2014/11/13 - 2014/11/14
177位(同エリア234件中)
ムッシュさん
本宮宿を過ぎると、杉田宿⇒二本松宿⇒二本柳宿⇒八丁目宿⇒若宮宿と続く。
二本松宿内散策です
- 旅行の満足度
- 4.5
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奥州街道二本松宿に向かう道中です
「薬師寺参道」
薬師坂を上り詰めた右手高台に薬師堂がある。石段下にある霊泉は、総ての病気が治癒する「薬師の湯」の起源で、往来の人馬が皆憩うたという。静まり返った森の中の石段の上のお堂は、石仏石塔に囲まれ、古びて彫刻が見事で荘重な雰囲気が漂っている。 -
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東北本線
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【木登り地蔵尊】(由来説明板より)
高台に、木登り地蔵尊がある。木の股に収められているはずの地蔵尊が、木が枯れて、地面にあった。
今から600年前、畠山氏がこの地を治めていたころ、畠山一族には病気などの不幸が続いていた。
3代目畠山国詮は那須野ヶ原の金毛九尾の狐が娘に化けて人々を苦しめていた。
一休和尚と会津熱塩の源翁和尚の合作による地蔵尊を祀って祈祷したところ狐を退治できたことを知って、その地蔵尊を竜泉寺の全忠和尚に頼んで譲りうけ、この地まで背負って来た。少し休んで歩き出そうとしたところ、再び背負うことが出来なかった。同じ畠山領地内であり、また霧ヶ城(二本松城)の病門にあたるところから、この地に病気除けとして祀ることにした。
それから十有余年過ぎてのこと。地蔵尊は木造りのためか、時折木の根の穴に首を突っ込むので、竜泉寺3代淳学和尚が石の地蔵尊を造りそこに納めたところ、
悪病の流行や天災の時には赤頭巾を飛ばしたり、和尚に夢知らせを三晩と続けた。
説明があった -
境内にある松ノ木の二股部分に、「地蔵尊」が祀られています。
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【木登り地蔵尊の由来】
説明板には、
『今から約600年前、畠山氏がこの地を治めていたころ、畠山一族には病気などの不幸が続いた。
3代目畠山国詮は、那須野ヶ原の金毛九尾の狐が、娘に化けて人々を苦しめていたのを一休和尚と会津熱塩の源翁和尚の合作による地蔵尊を祀って祈祷したところ狐を退治できた。このことを知って、その地蔵尊を竜泉寺の全忠和尚に頼んで譲りうけ、この地まで背負って来たが、少し休んで歩き出そうとしたところ、再び背負うことが出来なかった。同じ畠山領地内であり、また霧ヶ城(二本松城)の病門にあたるところから、この地に病気除けとして祀ることにした。」 -
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峠道の途中の街道沿いには「新旧の馬頭観世音」が建っていた。
左の観世音は文化11年(1814年)と刻まれてあった。ここから、二本松城下町に向け、坂道を下るところだ。 -
「二本松城の城閣】
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【二本松神社】参道。
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【二本松神社】
1150年(久安6年)頃、地頭安達盛長が守護神として、田地(でんち)ヶ岡に勧請したのが始まりと伝えられている。
その後、奥州探題畠山満泰が白旗(しらはた)ヶ峰の霧ヶ城に遷宮し、寛永20年(1643年)丹羽氏が二本松に10万石で入部、同じ場所に二本松城(霞ヶ城)築城した時に、神社はここに移された。
例大祭の提灯祭りは【日本三大提灯祭り】の一つ。1台に300余の提灯をつけた7台の太鼓台が町内を練り歩くとのことだ。(パンフレットより) -
二本松神社参道の両側も紅葉しています
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【二本松神社本堂】
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二本松神社拝殿」(由緒説明板より)
街道に面した大鳥居を潜り、長い階段を登ると正面に拝殿がある。藩主として入部した丹羽光重公の敬神愛民の精神から丹羽家の守護神である八幡宮を左に、領民の守護神である熊野宮を右に二つの神様を祀る御両社となっている。
江戸時代は御両社と呼ばれていた。なお、現在の社殿は文化2年(1805年)に築造されたものとのこと -
今から約370年前、1643年(寛永20年)に、江戸時代前期の大名である丹羽光重(にわみつしげ)公が二本松城の主として就任しました。
光重公は「良い政治を行うためには、まず神様への敬意を高めることが大切だ」と考えました。
そして、1661年(寛文元年)に、現在の栗ヶ柵(くりがさく)に「二本松神社」を創建。 -
