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神戸二社詣の二社目は、高速神戸駅から至近距離にある湊川神社へ参拝します。湊川神社は、1872年に明治天皇が南北朝時代に活躍した名将 楠木正成を祀って創建された比較的新しい神社です。地元では「楠公(なんこう)さん」の愛称で親しまれ、正成の智・仁・勇にあやかろうと参拝者が列をなします。初代兵庫県知事 伊藤博文らの請願により建造され、国体に功績を与えた人物を祀る神社ゆえに別格官幣社と呼ばれます。国の英雄の祭祀を政府以外の者に行わせるわけにはいかなかったのでしょう。また、天満宮の様に人=楠木正成を祀っているのもこの神社の特徴と言えます。 <br />湊川神社は神戸七福神巡りの毘沙門天に当たるのですが、毘沙門天の姿はどこにも見当たりません。何故なのでしょう?実は、「毘沙門天」の別名は「多聞天」。楠木正成は、お母さんが信貴山の毘沙門天に百日詣の末授かったことから、毘沙門天の申し子と言われ、幼名「多聞」と呼ばれたため、正成=多聞天=毘沙門天ということのようです。<br />ご利益は、開運招福、除災厄除、家内安全、交通安全、良縁良友、親子、夫婦円満、疾病退散など。<br /><br />湊川神社のHPにある境内マップです。<br />http://www.minatogawajinja.or.jp/history/guide.html<br />

萬福笑來 神戸二社詣<後編>湊川神社編

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2014/01/03 - 2014/01/03

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

神戸二社詣の二社目は、高速神戸駅から至近距離にある湊川神社へ参拝します。湊川神社は、1872年に明治天皇が南北朝時代に活躍した名将 楠木正成を祀って創建された比較的新しい神社です。地元では「楠公(なんこう)さん」の愛称で親しまれ、正成の智・仁・勇にあやかろうと参拝者が列をなします。初代兵庫県知事 伊藤博文らの請願により建造され、国体に功績を与えた人物を祀る神社ゆえに別格官幣社と呼ばれます。国の英雄の祭祀を政府以外の者に行わせるわけにはいかなかったのでしょう。また、天満宮の様に人=楠木正成を祀っているのもこの神社の特徴と言えます。 
湊川神社は神戸七福神巡りの毘沙門天に当たるのですが、毘沙門天の姿はどこにも見当たりません。何故なのでしょう?実は、「毘沙門天」の別名は「多聞天」。楠木正成は、お母さんが信貴山の毘沙門天に百日詣の末授かったことから、毘沙門天の申し子と言われ、幼名「多聞」と呼ばれたため、正成=多聞天=毘沙門天ということのようです。
ご利益は、開運招福、除災厄除、家内安全、交通安全、良縁良友、親子、夫婦円満、疾病退散など。

湊川神社のHPにある境内マップです。
http://www.minatogawajinja.or.jp/history/guide.html

旅行の満足度
5.0

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  • 湊川神社 表門<br />高速神戸駅の地下道から地上に上がるといよいよ初詣気分に拍車がかかります。<br />いつもながら総欅造りの重厚感ある荘厳な表門に圧倒されます。<br />参道には露店が数珠繋がりになっています。

    湊川神社 表門
    高速神戸駅の地下道から地上に上がるといよいよ初詣気分に拍車がかかります。
    いつもながら総欅造りの重厚感ある荘厳な表門に圧倒されます。
    参道には露店が数珠繋がりになっています。

