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1939年8月12日~23日 英仏ソ協定か、独ソ不可侵条約か?(ソ連)<br /><br />(このページを訪問してくださった方へ)<br /> ご訪問有難うございます。 もし読者の方が根本的間違い、編集の際に発生したと思われる不整合、文法上の誤りなどを発見されたり、何か目新しい情報をお持ちの方、ご意見がおありの場合は、ご遠慮なく掲示板でもメールでも、ご一報くだされば幸いです。<br /><br /> 心からの感謝を込めて                          砂布巾

1939年8月12~23日 英仏ソ協定か独ソ不可侵条約か?(砂布巾のLW 第4章9)

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2016/11/06 - 2023/08/23

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砂布巾

砂布巾さん

1939年8月12日~23日 英仏ソ協定か、独ソ不可侵条約か?(ソ連)

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 ご訪問有難うございます。 もし読者の方が根本的間違い、編集の際に発生したと思われる不整合、文法上の誤りなどを発見されたり、何か目新しい情報をお持ちの方、ご意見がおありの場合は、ご遠慮なく掲示板でもメールでも、ご一報くだされば幸いです。

 心からの感謝を込めて                          砂布巾

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  • *砂布巾注 ここから7枚の写真はクレムリン内部の写真です<br /><br /> 4月15日にイギリスはソ連に対し、ポーランドとルーマニアに対して保障を与えることが可能か打診を行った。<br /><br /> 

    *砂布巾注 ここから7枚の写真はクレムリン内部の写真です

     4月15日にイギリスはソ連に対し、ポーランドとルーマニアに対して保障を与えることが可能か打診を行った。

     

    クレムリン 城・宮殿

  •  ソ連が英仏に相互援助条約の締結を目的とする逆提案を提示した4月17日、駐ベルリン、ソ連大使がドイツ外務次官と会談し、独ソ接触も始まった。大使は直後に帰国し、以後代理大使アスタコフが重要な役割を果たす。英仏とドイツとの間で綱引きが始まった。

     ソ連が英仏に相互援助条約の締結を目的とする逆提案を提示した4月17日、駐ベルリン、ソ連大使がドイツ外務次官と会談し、独ソ接触も始まった。大使は直後に帰国し、以後代理大使アスタコフが重要な役割を果たす。英仏とドイツとの間で綱引きが始まった。

  •  8月12日~23日に至る英仏vsドイツの交渉の最終局面を詳しくみてみたい。<br /><br />

     8月12日~23日に至る英仏vsドイツの交渉の最終局面を詳しくみてみたい。

  •  イギリス側にはポーランド問題への緊迫感はなく、協定締結のため派遣された団長のドレークスは退役軍人に過ぎなかった。彼は航空機も高速船も利用せず、貨物船を利用してフランス代表団とともにレニングラード経由モスクワに入った。冒頭ソ連代表ヴォロシーロフが交渉の全権を持っているか尋ねた。全権委任状を持たなかったドレークスは、「会議をロンドンに移すなら、すぐに全権がもらえる」と話にならない答えだった。これでは交渉は進展せず、ポーランドはソ連軍の領内通過を頑強に拒否(!)した。戦争になった場合、ソ連がドイツを攻撃することが困難となる。8月21日、会議は無期延期となった。

     イギリス側にはポーランド問題への緊迫感はなく、協定締結のため派遣された団長のドレークスは退役軍人に過ぎなかった。彼は航空機も高速船も利用せず、貨物船を利用してフランス代表団とともにレニングラード経由モスクワに入った。冒頭ソ連代表ヴォロシーロフが交渉の全権を持っているか尋ねた。全権委任状を持たなかったドレークスは、「会議をロンドンに移すなら、すぐに全権がもらえる」と話にならない答えだった。これでは交渉は進展せず、ポーランドはソ連軍の領内通過を頑強に拒否(!)した。戦争になった場合、ソ連がドイツを攻撃することが困難となる。8月21日、会議は無期延期となった。

  •  一方、ポーランド攻撃の期日が迫り焦るヒトラーは、巨人の歩みでスターリンに迫った。8月12日、アスタコフ代理大使はドイツ外務省通商担当官を訪れ、モスクワで独ソ間の問題を討議することを提案した。3日後にはソ連外相モロトフと駐ソ、ドイツ大使が会談を行い、リッベントロップ外相がモスクワを訪問することを伝えた。モロトフは個人的に歓迎の意を表明した。18日にはモロトフ(つまりソ連側)から特別議定書が付属する不可侵条約を申し出たが、ドイツ外相の訪ソ時期については慎重姿勢を崩さなかった。ここに至ってヒトラーは、駐ソ大使の提案を受け入れ、20日の午後になってスターリンに親書を送り22日か遅くとも23日に外相を訪ソさせたい旨伝えた。待望の承諾の返書は、21日の夕方に届いた。外相は22日夜出発し、翌日の15時半からモスクワのクレムリンで独ソ会談が始まった。<br /> 原案に修正が加えられ、不可侵条約の調印は23日深夜行われた。7つの条文からなる簡潔なものだったが、核心は東部ヨーロッパでの両国の勢力圏を定めた特別議定書だった。

