祇園を念頭に造営した小倉祇園社を前身とし歴代小倉城主が崇敬した『八坂神社』散歩

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2014/10/09 - 2014/10/09

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23

滝山氏照

滝山氏照さん

JR小倉駅から徒歩で約20分、小倉城北の丸跡に鎮座する八坂神社(やさかじんじや、福岡県北九州市小倉北区城内)は元和3年(1617)に小倉藩主である細川忠興(ほそかわ・ただおき、1563~1646)が鋳物師町に創建したものです。

八坂神社の起源としては貞観12年(870)に疫病が流行したので山城国八坂郷の祇園社を長尾(現在の小倉南区長尾辺り)に勧請して同地の総鎮守としたことによります。

ご存じの通り細川忠興は室町幕府13代将軍である足利義輝に仕えていた細川藤孝(ほそかわ・ふじたか、1534~1610)を父に持ち、義輝が永禄の変で討死後は父藤孝は織田信長を頼り、義輝弟の義昭を15代将軍に擁立、然しながら信長と義昭との対立から義昭追放によって藤孝は信長に、忠興は信長嫡男である信忠にそれぞれ仕えます。

本能寺の変により信長及び信忠は明智光秀により殺害され、忠興室が光秀娘という関係から光秀から味方になるよう誘いを受けますがこれを拒否、中国地方で毛利軍と対峙している羽柴秀吉方に転じ山崎の戦いで光秀に勝利した後は秀吉承認のもと丹後一国の領有を果たします。

豊臣政権では天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いに参陣、天正15年(1587)には島津征伐、天正18年(1590)には小田原北条征伐にそれぞれ従軍、更に打ち続く文禄・慶長の役でも活躍し秀吉の信任を得ます。

慶長3年(1598)秀吉の死去後は武断派の一人である忠興は官僚派の石田三成と対立が激化し次第に徳川家康に交流を深めていく中、慶長5年(1600)関ヶ原戦いでは家康方として出陣、石田軍勢と激しく戦い軍功を挙げます。

戦後の忠興は家康から高い評価を受け丹後国12万石から豊前一国とそれまで与えられた知行である豊後2郡の6万石を合わせて39万9千石の大大名となり、一時中津入城を経てその後先に改易を受けた毛利氏居城の小倉城に入り大規模改修と拡充をはかります。

慶長20年(1615)大坂夏の陣に参陣、元和6年(1620)三男の忠利(ただとし、1586~1641)に家督を譲り隠居、寛永9年(1632)忠利が肥後熊本藩54万石に転封の際忠興も忠利に従い支城に当たる八代城にて隠居生活を送り正保2年(1646)12月に死去します。

尚 忠興時代には祇園社の地に大規模な社殿を建立し、細川氏転封後小笠原氏の治世になっても小倉城下町の人々の信仰を集め、明治時代に入り呼称が祇園社から八坂神社に変わり更に昭和9年に現在の地である小倉城内に遷座されます。


2022年12月18日追記

当該神社ホームページにか下記の通り説明がなされています。

『 八 坂 神 社 の 縁 起

「小倉のぎおんさん」と親し身を込めて呼称され、7月に斎行される例大祭(小倉ぎおんまつり)は「太鼓の祇園」としてその名を馳せています。

関が原の合戦で徳川家康に従い、多大な勲功のあった細川越中守忠興公は慶長6年(1601年)に豊前一国と豊後二郡の合わせて39万9千石の大大名として入国されました。その細川公が元和2年の秋、勝山城(小倉城)の西方にある愛宕山にて鷹狩の時、山の頂上で一基の苔むした石の祠(ほこら)があることに気づき、中を覗こうと開けようとして群れ出た蜂に刺されたのです。公は痛みに苦しみ、家臣たちはあわてて城につれ帰り、御殿医師の手厚い看護を受けましたが失明同然となったのです。

