2014/08/25 - 2014/08/25
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滝山氏照さん
信長命により総奉行として安土城完成させた宿老丹羽長秀(にわ・ながひで、1535~1585)を父親に持つ長重(ながしげ、1571~1637)は父に劣らず築城の名手であると共に彼自身の持っている比類のない実直さによって関ヶ原合戦敗者ながらも大名に復活した数少ない人物です。
丹羽氏の祖は武蔵七党の一つである児玉党と言われていますが裏付けるものはなく、尾張丹羽郡児玉村居住がその理由かも知れず、また児玉党は多数の支流に分かれており長秀以前の系譜が不明なため特定できるものは見当たりません。
丹羽氏は尾張守護の斯波氏に仕えたようですが斯波氏の没落と守護代の下剋上で織田信秀(おだ・のぶひで、1511~1552)が勢力伸長するなか織田氏の家臣となり、長秀15歳の頃には信長に仕えやがて信長姪を妻とし、以降数々の戦功をあげて元亀2年(1571)に家臣で初めて城持武将として近江国佐和山城主に任ぜられます。
長秀の業績として高く評価されるのは普請奉行として安土城の築城に関わり、気性が激しくわがままな信長の意向に沿った五層七重の天守閣を備えた壮麗な城郭を造り上げた事で、完成した安土城に満足した信長は長秀に最大の賞賛を与えています。
天正10年(1582)信長が本能寺で横死しますが、その頃丹羽秀長は信長三男信孝を大将とする長宗我部征伐軍団の副将として四国渡海を待っていた矢先で、地理上有利な位置に居たにも拘わらず軍勢をまとめることができずもたもたしている始末、結局その間中国返しで関西に戻った羽柴秀吉軍勢の脇役の立場ながらも明智光秀軍勢に対抗見事打ち破ります。
光秀軍を破った秀吉功績は大きくその後の秀吉の言動は先輩同輩武将を凌駕し、信長後の体制を決定する清州会談では長秀は秀吉側に立ち三法師(信長孫)を後嗣とすることに賛成、会議の結果若狭国の他近江高島と志賀郡を新たに支配する事になります。
翌天正11年柴田勝家を倒した賤ヶ岳合戦等では、長秀は直接参戦はせず近くまで軍勢を出し勝家を牽制したことで、秀吉から勝家の旧領を下賜され、これまでの支配地を合わせるとなんと123万石の大大名となりますが、以後は完全に立場が逆転し秀吉の風下に立たざるを得なくなります。
翌年の徳川家康・織田信雄との小牧・長久手の戦いでは体調崩し自ら出陣できず当時14歳の嫡男長重が代わりに軍を率いて参戦します。
翌天正13年(1585)4月長秀は51歳の若さで病死、若輩の長重が父の遺領123万石を引き継ぐことになります。
然しながら引き継いだ長重は僅か3年弱で石高が1/30に減封される事態が発生します。即ち敵対する越中の佐々成政攻撃にも従軍するなか家臣が軍令違反したとの理由で秀吉から越前国を没収されることになります。更に天正15年(1587)の島津征伐でも軍紀違反を問われ若狭国没収され、ついに加賀国松任4万石の城主に縮小されてしまいます。
上述のように4万石に減封されますが腐るような長重ではなく度重なる冷遇を受けながらも忠実に秀吉に仕えまた秀吉も長重の真面目さを評価するようになり、慶長3年(1598)に加賀国能美・石川両郡を封じられ12万5千石の小松城主に復活し、更に参議に叙されたうえ豊臣姓を与えられるほどの信用を得るに至ります。
秀吉が他界すると豊臣政権が分裂し家康派と石田三成派に分かれ二大勢力がそれぞれ覇を唱え、慶長4年(1600)関ヶ原合戦が勃発、長重の隣国は前田藩で利長は家康に謀反の意思なしとの誓約をし実母を家康方に預けている事情から東軍に与し、長重は利長との確執から前田藩と戦うことになります。
結果は東軍の勝利となり、長重はそれまでの領地を全て没収され京都で謹慎、小松城は家康の命で前田利長の接収するところとなります。
