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4月9日から13日まで思いがけず京都御所が一般公開されていて、京都滞在中に見学することができました。この日は天気がよかったこともあり、大勢の人が訪れていました。<br /><br />京都御所の歴史を少々ひも解いてみましょう。延暦13年( 794 ) 、桓武天皇が遷都された平安京の大内裏の中ほどに天皇のお住まいである内裏( 皇居 )がありました。内裏が火災に遭うと、天皇は貴族の私邸など京中の殿邸を仮皇居としました。これは里内裏と呼ばれていますが、平安時代の後期以降、元の内裏は使われなくなり、里内裏が日常の皇居とされるようになりました。<br /><br />現在の京都御所は、土御門東洞院殿といわれた里内裏が発展したものです。光厳天皇が元弘元年(1331)ここに即位されて以後、明治2年(1869)に明治天皇が東京に遷られるまで皇居とされました。その間には焼失と再建が繰り返され、現在の建物のはとんどは、安政2年(1869)に再建されたものです。<br /><br />* この表紙の写真は、京都御所の南側に位置する「建礼門」です。<br /><br />

京都春爛漫の桜行脚 ⑤ ー 長い伝統文化を有する京都御所を訪ねて

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2014/04/07 - 2014/04/10

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Weiwojing

Weiwojingさん

4月9日から13日まで思いがけず京都御所が一般公開されていて、京都滞在中に見学することができました。この日は天気がよかったこともあり、大勢の人が訪れていました。

京都御所の歴史を少々ひも解いてみましょう。延暦13年( 794 ) 、桓武天皇が遷都された平安京の大内裏の中ほどに天皇のお住まいである内裏( 皇居 )がありました。内裏が火災に遭うと、天皇は貴族の私邸など京中の殿邸を仮皇居としました。これは里内裏と呼ばれていますが、平安時代の後期以降、元の内裏は使われなくなり、里内裏が日常の皇居とされるようになりました。

現在の京都御所は、土御門東洞院殿といわれた里内裏が発展したものです。光厳天皇が元弘元年(1331)ここに即位されて以後、明治2年(1869)に明治天皇が東京に遷られるまで皇居とされました。その間には焼失と再建が繰り返され、現在の建物のはとんどは、安政2年(1869)に再建されたものです。

* この表紙の写真は、京都御所の南側に位置する「建礼門」です。

  • 京都御苑に入るには何か所も入り口がありますが、ここ丸太町通に面した「堺町御門」から入りました。

    京都御苑に入るには何か所も入り口がありますが、ここ丸太町通に面した「堺町御門」から入りました。

  • 京都御苑に入ると、至るところで桜の花が満開で、御所の見学と併せて花を愛でるにはちょうど良い時期でした。<br /><br />京都御所は大宮御所、仙洞御所、京都迎賓館と共に広大な京都御苑の中にあり、面積は約11万?あります。これらは皇室の財産として国が管理しています。