  • 湊川神社 表門<br />表門に掲げられた扁額の社号は、明治天皇の揮毫です。<br />何故、天皇が創建したのか?歴史を紐解くと長くなるので、ここではダイジェストに留めます。<br />南北朝時代、足利尊氏(北朝)が朝廷に兵を向けた「延元の戦い」で、楠木正成は後醍醐天皇(南朝)に誠忠し、正義を以て生涯を貫き、現在の湊川神社の境内で殉節しました。そのため、正成は、智・仁・勇の三徳を備えた聖人と仰がれました。また、その忠義や戦いぶりは武士へも多大な影響を与え、日本史上これほど後世に影響を及ぼした人物はいないと言われるほどです。幕末には勤王の志士たちも正成を理想像と崇拝しました。墓前に参った人物には、吉田松陰、坂本龍馬、三条実美、高杉晋作、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、勝海舟、シーボルトなど錚々たる名が連ねられています。こうして幕末から明治維新にかけ、正成への景仰の気運が昂じ、ご神霊を奉斎したいという国民運動が巻き起こりました。そこで明治天皇は、1868年(明治元年)に正成の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、当時のお金で千両という破格の大金を下賜されたのです。<br />坂本龍馬も正成を崇拝していたそうで、この地で「月と日の むかしをしのぶ みなと川 流れて清き 菊の下水」という歌を詠んでいます。<br /><br />

    湊川神社 表門
    表門に掲げられた扁額の社号は、明治天皇の揮毫です。
    何故、天皇が創建したのか?歴史を紐解くと長くなるので、ここではダイジェストに留めます。
    南北朝時代、足利尊氏(北朝)が朝廷に兵を向けた「延元の戦い」で、楠木正成は後醍醐天皇(南朝)に誠忠し、正義を以て生涯を貫き、現在の湊川神社の境内で殉節しました。そのため、正成は、智・仁・勇の三徳を備えた聖人と仰がれました。また、その忠義や戦いぶりは武士へも多大な影響を与え、日本史上これほど後世に影響を及ぼした人物はいないと言われるほどです。幕末には勤王の志士たちも正成を理想像と崇拝しました。墓前に参った人物には、吉田松陰、坂本龍馬、三条実美、高杉晋作、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、勝海舟、シーボルトなど錚々たる名が連ねられています。こうして幕末から明治維新にかけ、正成への景仰の気運が昂じ、ご神霊を奉斎したいという国民運動が巻き起こりました。そこで明治天皇は、1868年(明治元年)に正成の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、当時のお金で千両という破格の大金を下賜されたのです。
    坂本龍馬も正成を崇拝していたそうで、この地で「月と日の むかしをしのぶ みなと川 流れて清き 菊の下水」という歌を詠んでいます。

  • 湊川神社 御墓所 (国指定文化財史蹟)<br />表門を潜ってすぐ右へ折れます。参道は一方通行になっているため、先に御墓所へお参りしておきます。楠木正成以下一族等の墓所として境内東南隅に佇んでいます。<br />正成の生き様は多くの人の心を揺り動かしました。墓所がそれを物語っています。墓所は合戦後荒れ果てていましたが、史蹟に敬意を払った豊臣秀吉はこの地を免租地とし、江戸時代初期には尼崎城主 青山幸利が五輪塔を建てて梅松を植えて墓標とし、1692年には正成を深く尊敬した徳川光圀が自ら筆を執り「嗚呼忠臣楠子之墓」と揮毫した墓碑を建立して菩提所としました。正成の忠義に心を打たれたひとりには松尾芭蕉も数えられ、「なでし子にかゝる涙や楠の露」の句を詠んでいます。<br />尚、正成の首は、足利尊氏の命によって生まれ故郷の河内国に戻され、楠木家菩提寺の観心寺に大楠公首塚として祀られているそうです。<br /><br />

    湊川神社 御墓所 (国指定文化財史蹟)
    表門を潜ってすぐ右へ折れます。参道は一方通行になっているため、先に御墓所へお参りしておきます。楠木正成以下一族等の墓所として境内東南隅に佇んでいます。
    正成の生き様は多くの人の心を揺り動かしました。墓所がそれを物語っています。墓所は合戦後荒れ果てていましたが、史蹟に敬意を払った豊臣秀吉はこの地を免租地とし、江戸時代初期には尼崎城主 青山幸利が五輪塔を建てて梅松を植えて墓標とし、1692年には正成を深く尊敬した徳川光圀が自ら筆を執り「嗚呼忠臣楠子之墓」と揮毫した墓碑を建立して菩提所としました。正成の忠義に心を打たれたひとりには松尾芭蕉も数えられ、「なでし子にかゝる涙や楠の露」の句を詠んでいます。
    尚、正成の首は、足利尊氏の命によって生まれ故郷の河内国に戻され、楠木家菩提寺の観心寺に大楠公首塚として祀られているそうです。