謹慎中の長重は翌年家康の命により江戸に移り芝高輪の屋敷で隠棲、一方家康は日頃から長重を「剛毅比類なき廉直の士」と高く評価していたので将軍秀忠にその旨伝え、秀忠は慶長8年2月(1603)常陸国古渡(ふっと)に1万石を与え大名に復帰させ以前の丹羽宰相という肩書使用を許し、併せて長重弟長俊(ながとし)を旗本に取立てます。
慶長19年(1614)大坂冬の陣勃発し長重は総勢200名、翌元和元年の大坂冬の陣では総勢500名引き連れて徳川方として参陣、少数部隊ながらも敵陣に攻撃をかけて輝かしい戦功をあげます。
大坂陣で徳川方勝利し豊臣家は滅亡、長重の奮闘ぶりが評価され1年半ほど秀忠の御伽衆(おとぎしゅう)に抜擢されることになります。御伽衆とは将軍のもとに伺候して昼夜側に控え、さまざまな逸話や回想談、人生訓などを紹介する役目で殆どのお伽衆が信長時代から現役として戦場を転戦した名将の中に在って長重は異例なほどの若さでありました。
御伽衆の一員として長重は秀忠の下へ出向き武功談をはじめ様々な物語をし、時には秀忠の相談をあずかるようになります。
元和5年(1619)長重は幕府より常陸国江戸崎に1万石加増され、古渡と合わせて2万石となり、更にその2年後に3万石を加増されて奥州棚倉(福島県棚倉町)に5万石を有することになります。
棚倉の赤館城は戦国時代の古風な形態の城で急増する家臣たちを受け入れる対応ができない事情があり、長重は寛永元年(1624)幕府の許可を得て新規に築城することになります。
実は長重は築城術に極めて優れていました。冒頭に記載した通り安土城普請の総奉行を信長から拝命し見事に完成した実績を有する長秀を父に持ち、長重は幼少の頃から父から築城のさまざまなテクニックを教示されていたと思われます。
従い築城の立地を考慮して今までの赤館城位置を南方に移し西側に急峻な丘を抱える守備に好都合な近津明神境内を新城域と定めると共に明神を動かすことに難色を示している住民の感情に配慮し明神別当一族と話し合い理解を得る中築城工事を始めます。
棚倉築城途中の文禄4年(1595)に異変が起きます。つまり会津60万石を領していた蒲生氏郷(がもう・うじさと、1556~1595)が嫡子がなくして急死、旧領には加藤嘉明(かとう・よしあき、1563~1631)と長重が入ることになり、嘉明は会津40万石、長重は陸奥国白河・石川・田村・岩瀬4郡のうち10万7百石を下賜され白河を拠点とする大名にまで昇進することになります。
つまり関ヶ原合戦で手持ちの封土を一挙に失った丹羽長重は持ち前の才覚によって10万石を勝ち取ったわけで換言すれば「敗者復活で見事に生き返った」名将と言えます。
一方家康・秀忠としても裏表がなく、軸が振れない長重を見るにつけそれまで持っていた猜疑心が次第に薄らぎ信頼置ける武将の評価に変わり、外様の身分でありながら築城術に長けた長重を関東と奥州の境目に配置することは強固な城を築かせ伊達政宗などの奥州大名を押さえにしようとする政策があったと思われ、それにしても極めて例外的な措置であったと言えます。
幕府の意向を受けて長重は自ら白河の領地を見聞し、防御にふさわしい城の場所を決め、櫓数、堀割や石垣の絵図を作成、幕府の承認の元工事費2万両を借り受け4年歳月を費やし堂々完成させます。
こうして123万石の大大名からスタートした長重は寛永14年(1637)12月に67歳の文字通り波乱万丈の生涯を終えます。
その後の丹羽氏については嫡男光重(みつしげ、1622~1701)が家督を相続し、長重死から6年後の寛永20年(1643)に白河から二本松へ転封、そして二本松入封後築城の名手の血を受け継いだ光重は10年の歳月をかけ近代城郭に向けて大修築を行い幕末まで丹羽氏10代の居城として220年余続きます。
然しながら幕末には戊辰戦争に巻込まれ西軍との徹底抗戦で城内や家中屋敷のすべてを焼失、慶応4年(1868)7月落城に至ります。
2023年8月8日追記