二本松神社の名板
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山門より望む
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【二本松神社由緒】(解説板より)
当社は近衛このえ天皇の御代みよ、久安年間(1145年頃)地頭安達藤久郎盛長あだちとうくろうもりながが田地ヶ岡でんちがおかに館を築き、守護神として熊野大神を祭ったことを始まりとします。その後歴代城主の崇敬篤く、奥州探題おうしゅうたんだい畠山満泰みつやす公は、城郭を白幡ヶ峯しろはたがみねに築き、守護神を本丸ほんまるに遷座せんざし奉り、八幡大神を勧請かんじょう併せ祭り領内の総鎮守として篤く敬いました。
特に丹羽光重にわみつしげ公が二本松に移封せらるるや一層尊崇され、霊夢れいむによって現鎮座地に遷座し奉り、寛文元年(1661年)遷宮式を斎行、社領五十石を賜り、領内安達・安積・信夫(一部)十万七百石の総鎮守とされ、御両社ごりょうしゃと称され、始めて領民の参拝を許されましたので参拝者が続き、いつしか茶屋商家が立ち並び、門前町として栄えました。現在の社殿は、文化2年(1805年)丹羽長祥ながあきら公の御造営によるものです。明治5年御両社は二本松神社と改称し、大正3年には県社に列せられました。二本松市民の氏神様として又遠方の方々の参拝も多く、御神威高く仰がれ、長い歴史を秘めた優れた文化的施設として二本松市民の誇りであり、魂のよりどころでもあります。
10月第1土曜日から3日間に斎行され、7字あざの太鼓台が昼は神輿みこしの供奉ぐぶを申し上げ、夜は紅の灯をともし、優雅で華やかな、日本三大提灯祭の一つとして夙つとに有名です。 -
パンフレットフォト借用
二本松三大提灯祭りの提灯の様子。一台で300個の提灯を搭載してる。 -
【羊羹の玉嶋屋】
二本松の本町通を進むと、1845年(弘化2年)創業の「羊羹の玉嶋屋」 がある。
二本松藩御用達であった由緒あるお店で、建物は文化庁の有形文化財にもなっている。 今でも楢薪(ならまき)の炭火で煉った餡を使用していて、その餡を使用した本煉羊羹は、江戸時代の参勤交代の将軍家への献上品としても使用されたとのこと。
玉嶋屋の本練羊羹、志保閑満(しおがま)と書かれた大看板が誇らしげであった。
この羊羹は丹羽氏によって、徳川将軍家への献上品であった。また、志保閑満は、しその葉を混ぜ込んだ干菓子で、伊達藩の銘菓しおがまに勝るものを作れという丹羽氏の命で作られたものであった。出来栄えがよかったので、丹羽氏が菓子名を志保閑満とした由。
老舗が軒を並べ、往時を偲ばせてくれる一画である。 -
羊羹の玉嶋屋の店内
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羊羹の玉嶋屋の店内、皆さん購入中!
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「かげのまち 職人横丁」 の木の長い看板が架かっていた。
「奥州二本松藩御用蔵」の 「天明蔵」「天保蔵」が建っている。「天明蔵」は天明5年(1785年)、「天保蔵」は天保14年(1843年)の建立で、歴史的建造物だと。裏に流れる鯉川を利用し、 阿武隈川と結ぶ舟運のため設けられたと。 -
竹田交差点で右折するが、ここに竹田見附ポケットパーク が作られている。
説明板によると、慶安年間(1648-1651)の町割りによ り、旧奥州街道と二本松城の竹田門へ続く三叉路で城の最も外郭に当たる為、番所が設けられていたとのこと。 -
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大七酒造 の近代的なビル
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【智恵子の生家】(智恵子記念館で配布されたパンフレットより)
清酒「花霞」を醸造する長沼家の家 が残されている。
旧国道に面した一見宿場を思わせる2階建ての家。表には格子戸が巡らされ、新酒の出来上がりを伝えた大きな杉玉が下がる。 屋号は「米屋」、酒銘「花霞」。53歳という短い生涯を閉じた智恵子の生家。
明治期の洋画家・高村千恵子の生家「米屋」。
代々醸造業を営む豪商で、明治初期建築の町屋形式の建物には屋根看板「花霞 群馬縣安達郡油井村 醸造元長沼今朝吉」、飾り屋根に吊るした酒林、入口左右と二階に千本格子を用いた大商家の佇まい -
智恵子は福島高を卒業し日本女子大に進学している。明治19年生まれ。
卒業後、当時としては珍しい洋画家の道を選んで、東京に残り、太平洋画会研究所で学び、雑誌「青鞜」の表紙絵などを描いていた。その時、高村光太郎と知り合ったようだ。
智恵子の生家
