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主人のリクエストに応え、「龍馬の足跡巡り」を旅程に加えました。ですから、本編のメイン・ライターは主人となります。<br />幕末の志士 坂本龍馬は、1864年から京都 近江屋で暗殺される1867年までの3年間にたびたび長崎へ足を運んでいます。まさに維新前夜のこの時期、龍馬が長崎のどんな所に出没し、どんな景色を見ながら、誰に「世の中を変えたい」との熱い想いを吐露していたのでしょう。その足跡を辿ってみました。<br />風頭公園を起点に、「龍馬通り」と呼ばれる全長3km程の坂道があります。その通りを歩いていくと、「坂本龍馬之像」、「亀山社中記念館」、「龍馬のぶーつ像」などを見て回ることが出来ます。龍馬が作った貿易会社「亀山社中記念館」では、昔日の間取りの復元や整備がなされ、亀山社中、改名後の海援隊、龍馬に関する写真や資料などの展示がされています。<br />龍馬通りを抜けた後、寺町通りから中島川に合流し、観光名所の眼鏡橋がゴールです。<br />龍馬もかつて立ったこの地で、青年龍馬の瞳に映っていた風景を想像しながら散策するのも一興です。<br /><br />今回歩いたコースを紹介している「さるくマップ」です。<br />http://www.saruku.info/coursemap/ai09.pdf<br /><日程><br />2月27日:伊丹空港ANA161(9:50)→長崎空港(11:10)<br />      長崎空港<長崎県営バス>(11:20)==JR長崎駅(12:10)<br />      JR長崎駅~グラバー園~大浦天主堂~崇福寺~風頭公園~<br />      若宮稲荷神社~亀山社中~眼鏡橋~JR長崎駅~<br />      稲佐山(夜景観賞)<br />      JR長崎駅(21:12)==JRハウステンボス駅(22:45)<br />      ウォーターマークホテル 連泊<br />2月28日:ハウステンボス<br />3月1日 :ハウステンボス==(西肥バス)長崎空港<br />      長崎空港ANA164(13:35)→伊丹空港(14:40)

早春賦 長崎浪漫紀行③風頭公園・亀山社中・眼鏡橋編

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2014/02/27 - 2014/03/01

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

主人のリクエストに応え、「龍馬の足跡巡り」を旅程に加えました。ですから、本編のメイン・ライターは主人となります。
幕末の志士 坂本龍馬は、1864年から京都 近江屋で暗殺される1867年までの3年間にたびたび長崎へ足を運んでいます。まさに維新前夜のこの時期、龍馬が長崎のどんな所に出没し、どんな景色を見ながら、誰に「世の中を変えたい」との熱い想いを吐露していたのでしょう。その足跡を辿ってみました。
風頭公園を起点に、「龍馬通り」と呼ばれる全長3km程の坂道があります。その通りを歩いていくと、「坂本龍馬之像」、「亀山社中記念館」、「龍馬のぶーつ像」などを見て回ることが出来ます。龍馬が作った貿易会社「亀山社中記念館」では、昔日の間取りの復元や整備がなされ、亀山社中、改名後の海援隊、龍馬に関する写真や資料などの展示がされています。
龍馬通りを抜けた後、寺町通りから中島川に合流し、観光名所の眼鏡橋がゴールです。
龍馬もかつて立ったこの地で、青年龍馬の瞳に映っていた風景を想像しながら散策するのも一興です。

今回歩いたコースを紹介している「さるくマップ」です。
http://www.saruku.info/coursemap/ai09.pdf
<日程>
2月27日:伊丹空港ANA161(9:50)→長崎空港(11:10)
      長崎空港<長崎県営バス>(11:20)==JR長崎駅(12:10)
      JR長崎駅~グラバー園~大浦天主堂~崇福寺~風頭公園~
      若宮稲荷神社~亀山社中~眼鏡橋~JR長崎駅~
      稲佐山(夜景観賞)
      JR長崎駅(21:12)==JRハウステンボス駅(22:45)
      ウォーターマークホテル 連泊
2月28日:ハウステンボス
3月1日 :ハウステンボス==(西肥バス)長崎空港
      長崎空港ANA164(13:35)→伊丹空港(14:40)

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
高速・路線バス ANAグループ JRローカル 徒歩

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  • 風頭山(かぜがしらやま)<br />崇福寺入口バス停から長崎県営バスに揺られて向かうのは、高台にある風頭山。12分程で到着します。目的地は「亀山社中記念館」なのですが、路面電車でアプローチすると急峻な階段を15分程登ることになるため、体力温存のために下るコースを選択します。<br /><br />JR長崎駅方面を俯瞰するとこんな感じです。天気が良ければもっと素晴らしい風景が拝めたことでしょう。バスを降りたとたんパラパラと雨が降り始めましましたが、傘が要るほどではありません。<br /><br />長崎県営バスの路線図です。<br />(JR長崎駅からは駅前東口から乗車:所要時間20分程)<br />http://www.nagasaki-bus.co.jp/bus/pdf/bus_shigaitirosenzu.pdf<br />時刻表は次のサイトでチェックしてください。<br />http://www.nagasaki-bus.co.jp/dia-search/<br /><br /><br />

    風頭山(かぜがしらやま)
    崇福寺入口バス停から長崎県営バスに揺られて向かうのは、高台にある風頭山。12分程で到着します。目的地は「亀山社中記念館」なのですが、路面電車でアプローチすると急峻な階段を15分程登ることになるため、体力温存のために下るコースを選択します。

    JR長崎駅方面を俯瞰するとこんな感じです。天気が良ければもっと素晴らしい風景が拝めたことでしょう。バスを降りたとたんパラパラと雨が降り始めましましたが、傘が要るほどではありません。

    長崎県営バスの路線図です。
    (JR長崎駅からは駅前東口から乗車:所要時間20分程)
    http://www.nagasaki-bus.co.jp/bus/pdf/bus_shigaitirosenzu.pdf
    時刻表は次のサイトでチェックしてください。
    http://www.nagasaki-bus.co.jp/dia-search/


  • 風頭山<br />早春賦と銘打った以上、春の魁を紹介しないわけにはまいりません。<br />と言うことで、民家に咲いていた梅を激写してみました。<br /><br />風頭公園は長崎駅の東方3kmに位置し、標高152mの風頭山山頂を擁し、ハタ(凧)揚げの名所として広く市民に親しまれています。また、展望台からの眺望が優れ、春先には370本のソメイヨシノが今を盛りにと咲く中、桜まつりが開催されます。また2500株のアジサイなど季節の花を愛でることもでき、四季折々の表情で迎えてくれるスポットです。<br />

    風頭山
    早春賦と銘打った以上、春の魁を紹介しないわけにはまいりません。
    と言うことで、民家に咲いていた梅を激写してみました。

    風頭公園は長崎駅の東方3kmに位置し、標高152mの風頭山山頂を擁し、ハタ(凧)揚げの名所として広く市民に親しまれています。また、展望台からの眺望が優れ、春先には370本のソメイヨシノが今を盛りにと咲く中、桜まつりが開催されます。また2500株のアジサイなど季節の花を愛でることもでき、四季折々の表情で迎えてくれるスポットです。

  • 風頭山<br />民家の塀には、このように貝殻がきれいに貼り付られています。<br />こんな山の上で貝殻とは、奇抜な発想に感心しきりです。

    風頭山
    民家の塀には、このように貝殻がきれいに貼り付られています。
    こんな山の上で貝殻とは、奇抜な発想に感心しきりです。

  • 風頭山<br />こちらも民家の庭に咲く枝垂れ梅。<br />風に乗って仄かに梅の香が漂ってきます。

    風頭山
    こちらも民家の庭に咲く枝垂れ梅。
    風に乗って仄かに梅の香が漂ってきます。

  • 風頭公園<br />俯いて咲いているので寒緋桜の一種だと思いますが、ほほ満開状態です。<br />これだけ紅紫色が濃いものは初めて見ました。<br /><br />寒緋桜は、バラ科サクラ属でサクラの原種のひとつです。旧暦の正月頃に咲くことから元日桜と呼ばれることもあります。緋寒桜と呼ばれることもありますが、彼岸桜と混合され易いため、近年は寒緋桜と呼ばれます。<br />釣り鐘状の花が特徴で、学名の種小名 campanulata は「カンパニュラの様な」と言う意味で、キキョウ科ホタルブクロ属(カンパニュラ)の花が下向きに咲く所になぞられて名付けられています。中国語でも「鐘花櫻花」と呼ばれます。<br />

    風頭公園
    俯いて咲いているので寒緋桜の一種だと思いますが、ほほ満開状態です。
    これだけ紅紫色が濃いものは初めて見ました。

    寒緋桜は、バラ科サクラ属でサクラの原種のひとつです。旧暦の正月頃に咲くことから元日桜と呼ばれることもあります。緋寒桜と呼ばれることもありますが、彼岸桜と混合され易いため、近年は寒緋桜と呼ばれます。
    釣り鐘状の花が特徴で、学名の種小名 campanulata は「カンパニュラの様な」と言う意味で、キキョウ科ホタルブクロ属(カンパニュラ)の花が下向きに咲く所になぞられて名付けられています。中国語でも「鐘花櫻花」と呼ばれます。

  • 風頭公園 上野家代々の墓<br />有名な龍馬の肖像写真は、上野彦馬が捉えた龍馬晩年の一枚。現存する龍馬の写真7枚の内、少なくとも3枚は上野撮影局で撮られたものと推測されています。<br />上野彦馬は、幕末〜明治時代に活躍した長崎出生の日本最初期の職業写真師。つまり、日本の報道カメラマンの草分け的存在です。上野家は絵師の家系であり、絵画、鋳金などに秀で、幕末の当主俊之丞、彦馬父子は2代にわたって写真技術の習得と普及に多大な功績をあげ、日本の近代化学研究の発展に貢献しました。彦馬は金星の太陽面通過の観測写真(日本初の天体写真)や西南戦争の戦場跡を撮影(日本初の戦跡写真)しましたが、日露戦争勃発の1904年に享年66歳で逝去。今でも日本写真界の祖として高く評価されています。<br />因みに、上野撮影局では多くの志士や明治の高官、名士が撮影され、伊藤博文、高杉晋作、桂小五郎たちの写真が今日あるのは上野彦馬のおかげと言えます。<br />墓地には、上野家初代の左衛門尉英傳はじめ、3代若元、5代若瑞、6代俊之丞、7代彦馬の墓碑が建てられています。最も古い英傳の墓碑は、五輪塔様式であり、1677年と記されています。彦馬の墓は一番右のものです。<br />主人も何を思ってか、墓前で暫く神妙な面持ちで合掌していました。 <br />

