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天正18年(1590)、徳川譜代家臣である安部信勝(あんべ・のぶかつ、1552~1600)が家康から5千石を与えられ、旗本として当時の榛沢郡岡部村に岡部陣屋(おかべじんや、埼玉県深谷市岡部)を構えます。<br /><br />慶長5年(1600)信勝が大坂にて死去したため嫡男信盛(のぶもり、1584~1673)が家督を継ぎ、同年の関ヶ原合戦、大坂の陣などに軍功をあげ、大番頭・大坂定番(じょうばん)などを勤め、慶安2年(1649)1万9千石に達して大名に列せられます。<br /><br />四代信之の時に弟二人に千石ずつ知行を分けた為、1万7千石になりますが後に三河に3千石を加増され2万石余となります。<br /><br />岡部は旗本の頃から行政の地であり加増後も4千3百石の藩庁として変わらないものの、飛地として摂津に8千石、三河に7千石、上野に9百石といびつな知行配置でありました。<br /><br />維新の時藩領内に混乱が起る状況に在って、江戸城明け渡しの前に当主信発(のぶおき、1845~1895)は藩庁を飛地の三河・半原に移したため岡部陣屋は廃止されます。<br /><br /><br /><br />2023年9月13日追記<br /><br /><br />現地に建てられた岡部藩に関する案内板には下記の記載がありました。<br /><br />『 岡 部 藩 に つ い て<br /><br />岡部藩は、天正18年(1590)徳川家康の関東入国に際して、家臣の安部信勝武蔵国X沢郡岡部などを拝領した計5250石を基に発展しました。<br /><br />信勝の遺領を受け継いだ嫡男・信盛は、上杉景勝討伐や大坂の役で功を挙げ、大番役などの役職を勤めました。江戸幕府初期のこの間、寛永13年(1636)に三河国内4000石加増、次いで慶安2年(1649)摂津国内に10,000石を加増されて信盛は大名となりました。<br /><br />その後、所領高20250石となった信盛は、源内の深谷市岡部を本拠地にしながら、摂津国桜井谷(現在の大阪府豊中市)や三河国半原(現在の愛知県新城市)に当地よりも大きな所領を有し、これを分割統治して幕末まで続きました。安部家は、江戸時代の全時代を通じて、移封・転封なく、岡部藩を続けたのです。<br /><br />慶応4年(1868)に最後の藩主となった信発は半原へ本拠移転を願い出て半原藩となり、岡部藩の歴史は幕を降ろすことになったのです。 』<br /><br /><br />また、現地案内板に下記の通り説明が記載されています。<br /><br />『 高 島 秋 帆 幽 囚 の 地<br /><br />高島秋帆は、寛政10(1798)年、長崎の町年寄の家に生まれる。名は茂敦といい、通称は四郎太夫、秋帆は号である。父の跡を継ぎ、町年寄をつとめたが、傍らに広く蘭学を収め、特にオランダ人を通じ、砲術を研究し、西洋式の高島流砲術を創始した。天保年間、欧米のアジア進出の危機に備えて、砲術の改革を幕府に進言した。<br /><br />天保12(1841)年、秋帆44歳のとき、幕府の命により、江戸近郊の徳丸ケ原で西洋式の調練を実施し、西洋式の兵術、砲術を紹介した。<br /><br />その結果、幕府は幕臣にも西洋式の兵術、砲術を学ばせることとなり、伊豆韮山の代官、江川太郎左衛門をはじめ、多くの幕臣が彼のもとに入門した。しかし翌13(1843)年、秋帆は中傷により獄に投ぜられ、弘化3(1846)年より許される嘉永6(1853)年まで岡部藩預かりの身となった。<br /><br />現地は、当時の岡部藩陣屋の一角であり、この石碑のたつ場所に幽囚されていた。岡部藩では客分扱いとし、藩士に兵学を指導したと伝えられている。その後、江川太郎左衛門ら、秋帆の門人たちは幕府に願い赦免に尽力、ついに嘉永6(1853)年、ペリー来航と共に幕府は近代兵学の必要性から急きょ秋帆を赦免した。<br /><br />この後、秋帆は幕府に仕え砲術教授となり、慶応2(1866)年、69歳で没した。日本の西洋式兵学の先駆者である。<br /><br /> 平成3年3月<br />              埼 玉 県 岡 部 町 <br />

武蔵深谷 関ヶ原・大坂陣で軍功挙げ旗本から大名に列せられた徳川譜代の安部氏の『岡部藩藩庁陣屋』跡訪問

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2014/08/13 - 2014/08/13

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滝山氏照

滝山氏照さん

天正18年(1590)、徳川譜代家臣である安部信勝(あんべ・のぶかつ、1552~1600)が家康から5千石を与えられ、旗本として当時の榛沢郡岡部村に岡部陣屋(おかべじんや、埼玉県深谷市岡部)を構えます。

慶長5年(1600)信勝が大坂にて死去したため嫡男信盛(のぶもり、1584~1673)が家督を継ぎ、同年の関ヶ原合戦、大坂の陣などに軍功をあげ、大番頭・大坂定番(じょうばん)などを勤め、慶安2年(1649)1万9千石に達して大名に列せられます。

