2014/08/13 - 2014/08/13
214位(同エリア516件中)
滝山氏照さん
西武新宿線狭山市駅西口から徒歩約5分の地にある福聚山・徳林寺(とくりんじ、埼玉県狭山市入間川)とその周辺は南北朝時代初期に関東を統治する鎌倉公方足利基氏(あしかが・もとうじ、1340~1367)が鎌倉を拠点と定める前に一時的に滞陣したと伝えられその場所を入間川公方御所と呼ばれています。
それまでの経緯としては次の通りです。すなわち観応2年(1351)の薩た山(さったやま)合戦及び翌年武蔵野合戦により足利尊氏(あしかが・たかうじ、1305~1358)は実弟直義(ただよし、1306~1352)勢力を駆逐し、一連の戦いで勝利に貢献した宇都宮氏、千葉氏、結城氏並びに武蔵平一揆(平安時代後期発生した小規模武士団が血縁を軸に集結した集団)は敗走の上杉氏に代わって関東各地の守護職を勝ち取ります。
文和2年(1353)、京都が直義残党含めた南朝勢力に占拠されたため、鎌倉在住の尊氏は東国武士軍を率いて京都に向かい、鎌倉には二男の基氏とその執事として畠山国清(はたけやま・くにきよ、生誕不詳~1362)を留守役とします。
当時の基氏は僅か14歳であったので実際の政務は伊豆・武蔵両守護も兼務のこの国清が掌握することになります。
国清は足利一族ながら鎌倉時代に反乱の嫌疑をかけられ滅亡した秩父平氏嫡流の畠山重忠の未亡人が足利義純(あしかが・よしずみ、1175~1210)に嫁いだためその遺領と名跡は足利氏に継承され南北朝になっても遺領の男衾(おぶすま)郡一帯は国清の所領とされていました。
また尊氏は上洛に先立ち基氏・国清らの政務の本拠地をあえて鎌倉と考えておらず武藏国中央に当たる入間川に定め、同年7月に基氏と国清を下向させこれにより入間川御所府が始まります。
なぜ尊氏が入間川を新政府の拠点にしたかについては上野・越後の新田・直義残党への警戒の為と言われますが、隣接する男衾郡を本拠として武蔵守護を兼任する国清の意向や入間川から江戸川に至る流域を支配基盤とする河越・高坂・豊島・江戸等の武蔵平一揆の発言力によるものもあったと思われます。
ところで当該御所の地勢を見ると入間川を目前に控える南の高台に在って、信濃・越後と鎌倉を結ぶ鎌倉街道上道が南北に走り、加えて鎌倉街道と武蔵国の東西交通路が交差する宿場として繁栄の地でもあります。
以降基氏は関東公方として貞治元年(1362)までの9年に亘って当地を拠点としたため入間川御所と呼ばれました。
延文4年(1361)国清は南朝方との戦いの為支持組織の武藏平一揆の武士や千葉・小山などの守護を引き連れ畿内をめざし、1年近くも河内・紀伊を転戦しますが途中で内紛を起こし収拾しきれず関東に遁走することになります。
そのうえ帰国した国清は長期戦争による負担で戦線離脱を余儀なくされた武将の領地没収をしたため東国武士との対立を深め、ついに関東の国人衆が基氏に対し国清罷免の強訴を行い国清は基氏より執事を罷免されます。
これに対し国清は所領の伊豆にて反乱を起すも支持勢力を結集できず凋落の一途をたどり武藏名門の秩父平氏主流の畠山氏は滅亡します。
一方基氏は反乱鎮定のため国清所領の伊豆侵攻以後は鎌倉に留まり再び入間川陣所に戻ることはなく、入間川公方府時代は9年で終幕を迎えることになります。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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西武鉄道新宿線狭山駅前周辺地図
駅舎前に設置地図により訪問先の確認をします。徳林寺は入間川東側の河岸段丘に位置し、陸運(鎌倉街道)と水運(入間川~江戸川)の双方に恵まれた地勢にあります。 -
狭山駅前観光マップ
マップ表示をみると多数の寺院が点在しており、入間川御所時代に創設された寺院もあるかもしれません。 -
徳林寺入口案内板
駅前のバス通りを川越方向に歩き中央図書館を越えると案内板が視野にはいり、左折し住宅街の比較的狭い道路を入ります。 -
イチオシ
徳林寺・山門
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徳林寺・山門扁額
山号「福聚山」の扁額が掲題されています。 -
徳林寺・地蔵六角堂
山門を入ってすぐ左側に延命耳地藏尊が安置されている六角堂があります。 -
イチオシ
徳林寺・本堂
漕洞宗寺院でご本尊は釈迦如来で普賢菩薩、文殊菩薩を従えた釈迦三尊像の姿で祀られています。 -
徳林寺・本堂扁額
「徳林寺」と刻された扁額が認められます。 -
徳林寺・境内
いつものように本堂から山門方向を捉えます。 -
徳林寺・境内
訪問時はお盆で墓参りの姿が見えます。境内は特別に駐車場として開放されています。
墓地は左方向に段丘を登るような敷地内にあり、後述の高台の隣接寺院まで伸びているようです。 -
イチオシ
市指定文化財
江戸時代旗本小笠原氏が元禄元年(1688)寄進した「絹本着色釈迦涅槃図」及び施主綿貫氏の「絹本着色釈迦八相図」が紹介されています。 -
木彫仏群
巧みに刻された仏が七体建立保存されています。 -
徳林寺・鐘楼堂
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徳林寺・薬師堂
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徳林寺・社務所
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徳林寺・裏門
バス通りに出る小路に面した所に閉ざされた門が見えます。 -
徳林寺隣接寺院
徳林寺守護の「狭山福聚聖観世音」及び「福徳院大聖不動尊」の案内板があります。 -
入口石段
高台に建立されておりバス通りから石段を登ります。 -
石段
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福徳院不動尊・狭山福聚観世音
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福徳院不動尊
狭山市HPによれば当不動尊は綿貫家代々の守本尊とされており、二代目孫兵衛は篤く信仰し成田山に多額の寄進を行うほどで、成田山新勝寺は彼の篤信に感銘を受け不動明王の尊像を造り開眼のうえ綿貫家に授与したと伝えられています。 -
福徳院不動尊
ご本尊は不道明王で、正面には数珠に似せたと思われる綱が設置されています。 -
狭山福聚観世音
伝承では元弘3年(1333)上野武将新田義貞が鎌倉攻めの際、小手指原にて鎌倉幕府軍との合戦において本陣を置き、守護神として聖観音を安置したとの事で、当地は義貞軍の滞陣跡という説もあります。 -
巨大観音像
狭山福聚観世音の裏側には白色の巨大観音像が建立されています。 -
徳林寺中興開基「綿貫家」墓所
境内の一隅には「綿貫家」墓所があり、綿貫家は地元の資産家と言われ綿貫家が資産を投じるなどして寂れていた徳林寺を再興したと思われます。狭山市HPによれば狭山市駅西口開発の為駅前から当不動尊に移転されたそうです。 -
狭山駅舎・鉄道馬車説明
明治34年(1901)5月・同年9月に入間川駅(現在狭山市駅)と飯能町、そして青梅町とを結ぶ入間川馬車鉄道、中武馬車鉄道が開通、大正4年(1915)武蔵野鉄道(現西武池袋線)開通によって客が奪われ大正6年2本の馬車鉄道は廃止となります。 -
鉄道馬車写真拡大
鉄道歴史のひとコマとして当時ののんびりとした馬車鉄道風景が蘇ります。
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