公は深く恐れいり、家臣に命じ祠の由緒(いわれ)を調べさせたところ、須佐之男命を祀ってあることがわかり、生国京都の祇園社と同じ御祭神なので改めて城下の土地に(鋳物師町)に神殿を造営しました。南殿に愛宕山(不動山)の祇園社を遷宮し、篠崎八幡宮の宮司川江左衛門橘種茂を大宮司として奉職させ、通称「口の宮」と言いました。対し北殿は当時三本松に鎮祭されていた祇園社を併祇申し上げ、蒲生八幡の宮司高山孫太夫定直を大宮司として奉職させ、通称「奥の宮」と称しました。元和3年(1617年)2月起工し、同9月竣工、同月11日に眼病平癒の「願解」の祭典を盛大に催しました。この時の祭典は主として「能」を奉祭したので秋祭り「神事能」として大正末期まで継続されました。

小倉祇園社の現在の正しい名称は八坂神社です。元和3年創設当時は小倉祇園社感応院と称し、寛永9年12月(1632年)小笠原忠真公が藩主となってからもそのまま小倉城の守護神として尊崇され、あわせて領内の総鎮守として明治4年(1871年)廃藩置県の新制度施行まで続きました。

また、有栖川宮?仁親王が、初代福岡県令として赴任の途中、参拝され京都の八坂神社と御祭神が同じ須佐之男命であることから「八坂神社」の神号を親しく描き与えられたと言うことです。御本社の幣殿と正面の大鳥居に掲げられている神額の文字は有栖川宮様の御親筆の写しを刻んだものです。

昭和9年7月8日、鋳物師町より勝山城北の丸(二の丸)後に遷宮され今日に至っています。

主祭神の須佐之男命様の他十二柱の神々の御神徳は、厄除け・疫病退散・商売繁盛・家内安全・産業隆昌・縁結び・縁切り・陸海空交通安全・芸能上達・五穀豊穣・医療医薬・温泉の神・禁?・学問・酒造りと広範に渡ります。 』

旅行の満足度
3.5
交通手段
JRローカル 徒歩
  • 八坂神社・鳥居<br /><br />鳥居上部に掲載されている神額「八坂神社」は初代福岡県令を勤めた有栖川親王の親筆の写しだそうです。

    八坂神社・鳥居

    鳥居上部に掲載されている神額「八坂神社」は初代福岡県令を勤めた有栖川親王の親筆の写しだそうです。

  • 八坂神社・社標

    八坂神社・社標

  • 「中津口門の大石」説明板

    「中津口門の大石」説明板

  • 中津口大石<br /><br />鳥居の後方に左右に建てられた大石が先ほどの「中津口の大石」に関係する石であると思われます。

    中津口大石

    鳥居の後方に左右に建てられた大石が先ほどの「中津口の大石」に関係する石であると思われます。

  • 八坂神社・山門<br /><br />参道の奥には「豊前総鎮守」と描かれた扁額が付されている山門が見えます。

    八坂神社・山門

    参道の奥には「豊前総鎮守」と描かれた扁額が付されている山門が見えます。

  • 小倉城・堀<br /><br />次の城郭に渡る際橋から北方向の堀を右側に捉えます。

    小倉城・堀

    次の城郭に渡る際橋から北方向の堀を右側に捉えます。

  • 猿田彦神社と説明板

    猿田彦神社と説明板

  • 堀風景<br /><br />城郭に渡る橋の途中から左側の風景を楽しみます。

    堀風景

    城郭に渡る橋の途中から左側の風景を楽しみます。

  • 八幡神社・境内

    八幡神社・境内

  • 八幡神社・拝殿(遠景)

    イチオシ

    八幡神社・拝殿(遠景)

  • 八幡神社・拝殿(近景)<br /><br />「八幡神社」と描かれた扁額が見えます。

    八幡神社・拝殿(近景)