    京都御苑に入ると、至るところで桜の花が満開で、御所の見学と併せて花を愛でるにはちょうど良い時期でした。

    京都御所は大宮御所、仙洞御所、京都迎賓館と共に広大な京都御苑の中にあり、面積は約11万?あります。これらは皇室の財産として国が管理しています。

  • 御苑に咲き乱れる満開の桜が美しいです。今回の京都訪問はちょうど桜の満開時期と重なり、どこへ行ってもその美しい桜を見ることが出来ました。

    御苑に咲き乱れる満開の桜が美しいです。今回の京都訪問はちょうど桜の満開時期と重なり、どこへ行ってもその美しい桜を見ることが出来ました。

  • 外から見た「建礼門」です。ここは通常閉じられていて、皇室や外国からの賓客ののみが利用出来る出入り口なのです。

    外から見た「建礼門」です。ここは通常閉じられていて、皇室や外国からの賓客ののみが利用出来る出入り口なのです。

  • 「建礼門」の前に咲き乱れる桜の花です。これは染井吉野でしょうか。

    「建礼門」の前に咲き乱れる桜の花です。これは染井吉野でしょうか。

  • 見学はこの「宜秋門」からスタートしました。

    見学はこの「宜秋門」からスタートしました。

  • 御所に入ると、先ずは最初に目に付くのは「御車寄」の建物で、写真はこの正面屋根の部分です。

    御所に入ると、先ずは最初に目に付くのは「御車寄」の建物で、写真はこの正面屋根の部分です。

  • 御車寄の正面玄関には豪華な花が活けられています。

    御車寄の正面玄関には豪華な花が活けられています。

  • 一方こちらは「新御車寄」の玄関部分です。大正4年( 1915 ) の大正天皇の即位礼に際して建設されたもので、大正以後の天皇・皇后両陛下が使用される玄関口です。<br /><br />入り口には馬形障子( うまがたのしょうじ ) の衝立が2対置かれています。<br />

    一方こちらは「新御車寄」の玄関部分です。大正4年( 1915 ) の大正天皇の即位礼に際して建設されたもので、大正以後の天皇・皇后両陛下が使用される玄関口です。

    入り口には馬形障子( うまがたのしょうじ ) の衝立が2対置かれています。

  • 次に移動したのは、「諸大夫の間」がある建物です。参内した者が控える間があるところです。

    次に移動したのは、「諸大夫の間」がある建物です。参内した者が控える間があるところです。

  • 「控えの間」は部屋ごとの襖の絵にちなんで、格の高い順に「虎の間」、「鶴の間」、「桜の間」と呼ばれる部屋が並んでいます。<br /><br />この部屋にある襖には鶴図が描かれていて、作者は狩野永岳( 1790 〜1867 )です。

    「控えの間」は部屋ごとの襖の絵にちなんで、格の高い順に「虎の間」、「鶴の間」、「桜の間」と呼ばれる部屋が並んでいます。

    この部屋にある襖には鶴図が描かれていて、作者は狩野永岳( 1790 〜1867 )です。

  • 別の部屋には虎図が描かれていて、一番位の高い人の控えの間です。この絵を描いたのは岸岱(がん たい)( 1782〜1865 )です。

    別の部屋には虎図が描かれていて、一番位の高い人の控えの間です。この絵を描いたのは岸岱(がん たい)( 1782〜1865 )です。

  • ここから「紫宸殿」に入ることが出来ますが、この日はこの「月華門」から入るのではなく反対側にある「日華門」から入りました。

    ここから「紫宸殿」に入ることが出来ますが、この日はこの「月華門」から入るのではなく反対側にある「日華門」から入りました。

  • 正面「承明門」入り口から見た「紫宸殿」です。他の建物は白と黒を基調にした色合いですが、この紫宸殿だけはた真っ赤な色をし、柱や屋根の庇が赤い色をしています。

    正面「承明門」入り口から見た「紫宸殿」です。他の建物は白と黒を基調にした色合いですが、この紫宸殿だけはた真っ赤な色をし、柱や屋根の庇が赤い色をしています。

  • 「承明門」の上部にはその名前が書かれた扁額が掲げられています。

    「承明門」の上部にはその名前が書かれた扁額が掲げられています。

  • 回廊に沿って京都の華流各派が活けた生け花が飾られています。

    回廊に沿って京都の華流各派が活けた生け花が飾られています。

  • 見事なまでに大胆に活けられた、大本山大覚寺嵯峨御流の生け花です。

    見事なまでに大胆に活けられた、大本山大覚寺嵯峨御流の生け花です。

  • 「日華門」から入ると、「紫宸殿」と書かれた扁額が掲げられているのに気が付きます。ただあまりのも高いところに置かれているので、分かりにくいです。

    「日華門」から入ると、「紫宸殿」と書かれた扁額が掲げられているのに気が付きます。ただあまりのも高いところに置かれているので、分かりにくいです。

  • 「紫宸殿」の建物はどことなく中国の建築様式を想起させます。前面には白砂の南庭が広がり、正面に2種類の木が植えられています。右側が「左近の桜」、左側が「右近の橘」です。

    「紫宸殿」の建物はどことなく中国の建築様式を想起させます。前面には白砂の南庭が広がり、正面に2種類の木が植えられています。右側が「左近の桜」、左側が「右近の橘」です。