    風頭公園 上野家代々の墓
    有名な龍馬の肖像写真は、上野彦馬が捉えた龍馬晩年の一枚。現存する龍馬の写真7枚の内、少なくとも3枚は上野撮影局で撮られたものと推測されています。
    上野彦馬は、幕末〜明治時代に活躍した長崎出生の日本最初期の職業写真師。つまり、日本の報道カメラマンの草分け的存在です。上野家は絵師の家系であり、絵画、鋳金などに秀で、幕末の当主俊之丞、彦馬父子は2代にわたって写真技術の習得と普及に多大な功績をあげ、日本の近代化学研究の発展に貢献しました。彦馬は金星の太陽面通過の観測写真(日本初の天体写真)や西南戦争の戦場跡を撮影(日本初の戦跡写真)しましたが、日露戦争勃発の1904年に享年66歳で逝去。今でも日本写真界の祖として高く評価されています。
    因みに、上野撮影局では多くの志士や明治の高官、名士が撮影され、伊藤博文、高杉晋作、桂小五郎たちの写真が今日あるのは上野彦馬のおかげと言えます。
    墓地には、上野家初代の左衛門尉英傳はじめ、3代若元、5代若瑞、6代俊之丞、7代彦馬の墓碑が建てられています。最も古い英傳の墓碑は、五輪塔様式であり、1677年と記されています。彦馬の墓は一番右のものです。
    主人も何を思ってか、墓前で暫く神妙な面持ちで合掌していました。

  • 風頭公園 坂本龍馬之像<br />長崎港を一望する展望台に建つ龍馬の銅像は、精悍な顔立ち。「龍馬の銅像建つうで会」が呼びかけた募金を基に、1989年に建立されたものです。制作は長崎市在住の彫刻家 山崎和國氏で、高さ4.7m(全身像3.2m)。威風堂々と腕組みをし、腕の太さも海の男を象徴し、視線は水平線(世界)に向けられ、日本の未来を見据えるかのように凛とした風貌です。まるで見果てぬ夢を今でも追いかけているように映ります。実物に最も似ている像だと言われています。こんな風景を見ながら、異国への夢や憧憬を膨らませていたのでしょう。<br />龍馬の後方で風にはためく旗は、土佐藩付属の外郭機関 海援隊の隊旗「二曳」。龍馬が隊長となり、船印として「赤白赤」の旗印を決めました。往時、海援隊の会計を担当していた岩崎弥太郎が、後に「三菱」の基礎を作り、その船舶部門が「日本郵船」に受け継がれ、海援隊と同じ旗印を社章社としています。<br />凧揚げのメッカのようですので相当風が強いのでしょうね?<br />背後の隊旗も綻び始めています。<br />

    風頭公園 坂本龍馬之像
    長崎港を一望する展望台に建つ龍馬の銅像は、精悍な顔立ち。「龍馬の銅像建つうで会」が呼びかけた募金を基に、1989年に建立されたものです。制作は長崎市在住の彫刻家 山崎和國氏で、高さ4.7m(全身像3.2m)。威風堂々と腕組みをし、腕の太さも海の男を象徴し、視線は水平線(世界)に向けられ、日本の未来を見据えるかのように凛とした風貌です。まるで見果てぬ夢を今でも追いかけているように映ります。実物に最も似ている像だと言われています。こんな風景を見ながら、異国への夢や憧憬を膨らませていたのでしょう。
    龍馬の後方で風にはためく旗は、土佐藩付属の外郭機関 海援隊の隊旗「二曳」。龍馬が隊長となり、船印として「赤白赤」の旗印を決めました。往時、海援隊の会計を担当していた岩崎弥太郎が、後に「三菱」の基礎を作り、その船舶部門が「日本郵船」に受け継がれ、海援隊と同じ旗印を社章社としています。
    凧揚げのメッカのようですので相当風が強いのでしょうね?
    背後の隊旗も綻び始めています。

  • 風頭公園 坂本龍馬之像<br />龍馬が初めて長崎を訪れたのは1864年2月。師と仰ぐ勝海舟が長崎海軍伝習所(西洋の航海技術や造船技術などを学ぶ場)へ派遣され、それに帯同したのでした。<br />当時29歳の龍馬の眼に長崎の街はどのように映ったのでしょうか?世の中を変えたいという志に胸を熱くする若者が、この長崎で世界の大きさ、そしてちっぽけな日本を実感したことは想像に難くありません。<br />龍馬は駿馬のように幕末の世を駆け抜けていきました。龍馬もかつて立ったこの地で、青年龍馬の瞳に映っていた風景を想像しながら散策するのも一興です。<br />

    風頭公園 坂本龍馬之像
    龍馬が初めて長崎を訪れたのは1864年2月。師と仰ぐ勝海舟が長崎海軍伝習所(西洋の航海技術や造船技術などを学ぶ場)へ派遣され、それに帯同したのでした。
    当時29歳の龍馬の眼に長崎の街はどのように映ったのでしょうか?世の中を変えたいという志に胸を熱くする若者が、この長崎で世界の大きさ、そしてちっぽけな日本を実感したことは想像に難くありません。
    龍馬は駿馬のように幕末の世を駆け抜けていきました。龍馬もかつて立ったこの地で、青年龍馬の瞳に映っていた風景を想像しながら散策するのも一興です。

  • 風頭公園 <br />龍馬がじっと目を凝らす視線の先には、このような風景が広がっています。<br />今では女神大橋が通っている、角力灘から長崎港への玄関口を見据えています。<br />空模様が芳しくなく、まだ16:00頃なのですが雲の切れ間から夕陽のような色に染まった空が覗いています。

    風頭公園
    龍馬がじっと目を凝らす視線の先には、このような風景が広がっています。
    今では女神大橋が通っている、角力灘から長崎港への玄関口を見据えています。
    空模様が芳しくなく、まだ16:00頃なのですが雲の切れ間から夕陽のような色に染まった空が覗いています。

  • 風頭公園 司馬遼太郎「竜馬がゆく」文学碑 <br />長崎港を見下ろす風頭公園の一角にある碑は、「亀山社中ば活かす会」が呼びかけた募金で1998年に建立されました。碑には次の言葉が刻まれています。<br /> 船が長崎の港内に入ったとき、竜馬は胸のおどるような思いをおさえかね、「長崎は、わしの希望じゃ」と陸奥陽之助にいった。「やがて日本回天の足場になる」ともいった。  <br />司馬遼太郎「竜馬がゆく」より<br />碑が対峙する方向には、腕組みをして地平線をじっと見つめる堂々たる体躯の龍馬像が聳えています。

    風頭公園 司馬遼太郎「竜馬がゆく」文学碑
    長崎港を見下ろす風頭公園の一角にある碑は、「亀山社中ば活かす会」が呼びかけた募金で1998年に建立されました。碑には次の言葉が刻まれています。
    船が長崎の港内に入ったとき、竜馬は胸のおどるような思いをおさえかね、「長崎は、わしの希望じゃ」と陸奥陽之助にいった。「やがて日本回天の足場になる」ともいった。 
    司馬遼太郎「竜馬がゆく」より
    碑が対峙する方向には、腕組みをして地平線をじっと見つめる堂々たる体躯の龍馬像が聳えています。

  • 風頭公園から俯瞰する鎮西大社諏訪神社 <br />正式名は諏訪神社で、鎮西大社は通称。地元では「お諏訪さま」、「おすわさん」と呼ばれて親しまれています。<br />長崎に祀られていた諏訪・森崎・住吉神社の三社を起源とし、1555年に長崎 織部亮為英が京都の諏訪神社の分霊を風頭山の麓に奉祀したのが始まりとされています。その後、イエズス会の支配地となってキリシタンが破壊、焼き払ったそうですが、修行者の金重院 青木賢清が再興しました。信州 諏訪神社が本社で、ここはその分社ということです。 長崎の総氏神様として厄除け、縁結び、海上守護の神社として崇敬され、人気の高いパワースポットです。参道には、「縁結びの陰陽石」と呼ばれる3つの敷石があり、陰陽石、男石(陽石)と女石(陰石)が幾何学的な紋様で埋め込まれています。男性は女石(陰石)、女性は男石(陽石)を踏んだ後、拝殿前の陰陽石を踏んで参拝すると、縁結びの願い事が叶うと言われています。<br />

    風頭公園から俯瞰する鎮西大社諏訪神社
    正式名は諏訪神社で、鎮西大社は通称。地元では「お諏訪さま」、「おすわさん」と呼ばれて親しまれています。
    長崎に祀られていた諏訪・森崎・住吉神社の三社を起源とし、1555年に長崎 織部亮為英が京都の諏訪神社の分霊を風頭山の麓に奉祀したのが始まりとされています。その後、イエズス会の支配地となってキリシタンが破壊、焼き払ったそうですが、修行者の金重院 青木賢清が再興しました。信州 諏訪神社が本社で、ここはその分社ということです。 長崎の総氏神様として厄除け、縁結び、海上守護の神社として崇敬され、人気の高いパワースポットです。参道には、「縁結びの陰陽石」と呼ばれる3つの敷石があり、陰陽石、男石(陽石)と女石(陰石)が幾何学的な紋様で埋め込まれています。男性は女石(陰石)、女性は男石(陽石)を踏んだ後、拝殿前の陰陽石を踏んで参拝すると、縁結びの願い事が叶うと言われています。

  • 龍馬通り<br />風頭公園〜亀山社中跡を経て寺町通りへと続く坂道が、「龍馬通り」。かつて龍馬はじめ亀山社中の若者たちも、この石段混じりの細い坂道を通って街中へ繰り出しました。<br />急峻な階段が延々と続いていますが、緩やかな迂回路を進みます。

