2014/10/17 - 2014/10/17
142位(同エリア234件中)
ムッシュさん
郡山を出発。本宮を経由して二本松宿へ向かう
- 旅行の満足度
- 4.0
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【豊陰(とよかげ)神社】
豊景神社は、源頼義、義家が建立した小祠が起源だという。樹木に包まれた立派な社殿だ。ここには福原の太々神楽が伝えられ、県指定重要無形文化財になっている
祭神は豊斟淳命(とよくむぬのみこと)と鎌倉権五朗景政となっている。
*永保3年(1083年)後三年の役と途次、源頼家は当地が毒蛇の禍で凶作に苦しんでいるのを知り、武勲の誉れ高い鎌倉権五朗景政に命じて退治させた。
その後、凶作もなく暮らしも安定したので、感謝の念から天養元年(1144年)景政の御霊を合祀し、御霊宮とした。
旧村社【豊景神社】(祭神豊斟渟命 鎌倉權五郎景政)は、天喜4年(1056)源頼義・義家親子が前九年の役の途次、凶作で苦しむ農民を救おうと五穀豊穣の神を祀ったのが起源、天養元年(1144)家臣鎌倉権五郎影政を合祀しています。
元和2年(1616)街道整備で現在地に遷座され、明治初期に祭神の一字と影政の一字から現社名に改称されました。 -
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【出雲流太々神楽】(県無形民俗文化財)は、当地遷座の時からの二十八座の演目が伝承されていて、例大祭(4.10月)では勇ましさ・ユーモラス・品ある舞など他地域とは異なる優雅勇壮な舞が神楽殿で奉納されます。
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【福原天満宮】
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「福原宿」に入り、少し先左の「本栖寺」(ほんせいじ)がある。
境内には、郡山市指定重要文化財の「石造浮彫阿弥陀如来座像塔婆」と 「石造浮彫阿弥陀三尊塔婆」が祀られている。 -
「本栖寺」
寺の由緒によると、元弘元年(1332年)に福寿寺が開山され、永世元年(1504年)三春に移転した。その跡に建てられた寺であるため、元福聚寺が栖んでいた寺という意味で、本栖寺と名付けられたという。 -
街道に残る松並木、向山の松並木
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お地蔵さんと石塔群
馬頭観世音4塔です -
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八幡神社の入り口参道
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【蛇骨地蔵堂】への参道に沢山の石塔
蛇骨地蔵堂の参道にある、大きな馬頭観世音である。多くの馬頭観世音がここに集められていた。日和田宿は坂の途中に連なる宿場であるので、実際の街道筋には多くの馬頭観世音が建っていた。
養老7年(723年)に開山、現在の建物は享保3年(1718年)に再建されたもの。当初は東勝寺(とうしょうじ)の祈願堂であったが、幕末に廃寺となったため、西方寺に移されている。 -
【蛇骨地蔵堂】
蛇骨地蔵の由来は、昔、日和田の城主にあやめという娘がいて、大変乱暴者の家来が妻にしようとしたが許されず、あやめを追い出し、ほかの皆を殺してしまった。あやめは、死に変わり生き変わりおまえの仇をうつと近くの沼に身を投げ大蛇に変身して、この村を荒らした。困った村人はこの村の娘を毎年ひとりずつ人見御供として差し出した。三十三番目の人見御供の身代わりになった佐世姫がお経を唱えると、大蛇は蛇の骨を残し天女になって消え去った。その骨で地蔵尊を彫り、祀ったところ、村にようやく平和が訪れたという。
「蛇骨地蔵堂」
養老7年(723)松浦佐世姫を開山とし、蛇骨の地蔵菩薩を安置。
禅宗様式を基にした入母屋造り「社殿」は、享保3年(1718)東勝寺(幕末期に廃寺)と共に再建された東勝寺の祈願堂だったと伝ります。
又、社殿後方(西)に、領主安積忠繁の娘「あやめ姫」が主家を滅ぼされた恨みから大蛇と化し、人身御供となった娘達と佐世姫の供養に建立された三十三観音像(那智山1~33番)が祀られています。 -
地蔵堂
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【蛇骨地蔵堂】
佐世姫と人見御供にされた32人の娘達を供養する三十三観音(地蔵堂の裏)西国三十三観音霊場の仏になっている。
【蛇骨地蔵堂】 郡山市指定重要文化財(平成12年4月25日指定)
蛇骨地蔵堂は、養老七年(713)に開山され、現在は、享保三年(1718)の再建といわれております。当初は東勝寺の所管でありましたが、幕末に東勝寺が廃寺となってから、西方寺に移されました。