現地にて入手したパンフレットには「二本松城の歴史」として説明がなされています。
『 二 本 松 城 の 歴 史
二本松城は、室町時代中期に奥州探題を命じられた畠山満泰が築造し、以後畠山氏歴代の居城として140年余り続きました。その後、天正14年(1586)伊達政宗の執拗な攻撃に遭い、落城しました。
豊臣時代になると、二本松城は会津領主となった蒲生氏郷の重要な支城として、中通り(仙道)警備の任を与えられました。二本松城に石垣が積まれ、近世城郭として機能し始めたのはこのころだと推定されます。
その後、徳川時代初期も会津領として、蒲生氏・加藤氏らの支配下にありました。とくに、加藤氏支配時代には本丸を拡張したことが平成6年の石垣解体調査で確認されました。
二本松藩が誕生した寛永20年(1643)、初代藩主庭重光が10万7000石で入城し、幕末まで丹羽氏10代の居城として220年有余年続きました。戊辰戦争に際し、西軍との徹底抗戦で城内・家中屋敷の全てを焼失し、慶応4年(1868)7月29日に落城しました。』
- 旅行の満足度
- 4.0
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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大手門通り
二本松駅前通りからやや登り坂の大手門を西進します。 -
大手門石垣(左側)
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大手門石垣(右側)
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大手門説明
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二本松城跡(全景)
既に「霞ケ城公園」として整備された二本松城は別名「霞ケ城」と呼称されています。 -
二本松城の櫓
手前の駐車場の向こうに二本松城櫓が見えます。 -
イチオシ
二本松城
室町時代中期に奥州探題を命じられた畠山満泰が築城し、以後畠山氏歴代の居城として140年余り続きます。その後天正14年(1586)伊達政宗の攻撃に遭い落城した経緯があります。 -
霞ケ城址石標
二本松城の別称「霞ケ城」の石碑が建立されています。 -
二本松少年隊群像
戊辰戦争での少年隊奮戦の姿と出陣服を仕立てる母親の姿が造られています。 -
二本松少年隊説明
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箕輪門前の登城道
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イチオシ
箕輪門(みのわもん)
光重入城後に最初に造られた櫓門で、材料の樫の巨木は領内の箕輪村山王寺山の御神木を用いたためその名前があります。 -
箕輪門説明
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二本松城跡説明
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二本松城跡説明
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内藤四郎兵衛戦死の石碑
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箕輪門
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石垣
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箕輪門広場
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箕輪門塀.