    龍馬通り
    風頭公園〜亀山社中跡を経て寺町通りへと続く坂道が、「龍馬通り」。かつて龍馬はじめ亀山社中の若者たちも、この石段混じりの細い坂道を通って街中へ繰り出しました。
    急峻な階段が延々と続いていますが、緩やかな迂回路を進みます。

  • 方形の鳥居(四角い柱の鳥居)<br />若宮稲荷神社に向かう急峻な参道に佇む鳥居は、周囲の目にも鮮やかな朱色の鳥居に圧倒され、とても地味に映ります。しかしよく見ると普通の鳥居とはどこか印象が異なります。1822年に旧長崎奉行所内の立山稲荷神社に長崎奉行 土方出雲守が奉納し、1899年に当神社に移されたものです。扁額が掲げられた方向を見ると、若宮稲荷神社との因果がないことが判ります。<br />

    方形の鳥居(四角い柱の鳥居)
    若宮稲荷神社に向かう急峻な参道に佇む鳥居は、周囲の目にも鮮やかな朱色の鳥居に圧倒され、とても地味に映ります。しかしよく見ると普通の鳥居とはどこか印象が異なります。1822年に旧長崎奉行所内の立山稲荷神社に長崎奉行 土方出雲守が奉納し、1899年に当神社に移されたものです。扁額が掲げられた方向を見ると、若宮稲荷神社との因果がないことが判ります。

  • 方形の鳥居<br />調べてみると全国でも数ヶ所にしかない珍しい鳥居のようです。鳥居の起源は樹木を切り倒してそれを組んだものですから、元々は丸いのが常識。敢えて四角い石柱にした理由は積年の謎だそうです。全国にある四角い鳥居は、 瓦田地禄神社(大野城市)、五社神社の近く(佐賀市)、住吉大社 角鳥居(大阪市)、足羽神社(福井市)、神明神社(堺市)、古宮天満神社(たつの市)などにあるようです。<br />

    方形の鳥居
    調べてみると全国でも数ヶ所にしかない珍しい鳥居のようです。鳥居の起源は樹木を切り倒してそれを組んだものですから、元々は丸いのが常識。敢えて四角い石柱にした理由は積年の謎だそうです。全国にある四角い鳥居は、 瓦田地禄神社(大野城市)、五社神社の近く(佐賀市)、住吉大社 角鳥居(大阪市)、足羽神社(福井市)、神明神社(堺市)、古宮天満神社(たつの市)などにあるようです。

  • 若宮稲荷神社<br />勤皇派のカリスマ 楠木正成の守護神を祀る神社で、龍馬はじめ幕末に来崎した志士が参詣した神社。幕末には頼山陽の「日本外史」等の影響で正成人気が高まり、篤い尊敬を集めて勤皇稲荷と称していました。<br />出来大工町の乙名(町役人の職名)若杉喜三太が、自邸に祀っていた南北朝時代の忠臣 楠木正成の守護神を1673年に現在の地に移したのがはじまりと伝わります。代々の奉行、伊良林郷の鎮守神として崇敬を集め、古いお宮ながら「若宮様」と呼ばれて親しまれました。<br />

    若宮稲荷神社
    勤皇派のカリスマ 楠木正成の守護神を祀る神社で、龍馬はじめ幕末に来崎した志士が参詣した神社。幕末には頼山陽の「日本外史」等の影響で正成人気が高まり、篤い尊敬を集めて勤皇稲荷と称していました。
    出来大工町の乙名(町役人の職名)若杉喜三太が、自邸に祀っていた南北朝時代の忠臣 楠木正成の守護神を1673年に現在の地に移したのがはじまりと伝わります。代々の奉行、伊良林郷の鎮守神として崇敬を集め、古いお宮ながら「若宮様」と呼ばれて親しまれました。

  • 若宮稲荷神社<br />龍馬は正成の崇拝者らしく、正成最期の地の神戸 湊川では、「月と日の むかしをしのぶ みなと川 流れて清き 菊の下水」という歌を詠んでいます。また、龍馬の写真は、正成の短刀を模して誂えたとされる菊水紋を柄に付けた脇差を腰に携える姿で収まっています。<br />『太平記』の名場面「桜井の別れ」で正成が長男 正行に授けた形見の短刀です。正成は死を覚悟して湊川の戦場に赴く途中、11歳の正行を呼び寄せて別れを告げます。「お前を帰すのは、自分が討死にした後のことを考えてのことだ。帝のため、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族朗党一人でも生き残るようにし、いつの日か朝敵を滅せ」と諭し、かつて帝より下賜された短刀を授け、今生の別れを告げます。<br /><br />神戸 湊川神社の旅行記はこちらを参照してください。<br />http://4travel.jp/travelogue/10845873

    若宮稲荷神社
    龍馬は正成の崇拝者らしく、正成最期の地の神戸 湊川では、「月と日の むかしをしのぶ みなと川 流れて清き 菊の下水」という歌を詠んでいます。また、龍馬の写真は、正成の短刀を模して誂えたとされる菊水紋を柄に付けた脇差を腰に携える姿で収まっています。
    『太平記』の名場面「桜井の別れ」で正成が長男 正行に授けた形見の短刀です。正成は死を覚悟して湊川の戦場に赴く途中、11歳の正行を呼び寄せて別れを告げます。「お前を帰すのは、自分が討死にした後のことを考えてのことだ。帝のため、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族朗党一人でも生き残るようにし、いつの日か朝敵を滅せ」と諭し、かつて帝より下賜された短刀を授け、今生の別れを告げます。

    神戸 湊川神社の旅行記はこちらを参照してください。
    http://4travel.jp/travelogue/10845873

  • 若宮稲荷神社 坂本龍馬像 <br />少し離れた所からズームで狙い、背景に急峻な斜面に建つ町並みを配してみました。<br /><br />龍馬像は高さ約1m、質量約80kg。風頭公園に建てられた龍馬像の原像で、山崎和國氏が約2ヶ月かけて制作されたものです。「龍馬ファンに喜んでもらえれば」と、1991年に亀山社中跡を運営する「亀山社中ば活かす会」に寄贈され、亀山社中跡の庭に置かれていました。しかし、亀山社中跡の改修の折、「改修後は、当時のままの亀山社中を再現したい」と会に像の移設を提案し、2009年に龍馬も常連として参拝した若宮稲荷神社の境内に移したそうです。<br />龍馬像は、新しい時代の幕開けに静かに闘志を燃やす凄みを見せています。銅像の制作者も同じ心持でこの銅像を見る若者の感性に一縷の望みを託したのかもしれません。<br />

    若宮稲荷神社 坂本龍馬像 
    少し離れた所からズームで狙い、背景に急峻な斜面に建つ町並みを配してみました。

    龍馬像は高さ約1m、質量約80kg。風頭公園に建てられた龍馬像の原像で、山崎和國氏が約2ヶ月かけて制作されたものです。「龍馬ファンに喜んでもらえれば」と、1991年に亀山社中跡を運営する「亀山社中ば活かす会」に寄贈され、亀山社中跡の庭に置かれていました。しかし、亀山社中跡の改修の折、「改修後は、当時のままの亀山社中を再現したい」と会に像の移設を提案し、2009年に龍馬も常連として参拝した若宮稲荷神社の境内に移したそうです。
    龍馬像は、新しい時代の幕開けに静かに闘志を燃やす凄みを見せています。銅像の制作者も同じ心持でこの銅像を見る若者の感性に一縷の望みを託したのかもしれません。

  • 若宮稲荷神社<br />ご神木の柵に奉納されていた龍馬の絵馬です。<br />どんな志が書かれているのか興味津々です。<br /><br />秋祭り(10月14〜15日)に奉納される行事「竹ん芸」は有名で、男狐・女狐に扮した氏子が高さ12m余りの2本の青竹の上で曲芸を行ないます。神社の使いである男狐と女狐が若宮神社のご神徳を喜んで裏の竹薮で遊ぶ姿を模したものといわれています。また、長崎民謡『長崎七不思議』にも「古いお寺を若宮と」と歌われています。<br /><br />

    若宮稲荷神社
    ご神木の柵に奉納されていた龍馬の絵馬です。
    どんな志が書かれているのか興味津々です。

    秋祭り(10月14〜15日)に奉納される行事「竹ん芸」は有名で、男狐・女狐に扮した氏子が高さ12m余りの2本の青竹の上で曲芸を行ないます。神社の使いである男狐と女狐が若宮神社のご神徳を喜んで裏の竹薮で遊ぶ姿を模したものといわれています。また、長崎民謡『長崎七不思議』にも「古いお寺を若宮と」と歌われています。

  • 若宮稲荷神社<br />龍馬のお守りです。<br />主人は未練がありそうでしたが、お守りを持ち歩くタイプの人ではないので別のものを買い求めることにします。

    若宮稲荷神社
    龍馬のお守りです。
    主人は未練がありそうでしたが、お守りを持ち歩くタイプの人ではないので別のものを買い求めることにします。

  • 若宮稲荷神社<br />結局買い求めたのは、こちらのかわいらしいキツネのお守りです。<br />「猫に小判」と言いますが、こちらは「キツネに小判」です。

    若宮稲荷神社
    結局買い求めたのは、こちらのかわいらしいキツネのお守りです。
    「猫に小判」と言いますが、こちらは「キツネに小判」です。

  • 龍馬ぶーつ像<br />1996年、亀山社中創立130周年を記念して市民有志の呼び掛けで建立された、山崎和國氏制作のモニュメントです。<br />日本で最初にぶーつを履いたとされる龍馬。往時土佐藩では身分制度が厳しく、下級武士の家に生まれた龍馬は草履しか履くことを赦されず、幼少期から差別に矛盾を感じていました。階級のしがらみを感じさせない異国の履物は、もしかしたら自由・平等の象徴のように映ったのかもしれません。古いことにとらわれず、新しいものを求めた龍馬の気質を窺い知ることができます。草履からぶーつに履き替え、心機一転生まれ変わった気分で新しいことに挑んでいったのでしょう。自由の地 長崎で、ブーツを履き、何を馳せながら闊歩したのでしょうか?<br />因みに、ここから俯瞰する風景は、山肌に張り付くように建ち並ぶ家々など、長崎を象徴する美しい景観であることから 「長崎都市景観賞」 を受賞しています。どことなく、ナポリの景観を彷彿とさせるものがあります。<br />