  • 湊川神社 御墓所 嗚呼忠臣楠子の墓<br />徳川光圀時代から、水戸藩は後醍醐天皇が樹立した南朝贔屓だったと伝えられています。石碑の表には光圀自らの揮毫になる「嗚呼…」の8文字、碑陰には朱舜水の「楠公賛」の文章を京都の書家 岡村元春に書かせたものが刻まれているそうです。「楠公賛」とは、狩野探幽が描いた桜井の別れの図を賛した文章です。朱舜水は、『太平記』と出会い、南朝方の正成の忠義に感銘を受けたそうです。<br />実は、この墓碑創建には、立案者であり出資者である光圀の他、重要な役割を果たす人物が2人存在します。ひとりは、光圀の家臣「助さん」として知られる佐々介三郎宗淳。もうひとりは、湊川の戦いで焼亡し、荒れ果てた廣嚴寺の復興に尽力していた僧侶 千巖。光圀は、南朝正統論を裏付ける史料を入手するために史臣に全国を探索させ、その折、宗淳は楠公戦没の地の廣嚴寺を尋ねたのでした。宗淳は、坂本村にあった荒れ果てた正成の墓を見つけ、千巌和尚の墓地整備嘆願を光圀に報告しました。これが契機となり、やがて結実するのです。<br />

    湊川神社 御墓所 嗚呼忠臣楠子の墓
    徳川光圀時代から、水戸藩は後醍醐天皇が樹立した南朝贔屓だったと伝えられています。石碑の表には光圀自らの揮毫になる「嗚呼…」の8文字、碑陰には朱舜水の「楠公賛」の文章を京都の書家 岡村元春に書かせたものが刻まれているそうです。「楠公賛」とは、狩野探幽が描いた桜井の別れの図を賛した文章です。朱舜水は、『太平記』と出会い、南朝方の正成の忠義に感銘を受けたそうです。
    実は、この墓碑創建には、立案者であり出資者である光圀の他、重要な役割を果たす人物が2人存在します。ひとりは、光圀の家臣「助さん」として知られる佐々介三郎宗淳。もうひとりは、湊川の戦いで焼亡し、荒れ果てた廣嚴寺の復興に尽力していた僧侶 千巖。光圀は、南朝正統論を裏付ける史料を入手するために史臣に全国を探索させ、その折、宗淳は楠公戦没の地の廣嚴寺を尋ねたのでした。宗淳は、坂本村にあった荒れ果てた正成の墓を見つけ、千巌和尚の墓地整備嘆願を光圀に報告しました。これが契機となり、やがて結実するのです。

  • 湊川神社 御墓所 嗚呼忠臣楠子の墓<br />徳川光圀揮毫の墓碑は奇妙にも亀の背に乗せられていますが、この亀は伝説上の生物「贔屓(ひき)」です。龍が生んだ9頭の神獣・竜生九子のひとつで、その姿は亀に似ています。重いものを背負うことが好きな生物と伝えられ、「贔屓にする」の語源となっています。古来、石柱や石碑の土台の装飾に用いられることが多く、亀趺(きふ)とも呼ばれます。<br />諺「贔屓の引き倒し」とは、「ある者を贔屓し過ぎると、かえってその者を不利にするから、その者のためにはならない」という意味で、柱の土台である贔屓を引っぱると柱が倒れることに由来します。<br /><br />朱舜水は明から亡命した儒学者です。日本で最初にラーメンを食べたのは光圀ですが、それを伝えた人物として名が通っています。<br />当時、明朝が滅亡し、清朝が勃興し、明朝の皇族や遺臣は亡命王朝である南明朝を作って復興を企んでいました。その南明には鄭成功という中国と日本人のハーフの重臣がおり、日本に救援を求めます。この時、外交官として日本に派遣されたのが朱舜水。因みに、鄭成功は、歌舞伎「国姓爺合戦」の主人公、司馬遼太郎 著『大盗禅師』でも重要人物となっています。<br />結局、明の復興は失敗に終わり、朱舜水は日本に亡命。光圀は、彼を招聘し江戸に定住させます。ここで彼が中華麺を調理し、光圀に献上したのが日本ラーメン史の起源とされています。当時のラーメンは今と同様にスープには鶏や豚の出汁を使いましたが、五辛という薬味が必須で、これにより味は薬膳料理に近かったそうです。ただ当時は悪名高い「生類憐れみの令」の真っ最中。家臣は、鶏や豚の出汁を超嫌がったに違いないのですが…。<br />

