2016/10/13 - 2023/12/13
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砂布巾さん
1937年7月7日 盧溝橋事件、日中戦争開始(中国)
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心からの感謝を込めて 砂布巾
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*盧溝橋に行くまでです
朝は近くを散歩してみる
子どもたちが登校中
日本で子どもたちだけで登校している様子を中国人は驚くという
中国が特別治安が悪いわけでもないのだが
http://www.recordchina.co.jp/a89287.html -
*臭って来たなと思ったら案の定公衆厠所
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*扉のないトイレ
食事中の方、ごめんなさい(居ないか~) -
*再開発されていない昔ながらの街並み
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*失礼して手前側の扉から
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*中学生くらいの生徒たちがやって来た 2百メートルくらい列が続いた
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*道路で一枚 トロリーバスが走ってる
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*ビデオが作動中 ほかにはあまり見かけなかった気が…
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*昔ならこういった横断幕に共産党のスローガンがいっぱい貼ってあったのだろう
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*昨日間違えて行ってしまったHappyDragonHostel
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*まるで下宿のように使っている人も
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*朝食 アメリカンスタイルやスイススタイルなどが 料金に含まれていると思ったが、これが28元と割高 しかも飲み物が付いていない 注文時も時間が経ってやっとメニューを持ってきてくれた
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*小学校
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*東四九条通りと大通りの交差点
緑色のテントに居る男性にご注目 ガードマン? すくなくともこの界隈の小さい通りの入り口に必ず居た -
*セブンイレブン
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*おにぎりには「日式」の文字
印象としては食べ物は少し、交通費は日本よりかなり安い -
*ご存知マクドナルド 漢字にもご注目
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*4千円分両替 あまり記憶にないバスポートのコピーを2回も取られた
両替しすぎたな~と思ったけど、北京空港での怒涛のお土産購入で合計1万1千円を使い切ることになる -
*乗車する人は降車中だろうが構わず乗る 多くの訪日中国人が日本方式に驚く
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*く、くまもん?
下車した地下鉄駅からは歩いても行ける距離ではあったが、ロータリーがあるなど道が複雑だったので339番のバスで行く -
*「愛国主義教育基地」
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*ぺ、北京原人?
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*見えてきた
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(ここから本文)
盧溝橋は北京の西南に位置し。金の大定29年(1189)年に建設し始め、金の明昌3年(1192)年にできあがりました。橋の全長が266.5メートル、幅が9.3メートルです。橋上には石の獅子は彫刻が美しく、実物にそっくり、様態が様々で、数が合わせて501匹があります。ヨーロッパの人たちは盧溝橋を「マルコポーロ橋」とも呼ばれます。「盧溝暁月」はかなり有名で、昔の有名な「北京八景」の一つです。 -
1937年7月7日、ここには国内を驚かした「七七事変」が勃発し、中国人民抗日戦争が始めました。(以上 入場券裏の説明書きをそのまま引用)
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盧溝橋 建造物
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*ここだけ以前の様子が再現されているようだ
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*橋を造る様子を描いている
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*大砲があったので、日中戦争絡みかと思った
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*博物館
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*展示はショボい
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*子どもたち
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2発の銃弾が撃ち込まれたこの事件だが、日中双方とも事態の拡大を望まず、本格的な戦闘開始は8月以後になる。当初宣戦布告もされず、「日華事変」などとも呼ばれた。
日中戦争は太平洋戦争ほど身近ではない。後者が空襲や沖縄での地上戦、原爆など一般国民も実体験したのに比べ、前者は点と線を支配する日本軍へのゲリラ戦が中心で、太平洋でのミッドウェー、ガダルカナルなど戦局を左右する戦いが無かったことも挙げられる。中国人民抗日戦争記念館 博物館・美術館・ギャラリー
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*子どもたち
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国民党の蒋介石は首都を占領された南京から最終的に重慶(広島市の姉妹都市)へ移す。その後、日本の手引きで汪兆銘が重慶を脱出し、1940年3月に南京政府を樹立(11月に承認)するなど党も一枚岩ではなかった。日本は陸上からの攻撃が困難な重慶を爆撃した。ゲルニカに続く組織的な戦略爆撃とされる。
*入ってすぐのホール -
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なお上海戦線では71名のドイツ人軍事顧問団が中国人を指導していたという。また当初駐華ドイツ大使トラウトマンによる和平工作の動きもあった。