    龍馬ぶーつ像
    1996年、亀山社中創立130周年を記念して市民有志の呼び掛けで建立された、山崎和國氏制作のモニュメントです。
    日本で最初にぶーつを履いたとされる龍馬。往時土佐藩では身分制度が厳しく、下級武士の家に生まれた龍馬は草履しか履くことを赦されず、幼少期から差別に矛盾を感じていました。階級のしがらみを感じさせない異国の履物は、もしかしたら自由・平等の象徴のように映ったのかもしれません。古いことにとらわれず、新しいものを求めた龍馬の気質を窺い知ることができます。草履からぶーつに履き替え、心機一転生まれ変わった気分で新しいことに挑んでいったのでしょう。自由の地 長崎で、ブーツを履き、何を馳せながら闊歩したのでしょうか?
    因みに、ここから俯瞰する風景は、山肌に張り付くように建ち並ぶ家々など、長崎を象徴する美しい景観であることから 「長崎都市景観賞」 を受賞しています。どことなく、ナポリの景観を彷彿とさせるものがあります。

  • 龍馬ぶーつ像<br />ブロンズ製ぶーつは、高さ30cmの台座の上にちょこんと置かれています。靴を履いたまま、ぶーつに足を入れられます。海の男 龍馬をイメージした舵輪も設けられています。「ブーツ」と書かずに「ぶーつ」としている所に、和魂洋才のセンスが光ります。<br />雨水が溜まらないように、靴底には穴が開けてあるので安心して足を入れてください。

    龍馬ぶーつ像
    ブロンズ製ぶーつは、高さ30cmの台座の上にちょこんと置かれています。靴を履いたまま、ぶーつに足を入れられます。海の男 龍馬をイメージした舵輪も設けられています。「ブーツ」と書かずに「ぶーつ」としている所に、和魂洋才のセンスが光ります。
    雨水が溜まらないように、靴底には穴が開けてあるので安心して足を入れてください。

  • 「龍馬通り」のレリーフ <br />龍馬通りの所々に掲げられた「龍馬通り」のレリーフは、ほのぼのとした味わいに溢れているのでてっきり地元の方々の手作り品かと思いましたが、ネット情報によれば「2005年に山崎和國氏(銅像の制作者)が制作して『亀山社中ば活かす会』に寄贈されたもので、15ヶ所に設置されている」そうです。<br />川柳は「亀山社中ば活かす会」の会員の方々の力作のだそうです。<br />

    「龍馬通り」のレリーフ
    龍馬通りの所々に掲げられた「龍馬通り」のレリーフは、ほのぼのとした味わいに溢れているのでてっきり地元の方々の手作り品かと思いましたが、ネット情報によれば「2005年に山崎和國氏(銅像の制作者)が制作して『亀山社中ば活かす会』に寄贈されたもので、15ヶ所に設置されている」そうです。
    川柳は「亀山社中ば活かす会」の会員の方々の力作のだそうです。

  • 亀山社中記念館<br />龍馬が1865年に結成した日本初の総合貿易商社かつ身分差のない新しい日本社会を目指した政治結社。後に「海援隊」に育っていきます。と言う訳で、名誉館長はフォークグループ「海援隊」の武田鉄矢氏が務められています。亀山社中発祥の地に往時の建物が再現されています。<br />幕末の風雲児 龍馬は、高知城下に生まれ、江戸で剣術や砲術の修業後、帰国して勤皇党に加盟。その後脱藩して幕臣 勝海舟の門人となり、勝塾や神戸海軍操練所で学びました。しかし、池田屋事件で状況が一変。過激な勤皇派の志士たちが新選組によって一掃され、その志士の中に操練所の塾生がいたのが発覚。その後の蛤御門の変も同様でした。これらが幕府の逆鱗に触れ、操練所も勝塾も閉鎖されました。龍馬たち脱藩浪人は行き場を失い、薩摩藩の庇護の下、長崎にやってきます。そして、藩や長崎商人 小曽根家の援助を受けて「亀山社中」を結成。ここを拠点にグラバー商会と取引を始め、藩に銃器などを卸しました。名の由来は、拠点の地名「亀山(伊良林)」と仲間・結社を意味する「社中」からきています。<br />往時、倒幕派の長州藩と幕府側の薩摩藩は敵対しており、その両藩を和解させたのが亀山社中です。長州藩は、武器や艦船の入手を渇望するも、幕府に輸入ルートを封じられ果たせませんでした。そこに着目した龍馬らは、薩摩藩名義で長州藩の艦船を輸入しました。こうした働きが奏功して両藩の溝が埋められ、薩長同盟が成立。時代は大政奉還、王政復古の大号令へと突き進んで行きます。現在の亀山社中跡は庵のような佇まいです。この静寂な地で、「世の中を変えたい」と熱い想いを抱いていた龍馬たちが立ち上がったことを思うと感慨深いものがあります。<br />

    亀山社中記念館
    龍馬が1865年に結成した日本初の総合貿易商社かつ身分差のない新しい日本社会を目指した政治結社。後に「海援隊」に育っていきます。と言う訳で、名誉館長はフォークグループ「海援隊」の武田鉄矢氏が務められています。亀山社中発祥の地に往時の建物が再現されています。
    幕末の風雲児 龍馬は、高知城下に生まれ、江戸で剣術や砲術の修業後、帰国して勤皇党に加盟。その後脱藩して幕臣 勝海舟の門人となり、勝塾や神戸海軍操練所で学びました。しかし、池田屋事件で状況が一変。過激な勤皇派の志士たちが新選組によって一掃され、その志士の中に操練所の塾生がいたのが発覚。その後の蛤御門の変も同様でした。これらが幕府の逆鱗に触れ、操練所も勝塾も閉鎖されました。龍馬たち脱藩浪人は行き場を失い、薩摩藩の庇護の下、長崎にやってきます。そして、藩や長崎商人 小曽根家の援助を受けて「亀山社中」を結成。ここを拠点にグラバー商会と取引を始め、藩に銃器などを卸しました。名の由来は、拠点の地名「亀山(伊良林)」と仲間・結社を意味する「社中」からきています。
    往時、倒幕派の長州藩と幕府側の薩摩藩は敵対しており、その両藩を和解させたのが亀山社中です。長州藩は、武器や艦船の入手を渇望するも、幕府に輸入ルートを封じられ果たせませんでした。そこに着目した龍馬らは、薩摩藩名義で長州藩の艦船を輸入しました。こうした働きが奏功して両藩の溝が埋められ、薩長同盟が成立。時代は大政奉還、王政復古の大号令へと突き進んで行きます。現在の亀山社中跡は庵のような佇まいです。この静寂な地で、「世の中を変えたい」と熱い想いを抱いていた龍馬たちが立ち上がったことを思うと感慨深いものがあります。

  • 亀山社中記念館<br />建物所有者のご厚意により、市が往時の居住まいに復元して2009年から公開されています。150年もの時空を超え、往時の柱や天井板などをありのまま用いています。龍馬たちが熱く夢を語った部屋でその臨場感を味わうことができます。母屋は、10、8、3畳の部屋と土間に分かれ、10畳の部屋のみ写真撮影可。龍馬がもたれかかって座った柱など、黒褐色の建具は幕末の家屋の雰囲気を醸しています。龍馬や土佐ゆかりの資料、黒地羽二重の紋服、ブーツ、ピストル、刀なども常時展示されています。ただし、展示物はレプリカですので過剰な期待は禁物です。3畳の部屋の上には隠し部屋の中二階があり、龍馬たちが息を潜めていたであろう暗闇を梯子から覗き見ることが出来ます。龍馬はじめメンバーは脱藩し、捕まれば死刑の身ゆえ、このような街外れの高台に拠点を構えたのでしょう。<br />

    亀山社中記念館
    建物所有者のご厚意により、市が往時の居住まいに復元して2009年から公開されています。150年もの時空を超え、往時の柱や天井板などをありのまま用いています。龍馬たちが熱く夢を語った部屋でその臨場感を味わうことができます。母屋は、10、8、3畳の部屋と土間に分かれ、10畳の部屋のみ写真撮影可。龍馬がもたれかかって座った柱など、黒褐色の建具は幕末の家屋の雰囲気を醸しています。龍馬や土佐ゆかりの資料、黒地羽二重の紋服、ブーツ、ピストル、刀なども常時展示されています。ただし、展示物はレプリカですので過剰な期待は禁物です。3畳の部屋の上には隠し部屋の中二階があり、龍馬たちが息を潜めていたであろう暗闇を梯子から覗き見ることが出来ます。龍馬はじめメンバーは脱藩し、捕まれば死刑の身ゆえ、このような街外れの高台に拠点を構えたのでしょう。

  • 亀山社中記念館<br />今では丘の上まで隙間もないほどびっしりと民家が軒を並べて建てられていますが、亀山社中があった頃の伊良林は街外れに位置し、鬱蒼とした竹藪に囲まれてほとんど建物がなかったそうです。薩摩藩としても浪士の集まりを匿うために、長崎奉行所の目に付かない場所に置くしか方法がなかったのでしょう。<br /><br />左端の柱が、かつて龍馬がもたれかかっていたという柱です。背の辺りが擦れているのが判ります。

    亀山社中記念館
    今では丘の上まで隙間もないほどびっしりと民家が軒を並べて建てられていますが、亀山社中があった頃の伊良林は街外れに位置し、鬱蒼とした竹藪に囲まれてほとんど建物がなかったそうです。薩摩藩としても浪士の集まりを匿うために、長崎奉行所の目に付かない場所に置くしか方法がなかったのでしょう。

    左端の柱が、かつて龍馬がもたれかかっていたという柱です。背の辺りが擦れているのが判ります。

  • 亀山社中記念館 公文菊僊 筆「坂本龍馬像」<br />壁に掲げられた公文菊僊 筆「坂本龍馬像」は、名誉館長 武田鉄矢氏の寄贈と書かれています。本物は、鹿児島県歴史資料センター黎明館で見ることができます。<br />公文菊僊は、大正〜昭和初期に活躍した人物画を得意とする四条派の日本画家。龍馬と同じ高知県出生で、本名は時衛。中学時代に楠永直衛から西洋画を教わったのがきっかけで上京し、久保田米僊に師事しました。龍馬を描かせたら右に出る者はいないと言われたほどの腕前です。<br />龍馬の銅像が高知に建てられた1928年頃から起こった龍馬ブームに支えられ、「維新での若者たちの活躍の理解の助けになれば」と龍馬はじめ往時行動を共にした武市半平太、中岡慎太郎などの肖像画を数多く描いています。

