2017/04/22 - 2023/07/01
4位(同エリア7件中)
砂布巾さん
1941年6月22日 独ソ開戦(旧ソ連、ベラルーシ)
*独ソ開戦の象徴的場所、今回の旅のメイン、ブレストに出発です
社会主義国独特のプロパガンダ的建造物
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心からの感謝を込めて 砂布巾
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*フロントの女性は団子(川通り餅)より花(絵葉書)をとった
ユビレイナヤ ホテル ホテル
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*シャワールームとトイレ
ちょっと貧相でソビエト的 -
*廊下も何か暗い雰囲気
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*6時前に両替所が開いていた 助かった スマホついでの仕事が如何にも旧ソ連的
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*タクシーで駅まで連れて行ってもらう 値段10Rは¥600
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*6:47の列車まで時間があったので、隣のバスターミナルで確認してみたら、6:10のバスがあったので即決定(値段は13R=¥780)
バスはポーランド、ワルシャワ行きということもあってパスポートの所持を尋ねられた -
*バスの車内 指定席なのを指摘され、本来の席に移動
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*途中はこのような大雨で不安になる
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*途中休憩したターミナル トイレ(右が入口)に行ったのが結果的に良かった
小窓の中に女性が居たから、本当は金を払わないといけなかった筈
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*ブレスト中央バスターミナル到着 所要時間は5時間10分と予想外
このあと駅を探して迷うことになる -
*ターミナルのすぐ横は市場
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*隣にはロシア正教風の教会
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*本当は写真を撮ってははダメだったんだけど(英語の表示があったのが凄く新鮮)
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*撮ってしまった
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*母子が美味しそうなケーキを持って出てきたのにつられて、こちらへ
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*コロッケ風の惣菜があったので買う 中にはチーズが 怒ったように何か言うからポカンとしていたら、通訳してくれて、「温めようか?」ということを言ってくれていたようだ それはともかく、社長!やっぱり「せきや」の方が美味しいです!
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*右の女性が持っている川通り餅にご注目
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*ブレスト要塞に関する写真が展示してあった
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*広場 温度表示は確か8度だったような
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*おう、レーニン像
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*ブレスト郊外にはヨーロッパ最後の原生林世界自然遺産ベラヴェジの森がある(左がヨーロッパバイソンをかたどっている)
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*戦争の犠牲者の慰霊碑
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*やっとブレスト要塞に到着
1941年6月22日 独ソ開戦(旧ソ連、ベラルーシ)
前年11月にベルリンで開かれたソ連外相モロトフとヒトラーの会談は決裂したが、ヒトラーにとって、「対ソ攻撃を隠蔽しようとするごまかしだった」(チャーチル)のに対して、スターリンにとっては交渉のスタートに過ぎないと位置付けていた。このため会談から開戦までの7ヶ月間の独ソ関係は、両者の食い違いが支配する。ブレスト要塞博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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1941年春までの第1段階では前述のようにバルカンをめぐる独ソのせめぎ合いという形で推移し、第2段階ではスターリンのヒトラーに対する露骨な宥和ジェスチャーとしてあらわれた。後者の1つの例として、笹本駿二氏は日ソ中立条約(終戦直前にソ連が破棄)調印(4月13日)のためモスクワを訪れた日本の松岡外相をスターリンが見送りに出たことを、「大戦中のもっともグロテスクなコメディのひとつ」として挙げている。開戦直前には、シューレーンブルク駐ソ大使のイニシアティブにより、両首脳間で書簡を交換した。スターリンを眠らせておくヒトラーの謀略の甘いエサだった。
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*博物館の中へ