明治19年に長沼智恵子はここ二本松で生まれ、日本女子大に入学後洋画に興味を持ち、卒業後も東京に残り油絵を学んだ。その一方女子思想運動にも参加する。その後高村光太郎と知り合い、大正3年に結婚する。「あどけない話・・・智恵子は東京に空は無いという、ほんとの空を見たいという。私は驚いて空を見る。桜若葉の間にあるのは、切っても切れない昔馴染みのきれいな空だ。どんよりくもる地平のぼかしは、うすもも色の朝のしめりだ。智恵子は遠くを見ながら言う。阿多多羅山の上に、毎日出ている青い空が、智恵子は本当の空だと言う。あどけない空の話だ。」 -
智恵子の生家
高村光太郎の「樹下の二人」の舞台となったところだ。
あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川
ここはあなたの生れたふるさと
あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡つた北国の木の香に満ちた空気を吸はう・・・
智恵子物産店戸田屋の大看板には、ありし日の智恵子が描かれてる。
智恵子がなかなか魅力的な女性であったことが伝わってくる。 -
【智恵子の博物館】(配布パンフレットより)
詩人・彫刻家として著名な高村光太郎との純愛に生きた妻・智恵子。女流画家として一時代を駆け抜け、晩年に熱中した 美しい紙絵の世界は、光太郎とともに追い求めた人間の真実や美、そして愛を反映して奇跡のような輝きを放つ。
智恵子は1886(明治19)、造り酒屋の長女として出生。洋画家の道を選んで、女性による最初の雑誌「青鞜」創刊号の表紙絵を描くなど才能を開花させ、 そして運命の人・光太郎と出会った。
自殺未遂と波乱が続いた知恵子の生涯。鞍石山は智惠子の杜公園として整備され、
「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。 ここはあなたの生れたふるさと、あの小さな白壁の点々があなたのうちの酒蔵。」 という 「智恵子抄」の「樹下の二人」を生んだ場所でもある。(ふくしまの風景HPより抜粋)
生家の前には「花霞」の酒樽が積まれ、杉玉が吊るされ、造り酒屋そのもの。
壁画のように 「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川 ここはあなたの生れたふるさと(智恵子抄「樹下の二人」より)ここは智恵子純愛通りです」と記されている。 この集落は「智恵子」一色なのだ。 -
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宿泊したホテルの廊下も色合いのコラボが素敵でした。
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これから二本松霞ヶ城に向かいます。
霞ヶ城公園内で菊人形展を開催中です。 -
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霞ヶ城公園の紅葉と池。大変に美しい色合い。見事。
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霞ヶ城公園。池と紅葉と菊の花のコラボが見事です
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霞ヶ城公園の紅葉と滝。
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霞ヶ城公園。紅葉を眺めながら、本丸城址まで登って行きます。
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戊辰戦争で命を落とした二本松少年隊の碑。
【二本松少年隊】
慶応四年(1868)七月戊辰戦争の最中、二本松藩大半の兵力が西軍を迎え撃つべく出陣し、城内・城下は空虚同然であった。この緊迫した状況の下、少年たちの出陣嘆願の熱意に、藩主は止むなく出陣許可を与え、十三歳から十七歳までの少年六十二名が出陣。七月二十九日、城内への要衝・大壇口では隊長木村銃太郎率いる少年二十五名が果敢に戦ったが、正午ごろ二本松城は炎上し落城した。
この二本松少年隊群像は、大儀のため戦う隊長及び少年隊士と、我が子の出陣服に藩主丹羽氏の家紋・直違紋(すじかいもん)の肩印を万感迫る思いで縫い付ける母の像を表したものである。
なお、この地は「千人溜(せんにんだめ)」といい、藩兵が集合する場所であり、少年隊士もここからそれぞれの守備地に出陣した。
二本松市 -
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霞ヶ城本丸の城壁です。ここに上がれば市内が一望できる。
二本松城(霞ヶ城)跡が見えてきた。
古名は白旗ヶ峰。
もとは安達氏の居城であったが、南北朝時代に奥州探題の畠山氏の入国に伴い
霞ヶ城と称した。天正14年(1586年)12代畠山吉継が伊達政宗に滅ばされた後は伊達の出城となった。江戸時代は、丹羽光重が二本松に?万石で入封し、幕末まで続くが戊辰戦争で落城した。 -
【丹羽和左衛門(城代 六十六歳)・阿部井又之丞(勘定奉行 六十五歳)自尽の碑】「解説板より」