     一方、ポーランド攻撃の期日が迫り焦るヒトラーは、巨人の歩みでスターリンに迫った。8月12日、アスタコフ代理大使はドイツ外務省通商担当官を訪れ、モスクワで独ソ間の問題を討議することを提案した。3日後にはソ連外相モロトフと駐ソ、ドイツ大使が会談を行い、リッベントロップ外相がモスクワを訪問することを伝えた。モロトフは個人的に歓迎の意を表明した。18日にはモロトフ(つまりソ連側)から特別議定書が付属する不可侵条約を申し出たが、ドイツ外相の訪ソ時期については慎重姿勢を崩さなかった。ここに至ってヒトラーは、駐ソ大使の提案を受け入れ、20日の午後になってスターリンに親書を送り22日か遅くとも23日に外相を訪ソさせたい旨伝えた。待望の承諾の返書は、21日の夕方に届いた。外相は22日夜出発し、翌日の15時半からモスクワのクレムリンで独ソ会談が始まった。
     原案に修正が加えられ、不可侵条約の調印は23日深夜行われた。7つの条文からなる簡潔なものだったが、核心は東部ヨーロッパでの両国の勢力圏を定めた特別議定書だった。

  •  条約によってドイツは西に英仏、東にソ連を相手とする二正面戦争が回避でき、一方ソ連も5月以後ノモンハン事件で戦闘状態にあった日本を含めた二正面戦争が回避できた。<br /> スターリンの共産主義ソ連とヒトラーのドイツが手を結んだのは世界に衝撃を与え、各国の共産主義者に混乱をもたらす。フランス共産党は党員の3分の2が離党した、一方仮想敵国ソ連に備えて1936年11月にドイツと二国間のみの防共協定を結んでいた日本では、8月28日に平沼内閣が「欧州における情勢は複雑怪奇」と総辞職した。なお日本との協定締結にあたっては、親中派とリッベントロップなど日独提携派との間で葛藤があった。

     条約によってドイツは西に英仏、東にソ連を相手とする二正面戦争が回避でき、一方ソ連も5月以後ノモンハン事件で戦闘状態にあった日本を含めた二正面戦争が回避できた。
     スターリンの共産主義ソ連とヒトラーのドイツが手を結んだのは世界に衝撃を与え、各国の共産主義者に混乱をもたらす。フランス共産党は党員の3分の2が離党した、一方仮想敵国ソ連に備えて1936年11月にドイツと二国間のみの防共協定を結んでいた日本では、8月28日に平沼内閣が「欧州における情勢は複雑怪奇」と総辞職した。なお日本との協定締結にあたっては、親中派とリッベントロップなど日独提携派との間で葛藤があった。

  •  スターリンがヒトラーと手を握った背景には、ミュンヘン会談以来英仏への不信感が募っていた、前述のようにイギリスに誠意が見られなかった、最終的にドイツとの衝突は避けられないにしても一時これを延期しその間に国力の充実を図る、ドイツと英仏を戦わせることによって双方の弱体化を図る、と言われている。<br /> 「スターリンは野獣だ。そして無限大の尊敬を要求してやまない地獄野郎だ」と語っていたヒトラーがスターリンと結んだのは、ポーランド攻撃を前に焦っていたに違いない。<br /> イギリス側の対応の例をもう1つ挙げる。4月からの3カ国の折衝の間、ソ連が英仏案に16日で回答したのに、英仏がソ連案に回答するのに59日も要した。二国間の調整が必要だったとはいえ、スターリンの不信感は増幅したことだろう。チェンバレン首相、ハリファックス外相も含むイギリス宥和派の事情としては、やはり共産主義ソ連への不信感が強く、ドイツとの妥協を諦められなかったという面もある。

     スターリンがヒトラーと手を握った背景には、ミュンヘン会談以来英仏への不信感が募っていた、前述のようにイギリスに誠意が見られなかった、最終的にドイツとの衝突は避けられないにしても一時これを延期しその間に国力の充実を図る、ドイツと英仏を戦わせることによって双方の弱体化を図る、と言われている。
     「スターリンは野獣だ。そして無限大の尊敬を要求してやまない地獄野郎だ」と語っていたヒトラーがスターリンと結んだのは、ポーランド攻撃を前に焦っていたに違いない。
     イギリス側の対応の例をもう1つ挙げる。4月からの3カ国の折衝の間、ソ連が英仏案に16日で回答したのに、英仏がソ連案に回答するのに59日も要した。二国間の調整が必要だったとはいえ、スターリンの不信感は増幅したことだろう。チェンバレン首相、ハリファックス外相も含むイギリス宥和派の事情としては、やはり共産主義ソ連への不信感が強く、ドイツとの妥協を諦められなかったという面もある。