さて日本軍が南京を占領した12月13日を中心に起こったとされる事件は未だに論争の的になっている。中国政府は、戦後40年の1985年になって南京大虐殺紀念館を開館させ、犠牲者の数を30万人(中国では3は「たくさん」の意味もあるという)とした。中国政府が国内に燻る不満や民族問題から国民の目をそらすため必要とした反日愛国運動の一環とも言える。
日本国内には虐殺そのものを否定する意見もあり、また肯定派でも中国政府の主張を受け入れている専門家は居ない。 -
*1931年9月18日に起こった柳条湖事件をきっかけとする満州事変に関する展示
虐殺否定派に1つのきっかけを与えたのが、後述する「リリー・マルレーンを聴いたことがありますか」で大きな感動を与えてくれる鈴木明氏が、1973年に書いた「『南京大虐殺』のまぼろし」(文藝春秋)と言えるかも知れない。本を書くきっかけは、1937年11月10日の東京日日新聞に掲載された、2人の少尉によるいわゆる百人斬り競争の逸話に疑問を持ったことだ。
*前の写真左下に記事が見える
1999年には中国側資料のみを使って「新『南京大虐殺』のまぼろし」(飛鳥新社)を書いている。 -
彼は南京大虐殺が「嘘」と言っているわけではなく、それの持つ謎の部分、あいまいさに迫ろうとしている。
交戦中である以上、兵士や民間人の犠牲が出たのはいわば当然であり、もし南京での組織的、計画的な「虐殺」が無かったとしても、日中戦争全体で780万人の犠牲者(ギネスブック記載の数字 国共内戦の犠牲者は多分含まれていない)が出ていることを考えると、それで良いということにはならない。軍事的な観点に立って言えば、次の戦地に向かうべく局面で立ち止まって自分達より多いであろう人々を殺害する合理性があるとも思えない。
犠牲者数を含めた真相の解明が理想だが、中国共産党の「決定」が30万であり、事件から80年以上経過していることを考えると絶望的だ。 -
1920年前後に結党された国民、共産両党の対立も深刻だった。1936年12月12日に張学良が西安で蒋介石を監禁し、共産党が内戦中止、抗日を訴えた前年の八・一宣言(モスクワで起草され、スターリンの同意で発表)を国民党が受け入れ、開戦後になって第二次国共合作が正式に成立する。しかし実際には両党は内戦を続けつつ、対日戦を戦っていた。
蒋介石の戦略は米英を利用して日本を打倒すると言えるもので、国民党の勢力を温存し、来たるべき共産党との内戦に備えるのが目的だった。皮肉なことに戦後内戦に敗れ、日本の支配から脱した台湾に逃れる。 -
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*台湾は中華人民共和国の不可分な領土の一部である これが中国政府の立場
言うまでもなく、実際には台湾には現在の北京政府の支配は及んでいない -
大戦中の首脳会談で唯一蒋介石が招待されたカイロ会談(1943年11月)は、米英が中国と日本が何らかの和解をすることを恐れたからであり、チャーチルは「ピラミッド見物でもさせておけばいい」と言っていたという。なお会談終結2日後からスターリン(カイロ会談には対日関係を配慮して参加せず)も含めた最初の三巨頭会談がテヘランで開催された。(参考「第二次大戦とは何だったのか?」福田和也著 筑摩書房) *カイロ会談の模様、右はテヘラン会談
蒋介石とローズヴェルトが話し、チャーチルが知らん顔している象徴的写真 -
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*この写真を掲載するのは非常に躊躇した
A級戦犯の写真は撮らなかった -
*日本投降
Recordchinaというサイトを好んで読んでいる。2017年に735万人を数えた(前年比15.4%増)訪日中国人が外国人としての観点から日本について書いている投稿が興味深い。
中国で日本に良い印象を持っている人が昨年から11ポイント増加して初めて4割を越えたものの、逆は僅か13.1%という報道がなされた。(2018年12月)
*2位の韓国は40%増の714万人 来年は逆転するかも… -
*恐らく降伏文書を調印した場所の再現
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両政府間には様々な問題があり、関係は良好とは言えない。また中国政府の政策には個人的に支持できないものも多い。しかし中国を戦場に日本と中国が戦い、とりわけ中国側に多くの民間人を含む犠牲者が出たことは紛れもない事実であり、国民感情のレベルで特に日本が過去を直視しつつ、尊重しあい、真に友好的関係が構築できることを心から願う。
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*東京裁判 これもちょっと躊躇した
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*日中関係の展示 田中角栄が懐かしい
1972年に日中は国交を回復した(それまでは台湾と国交を結んでいた 冷戦の影響) -
*日本のいわゆる右翼を警戒する展示も
*こちらはいつ読んでも涙腺崩壊の投稿
http://www.recordchina.co.jp/a105975.htm
*「日本を恨んでなんかいないよ」http://www.recordchina.co.jp/a151815.html -
*中国共産党歴代指導者
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*北京西駅行きに乗ったつもりが、西駅発のバスに乗ってしまった 動物たちはきっと食卓にのるのだろう
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*盧溝新橋から盧溝橋を眺める
さて2015年末に浮上してすぐボツになった1990年以来となる北京訪問がややモチベーションが下がりながらも中国東方航空を利用して広島発上海経由で2泊ながら実現した。 -
橋の前には日本軍が最初に占領したとされる宛平城があり、敷地内に紀念館がある。開館は意外に最近の1987年。外国人はパスポートを見せる必要があるとされるが、さり気なく通り過ぎたら何も言われなかった。館内の多くの職員もスマホをやっている。
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*宛平城へ入る
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*焼き芋を売っていた
館内は第1部分第6単元といった展示がされており、来訪者は幼稚園児から高校生までが大部分。歴史教育は大切だが、年少の子どもに残虐な写真を見せる違和感を持った。 -
イチオシ
*紀念館から盧溝橋に向かう子どもたち こんな頃から擦り込まれたら、必然的に反日になる 抗日映画もしばしば放映されているという
中国側の犠牲者が3千5百万人(やはり「3」が入っている 但し1931年以後)とギネスブックの数字とあまりにかけ離れているのにも驚いた。 -
コロナ禍で東京オリンピックが延期された2020年度前期の朝ドラ「エール」。モデルの作曲家古関裕而は、戦争開始直後に旅順など旧満州を訪れており、有名な軍歌「露営の歌」は帰りに列車で見つけた新聞記事の歌詞に作曲した。偶然コロムビアは正にあの詩に作曲させようとしていたという。(2016年10月14日訪問)
*日独伊が日「徳」「意」になるんだ
もくじ http://4travel.jp/travelogue/10681693
Recordchina 「われわれの愛国教育は間違っていた」
http://www.recordchina.co.jp/a81672.html
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