当碑は、慶応四年(1868)七月二十九日、戊辰戦争による二本松城落城に際して、共に自尽(割腹)した両人の供養碑です。
丹羽の自尽の様子は、床机(腰掛け)に腰をおろし、軍扇を膝の上に広げ、割腹したのち内臓を軍扇の上につかみ出し、前屈みになって絶命した、と伝えられています。
当所この碑は天守台の中央奥に建っていましたが、平成七年本丸石垣修築復元工事完成に伴い、当所に移設しました。 -
霞ヶ城跡から安達太良山方面を望む。山の頂部は雲の中です。しかし紅葉が山の麓まで広がっている。
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霞ヶ城の本丸跡から市内を見降ろす。
【二本松城跡】 国指定史跡(平成19年7月26日指定)
二本松城跡は、15世紀前半、畠山氏の居城として築城されたといわれています。その後、伊達・蒲生・上杉・松下・加藤と城主がかわり、寛永20年(1643)に丹羽光重が二本松藩10万700石で入城し、以後、丹羽氏の居城として明治維新を迎えました。
発掘調査によって、各時代の遺構が見つかり、さらに近代城郭への大規模な改修が寛永4~20年(1627~1643)の加藤氏時代に行なわれたことも判明しました。
二本松城跡は中世城館と近世城郭が同一箇所で営まれ、かつその変貌がよくわかる、東北地方を代表する城跡です。
二本松市教育委員会 -
霞ヶ城跡から市内を見降ろす。
【二本松城の歴史】(解説パンフレットより)
二本松城は、室町時代中期に奥州探題を命じられた畠山満泰が築城し、以後畠山氏歴代の居城として、140年余り続きました。その後天正14年(1586)伊達政宗の南奥制覇のために落城しました。
豊臣時代になると二本松城は、会津領主となった蒲生氏郷の重要な支城として、中通り(仙道)警備の任を与えられました。二本松城に石垣が積まれ、近世城郭として機能し始めたのはこのころだと推定されます。
その後、徳川時代初期も会津領として上杉氏・蒲生氏・加藤氏らの支配下にありました。とくに、加藤氏支配時代には本丸を拡張したことが石垣解体調査で確認されました。
二本松藩が誕生した寛永20年(1643)、初代藩主丹羽光重が10万700石で入城し、幕末まで丹羽氏10代の居城として、220有余年続きました。戊辰戦争に際し、西軍との徹底抗戦で城内・家中屋敷のすべてを焼失し、慶応4年(1868)7月29日落城しました。 -
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桑原館山に【長谷観音】がある。鎌倉時代初期に創建。
境内の根回り3mの笠松は、市の天然記念物に指定されている。参道の大きな常夜灯が見事であった。(解説板より) -
御詠歌碑
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「双龍の松」
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境内には地を這うような見事な「笠松」 があった。
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「長谷観音堂」
宝暦2年(1752)造営、三間四面の宝形造り。日本三大観音の一つ、奈良期作の本尊「十一面観音像」(市文化財)を安置。 -
「長谷観音堂」
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水原川(かつては松川と呼ばれていた)に架かる【松川橋(めがね橋)】
空石積工法の名橋
水原川に架かる明治18年完成の長さ18mのアーチ型の橋で、後ほど向かう福島の「信夫橋」と同時期に 同じ石材使って建設されたそうだ。 -
めがね橋のたもとには、真言宗豊山派の「西光寺」 がある。
天正年間(1573ー92)の開山。阿弥陀如来坐像(鎌倉前期快慶作)、は奈良東大寺にあった阿々弥作 の像で、1760年に大円坊と通禅坊が中町の藤倉清左右衛門を施主として持ち運んで来たことが台座に銘記されている。
真言宗豊山派の西光寺(さいこうじ)。阿弥陀如来坐像は鎌倉前期快慶作とのこと。 -
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【奥州古道と相馬道の分岐点(追分)】
六地蔵が相馬道との追分の道標となっている。
6体あるのではなく、石の6角面に一体ずつ地蔵が浮き彫りにされている。 -
「奥洲八丁目天満宮」が鎮座する。
立派な拝殿には、見事な彫刻が彫られている。いよいよ「八丁目宿」 に入って行くようだ。
浅川新町宿である。慶長9年(1604)、浅川村から集落が移転して新しい町を作った時に造られた神社だという。 本殿の壁彫物が見事である。 -
本殿の壁彫物が見事である。
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八幡神社参道
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