    「八幡神社」と描かれた扁額が見えます。

  • 祖霊殿<br /><br />拝殿から振り向いて境内を一望します。

    祖霊殿

    拝殿から振り向いて境内を一望します。

  • 八坂神社・案内図

    八坂神社・案内図

  • 八坂神社・本殿<br /><br />拝殿から渡殿を経て本殿方向を捉えます。

    八坂神社・本殿

    拝殿から渡殿を経て本殿方向を捉えます。

  • 御祈祷殿・神楽殿

    御祈祷殿・神楽殿

  • 鳥居<br /><br />小倉城本丸へ繋がる花崗岩製の鳥居が見えます。この鳥居は室町時代に造られた物で県指定文化財となっています。

    イチオシ

    鳥居

    小倉城本丸へ繋がる花崗岩製の鳥居が見えます。この鳥居は室町時代に造られた物で県指定文化財となっています。

  • 八坂神社・手水舎<br /><br />写真館の棟と手前には取水舎が控えています。

    八坂神社・手水舎

    写真館の棟と手前には取水舎が控えています。

  • 八坂神社・社務所<br /><br />社務所が入っている棟が境内北側にあります。

    八坂神社・社務所

    社務所が入っている棟が境内北側にあります。

  • 小倉城・東楼門

    小倉城・東楼門

  • 小倉城・東楼門正面<br /><br />北側通りから東楼門正面を捉えます。

    イチオシ

    小倉城・東楼門正面

    北側通りから東楼門正面を捉えます。

  • 小倉城・東堀風景<br /><br />城郭で言えば北の丸を出た所から南側にある水堀と櫓を捉えます。

    小倉城・東堀風景

    城郭で言えば北の丸を出た所から南側にある水堀と櫓を捉えます。

  • 八坂神社由緒・説明板<br /><br />『 八坂神社御由緒<br />当神社は古より祀られてありましたが、元和3年の春(西暦1617年)小倉城主の細川忠興公が鷹狩りのおり、神霊を感じられ改めて神殿を鋳物師町に建立、奉建名も祇園社と称し旧豊前国の総鎮守として仰がれました。じ来尊崇は小笠原公へと引き継がれ代々藩主はもとより、小倉城下の崇敬厚く春秋三百有余年、昭和9年、現小倉城内北の丸に遷座されました。平成29年には御創建400年の慶賀をお迎えいたします。<br /><br />盛夏の頃、祇園例大祭は「太鼓の祇園」として親しまれ、全国三大祇園の一つに数えられるのも小倉っ子の意気と熱、その独特のばちさばきによるものと思われます。映画「無法松の一生」で一躍世界にその名を知られるお祭りとなりました。<br /><br /><br />御 祭 神           御 祭 礼 日<br />須佐之男命           祈念祭  2月17日<br /> 勇気と産業と厄除けの神<br /><br />大国主命            祇園例大祭<br /> 商売繁盛と縁結びの神       7月・第三土曜日を含む<br />                     金曜・ 土曜・ 日曜<br /><br />少名比古那命          新嘗祭 11月23日<br /> 医薬と子供の神<br /><br />他に12柱を祀る        祖霊祭 春彼岸・3月中旬<br />                    中 元・8月中旬<br />                    秋彼岸・9月中旬  』<br />

    八坂神社由緒・説明板

    『 八坂神社御由緒
    当神社は古より祀られてありましたが、元和3年の春(西暦1617年)小倉城主の細川忠興公が鷹狩りのおり、神霊を感じられ改めて神殿を鋳物師町に建立、奉建名も祇園社と称し旧豊前国の総鎮守として仰がれました。じ来尊崇は小笠原公へと引き継がれ代々藩主はもとより、小倉城下の崇敬厚く春秋三百有余年、昭和9年、現小倉城内北の丸に遷座されました。平成29年には御創建400年の慶賀をお迎えいたします。

    盛夏の頃、祇園例大祭は「太鼓の祇園」として親しまれ、全国三大祇園の一つに数えられるのも小倉っ子の意気と熱、その独特のばちさばきによるものと思われます。映画「無法松の一生」で一躍世界にその名を知られるお祭りとなりました。


    御 祭 神           御 祭 礼 日
    須佐之男命           祈念祭  2月17日
     勇気と産業と厄除けの神

    大国主命            祇園例大祭
     商売繁盛と縁結びの神       7月・第三土曜日を含む
                         金曜・ 土曜・ 日曜

    少名比古那命          新嘗祭 11月23日
     医薬と子供の神

    他に12柱を祀る        祖霊祭 春彼岸・3月中旬
                        中 元・8月中旬
                        秋彼岸・9月中旬  』

  • 小倉城・北の丸石垣と水堀<br /><br />

    小倉城・北の丸石垣と水堀

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