禅宗様式を基調とした佇まいは、時代の特徴をよく表しており、仕上げも上質です。柱や梁の架構も雄大であり、使用部材にも見るべきものがあります。
屋根に一部傷みが見られるものの、内部の保存状態は大変優れており、郡山市内においても随一の仏堂建築であるといえます。
郡山市教育委員会
【蛇骨地蔵堂】
日和田の城主浅香左衛門尉忠繁に、「あやめ」と言う娘がいた。家来に、安積玄番時里と言う大変乱暴なものがいて、「あやめ」を妻にしたいと思ったが許されず、大変怒って姫を館から追い出し、ほかのみんなを殺してしまった。姫は時里をきらい、くやしさの余り、「死に変り生き返り、お前の仇をうつであろう」と言って、館の近くの沼に身を投げた。姫は大蛇に化身し、この地方を荒らした。困った人々は神に祈り、村の娘をひとりずつ、毎年三月二十四日に人身御供として差し出した。三十三人目の娘は、片平村の権勘太夫の娘に当った。夫婦は、長谷観音にお参りして、そこで「佐世姫」に出会った。「佐世姫」は、娘のかわりに身を捧げることとなった。大蛇が現れた時、姫は声高らかにお経を読み上げた。その時、大蛇は沼に沈んだと思うと、天女になって現れ、蛇の骨を残して消え去った。その蛇骨を彫って地蔵尊を作り祀ったところ、日和田の里に平和がおとずれるようになった。「あやめ姫」「佐世姫」の伝説を秘めたお堂には、蛇骨で刻まれた地蔵尊が安置され、堂の裏には人身御供された美女三十三体の観音が祀られている。
郡山市観光協会
【蛇骨地蔵堂の鰐口の由来】
蛇骨地蔵堂は、養老七年(732)松浦佐世姫が開山したと伝えられる御宇堂である。
東勝寺は、平安時代の前期(834年以前)日和田の町の南方「寺池」の地に辯応道天により開山されその後、蛇骨地蔵堂の建立地に移設された天台宗の祈願堂で、蛇骨地蔵堂を管理していたが、慶長四年(1599)の大火で蛇骨地蔵堂と共に焼失した。
享保三年(1718)両堂宇とも二本松藩主の丹羽秀延の篤志によりようやく再建した。
再建三年後の享保六年(1721)鋳物師藤橋彦太郎が鰐口を鋳造し東勝寺に奉納した。この鰐口には「奉喜鰐口家門長久 福寿万安 祈攸」の刻銘がある。
藤橋家は勅許を得て、全国の鋳物師を支配する真継家から鋳物師免許状を交付された二本松藩御用鋳物師で、鰐口のはか寺院の銅鐘など数多く鋳造している。
安積山宝珠院東勝寺は、明治の初め廃寺となったため、鰐口は蛇骨地蔵堂に移され現在に至っている。
平成二四年四月二四日 蛇靴地蔵堂保存会 -
【西方寺の傘松】
蛇骨地蔵堂の側に、「西方寺の傘松」と呼ばれる見事な松があり、郡山市指定天然記念物となっている。西方寺は、実際にはこの隣にある。天明六年(1786)建立の書家橘定立の顕彰碑に枝が寄りかかり、「ひじかけ」の松として独特の趣を醸し出している。
【西方寺の傘マツ】 郡山市指定天然記念物(平成12年7月25日指定)
西方寺の傘マツは、樹齢250年と判断され、樹高は4mあります。地上から2mの高さで水平にニ本の枝が伸び、笠松状に生育しています。
胸高直径は60cm、幹周りが188cm、枝張りが東西南北とも11mあり、非常に立派な体裁を放っています。
天明六年(1786)に建立した旨の記録がある書家橘定立(貞立)の顕彰碑に枝が寄り掛かり「ひじかけ」の松として、独特の趣を醸し出しています。
これほどの樹勢があり管理が行き届いておりかつ、形の整えているものは、大変珍しく、市内で天然記念物に指定されている松は、この一本だけです。
郡山市教育委員会 -
【蛇骨地蔵堂】
お堂の裏にある三十三観音は、人身御供にされた33人の娘を祀ったものだ。
佐世姫と人見御供にされた32人の娘達を供養する三十三観音(地蔵堂の裏)西国三十三観音霊場の仏になっている。 -
奥の細道の【安積山の説明板】
歌枕の地、安積山(あさかやま)公園がある
安積山の上り口で、今では安積山公園として整備されている。
安積山は古今和歌集の
「みちのくの あさかのぬまの 花かつみ かつみみる人に 恋ひやわたらん」
で、花かつみが安積の沼の名物となり、多くの歌が詠まれるようになった。
その一つ、万葉集、安積采女の
「安積山 影さえ見ゆる 山の井の 浅き心を わか(我が)思わなくに」と彫られた石碑がある。
また、芭蕉は奥の細道で
「等窮が宅を出て五里斗、檜皮(ひはだ=日和田)の宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども更知人なし。沼を尋、人にとひ、かつみかつみと尋ねありきて、日は山の端にかゝりぬ・・・」
と記している。 -
芭蕉、曽良も立寄った【あさか(安積(あさか)山】
安積山の北麓に【芭蕉の小径】と名付けられた遊歩道が出来ている。
この少し先に、山裾より湧き出る水があり、山ノ井の清水と呼ばれていた。
前述した万葉集巻16、安積采女の