    湊川神社 御墓所 嗚呼忠臣楠子の墓
    徳川光圀揮毫の墓碑は奇妙にも亀の背に乗せられていますが、この亀は伝説上の生物「贔屓(ひき)」です。龍が生んだ9頭の神獣・竜生九子のひとつで、その姿は亀に似ています。重いものを背負うことが好きな生物と伝えられ、「贔屓にする」の語源となっています。古来、石柱や石碑の土台の装飾に用いられることが多く、亀趺(きふ)とも呼ばれます。
    諺「贔屓の引き倒し」とは、「ある者を贔屓し過ぎると、かえってその者を不利にするから、その者のためにはならない」という意味で、柱の土台である贔屓を引っぱると柱が倒れることに由来します。

    朱舜水は明から亡命した儒学者です。日本で最初にラーメンを食べたのは光圀ですが、それを伝えた人物として名が通っています。
    当時、明朝が滅亡し、清朝が勃興し、明朝の皇族や遺臣は亡命王朝である南明朝を作って復興を企んでいました。その南明には鄭成功という中国と日本人のハーフの重臣がおり、日本に救援を求めます。この時、外交官として日本に派遣されたのが朱舜水。因みに、鄭成功は、歌舞伎「国姓爺合戦」の主人公、司馬遼太郎 著『大盗禅師』でも重要人物となっています。
    結局、明の復興は失敗に終わり、朱舜水は日本に亡命。光圀は、彼を招聘し江戸に定住させます。ここで彼が中華麺を調理し、光圀に献上したのが日本ラーメン史の起源とされています。当時のラーメンは今と同様にスープには鶏や豚の出汁を使いましたが、五辛という薬味が必須で、これにより味は薬膳料理に近かったそうです。ただ当時は悪名高い「生類憐れみの令」の真っ最中。家臣は、鶏や豚の出汁を超嫌がったに違いないのですが…。

  • 湊川神社 徳川光圀のブロンズ像<br />正成の墓所の脇には、正成の墓を見守るように徳川光圀像が佇んでいます。1955年に資料に基づき、人間国宝でもあった彫刻家 平櫛田中の木彫原型により、伊藤忠雄氏によって等身大に鋳造されたブロンズ像で、独特の風貌を呈しています。光圀が正成の忠誠心を評価し、供養したことが湊川神社の誕生に奏功したことを受け、神社の生みの親として光圀を讃えているのでしょう。光圀は、水戸西山の梅林に居を構えて世間を離れ静かに暮らしていたことから、西山公とも言われています。<br /><br />平櫛田中は、1872年に岡山県井原市に生まれた遅咲きの天才です。大阪の人形職人 中谷省古を尋ねて木匠を習得したのが26歳。自らを『木彫り職人』と称し、優れた写実力と深い精神性、そして彩色が特徴です。享年107歳。広辞苑に載っている実在の人物の中では最も長命な人物だそうです。<br />平櫛田中を知らない人でも国立劇場ロビーに陳列されている「鏡獅子」には馴染みがあるのでは?国立近代美術館の所蔵ですが、国立劇場に永久貸与しています。この像を彫るために六代目尾上菊五郎の舞台に25日間も通い、全方位から観察したそうです。そして遂には絢爛たる衣装に覆われた内側の肉体の動きまでを見るために楽屋に馳せ参じたそうです。歌舞伎の衣装風貌を木彫として仕上げるのは想像を絶する難題であり、20年の歳月の後に漸く完成に至った珠玉の彫像です。  <br />