  •  本項目の参考文献、笹本駿二著の「第二次世界大戦前夜」(岩波新書 絶版)には、ダンツィヒをめぐって独ポ間の緊張が高まっていく様子、仇敵同志だったスターリンとヒトラーが、例えばドイツがスロヴァキアを保護国とした際に、東端のルテニア地方をハンガリーに与えウクライナに攻め入る意図がないことを示唆、スターリンが5月3日に外相を親英仏論者でユダヤ人でもあるリトヴィノフからモロトフに交替などシグナルを送りあいながら、接触を深めていく様子が描かれている。斎藤治子著「独ソ不可侵条約」(新樹社)には、交渉過程が紹介されている。<br /> このように独ソ両国は、大戦開始1週間前に友好的関係になるが、それは2年と続かず、1941年6月22日には独ソ戦へ突入する。<br />なお5月22日にはムッソリーニが「鋼鉄同盟」を呼んだ軍事同盟が独伊間で結ばれた。これによって、いわゆるベルリン・ローマ枢軸(Axis)が形成された。<br /><br />関連項目 「独ソ開戦」 https://4travel.jp/travelogue/11236276

     本項目の参考文献、笹本駿二著の「第二次世界大戦前夜」(岩波新書 絶版)には、ダンツィヒをめぐって独ポ間の緊張が高まっていく様子、仇敵同志だったスターリンとヒトラーが、例えばドイツがスロヴァキアを保護国とした際に、東端のルテニア地方をハンガリーに与えウクライナに攻め入る意図がないことを示唆、スターリンが5月3日に外相を親英仏論者でユダヤ人でもあるリトヴィノフからモロトフに交替などシグナルを送りあいながら、接触を深めていく様子が描かれている。斎藤治子著「独ソ不可侵条約」(新樹社)には、交渉過程が紹介されている。
     このように独ソ両国は、大戦開始1週間前に友好的関係になるが、それは2年と続かず、1941年6月22日には独ソ戦へ突入する。
    なお5月22日にはムッソリーニが「鋼鉄同盟」を呼んだ軍事同盟が独伊間で結ばれた。これによって、いわゆるベルリン・ローマ枢軸(Axis)が形成された。

    関連項目 「独ソ開戦」 https://4travel.jp/travelogue/11236276

    レーニン廟 モニュメント・記念碑

  •  モスクワ(Москва)では、当時独ソ不可侵条約を意識してはいなかったものの、クレムリンも当然訪問した。内部も凄かったけど、廟に眠るレーニンの遺体との対面や赤の広場の端にあるタマネギ坊主の聖ワシリー寺院の何とも言えぬ美しさが印象に残った。感銘を受けたイワン雷帝(在位1533~84)は同じものが作れないよう設計者の目をくり抜いた、という言い伝えが残っている。

     モスクワ(Москва)では、当時独ソ不可侵条約を意識してはいなかったものの、クレムリンも当然訪問した。内部も凄かったけど、廟に眠るレーニンの遺体との対面や赤の広場の端にあるタマネギ坊主の聖ワシリー寺院の何とも言えぬ美しさが印象に残った。感銘を受けたイワン雷帝(在位1533~84)は同じものが作れないよう設計者の目をくり抜いた、という言い伝えが残っている。

    赤の広場 広場・公園

  • 日本人のお姉さん二人と行った巨大レストランも凄かった。値段R164はロシア人ガイドの月収とほぼ同じ。(1990年6月27日訪問)<br /><br />もくじへ http://4travel.jp/travelogue/10681693

    日本人のお姉さん二人と行った巨大レストランも凄かった。値段R164はロシア人ガイドの月収とほぼ同じ。(1990年6月27日訪問)

    もくじへ http://4travel.jp/travelogue/10681693

    聖ワシリイ大聖堂 寺院・教会

  • *夜の衛兵交代

    *夜の衛兵交代

  • *広場入口のホテル・ナツィオナール ここに泊まった<br /><br />ソ連訪問記<br />   第1部「激動のペレストロイカ」モスクワ編 http://4travel.jp/travelogue/10220213<br />   同 レニングラード編 http://4travel.jp/travelogue/10221203<br />   同 シベリア鉄道編 http://4travel.jp/travelogue/10220006

    *広場入口のホテル・ナツィオナール ここに泊まった

    ソ連訪問記
       第1部「激動のペレストロイカ」モスクワ編 http://4travel.jp/travelogue/10220213
       同 レニングラード編 http://4travel.jp/travelogue/10221203
       同 シベリア鉄道編 http://4travel.jp/travelogue/10220006

  • *モロトフ、ソ連外相がサインしている

    *モロトフ、ソ連外相がサインしている

    第二次世界大戦博物館 博物館・美術館・ギャラリー

  • *条約はポーランドにとっては正に自国への攻撃を決定づけたから、その衝撃の大きさを示しているように感じた(グダニスクの博物館)

    *条約はポーランドにとっては正に自国への攻撃を決定づけたから、その衝撃の大きさを示しているように感じた(グダニスクの博物館)

    第二次世界大戦博物館 博物館・美術館・ギャラリー

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