「安積山 影さえ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思わなくに」
と詠まれたところだ。
と曾良もここに訪れている。 -
【おくのほそ道碑】
碑には、おくのほそ道の安積山の件が刻まれている。
前述の「等窮が宅を出て五里計、檜川(ひわだ)の宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈此もやや近うなれば、いづれの草を花かつみと云うぞと~」
の部分である。 -
遠くに【安達太良山】がみえてます。頂上付近はわずかに雲の中
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【積達騒動鎮定の史跡】
寛延二年(1749年)の百姓一揆を記念する「積達(せきたつ)騒動鎮定之碑」がある。二本松城下で発生したただ一つの百姓一揆で、農民の要求を藩に認めさせ、流血を見ることなく解散した。
碑文によると、寛延2年(1749年)の稲作は平年の四分作という不作であったが年貢割付は例年通りのため、農民達は作況を調査して年貢を軽減するよう嘆願したが聞き入れられず、大槻村から始まり、約1万8千人の農民がここ仁井田下の原に結集して気勢をあげた。
そのとき、冬室彦兵衛が間に入り、調停し、流血の事態を回避して、年貢軽減を実現させたとある。 -
東北本線JR本宮駅前広場
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東北本線JR本宮駅。二本松市に近づいてきました。
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本宮市出身、往年の有名人、【歌手”伊藤久男”の】
石碑の裏のボタンを押すと歌が流れて来ます。 -
本宮橋を渡ります。
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【北町本陣通りと古民家】
本宮宿北町の町並みである。かつての旧家が何軒か残されていた。
本宮宿は奥州街道と会津街道、三春街道、相馬街道の追分があり、交通の要所として発展してきた。そして奥州街道沿いでは屈指の規模の遊郭があり、人形浄瑠璃で
「奥州街道の本宮なくば何をたよりに奥がよい・・・」と謡われるほどであった。
井原西鶴の「好色一代男」や「一目玉鉾」にも登場してくる。
本宮の北町(字立石)には東山道の安達駅(あだちのうまや)があり、軍馬の産地としても知られていた。 -
【「明治天皇本宮行在所趾」の碑】
【本宮宿北町本陣跡】
北町の本陣・検断・問屋はここの鴫原(しぎはら)家が代々務めていたが、屋敷は1950年に取り壊され、今は樹齢200年の「本陣のクロマツ」(本宮市指定天然記念物)が残されているのみであった。中央の石柱は、明治天皇行在所跡碑である。 -
先ずは神社への階段をのぼりましょう。
川を渡ると街道左手に本宮の地名の由来となった【安達太良神社】がある。
安達太良山の三所明神の里宮として久安2年(1146年)に、この管森(すがもり)山山腹に創建された。
文化3年(1806年)の火災後は、戦国時代の管森館(すがもりだて)跡である頂上の現在地に移されている。また、この神社の登り口の右(北)側には、旧二本松藩の糠沢組代官所と本宮組代官所があったようだ。 -
【安達太良神社】
本宮の地名の由来ともなった神社で、「安達太良神社の森」に包まれた高台にある荘厳な神社だ。本殿の裏に回ってみると、見晴らしがよく、安達太良山の絶景ポイントだ。
街道左手に本宮の地名の由来となった安達太良神社がある。安達太良山の三所明神の里宮として久安2年(1146年)に、この管森(すがもり)山山腹に創建された。
文化3年(1806年)の火災後は、戦国時代の管森館(すがもりだて)跡である頂上の現在地に移されている。また、この神社の登り口の右(北)側には、旧二本松藩の糠沢組代官所と本宮組代官所があったようだ。 -
【安達太良神社本堂】
本宮城址に鎮座する旧安達郡の総鎮守です。 -
安達太良神社本堂
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安達太良神社参道
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【石雲寺】
百日川を渡ると左手に石雲寺がある -
【曹洞宗石運寺】
本宮宿北町の出口付近である。
百日川があり、対岸に曹洞宗石雲寺(せきうんじ)がある。
また石雲寺は、東北5県に跨る陸奥路の芭蕉の跡地を辿る、奥の細道陸奥路三十三観音零場の32番札所となっている。
この百日川はこの右手で阿武隈川に合流している。
立石は、この百日川と阿武隈川の交わる地点の北側の台地の上となっている。 -
石運寺
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