    亀山社中記念館 公文菊僊 筆「坂本龍馬像」
    壁に掲げられた公文菊僊 筆「坂本龍馬像」は、名誉館長 武田鉄矢氏の寄贈と書かれています。本物は、鹿児島県歴史資料センター黎明館で見ることができます。
    公文菊僊は、大正〜昭和初期に活躍した人物画を得意とする四条派の日本画家。龍馬と同じ高知県出生で、本名は時衛。中学時代に楠永直衛から西洋画を教わったのがきっかけで上京し、久保田米僊に師事しました。龍馬を描かせたら右に出る者はいないと言われたほどの腕前です。
    龍馬の銅像が高知に建てられた1928年頃から起こった龍馬ブームに支えられ、「維新での若者たちの活躍の理解の助けになれば」と龍馬はじめ往時行動を共にした武市半平太、中岡慎太郎などの肖像画を数多く描いています。

  • 亀山社中記念館 佩刀 陸奥守吉行<br />陸奥守吉行は陸奥国中村出身の刀工の作。土佐に招かれて鍛治奉行となったことから土佐吉行とも呼ばれます。<br />龍馬は、脱藩する際、丸腰では道中できないと刀を無心しますが、誰も応じませんでした。そんな窮状を察し、姉 乙女が内緒で脱藩のみぎりにと贈った家伝の名刀です。姉 栄が夫の形見の名刀を手渡し、龍馬の犯した罪を一身に背負って自刃したという美談も存在します。しかし、近年の発見で栄は龍馬脱藩の際にすでに病死していたことが判り、通説は創作と結論付けられています。新たな発見は、史実を詳らかにする半面、時にドラマチックな側面を削ぐこともあります。しかし、それが歴史の醍醐味でもありますが…。<br />龍馬が常に持っていた佩刀は、暗殺時にも床の間にあり、北辰一刀流免許皆伝の龍馬はそれを取って応戦しようとしました。龍馬は、一刀目を前額に浴び、佩刀を取ろうと身をひねった瞬間に二刀目を右の肩先から左の背骨にかけて斬られました。三刀目は鞘で受けますが、刀身を斜めに削り、その余勢で前額部を深く薙ぎ払いました。最期は家伝の名刀を抜いて息絶えました。奇しくも龍馬33回目の誕生日でした。暗殺犯については、新撰組犯行説、薩摩藩陰謀説など諸説ありますが、現在のところ、京都見廻組説が有力です。

    亀山社中記念館 佩刀 陸奥守吉行
    陸奥守吉行は陸奥国中村出身の刀工の作。土佐に招かれて鍛治奉行となったことから土佐吉行とも呼ばれます。
    龍馬は、脱藩する際、丸腰では道中できないと刀を無心しますが、誰も応じませんでした。そんな窮状を察し、姉 乙女が内緒で脱藩のみぎりにと贈った家伝の名刀です。姉 栄が夫の形見の名刀を手渡し、龍馬の犯した罪を一身に背負って自刃したという美談も存在します。しかし、近年の発見で栄は龍馬脱藩の際にすでに病死していたことが判り、通説は創作と結論付けられています。新たな発見は、史実を詳らかにする半面、時にドラマチックな側面を削ぐこともあります。しかし、それが歴史の醍醐味でもありますが…。
    龍馬が常に持っていた佩刀は、暗殺時にも床の間にあり、北辰一刀流免許皆伝の龍馬はそれを取って応戦しようとしました。龍馬は、一刀目を前額に浴び、佩刀を取ろうと身をひねった瞬間に二刀目を右の肩先から左の背骨にかけて斬られました。三刀目は鞘で受けますが、刀身を斜めに削り、その余勢で前額部を深く薙ぎ払いました。最期は家伝の名刀を抜いて息絶えました。奇しくも龍馬33回目の誕生日でした。暗殺犯については、新撰組犯行説、薩摩藩陰謀説など諸説ありますが、現在のところ、京都見廻組説が有力です。

  • 亀山社中記念館 ピストル<br />龍馬愛用の米国スミス&ウエッソン社製 第?型アーミー32口径6連式ピストルです。龍馬は、桂小五郎に「かの高杉より贈られピストールを以て打ち払い」と手紙に認めています。晋作が上海で購入し、薩長同盟締結に向かう龍馬に贈ったものです。寺田屋事件の際、このピストルで応戦しましたが、手に刀傷を受け、ピストルも紛失しています。<br /><br />実は、龍馬はもう1丁ピストルを保有していました。スミス&ウエッソン社製 第?1/2ファースト・イッシュー22口径5連式です。全長17?の小ぶりのピストルで、龍馬は姉 乙女に「懐剣より小さいが、50間(90m)離れていても人を撃ち殺すことができる」と手紙に認めています。近江屋で刺客に襲われた時にもピストルを持っていましたが、発砲する間もなく凶刃に倒れました。ピストルは遺体の傍らに転がっていたそうですが、これも行方不明になっています。<br />

    亀山社中記念館 ピストル
    龍馬愛用の米国スミス&ウエッソン社製 第?型アーミー32口径6連式ピストルです。龍馬は、桂小五郎に「かの高杉より贈られピストールを以て打ち払い」と手紙に認めています。晋作が上海で購入し、薩長同盟締結に向かう龍馬に贈ったものです。寺田屋事件の際、このピストルで応戦しましたが、手に刀傷を受け、ピストルも紛失しています。

    実は、龍馬はもう1丁ピストルを保有していました。スミス&ウエッソン社製 第?1/2ファースト・イッシュー22口径5連式です。全長17?の小ぶりのピストルで、龍馬は姉 乙女に「懐剣より小さいが、50間(90m)離れていても人を撃ち殺すことができる」と手紙に認めています。近江屋で刺客に襲われた時にもピストルを持っていましたが、発砲する間もなく凶刃に倒れました。ピストルは遺体の傍らに転がっていたそうですが、これも行方不明になっています。

  • 亀山社中記念館 月琴<br />楽器「月琴」は、龍馬の妻 楢崎龍が好んで弾いたという縁で展示されています。お龍は、1866年に8ヶ月間長崎に滞在し、豪商 小曽根家に滞在しながら月琴を習いました。月琴は、その胴の形が月に、音が琴に似ていることが名の由来です。4本の弦と短い棹があり、べっ甲で爪弾きます。江戸時代に中国から長崎経由で伝わった清楽器で、幕末〜明治期にかけて全国に普及し、長崎丸山の芸妓に留まらず、文化人や商家でも盛んに演奏されました。小曽根家にはお龍が弾いたとされる月琴が残されているそうです。亀山社中記念館には長崎市が協賛しているそうですから、是非とも本物を展示していただきたいものです。<br />

    亀山社中記念館 月琴
    楽器「月琴」は、龍馬の妻 楢崎龍が好んで弾いたという縁で展示されています。お龍は、1866年に8ヶ月間長崎に滞在し、豪商 小曽根家に滞在しながら月琴を習いました。月琴は、その胴の形が月に、音が琴に似ていることが名の由来です。4本の弦と短い棹があり、べっ甲で爪弾きます。江戸時代に中国から長崎経由で伝わった清楽器で、幕末〜明治期にかけて全国に普及し、長崎丸山の芸妓に留まらず、文化人や商家でも盛んに演奏されました。小曽根家にはお龍が弾いたとされる月琴が残されているそうです。亀山社中記念館には長崎市が協賛しているそうですから、是非とも本物を展示していただきたいものです。

  • 亀山社中記念館 ぶーつ<br />見るからに大きなサイズ。この靴のサイズからも龍馬の身長が推し量れます。<br /><br />復刻版「龍馬ぶーつ」は、長崎市浜町にある老舗「don shoes(ドンシューズ)」の楠本職人さんはじめ長崎龍馬会が中心となり、写真を元に復元されたそうです。オーダーメイドで1足45000円で販売されています。大河ドラマ「龍馬伝」の放映が始まってから製造が追いつかないそうで、注文から納品まで1.5ヶ月以上かかる「うれしい悲鳴」状態が続いているそうです。ショップは、レディース専門店ですので男性だけだと入り難いかも?<br />詳しくは、次のサイトを参照してください。<br />http://sayuriy.web.fc2.com/nagasaki/nagasaki_saruku32.htm<br />

    亀山社中記念館 ぶーつ
    見るからに大きなサイズ。この靴のサイズからも龍馬の身長が推し量れます。

    復刻版「龍馬ぶーつ」は、長崎市浜町にある老舗「don shoes(ドンシューズ)」の楠本職人さんはじめ長崎龍馬会が中心となり、写真を元に復元されたそうです。オーダーメイドで1足45000円で販売されています。大河ドラマ「龍馬伝」の放映が始まってから製造が追いつかないそうで、注文から納品まで1.5ヶ月以上かかる「うれしい悲鳴」状態が続いているそうです。ショップは、レディース専門店ですので男性だけだと入り難いかも?
    詳しくは、次のサイトを参照してください。
    http://sayuriy.web.fc2.com/nagasaki/nagasaki_saruku32.htm