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箕輪門石垣
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箕輪門の赤松説明
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三の丸への虎口
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三の丸への石段
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箕輪門内側
石段を上がり切った三の丸から箕輪門を見下ろします。 -
三の丸跡
菊人形関係のイベント開催準備中のようで、業者が設置準備に余念がありません。恒例となっている秋に開催される菊人形の会場のようです。 -
霞池風景
三の丸西側には霞池があり、鯉などが泳いでいる様子が見えます。 -
本丸石説明
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本坂御殿入口
二本松城の南麓に藩主居住の御殿がありますが、遠方から窺うと大規模建屋ながら荒れ放題の様相で建物入館禁止の綱が引かれています。 -
本坂御殿(右側)
御殿右端を通過する道から目視すると手入れがない状態です。 -
本丸への道
御殿跡を迂回する形で本丸へ進みます。 -
本丸への道
狭い道を更に登って行きます。 -
二本松藩士自尽の地
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本丸途中のあずまや
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本丸への登り石段
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日陰の井戸
千葉県印西市の「月影の井戸」、神奈川県鎌倉市の「星影の井戸」とともに日本三大の井戸と呼ばれています。 -
日陰の井戸内部
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日陰の井戸説明
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本丸石垣
石段の途中から上部を見ると本丸石垣が確認されます。 -
本丸石垣
深い雑草で覆われていますが石垣が一部見えます。 -
本丸下南面大石垣
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本丸下南面大石垣説明
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イチオシ
本丸石垣
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本丸石垣説明
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本丸石垣
石垣と石垣の間に登り石段があります。 -
枡形虎口への階段
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枡形虎口
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本丸跡
本丸跡は整備されてスッキリした広場となっています。 -
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天守台跡
本丸の一角には中央部に天守台、続く東端と西端にはそれぞれ櫓台が設置されています。 -
二本松城代・勘定奉行自尽碑
戊辰戦争で二本松城落城に際し自尽した丹羽和左衛門(城代)及び安部井又之丞(勘定奉行)の供養塔、その傍らに説明があります。 -
天守台跡
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天守台跡
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市街地展望
天守台跡から市街地を眺めます。 -
西櫓台跡
天守台から西櫓台跡を捉えます。 -
東櫓台
天守跡から東櫓台跡を捉えます。 -
レり−フ
天守台中央には全方向景色が象られたレリ−フが施されています。 -
市街地展望
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市街地展望
二本松駅から歩いてきた順路の一部が確認できます。 -
本丸標柱
本丸中央部に立てられた本丸標柱が見えます。 -
本丸石垣南側
本丸を降りて石垣に沿って搦手門跡に向かいます。 -
本丸石垣西側・面石垣内部の旧石垣
面石垣とその内部で発見された石垣はそれぞれ年代が異なる石垣との事で、内部石垣は蒲生氏郷築いた慶長初年のもので、面石垣はその後加藤氏が修築拡張した寛永の石垣となっており面石垣解体の際発見されています。(内部石垣は再度埋め込まれた為見ることはできません) -
面石垣と内部石垣説明
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霞城址石碑
昭和28年に施工された本丸入口石垣修復記念碑で昭和30年に入口左側に二本松氏によって建立され、平成7年本丸石垣修復工事完成を機に当所に移されています。説明によれば二本松氏は奥州探題畠山氏末裔であったとのことです。 -
搦手口(からめてぐち=裏口)跡
本丸石垣を降りる石段途中から搦手口を捉えます。 -
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搦手口跡
搦手口には門台石垣が見えます。 -
搦手門跡
門台石垣が残っています。 -
搦手門説明
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搦手門石垣
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搦手門石垣
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搦手門石垣
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少年隊顕彰碑(遠景)
藩の少年武士が鉄砲の鍛錬をした場所で、戊辰戦争に出陣した64名の隊員を顕彰した碑を建立したものです。 -
二本松少年隊顕彰碑
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二本松少年隊顕彰碑(近景)
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顕彰碑説明
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二本松城址「新城館」説明
慶長6年(1601)から寛永元年(1627)は会津藩の支城の時期があり、二名の城代が配置され城内の東城と西城にそれぞれ城代が居住、この新城館は西城にあたります。 -
イチオシ
新城館敷地風景
少年隊顕彰碑の背後から広々とした敷地を捉えます。 -
少年隊レリ−フ
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初年隊の丘碑
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千恵子抄詩碑(遠景)
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千恵子抄詩碑(近景)
高村光太郎の妻智恵子をしのんで詠んだ「樹下の二人」の始めの句が刻されています。 -
千恵子抄詩碑説明
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土井晩翠歌碑
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