  • この「左近の桜」はこの時もう散っていました。

    この「左近の桜」はこの時もう散っていました。

  • 「右近の橘」が緑の葉を青々と付けています。

    「右近の橘」が緑の葉を青々と付けています。

  • 「清涼殿」に移動しました。ここは東庭から見たもので、「呉竹」と「漢竹」が植えられているのが分かります。<br /><br />「清涼殿」は平安時代に天皇が日常の生活の場として使われた御殿で、入母屋桧皮葺きの寝殿造りです。元々日常生活の場であったために内部は襖等による間仕切りが多くなっています。

    「清涼殿」に移動しました。ここは東庭から見たもので、「呉竹」と「漢竹」が植えられているのが分かります。

    「清涼殿」は平安時代に天皇が日常の生活の場として使われた御殿で、入母屋桧皮葺きの寝殿造りです。元々日常生活の場であったために内部は襖等による間仕切りが多くなっています。

  • 「清涼殿」の中には中央部に帳で覆われたところがあります。

    「清涼殿」の中には中央部に帳で覆われたところがあります。

  • その帷を上げると、このような御休息の御帖台があります。

    その帷を上げると、このような御休息の御帖台があります。

  • 御池庭から見た「小御所」です。様々な儀式がここで行われ、武家との対面も行われました。寝殿造りと書院造りの両要素が混合した様式の建物です。<br /><br />慶応3年( 1867 )12月9日の王政復古の大号令が発せられた日の夜、ここで「小御所会議」が行われました。昭和29年( 1954 ) には焼失し、4年後に再建されました。

    御池庭から見た「小御所」です。様々な儀式がここで行われ、武家との対面も行われました。寝殿造りと書院造りの両要素が混合した様式の建物です。

    慶応3年( 1867 )12月9日の王政復古の大号令が発せられた日の夜、ここで「小御所会議」が行われました。昭和29年( 1954 ) には焼失し、4年後に再建されました。

  • これは小御所の内部の写真ですが、奥正面が天皇が座す御座所です。

    これは小御所の内部の写真ですが、奥正面が天皇が座す御座所です。

  • 「小御所」は回廊がめぐらされていています。

    「小御所」は回廊がめぐらされていています。

  • その回廊には様々な人物を描いた大宋屏風が4隻置かれていて、描かれた多くの人物を真近に見ることが出来ます。

    その回廊には様々な人物を描いた大宋屏風が4隻置かれていて、描かれた多くの人物を真近に見ることが出来ます。

  • 「寿老人」を描いた杉戸絵です。作者は福井徳元です。

    「寿老人」を描いた杉戸絵です。作者は福井徳元です。

  • 原在照が描いた「陵王納利図」です。

    原在照が描いた「陵王納利図」です。

  • 御拝道廊下に描かれた鶴の絵です。

    御拝道廊下に描かれた鶴の絵です。

  • 同じ廊下に描かれたもう一つの鶴の絵です。

    同じ廊下に描かれたもう一つの鶴の絵です。

  • 「御常御殿」は天皇の日常生活に用いられた御殿で、16世紀末以後「清涼殿」から独立して建てられるようになりました。この御殿から北側は表向きの御殿と言われ、通常の見学コースにはありません。

    「御常御殿」は天皇の日常生活に用いられた御殿で、16世紀末以後「清涼殿」から独立して建てられるようになりました。この御殿から北側は表向きの御殿と言われ、通常の見学コースにはありません。

  • 小御所の前には御内庭が広がり、中央に池を配した回遊式庭園となっています。

    小御所の前には御内庭が広がり、中央に池を配した回遊式庭園となっています。

  • 池には丸みを帯びた「欅橋」という橋が架かっています。

    池には丸みを帯びた「欅橋」という橋が架かっています。

  • 「御内庭」は曲折した遣り水を流し、土橋や石橋を架けて趣向を凝らした庭で、奥に茶室を備えています。

    「御内庭」は曲折した遣り水を流し、土橋や石橋を架けて趣向を凝らした庭で、奥に茶室を備えています。

  • 京都御所 春季一般公開 祭り・イベント

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