  • 亀山社中記念館 黒地羽二重の紋服<br />龍馬が着用した黒地羽二重の紋服は、かつて龍馬が滞在した京都河原町の醤油商 近江屋の井口家に残されたもので、坂本家の家紋 「組合わせ角に桔梗紋」 が光ります。着物の丈が145cmあり、龍馬の身長は170cmを超えたと窺え、この時代としては大変大柄です。だから臆することなく外国人とも対等に交渉できたのでしょうか?因みに、本物の紋服は、1940年に京都国立博物館に寄贈されています。<br />坂本家は明智家の後裔ゆえ桔梗紋を用いたとの説もありますが、定かではないそうです。祖先の土佐の初代が坂本太郎五郎で、近江国坂本城主の明智秀満の一門と言われています。秀満は本能寺の変で織田信長を討ち滅ぼした明智光秀の重臣で、光秀の従弟であり娘婿です。坂本家伝承によると、坂本城落城の際、太郎五郎は土佐へ逃れ、長岡郡才谷村に移り住んだとされています。もしこの太郎五郎が龍馬の先祖であれば、明智秀満の家系と言えます。但し、龍馬の両親は共に先代の養子同士の縁組ですので、龍馬には秀満の血筋は繋がっていないそうです。<br />因みに、秀満の父 光安は、遠山景行と名乗る旗本でした。そしてこの家系から、名奉行「遠山の金さん」こと遠山金四郎景元が生まれています。驚くことに、龍馬と金さんは同時代の人物です。

    亀山社中記念館 黒地羽二重の紋服
    龍馬が着用した黒地羽二重の紋服は、かつて龍馬が滞在した京都河原町の醤油商 近江屋の井口家に残されたもので、坂本家の家紋 「組合わせ角に桔梗紋」 が光ります。着物の丈が145cmあり、龍馬の身長は170cmを超えたと窺え、この時代としては大変大柄です。だから臆することなく外国人とも対等に交渉できたのでしょうか?因みに、本物の紋服は、1940年に京都国立博物館に寄贈されています。
    坂本家は明智家の後裔ゆえ桔梗紋を用いたとの説もありますが、定かではないそうです。祖先の土佐の初代が坂本太郎五郎で、近江国坂本城主の明智秀満の一門と言われています。秀満は本能寺の変で織田信長を討ち滅ぼした明智光秀の重臣で、光秀の従弟であり娘婿です。坂本家伝承によると、坂本城落城の際、太郎五郎は土佐へ逃れ、長岡郡才谷村に移り住んだとされています。もしこの太郎五郎が龍馬の先祖であれば、明智秀満の家系と言えます。但し、龍馬の両親は共に先代の養子同士の縁組ですので、龍馬には秀満の血筋は繋がっていないそうです。
    因みに、秀満の父 光安は、遠山景行と名乗る旗本でした。そしてこの家系から、名奉行「遠山の金さん」こと遠山金四郎景元が生まれています。驚くことに、龍馬と金さんは同時代の人物です。

  • 亀山社中記念館<br />坂本龍馬はもちろん、陸奥陽之助(宗光)や近藤長次郎、沢村惣之丞、池内蔵太、長岡謙吉等、大河ドラマでも活躍した名前が連なっています。<br />崇福寺で紹介した宣教師フルベッキは、岩倉具視、大隈重信、勝海舟など数えきれないほど多くの志士たちに国造りを教えていました。龍馬とも接点があり、亀山社中、海援隊の面々も英語や学問を習っています。往時、白人は武士にとって人知を超えた存在だったそうです。つまり、先生と生徒の関係です。こうしたことが明治維新が白人との合作と揶揄される所以となっていますが、実際に行動を起こしたのは志士たちに間違いありません。また、白人たちの真の目的も他にあったことが窺えます。<br /><br />亀山社中は元々亀山焼の窯元に建てられていたこともあり、龍馬愛用の亀山焼きの飯碗や湯呑などが展示されています。南画風の染付けが美しい亀山焼は、1865年に閉窯し、今は幻の焼物と言われています。龍馬は自分の名にある龍が描かれた茶碗をこよなく愛したそうです。<br />

    亀山社中記念館
    坂本龍馬はもちろん、陸奥陽之助(宗光)や近藤長次郎、沢村惣之丞、池内蔵太、長岡謙吉等、大河ドラマでも活躍した名前が連なっています。
    崇福寺で紹介した宣教師フルベッキは、岩倉具視、大隈重信、勝海舟など数えきれないほど多くの志士たちに国造りを教えていました。龍馬とも接点があり、亀山社中、海援隊の面々も英語や学問を習っています。往時、白人は武士にとって人知を超えた存在だったそうです。つまり、先生と生徒の関係です。こうしたことが明治維新が白人との合作と揶揄される所以となっていますが、実際に行動を起こしたのは志士たちに間違いありません。また、白人たちの真の目的も他にあったことが窺えます。

    亀山社中は元々亀山焼の窯元に建てられていたこともあり、龍馬愛用の亀山焼きの飯碗や湯呑などが展示されています。南画風の染付けが美しい亀山焼は、1865年に閉窯し、今は幻の焼物と言われています。龍馬は自分の名にある龍が描かれた茶碗をこよなく愛したそうです。

  • 亀山社中記念館<br />部屋の片隅には龍馬の等身大の写真が掲げられ、ツーショットで記念撮影ができる趣向です。おまけに、小道具として龍馬愛用の佩刀を借用することができます。<br /><br />座敷の奥の部屋には梯子が掛けられ、梯子の途中から隠し部屋の様子を覗き見ることができます。龍馬が身を潜めた、臨場感溢れる場所です。<br /><br />明治維新に係わる物語は大河ドラマなどでも放映されていますが、明治維新で何が変わったのかを視聴者に伝えられていないような気がします。つまり、人物像にスポットが当てられ過ぎ、本質である時代の潮目が少し蔑にされている気がします。明治維新で変わったのは人々の価値観です。つまり、江戸幕府が唯一無二の正義としていた「安定」から、「進歩、発展」へ大きく舵を切ったのが明治維新です。

    亀山社中記念館
    部屋の片隅には龍馬の等身大の写真が掲げられ、ツーショットで記念撮影ができる趣向です。おまけに、小道具として龍馬愛用の佩刀を借用することができます。

    座敷の奥の部屋には梯子が掛けられ、梯子の途中から隠し部屋の様子を覗き見ることができます。龍馬が身を潜めた、臨場感溢れる場所です。

    明治維新に係わる物語は大河ドラマなどでも放映されていますが、明治維新で何が変わったのかを視聴者に伝えられていないような気がします。つまり、人物像にスポットが当てられ過ぎ、本質である時代の潮目が少し蔑にされている気がします。明治維新で変わったのは人々の価値観です。つまり、江戸幕府が唯一無二の正義としていた「安定」から、「進歩、発展」へ大きく舵を切ったのが明治維新です。

  • 龍馬通り<br />中島川の東には日本最古の唐寺 興福寺などの寺が建ち並び、寺町と呼ばれています。龍馬通りの終点は、深祟寺と禅林寺に挟まれたこの地点。この道は、龍馬をはじめ亀山社中の同志たちがどこへ行くにも使っていた坂道です。要所には休憩できる「休み石」も配置され、坂道に迫るように屋根を連ねるこの通りが今でも生活道路であることを物語っています。静かな風情の中、鐘の音が静寂を打ち破ってしみじみと響き渡ります。亀山社中の志士たちも、きっとこの鐘の音を聴きながら時代の移り変わりを感じていたことでしょう。<br /><br />「自分は新しい政府の役人にはならない。世界へ向けて海援隊長をやりたい」。「亀山社中」が「海援隊」へと改称した折、龍馬が西郷隆盛に語った言葉です。<br />龍馬が長崎を基点に世界を巡る活動を続けていたら、今頃日本はどうなっていたでしょうか?ことの良し悪しはともかく、もう少しグローバルな見方のできる人材が数多く輩出されていたのでは?<br />龍馬ゆかりの地を訪ね歩けば、きっとそんな想いが去来することでしょう。<br />

    龍馬通り
    中島川の東には日本最古の唐寺 興福寺などの寺が建ち並び、寺町と呼ばれています。龍馬通りの終点は、深祟寺と禅林寺に挟まれたこの地点。この道は、龍馬をはじめ亀山社中の同志たちがどこへ行くにも使っていた坂道です。要所には休憩できる「休み石」も配置され、坂道に迫るように屋根を連ねるこの通りが今でも生活道路であることを物語っています。静かな風情の中、鐘の音が静寂を打ち破ってしみじみと響き渡ります。亀山社中の志士たちも、きっとこの鐘の音を聴きながら時代の移り変わりを感じていたことでしょう。

    「自分は新しい政府の役人にはならない。世界へ向けて海援隊長をやりたい」。「亀山社中」が「海援隊」へと改称した折、龍馬が西郷隆盛に語った言葉です。
    龍馬が長崎を基点に世界を巡る活動を続けていたら、今頃日本はどうなっていたでしょうか?ことの良し悪しはともかく、もう少しグローバルな見方のできる人材が数多く輩出されていたのでは?
    龍馬ゆかりの地を訪ね歩けば、きっとそんな想いが去来することでしょう。

  • 東林山 深崇寺<br />1615年に僧 浄慶が現在地に創建。西本願寺の末寺ゆえ、親鸞聖人像が置かれています。寺町に現存する最古の寺院であり、幾度か修復されていますが、山門や本堂、鐘鼓楼にはその風格が漂っています。

    東林山 深崇寺
    1615年に僧 浄慶が現在地に創建。西本願寺の末寺ゆえ、親鸞聖人像が置かれています。寺町に現存する最古の寺院であり、幾度か修復されていますが、山門や本堂、鐘鼓楼にはその風格が漂っています。

  • 東明山 興福寺<br />総朱丹塗りの豪壮雄大の山門から、赤寺とも呼ばれています。日本最古の黄檗禅宗の唐寺で、1620年頃に建てられた航海安全を祈願した小さな庵が始まりです。初代〜9代までが唐僧で、黄檗宗開祖の隠元禅師はこの寺の住職として1年滞在しています。隠元禅師は「いんげん豆」を伝えたことでも有名で、2代の黙子如定は日本最古の石橋の眼鏡橋を架設しました。第3代の逸然は、南画の祖と言われています。往時のインフラや文化など様々な分野で中国由来の技術が重宝されていたことを物語っています。 <br />

    東明山 興福寺
    総朱丹塗りの豪壮雄大の山門から、赤寺とも呼ばれています。日本最古の黄檗禅宗の唐寺で、1620年頃に建てられた航海安全を祈願した小さな庵が始まりです。初代〜9代までが唐僧で、黄檗宗開祖の隠元禅師はこの寺の住職として1年滞在しています。隠元禅師は「いんげん豆」を伝えたことでも有名で、2代の黙子如定は日本最古の石橋の眼鏡橋を架設しました。第3代の逸然は、南画の祖と言われています。往時のインフラや文化など様々な分野で中国由来の技術が重宝されていたことを物語っています。