    湊川神社 徳川光圀のブロンズ像
    正成の墓所の脇には、正成の墓を見守るように徳川光圀像が佇んでいます。1955年に資料に基づき、人間国宝でもあった彫刻家 平櫛田中の木彫原型により、伊藤忠雄氏によって等身大に鋳造されたブロンズ像で、独特の風貌を呈しています。光圀が正成の忠誠心を評価し、供養したことが湊川神社の誕生に奏功したことを受け、神社の生みの親として光圀を讃えているのでしょう。光圀は、水戸西山の梅林に居を構えて世間を離れ静かに暮らしていたことから、西山公とも言われています。

    平櫛田中は、1872年に岡山県井原市に生まれた遅咲きの天才です。大阪の人形職人 中谷省古を尋ねて木匠を習得したのが26歳。自らを『木彫り職人』と称し、優れた写実力と深い精神性、そして彩色が特徴です。享年107歳。広辞苑に載っている実在の人物の中では最も長命な人物だそうです。
    平櫛田中を知らない人でも国立劇場ロビーに陳列されている「鏡獅子」には馴染みがあるのでは?国立近代美術館の所蔵ですが、国立劇場に永久貸与しています。この像を彫るために六代目尾上菊五郎の舞台に25日間も通い、全方位から観察したそうです。そして遂には絢爛たる衣装に覆われた内側の肉体の動きまでを見るために楽屋に馳せ参じたそうです。歌舞伎の衣装風貌を木彫として仕上げるのは想像を絶する難題であり、20年の歳月の後に漸く完成に至った珠玉の彫像です。  

  • 湊川神社 徳川光圀のブロンズ像<br />ぎょろりとした鋭い目、中国の人のような道服を着込んだ姿で表されていますが、史実に沿って造られたものです。田中は、この像を制作するにあたり、何度も水戸へ足を運んで充分な研究を重ねたそうです。<br />どことなくTVドラマ「水戸黄門」の初代 光圀役の東野英次郎さんに似ているのは気のせいでしょうか?<br />時代劇の「天下の副将軍」という役職は実際にはなく、水戸藩主は将軍を代理する義務があり、江戸に常駐していたため、そう渾名されたものです。尚、「黄門」というのは本来「黄門侍郎」と言い、日本の官職「少納言」の唐名です。水戸の光圀の官職が少納言だったから「水戸黄門」となります。<br />

    湊川神社 徳川光圀のブロンズ像
    ぎょろりとした鋭い目、中国の人のような道服を着込んだ姿で表されていますが、史実に沿って造られたものです。田中は、この像を制作するにあたり、何度も水戸へ足を運んで充分な研究を重ねたそうです。
    どことなくTVドラマ「水戸黄門」の初代 光圀役の東野英次郎さんに似ているのは気のせいでしょうか?
    時代劇の「天下の副将軍」という役職は実際にはなく、水戸藩主は将軍を代理する義務があり、江戸に常駐していたため、そう渾名されたものです。尚、「黄門」というのは本来「黄門侍郎」と言い、日本の官職「少納言」の唐名です。水戸の光圀の官職が少納言だったから「水戸黄門」となります。

  • 湊川神社 徳川光圀への頌徳文石碑<br />徳富蘇峰起草による光圀に対する頌徳文石碑。因みに、蘇峰92歳の時の撰文です。<br />要約すると「楠木正成が忠臣として世間に知られるようになったのは光圀のお陰であり、水戸家から出た徳川慶喜が大政奉還したのも光圀の遺訓であった」と光圀を誉めそやしています。「八重の桜」最終回では、板垣退助を叱責して国家主義へと傾いていくジャーナリストの徳富蘇峰の姿を描き、八重と対立させる展開が印象的でした。因みに、楠木正成といえば、戦前は今日でいう坂本竜馬と同じくらい人気があり、誰もが知っていた人物だったそうです。徳川光圀が世に蘇らせた風雲児でもあります。<br /><br />湊川神社が神道学上注目されるのは、墓を境内に含めて神社が建てられていることです。本来、神社においては死の穢れは最も忌み嫌うものであるにも関わらず、穢れを持つ墓に隣接して神社が建てられているのは珍しいのだそうです。同類の神社には、豊国神社や日光東照宮などが挙げられます。

