2014/08/13 - 2014/08/13
195位(同エリア484件中)
滝山氏照さん
岡部氏の館に建てられた普済寺(ふさいじ)北西の田園風景地の一隅に武蔵七党猪俣党岡部忠澄(おかべ・ただずみ、不詳~1197)の墓所が在ります。
出自について岡部氏は猪俣党の庶流で具体的には猪俣氏の祖として名が残る時範(ときのり)の孫の三男六郎大夫忠網(ただつな)が榛沢郡岡部に居住したことに始まります。
忠網の嫡流は四男六郎行忠(ゆきただ、生没不詳)が継承し、その嫡子が六弥太忠澄になります。
従来より岡部氏は主流の猪俣氏と同様に源氏と譜代の主従関係を持ち、源義朝に直属した武将であって、平治乱で敗戦の後伊豆配流の頼朝挙兵を知るとすぐさま参向して御家人として鎌倉武家政府創設に加わります。
幕府開設後は木曽義仲追討では義経に従い宇治川の戦いに臨み、更に一の谷合戦では敵将薩摩守平忠度(たいらの・ただのり、1144~1184)を討取り、この戦功により忠澄は忠度の旧知行地の地頭職を賜り、また伊勢国粥安富名を所領として与えられます。
その後文治5年(1189)7月の奥州藤原氏征伐にも頼朝に従って戦い、さらに2度に亘る頼朝上洛に際していずれも随身して頼朝への忠勤に励みます。
そして建久6年(1195)3月頼朝の東大寺落慶法要参列に随兵として上洛を最後にその活躍ぶりが消え建久8年(1197)7月にその生涯を閉じます。
2022年11月20日追記
当該廟の傍に建てられた説明板では下記のごとく記述されています。
『 岡 部 六 弥 忠 澄 の 墓
岡部六弥忠澄は、武蔵七党の一つ猪俣等の出身で、猪俣兵衛時範の孫、六大夫忠綱が榛沢郡岡部に居住し岡部氏を称した。
忠澄は忠綱の孫にあたる。源義朝の家人として保元・平治の乱に活躍した。六弥太の武勇については、保元・平治物語、源平盛衰記に書かれており、特に待賢門の戦いでは、熊谷次郎直実、斎藤別当実盛、猪俣小平六など源氏十七騎の一人として勇名をはせた。その後、源氏の没後により岡部にいたが、治承4(1180)年、頼朝の挙兵とともに出陣し、はじめ木曽義仲を追討し、その後兵士を討った。特に一の谷の合戦では、平氏の名将平忠度を討ち一躍名を挙げた。恩賞として、荘園五ヶ所及び伊勢国の地頭職が与えられた。その後奥州の藤原氏征討軍や頼朝上洛の譜代の家人313人の中にも六弥太の名が見える。忠澄は武勇に優れているだけだけでなく、情深く、自分の領地のうち一番景色の良い清心寺(現深谷市萱場)に平忠度の墓を建てた。
現在地には鎌倉時代の典型的な五輪塔が6基並んで建っているが(県指定史跡)、北側の3基のうち中央の最も大きいものが岡部六弥太忠澄の墓(高さ1.8メートル)、向かって右側が父行忠の墓、左側が夫人玉の井の墓といわれている。
六弥太の暮石の粉を煎じて飲むと、子のない女子には子ができ、乳の出ない女子は乳が出るようになるという迷信が伝わってお理、このため現在、六弥太の五輪塔は削られ変形している。
平成3年3月
埼玉県 岡部町 』
- 旅行の満足度
- 3.5
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
PR
-
岡部忠澄廟(全景)
周囲は広々とした畑に囲まれた一角に廟があり、遠方からすぐ認められます。現在では岡部氏の居館に建てられた普済寺とは離れていますが、かつては広大な居館敷地の一部として墓所があったと考えられます。 -
岡部忠澄廟
-
イチオシ
岡部忠澄廟(近景)
廟は石柵に囲まれ、また屋根に覆われており、立派な墓所の印象があります。 -
イチオシ
廟内部
中央が忠澄、右側が父行忠(ゆきただ)そして左側が忠澄室玉の井(畠山忠重妹)の三基の五輪塔があります。 -
忠澄五輪塔
-
岡部忠澄五輪塔・説明板
-
岡部忠澄墓石柱
-
岡部忠澄廟所敷地
敷地から畑の向うも限りない空間で山岳などの障害は皆無と言ったところです。 -
岡部忠澄廟所敷地
-
岡部忠澄廟所
-
廟所敷地周辺
碁盤の目のような道路が張り巡らされています。 -
廟所敷地周辺
ただただ畑ばかりです。 -
廟敷地周辺風景
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
滝山氏照さんの関連旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
13