  • 東明山 興福寺 山門上部の扁額「東明山」<br />隠元禅師らの書の素晴らしさは、一心不乱に文字に集中して筆を執るため、禅師自身の個性に溢れ、体感温度を持つ点にあると言われています。様々な修業を積み重ね、禅宗の思想を筆に込めた躍動感溢れる隠元禅師の筆致を是非じっくりと鑑賞してみてください。

    東明山 興福寺 山門上部の扁額「東明山」
    隠元禅師らの書の素晴らしさは、一心不乱に文字に集中して筆を執るため、禅師自身の個性に溢れ、体感温度を持つ点にあると言われています。様々な修業を積み重ね、禅宗の思想を筆に込めた躍動感溢れる隠元禅師の筆致を是非じっくりと鑑賞してみてください。

  • 一覧橋<br />興福寺の山門を過ぎた所を右折すると一覧橋に通じます。<br />初代一覧橋は1657年に架設され、麹屋町と古町を繋いでいました。1982年の長崎大水害により崩壊し、1986年に昭和の石橋として中国福州市産の花崗岩を使ってコンクリートアーチ橋として再架設されています。名の由来は、最初の架設者の豪商かつ唐通事の高一覧に因んでいます。<br /><br />橋の先にあるのは光永寺。この寺は1879年の第一回長崎県議会の議場となりました。また、往時19歳であった福沢諭吉の寄宿地でもあります。諭吉は、豊前国中津藩の下級武士の子でしたが、1854年に砲術の勉強という名目で藩から長崎遊学の許可を得て来崎しています。中津藩家老の子 奥平壱岐がやはり砲術研究のためここに寄宿。壱岐の世話で諭吉もこの寺に入ることになったそうです。約1年間この寺に留まって勉学に励んだと言われています。 <br />

    一覧橋
    興福寺の山門を過ぎた所を右折すると一覧橋に通じます。
    初代一覧橋は1657年に架設され、麹屋町と古町を繋いでいました。1982年の長崎大水害により崩壊し、1986年に昭和の石橋として中国福州市産の花崗岩を使ってコンクリートアーチ橋として再架設されています。名の由来は、最初の架設者の豪商かつ唐通事の高一覧に因んでいます。

    橋の先にあるのは光永寺。この寺は1879年の第一回長崎県議会の議場となりました。また、往時19歳であった福沢諭吉の寄宿地でもあります。諭吉は、豊前国中津藩の下級武士の子でしたが、1854年に砲術の勉強という名目で藩から長崎遊学の許可を得て来崎しています。中津藩家老の子 奥平壱岐がやはり砲術研究のためここに寄宿。壱岐の世話で諭吉もこの寺に入ることになったそうです。約1年間この寺に留まって勉学に励んだと言われています。

  • ハートストーン<br />1982年の豪雨で眼鏡橋と袋橋以外は全部流され、護岸も壊れました。2006年に中島川左岸の護岸工事が完成し、全長262m、断面幅5m、高さ6mのバイパスが完成しました。その時、以前の石垣を復元しながらも、長崎国際観光コンベンション協会 観光推進統括部長 股張一男氏の洒落心から、いくつかのハート形の石が嵌め込まれました。合計20個あり、愛を願うパワースポットになっているそうです。<br /><br />TV「ナニコレ珍百景」で放映された最も有名なハート石は、眼鏡橋の上流にある魚市橋から眼鏡橋へ続く左岸にある欄干の2つ目の柱の真下にあります。形も整っていますが、さらに驚かされるのが、そのハート石の右上に「i = アイ」形の石があることです。半信半疑ながら魚市橋左岸の階段を降りて調べてみます。するとハート石の右上には縦長の石が嵌っています。そして、縦長の石の上には、点を象った楕円形の石があるではありませんか。「上の『点』と下の『棒』で小文字の『i』になっています。これで『アイ(i)』・『ラブ(ハート)』となるわけです。とても偶然の産物とは思えません。

    ハートストーン
    1982年の豪雨で眼鏡橋と袋橋以外は全部流され、護岸も壊れました。2006年に中島川左岸の護岸工事が完成し、全長262m、断面幅5m、高さ6mのバイパスが完成しました。その時、以前の石垣を復元しながらも、長崎国際観光コンベンション協会 観光推進統括部長 股張一男氏の洒落心から、いくつかのハート形の石が嵌め込まれました。合計20個あり、愛を願うパワースポットになっているそうです。

    TV「ナニコレ珍百景」で放映された最も有名なハート石は、眼鏡橋の上流にある魚市橋から眼鏡橋へ続く左岸にある欄干の2つ目の柱の真下にあります。形も整っていますが、さらに驚かされるのが、そのハート石の右上に「i = アイ」形の石があることです。半信半疑ながら魚市橋左岸の階段を降りて調べてみます。するとハート石の右上には縦長の石が嵌っています。そして、縦長の石の上には、点を象った楕円形の石があるではありませんか。「上の『点』と下の『棒』で小文字の『i』になっています。これで『アイ(i)』・『ラブ(ハート)』となるわけです。とても偶然の産物とは思えません。

  • 黙子如定禅師像<br />眼鏡橋を架設したことで知られる、興福寺第2代住持の黙子如定禅師像。眼鏡橋は、元々は興福寺の参詣者のために中島川に架けられた、いわば興福寺の檀家さん専用の橋だったそうです。しかし、興福寺への参道の役割を担う橋ならば橋の先に興福寺があるはずなのですが、実はそうではなく、興福寺へ直線で繋がる橋は一覧橋です。実は、唐寺は、魔除けのために山門から本堂まで直線とせず、ずらされた伽羅配置が用いられているからなのだそうです。そういえば、崇福寺もジグザグになっていました。<br />

    黙子如定禅師像
    眼鏡橋を架設したことで知られる、興福寺第2代住持の黙子如定禅師像。眼鏡橋は、元々は興福寺の参詣者のために中島川に架けられた、いわば興福寺の檀家さん専用の橋だったそうです。しかし、興福寺への参道の役割を担う橋ならば橋の先に興福寺があるはずなのですが、実はそうではなく、興福寺へ直線で繋がる橋は一覧橋です。実は、唐寺は、魔除けのために山門から本堂まで直線とせず、ずらされた伽羅配置が用いられているからなのだそうです。そういえば、崇福寺もジグザグになっていました。

  • 眼鏡橋 国重要文化財<br />歴史の面影を遺すもののひとつに、中島川に架かる石橋群があります。中島川は市街中心を流れる母なる川で、港から貿易品を運ぶ水路として活用されてきました。その中の第10橋が本格的な石橋としては日本最古とされるアーチ式の眼鏡橋です。1960年に国の重要文化財に指定され、日本橋(東京)、錦帯橋(岩国)と共に日本三名橋のひとつに数えられています。因みに、この眼鏡橋は皇居にある二重橋のモデルでもあり、日本の石橋架設のロールモデルとも言える貴重な橋だそうです。

    眼鏡橋 国重要文化財
    歴史の面影を遺すもののひとつに、中島川に架かる石橋群があります。中島川は市街中心を流れる母なる川で、港から貿易品を運ぶ水路として活用されてきました。その中の第10橋が本格的な石橋としては日本最古とされるアーチ式の眼鏡橋です。1960年に国の重要文化財に指定され、日本橋(東京)、錦帯橋(岩国)と共に日本三名橋のひとつに数えられています。因みに、この眼鏡橋は皇居にある二重橋のモデルでもあり、日本の石橋架設のロールモデルとも言える貴重な橋だそうです。

  • 眼鏡橋<br />眼鏡橋は、1634年に興福寺の2代目住持の唐僧 黙子如定禅師によって架けられた唐風石橋。橋長22m、幅3.65m、川面までの高さは5.46m。名の由来は、川面に映った影が双円を描き眼鏡に見えるのでズバリ直球で眼鏡橋。1882年、正式に命名されています。本来車両の通行も可能ですが、石積みに緩みが目立つことから、1953年に車両の通行を禁じ、階段を設けて人道橋としています。1647年の洪水で被害を受け、翌年に石工 平戸好夢によって最初の大修理が行われました。それ以後、度重なる洪水にも流出は免れてきましたが、1982年の長崎大水害では半壊し、翌年に復元されて現在に至っています。<br />

    眼鏡橋
    眼鏡橋は、1634年に興福寺の2代目住持の唐僧 黙子如定禅師によって架けられた唐風石橋。橋長22m、幅3.65m、川面までの高さは5.46m。名の由来は、川面に映った影が双円を描き眼鏡に見えるのでズバリ直球で眼鏡橋。1882年、正式に命名されています。本来車両の通行も可能ですが、石積みに緩みが目立つことから、1953年に車両の通行を禁じ、階段を設けて人道橋としています。1647年の洪水で被害を受け、翌年に石工 平戸好夢によって最初の大修理が行われました。それ以後、度重なる洪水にも流出は免れてきましたが、1982年の長崎大水害では半壊し、翌年に復元されて現在に至っています。

  • 眼鏡橋<br />橋の傍らに咲いている花桃です。薄桃色の花が多いのですが、こちらは鮮やかな紅色をしています。<br /><br />眼鏡橋は2回目ですが、以前訪れた時は何の知識も持たず、観光名所としてただ漠然と眺めていただけでした。橋の生い立ちを知ると、かけがえのないものに見えてくるから不思議です。

    眼鏡橋
    橋の傍らに咲いている花桃です。薄桃色の花が多いのですが、こちらは鮮やかな紅色をしています。

    眼鏡橋は2回目ですが、以前訪れた時は何の知識も持たず、観光名所としてただ漠然と眺めていただけでした。橋の生い立ちを知ると、かけがえのないものに見えてくるから不思議です。