この日、ドイツ軍を中心とする枢軸国軍550万人が、前触れもなくソ連領内に侵攻。ここに第二次大戦最大の激戦となる独ソ戦(バルバロッサ作戦 第四段階)が始まった。これから1944年6月6日にノルマンディー上陸作戦が敢行され、本格的な西部戦線が形成されるまでの約3年間は、ソ連がほぼ単独で枢軸国軍と戦うことになる。連合国側勝利の最大の要因は、ソ連側の呼ぶ「大祖国戦争」における健闘と言える。別荘に相談に訪れた幹部を見て、逮捕に来たのかと勘違いするなど、開戦直後のスターリンは動揺していた。 -
スターリンは、チャーチルが独ソを戦わせ双方の弱体化をもくろんでいると考えていたので、ドイツとともにイギリスがソ連攻撃に加わらなかったか不思議だった。疑念は、5月10日に英独提携論者の副総統ヘスが密かにドイツを旅立ち、イギリス上空で撃墜、脱出する事件が起こっていたので、一層募っていた。
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開戦した日の夜、チャーチルは次のような声明を発表し、ソ連支援の姿勢を明確にする。「私以上に一貫した反共主義者はいないが、われわれには、ヒトラーとナチズム体制を徹底的に破滅させるというただ1つの不変の目的しかない。われわれはできうる限りの援助をロシアとロシアの民に与えたい。ロシアの危機は英国の危機であり、米国の危機でもある…」。最初イギリスの対ソ援助は十分ではなく、ソ連の対英不信を生むことになった。
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イギリスの意図に関して、1998年にタジキスタンで殉職した秋野豊氏は著書「偽りの同盟」(勁草書房)で、数週間でソ連が敗北すると考えており、にもかかわらず援助を声明したのは、ドイツへの抗戦能力を高め、軍事力に打撃を与えるのを目的としたことを書いている。この時のソ連の対英不信が冷戦の1つのきっかけという見方もしている。
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イチオシ
*「学習」のため来ている人も大勢
開戦時の前線の様子を、早乙女勝元編「母と子でみる ターニャの詩」(草の根出版会絶版)から一部引用して紹介する。 -
6月22日、ブレストの町(注:独ソによる分割占領で境界線の町になった)はたちまちにして炎上、正午頃には圧倒的なドイツ軍勢が、最後に残った砦ともいうべき要塞を二重三重に包囲した。しかし、要塞を守備するソ連軍は、問題にならぬ兵力にもかかわらず、必死の抵抗を試み、それから約1ヶ月にもわたる激烈な戦闘を続けたのである。
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守備隊は、ブーグ川から1杯の水を運ぶにも、降りしきる弾丸の下をくぐらねばならず、水も食糧も薬品も途絶し、しかも本隊との連絡もとだえたが、決して白旗を上げるのをいさぎよしとしなかった。ここで自分たちが身を引けば、ふるさとに残してきた多くの生命が危機にさらされる、と兵士たちは信じ、信じればこそ、思ってもみなかった勇気をたがいに確認しあったのではないか。
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ドイツ軍はさらに援軍まで加えて、要塞に向けて手榴弾、小銃、機銃、機関砲の集中砲火をあびせ、爆撃機による空爆まで行ったが、守備隊はものともせず、侵略軍の侵攻を釘付けにした。
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この執拗な忍耐力とど根性こそ、後に戦争の局面を逆転させたソビエトの底力といったものだったが、ブレスト要塞奪取の戦闘に加わったドイツ兵のみが、その不気味な予感に戦慄したかもしれない。
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*Tripadvisorのステッカーがあった こちら側の博物館のテーマはDefense
Tripadvisorの口コミ https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g297308-d2239532-Reviews-Memorial_Complex_Brest_Hero_Fortress-Brest_Brest_Region.html -
守備隊の敢闘精神には、ドイツ軍もまた驚いたらしく、この戦闘を指揮したドイツ軍の元参謀長は、回想録の一隅にこうしるしたという。「度重なる爆撃や大口径砲の砲撃にもかかわらず、かれらは極めて勇敢にたたかいぬいた。こうしてわれわれは、ロシア式の抵抗がどのようなものであるかを知った…」。
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*刻まれているのは犠牲者の名か?
守備隊がほとんど全員死にたえて、ブレスト要塞は落ちた。1日26キロのスピードで進軍したドイツ軍(ミンスク陥落は5日後の6月27日)が、この要塞1つを占領するのに実に28日間を要したのである。弾痕だらけの壁に、銃剣の先で引っかいたような文字は、守備隊の強固な決意を示す遺書とも受けとれよう。 -
味方は5名。セドフ、グルトフ・I、ボゴリュブ、ミハイロフ、セリワノフ・V、
最初の戦闘開始。
22.Ⅵ.1941-3時15分.死すとも退かじ!
死すとも、要塞は退かじ! われ、死すとも降参せず! -
*後ろ側から
ソ連はナチスの電撃戦に圧倒され、緒戦は大敗北を喫す。この背景としては、「『地上の神』となった絶対的独裁者に対し、徹底抗弁できる側近がいない全体主義国家ゆえの弱さが露呈した」。アメリカの歴史学者マーティン・メイリア氏は、敗北の戦略的原因を独ソ不可侵条約に求め、そこに潜む落とし穴を書いている。条約の結果ポーランドという両国の緩衝地帯が消滅したこと、西欧を征服したナチスは一層強大な国になっていたこと、皮肉なことに西欧征服に貢献したのはソ連の対独物資供給だった。 -
対ソ戦はイデオロギーを前面に出した殲滅・絶滅戦だった。その意味で西部戦線とは様相が異なる。またソ連は撤退の際、焦土作戦を採用した。従って物的損害も大きかった。
*左側の博物館(Territory of peace)にしかトイレはなし
急いで入ったけどトイレは和式 しかも〇〇隠しがない!
