2011/01/04 - 2013/02/13
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ドクターキムルさん
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横浜市戸塚区柏尾町の不動坂にある益田家には2本のモチノキの雌株がある。高さ18m、根回り3.1mと、高さ19m、根回り4.9mの2本の雌株が聳えている。樹齢はおよそ300年と推定され、県の天然記念物に指定され、かながわの名木100選にも選ばれている。
このモチノキのある土手の奥の高台には益田家の萱葺き屋根の母屋が建っている。昭和初期には屋号代わりに「台」と呼ばれていた。東海道の路面よりも一段高いところにある家という意味であろう。
旧東海道は品濃口から平戸永谷川沿いに赤関橋を渡り、秋葉大橋の下で国道1号線と合流する。東海道線との間にある山崎製パンやポーラを横に、大山道を過ぎると不動坂からは旧道となり、元舞橋前から舞岡川沿いに進み五太夫橋を渡り、戸塚宿に入る。この辺りの旧東海道不動坂界隈が鎌倉ハム発祥に関わる地であり、ここ益田家の周辺に当たる。
鎌倉ハム(http://4travel.jp/travelogue/10813599)は明治7年(1874年)にイギリス人ウィリアム・カーティスが神奈川県鎌倉郡で畜産業を始め、横浜で外国人相手に販売を行っていたが、明治10年(1877年)に上柏尾町の王子神社近くでハム・ソーセージなどの製造を始めたことに端を発する。
横浜の外国人居留区にいた当時の外国人は日曜日になると馬や馬車で東海道を散策し、鎌倉や江の島方面まで出かけていた。その途中の戸塚宿に、江戸見附があった吉田元町の茶店に看板娘・加藤かね(当時19歳)がいた。カーティスはこの娘に懸想し、度々来店した。かねもカーティスに惹かれ、逢瀬を重ね、親の猛反対を押し切ってカーティスのもとへ走り、柏尾に家を建てて住み始めた。その家は増築を重ねて外人専門のホテルとして創業している。ホテルの名前は「異人館」「白馬亭」だったとされる。ホテルのあった場所は現在のかっぱ寿司の奥あたりである。また、王子神社近くの窪地を牧場として牛や豚を飼育し、加工場を新設してハムやバターを製造し始めた。これが鎌倉ハムの起こりである。
明治17年(1884年)に起こった地震の際に工場が出火し、消火にあたってくれた近隣住民に恩義を感じ、カーティスは益田直蔵らに秘伝の製法を伝授した。またカーティスの妻かねが奉公人時代に世話になっていた地元の名家・齋藤家の当主にも製法を伝授した。齋藤家は明治20年(1887年)にハム工場を設立し、鎌倉ハムを創業した。しかし、大正12年(1923年)に起こった関東大震災で大きな被害を受け、その復興の中、地のりのいい東海、関西への進出を考え、大正13年(1924年)、名古屋市に進出した。齋藤家には今もレンガ造の蔵や黒漆喰の土蔵、母屋、飾り瓦が上がる表門などが残っている。
益田家は現在のポーラの守衛所がある辺りにあり、その向かいに益田商会があった。益田氏の流れを汲む鎌倉ハムは現在は横浜市南区にある。
こうした中で、2本のモチノキの聳える益田家はこうした鎌倉ハムや関東大震災にはあたかも無関係であったかのように、江戸時代のままの姿を今に伝えている。
(表紙写真は益田家の母屋)
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