四代信之の時に弟二人に千石ずつ知行を分けた為、1万7千石になりますが後に三河に3千石を加増され2万石余となります。

岡部は旗本の頃から行政の地であり加増後も4千3百石の藩庁として変わらないものの、飛地として摂津に8千石、三河に7千石、上野に9百石といびつな知行配置でありました。

維新の時藩領内に混乱が起る状況に在って、江戸城明け渡しの前に当主信発(のぶおき、1845~1895)は藩庁を飛地の三河・半原に移したため岡部陣屋は廃止されます。



2023年9月13日追記


現地に建てられた岡部藩に関する案内板には下記の記載がありました。

『 岡 部 藩 に つ い て

岡部藩は、天正18年(1590)徳川家康の関東入国に際して、家臣の安部信勝武蔵国X沢郡岡部などを拝領した計5250石を基に発展しました。

信勝の遺領を受け継いだ嫡男・信盛は、上杉景勝討伐や大坂の役で功を挙げ、大番役などの役職を勤めました。江戸幕府初期のこの間、寛永13年(1636)に三河国内4000石加増、次いで慶安2年(1649)摂津国内に10,000石を加増されて信盛は大名となりました。

その後、所領高20250石となった信盛は、源内の深谷市岡部を本拠地にしながら、摂津国桜井谷(現在の大阪府豊中市)や三河国半原(現在の愛知県新城市)に当地よりも大きな所領を有し、これを分割統治して幕末まで続きました。安部家は、江戸時代の全時代を通じて、移封・転封なく、岡部藩を続けたのです。

慶応4年(1868)に最後の藩主となった信発は半原へ本拠移転を願い出て半原藩となり、岡部藩の歴史は幕を降ろすことになったのです。 』


また、現地案内板に下記の通り説明が記載されています。

『 高 島 秋 帆 幽 囚 の 地

高島秋帆は、寛政10(1798)年、長崎の町年寄の家に生まれる。名は茂敦といい、通称は四郎太夫、秋帆は号である。父の跡を継ぎ、町年寄をつとめたが、傍らに広く蘭学を収め、特にオランダ人を通じ、砲術を研究し、西洋式の高島流砲術を創始した。天保年間、欧米のアジア進出の危機に備えて、砲術の改革を幕府に進言した。

天保12(1841)年、秋帆44歳のとき、幕府の命により、江戸近郊の徳丸ケ原で西洋式の調練を実施し、西洋式の兵術、砲術を紹介した。

その結果、幕府は幕臣にも西洋式の兵術、砲術を学ばせることとなり、伊豆韮山の代官、江川太郎左衛門をはじめ、多くの幕臣が彼のもとに入門した。しかし翌13(1843)年、秋帆は中傷により獄に投ぜられ、弘化3(1846)年より許される嘉永6(1853)年まで岡部藩預かりの身となった。

現地は、当時の岡部藩陣屋の一角であり、この石碑のたつ場所に幽囚されていた。岡部藩では客分扱いとし、藩士に兵学を指導したと伝えられている。その後、江川太郎左衛門ら、秋帆の門人たちは幕府に願い赦免に尽力、ついに嘉永6(1853)年、ペリー来航と共に幕府は近代兵学の必要性から急きょ秋帆を赦免した。

この後、秋帆は幕府に仕え砲術教授となり、慶応2(1866)年、69歳で没した。日本の西洋式兵学の先駆者である。

 平成3年3月
              埼 玉 県 岡 部 町 

旅行の満足度
3.0
交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 「高島秋帆幽囚地」入口石標<br /><br />国道17号線に臨む一角に高島秋帆(たかしま・しゅうはん、1798~1866)幽囚の石標があります。長崎出身の秋帆は幕末の砲術化・洋式兵学者として著名、幕府奉行から謀反の罪を着せられ弘化3年(1846)岡部藩預かりとなり許される嘉永6年(1853)まで当地で幽囚の身となっていました。

    「高島秋帆幽囚地」入口石標

    国道17号線に臨む一角に高島秋帆(たかしま・しゅうはん、1798~1866)幽囚の石標があります。長崎出身の秋帆は幕末の砲術化・洋式兵学者として著名、幕府奉行から謀反の罪を着せられ弘化3年(1846)岡部藩預かりとなり許される嘉永6年(1853)まで当地で幽囚の身となっていました。

  • 高島秋帆幽囚地石標<br /><br />5分程直進しますと右折を示す石標が見えます。

    高島秋帆幽囚地石標

    5分程直進しますと右折を示す石標が見えます。

  • 高島秋帆幽囚石碑<br /><br />石碑が設置されている敷地は岡部藩陣屋跡と伝えられ、岡部藩の藩庁が置かれていました。

    高島秋帆幽囚石碑

    石碑が設置されている敷地は岡部藩陣屋跡と伝えられ、岡部藩の藩庁が置かれていました。

  • 高島秋帆幽囚石碑

    高島秋帆幽囚石碑

  • 高島秋帆説明

    高島秋帆説明

  • 陣屋跡周辺<br /><br />現在陣屋跡遺跡は見当たらりませんが、高島秋帆が預けられていたのは陣屋の一角であったことから周辺は岡部藩陣屋であったと思われます。

    陣屋跡周辺

    現在陣屋跡遺跡は見当たらりませんが、高島秋帆が預けられていたのは陣屋の一角であったことから周辺は岡部藩陣屋であったと思われます。

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