行きたいときに行けない辛さ 親方の気持ちがよく分かる -
*各国語で「ブレスト要塞」
初めてモスクワにドイツ軍機が飛来した翌日の7月3日には、レーニンの遺体を積んだ6両編成の特別列車が密かにチュメニへ向かった。遺体がモスクワに帰還したのは、ドイツ降伏直前の1945年3月28日だった。 -
7月20日、スターリンの手元にドイツの新聞の翻訳が届けられた。長男ヤコフ・ジュガシビリが捕虜にされた、という記事が載っていた。1ヶ月後、スターリンは「捕虜となった将兵は祖国の裏切り者とみなし、その家族は逮捕し、国家の保護と援助を停止する」とする最高総司令部指令第270号を出した。それに従ってヤコフの妻を逮捕し、孫娘はスターリンが引き取った。後にヤコフは「捕虜となった赤軍兵士には裏切り者しかいない。私にはヤコフなどという息子はいない」という放送にショックを受け、収容所の鉄条網に向かって歩き出し、銃殺された。
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8月28日には「全ドイツ(系ロシア)人を他の地域へ移住させなければならない」とする決議が発布された。2週間で38万人ものドイツ系ロシア人が家畜輸送用の貨車でシベリアやカザフに運ばれ、終戦までに121万人がヴォルガ川流域から消え失せた。彼らの名誉が回復されたのは、スターリンの死の2年後、1955年だった。
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ここまでは笹本駿二著の「第二次世界大戦下のヨーロッパ」(岩波新書 絶版)のほか、2000年10月11日から連載が始まった産経新聞「スターリン秘録」を参考とした。
*こちらで第一次大戦時の独露単独講和条約であるブレスト・リトフスク条約(1918年)が結ばれた -
1941年は例年より早く寒波がやって来た。ヒトラーは「ソ連は腐った建物のようなものだ。扉をひと蹴りしたら倒れる」と早期に対ソ戦は終了すると踏んでいたので、冬の準備をせず攻め込んでいた。ナポレオン同様、寒さにつまずく。対ソ攻撃の一時中止を命じた(ヒトラーにとってはイギリス上陸失敗に続く2度目の躓き)12月8日は、奇しくも日本の真珠湾攻撃の日でもあった。3日後、ヒトラーが対米開戦した。
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*子どもたちが無邪気に遊んでいた
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*外に出て暫く歩いたところにも碑があった
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*レーニン通り
開戦3周年にあたる1944年6月22日。バグラチオン作戦が始まった。ソ連軍のドイツ軍に対する最大の反撃作戦である。作戦は短期間で空前の規模の戦死者を出したとしてギネスブックにも記載される苛烈な戦いだった。7月4日には首都ミンスクが解放され、月末には開戦時の国境まで押し戻した。ソ連軍は5週間で700キロ近く前進し、独ソ戦の決着をつける戦いとなった。同じ6月にノルマンディー上陸してからパリ解放まで2カ月以上を要した西部戦線と比べ、その進撃の早さは驚異的。参考Wikipedia。 -
*プレートを眺めていたら、地元の学校の英語の先生が声を掛けてくれた
駅までの道なりを教えてもらい、まだ列車まで1時間あったので、すぐ近くのブレスト市の歴史博物館、レストランを教えてもらう
正に今日がレーニンの誕生日であることも
ベラルーシの言語に関してはミンスク周辺ではベラルーシ語、ブレスト周辺はロシア語とか(う~ん、今一よくわからない)
彼女は葉書より即座にスイーツを選択 -
*ブレスト市の歴史博物館を見学
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*昔の要塞?!
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*こちらの建物
ブレスト市の歴史博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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*再び広場の横を通って
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*壮大なブレスト駅 酔っ払い風のおっちゃんが切符を手に取り案内してくれる 嫌な予感がしたので、取り返そうとしたけど、手を離さない 結局車両に案内した後、金をせびられたので、仕方なくポケットの小銭を
ここから西のポーランド領内は軌道幅が異なるため、交換作業を行う 列車内からこの様子がうかがえるという このためブレストとポーランドを結ぶ列車は少ないブレスト駅 駅
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*駅にもレーニン
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*車内の様子 同じくミンスクまで行ったお兄さんとは、ベラルーシ美人の話や日本とベラルーシの話などを 川通り餅には興味を示さず、葉書を見せてあげたら、喜んで3枚持って行った これで1等 値段は19.99Rでバスより5割高 時間が早い分と思えば…
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*シベリア鉄道でも見た湯沸かし器?があったので、パチり
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*到着は午後9時25分でした(所要3時間45分 往路の5時間10分に比べれば楽
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*いきなり威厳のあるソビエチックな建物でミンスク駅から出てパチリ
ミンスク駅 駅
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*夜のネザーレジナスツィー広場(昼は行かなかった)
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*ここにもレーニン像 ソビエチック~
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*聖シモン・聖エレーヌ教会前の浦上天主堂から贈られた鐘
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*夕食は聖霊大聖堂前のレストラン ガンブリヌス
ヒットのドラーニキ
口コミ
https://www.tripadvisor.jp/Restaurant_Review-g294448-d4028465-Reviews-Gastro_Pub_Gambrinus-Minsk.html -
*一品だけだとやや量が少ないと思ったら、誘われたので、同じくベラルーシ料理を ジャガイモとマッシュルームの酢漬け風
ここにもTripadvisorのステッカー -
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×が〇になる瞬間が快感
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旅行記グループ 砂布巾のLW「進化し続ける自叙伝的旅行記…」 第6章 独ソ・日米開戦(戦局の転期)
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