  • 眼鏡橋<br />こちらは薄桃色の花桃です。<br /><br />中島川には沢山の石橋が架けられています。何故これほど必要だったのでしょうか?橋を架けるには莫大な費用が掛かり、仮に資金があっても石工や石材の調達は困難を極めたはずです。実際、長崎奉行所が架けたのはひとつだけです。残りの橋は僧や唐通事など中国出身者や日本の貿易商人などの寄附や大衆の浄財で架けられたそうです。1600年代架設の橋が多いことから、この時期に競って架けられたと思われます。そして、中島川に交差する道ごとに橋があるのは、強い信仰心から公共奉仕の意志を持ち、道ごとにあったお寺への参道として架けられたと考えられます。従って、これらの石橋群は、日中両国の大衆の手による「友好の架け橋」と呼ぶに相応しい橋です。往時の方々が昨今の日中事情を知ったら、さぞかし失望されることでしょう。<br />石橋群は場所によって3つの役割を担ったそうです。上流の大手橋や一の瀬橋、中川橋は長崎に入る街道筋。長崎に来るにはこの橋を通らねばならず、「江戸と長崎を結ぶ橋」として政治的にも文化交流にも役割を担っていました。桃渓橋から袋橋までの10橋は、両岸に商家が建ち並ぶ最も賑やかな場所に架けられ、その地域住民の生活の便宜や信仰・産業の発展に大きく寄与した「生活路としての橋」。南石橋は、茂木街道が島原に通じる重要路線の一端であったとされ、「奉行が人の出入りを見る橋」。残念ながら南石橋は現存していません。<br />

    眼鏡橋
    こちらは薄桃色の花桃です。

    中島川には沢山の石橋が架けられています。何故これほど必要だったのでしょうか?橋を架けるには莫大な費用が掛かり、仮に資金があっても石工や石材の調達は困難を極めたはずです。実際、長崎奉行所が架けたのはひとつだけです。残りの橋は僧や唐通事など中国出身者や日本の貿易商人などの寄附や大衆の浄財で架けられたそうです。1600年代架設の橋が多いことから、この時期に競って架けられたと思われます。そして、中島川に交差する道ごとに橋があるのは、強い信仰心から公共奉仕の意志を持ち、道ごとにあったお寺への参道として架けられたと考えられます。従って、これらの石橋群は、日中両国の大衆の手による「友好の架け橋」と呼ぶに相応しい橋です。往時の方々が昨今の日中事情を知ったら、さぞかし失望されることでしょう。
    石橋群は場所によって3つの役割を担ったそうです。上流の大手橋や一の瀬橋、中川橋は長崎に入る街道筋。長崎に来るにはこの橋を通らねばならず、「江戸と長崎を結ぶ橋」として政治的にも文化交流にも役割を担っていました。桃渓橋から袋橋までの10橋は、両岸に商家が建ち並ぶ最も賑やかな場所に架けられ、その地域住民の生活の便宜や信仰・産業の発展に大きく寄与した「生活路としての橋」。南石橋は、茂木街道が島原に通じる重要路線の一端であったとされ、「奉行が人の出入りを見る橋」。残念ながら南石橋は現存していません。

  • 袋橋<br />1982年の長崎大水害では、被害を半壊に留めました。架設年代は不詳ですが、一説には欄干親柱の擬宝珠造りからみて眼鏡橋に次ぐ古いもので慶安年間(1648〜1652年)と推定されています。もっぱら眼鏡橋を撮影する人で賑わう気の毒な橋ですが、実は構造的には素晴らしく、歴史的にも価値の高い橋だそうです。その頑丈さを物語るかのように現在でも車が走っています。そのため観光客は、「まさか!」という目で運転手を睨むことになります。今では中島川に架かる橋の中で、本物の石橋は「眼鏡橋」と上流にある「桃渓橋」、そしてこの「袋橋」だけだそうです。<br />

    袋橋
    1982年の長崎大水害では、被害を半壊に留めました。架設年代は不詳ですが、一説には欄干親柱の擬宝珠造りからみて眼鏡橋に次ぐ古いもので慶安年間(1648〜1652年)と推定されています。もっぱら眼鏡橋を撮影する人で賑わう気の毒な橋ですが、実は構造的には素晴らしく、歴史的にも価値の高い橋だそうです。その頑丈さを物語るかのように現在でも車が走っています。そのため観光客は、「まさか!」という目で運転手を睨むことになります。今では中島川に架かる橋の中で、本物の石橋は「眼鏡橋」と上流にある「桃渓橋」、そしてこの「袋橋」だけだそうです。

  • 袋橋<br />袋橋も旧町名の袋町に由来します。欄干に刻まれた文字は、名付け親の西道仙 筆だそうです。<br />それぞれの橋名も、往時の風情を偲ばせるものばかりです。実は1881年までは、橋には定まった名はなく、長崎区常置委員だった西道仙が命名したものです。かつて魚市場があり、新鮮な魚が運ばれていたことに由来する「魚市橋」。遊廓へ出向く武士達が、橋を渡るのに堂々と渡るには憚られるので編笠を着けて渡るようになったことに由来する「編笠橋」。そして、死刑囚が市中引き回しの途中に渡らなければならなかったため、橋際に阿弥陀堂が建てられ、この橋を渡る囚人たちが来世は極楽に生まれるようにと結縁されたことに由来する「阿弥陀橋」。石橋の名前には様々な由来があり、それを知ればこそ、橋巡りにもひと味違った趣が感じられます。<br />

    袋橋
    袋橋も旧町名の袋町に由来します。欄干に刻まれた文字は、名付け親の西道仙 筆だそうです。
    それぞれの橋名も、往時の風情を偲ばせるものばかりです。実は1881年までは、橋には定まった名はなく、長崎区常置委員だった西道仙が命名したものです。かつて魚市場があり、新鮮な魚が運ばれていたことに由来する「魚市橋」。遊廓へ出向く武士達が、橋を渡るのに堂々と渡るには憚られるので編笠を着けて渡るようになったことに由来する「編笠橋」。そして、死刑囚が市中引き回しの途中に渡らなければならなかったため、橋際に阿弥陀堂が建てられ、この橋を渡る囚人たちが来世は極楽に生まれるようにと結縁されたことに由来する「阿弥陀橋」。石橋の名前には様々な由来があり、それを知ればこそ、橋巡りにもひと味違った趣が感じられます。

  • 河童像「ぼんたくん」<br />袋橋の先の公園の一角にある、故清水昆氏の河童像「ぼんたくん」。長崎大水害を忘れないためのモニュメントだそうです。ぼんたくんの腕やクジラの背中などそこかしこが磨り減っている様子から、それなりに親しまれていることが判ります。<br />夫人の清水恒子さんの寄贈によるものです。<br />「上潮にのって迷子になり中島川をのぼってきた子鯨を見つけて、少年かっぱのぼんたくん 背中に飛び乗り大喜び、昭和57年7月の大水害を忘れぬためにも、『ぼんたくん』を可愛がってください」。<br />鯨見よ夕月縦に真半分  狐音(崑の俳号) <br />平成四年十月六日 建立 <br />

    河童像「ぼんたくん」
    袋橋の先の公園の一角にある、故清水昆氏の河童像「ぼんたくん」。長崎大水害を忘れないためのモニュメントだそうです。ぼんたくんの腕やクジラの背中などそこかしこが磨り減っている様子から、それなりに親しまれていることが判ります。
    夫人の清水恒子さんの寄贈によるものです。
    「上潮にのって迷子になり中島川をのぼってきた子鯨を見つけて、少年かっぱのぼんたくん 背中に飛び乗り大喜び、昭和57年7月の大水害を忘れぬためにも、『ぼんたくん』を可愛がってください」。
    鯨見よ夕月縦に真半分  狐音(崑の俳号)
    平成四年十月六日 建立

  • JR長崎駅<br />路面電車「賑橋」駅から「築町」経由でJR長崎駅へ17:00過ぎに戻ってきました。<br />このステンドグラスは、駅の改札口の上部にあるものです。<br />平和公園〜眼鏡橋〜崇福寺の絵柄です。<br />

    JR長崎駅
    路面電車「賑橋」駅から「築町」経由でJR長崎駅へ17:00過ぎに戻ってきました。
    このステンドグラスは、駅の改札口の上部にあるものです。
    平和公園〜眼鏡橋〜崇福寺の絵柄です。

  • JR長崎駅<br />左にあるのは大浦天主堂。中央にはグラバー園。右にある寺院はどこでしょう?<br />中華街とは趣きがちょっと異なるような…。<br />

    JR長崎駅
    左にあるのは大浦天主堂。中央にはグラバー園。右にある寺院はどこでしょう?
    中華街とは趣きがちょっと異なるような…。

  • JR長崎駅<br />稲佐山~孔子廟~出島の絵柄です。<br /><br />駅構内の総合観光案内所で稲佐山ロープウェイ前売往復乗車券を20%割引でゲットします。案内所は駅の待合室の一部を間借りしています。セルフサービスのドリンクショップも併設されており、ここで温かい飲物で一息つき、長崎市内観光のメインイベントならびに有終の美を飾る稲佐山夜景観賞に向かいます。<br />時刻は17:30。日の入りは18:17なので夕景を見るにはそろそろ出発の時間です。市内は帰宅ラッシュと重なるとバスの時間が読めないので、満を持するためにも早目に行動します。<br />総合観光案内所に立ち寄れない方は、長崎ロープウェイHPから10%割引チケットがゲットできます。印刷して窓口で提示してください。<br />http://www.nagasaki-ropeway.jp/facility/coupon.php<br /><br />次回は、④稲佐山 夜景観賞編をお届けします。

    JR長崎駅
    稲佐山~孔子廟~出島の絵柄です。

    駅構内の総合観光案内所で稲佐山ロープウェイ前売往復乗車券を20%割引でゲットします。案内所は駅の待合室の一部を間借りしています。セルフサービスのドリンクショップも併設されており、ここで温かい飲物で一息つき、長崎市内観光のメインイベントならびに有終の美を飾る稲佐山夜景観賞に向かいます。
    時刻は17:30。日の入りは18:17なので夕景を見るにはそろそろ出発の時間です。市内は帰宅ラッシュと重なるとバスの時間が読めないので、満を持するためにも早目に行動します。
    総合観光案内所に立ち寄れない方は、長崎ロープウェイHPから10%割引チケットがゲットできます。印刷して窓口で提示してください。
    http://www.nagasaki-ropeway.jp/facility/coupon.php

    次回は、④稲佐山 夜景観賞編をお届けします。

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