    湊川神社 徳川光圀への頌徳文石碑
    徳富蘇峰起草による光圀に対する頌徳文石碑。因みに、蘇峰92歳の時の撰文です。
    要約すると「楠木正成が忠臣として世間に知られるようになったのは光圀のお陰であり、水戸家から出た徳川慶喜が大政奉還したのも光圀の遺訓であった」と光圀を誉めそやしています。「八重の桜」最終回では、板垣退助を叱責して国家主義へと傾いていくジャーナリストの徳富蘇峰の姿を描き、八重と対立させる展開が印象的でした。因みに、楠木正成といえば、戦前は今日でいう坂本竜馬と同じくらい人気があり、誰もが知っていた人物だったそうです。徳川光圀が世に蘇らせた風雲児でもあります。

    湊川神社が神道学上注目されるのは、墓を境内に含めて神社が建てられていることです。本来、神社においては死の穢れは最も忌み嫌うものであるにも関わらず、穢れを持つ墓に隣接して神社が建てられているのは珍しいのだそうです。同類の神社には、豊国神社や日光東照宮などが挙げられます。

  • 湊川神社 楠本稲荷神社<br />再び参道へ合流しました。暫く歩くと右手に小さな鳥居が並んでいます。<br />お稲荷さんの鳥居と言えばこうした連なった鳥居が定番。同じ型の鳥居が奉納された稲荷社が多い中、ここの鳥居は神明系と明神系が混在していて珍しいそうです。<br />

    湊川神社 楠本稲荷神社
    再び参道へ合流しました。暫く歩くと右手に小さな鳥居が並んでいます。
    お稲荷さんの鳥居と言えばこうした連なった鳥居が定番。同じ型の鳥居が奉納された稲荷社が多い中、ここの鳥居は神明系と明神系が混在していて珍しいそうです。

  • 湊川神社 楠本稲荷神社<br />楠本稲荷神社は、徳川光圀による楠木正成の墓碑建立以前より、この地に鎮座していたと言われています。ご祭神は、倉稲魂命・猿田彦命・大宮女命で、月次祭は毎月8日です。<br />2月最初の午の日には、全国各地の稲荷神社で初午祭が行われます。稲荷とは稲が生育する事を意味し、五穀を司る農業の神です。初午祭では、五穀豊穣・家内安全・商売繁盛を祈願します。それに引き続き、「湯立て神事」が斎行されます。巫女が沸き立つ釜に塩 ・米・お神酒を入れ、先ずはその湯を神様に奉納。その後、笹束を浸して周囲に振り撒き、罪や穢れを祓い、家内安全、商売繁盛、無病息災を祈ります。ここの湯立神事の特徴は、釜が二つ置かれることです。<br />

    湊川神社 楠本稲荷神社
    楠本稲荷神社は、徳川光圀による楠木正成の墓碑建立以前より、この地に鎮座していたと言われています。ご祭神は、倉稲魂命・猿田彦命・大宮女命で、月次祭は毎月8日です。
    2月最初の午の日には、全国各地の稲荷神社で初午祭が行われます。稲荷とは稲が生育する事を意味し、五穀を司る農業の神です。初午祭では、五穀豊穣・家内安全・商売繁盛を祈願します。それに引き続き、「湯立て神事」が斎行されます。巫女が沸き立つ釜に塩 ・米・お神酒を入れ、先ずはその湯を神様に奉納。その後、笹束を浸して周囲に振り撒き、罪や穢れを祓い、家内安全、商売繁盛、無病息災を祈ります。ここの湯立神事の特徴は、釜が二つ置かれることです。

  • 湊川神社 参道 神戸名物「バクダン焼」<br />普通のたこ焼きの2倍ほどの直径がある特大サイズです。体積で言えば8倍という巨大なものです。中にはウズラ卵や餅、ソーセージが入っており、タコは入っていません。<br />1個300円、2個500円。<br />洒落っ気で「バクダン」と命名しているのでしょうが、この神社が神戸大空襲で焼けた歴史を知る人ならまず買わないネーミングでしょうね!

    湊川神社 参道 神戸名物「バクダン焼」
    普通のたこ焼きの2倍ほどの直径がある特大サイズです。体積で言えば8倍という巨大なものです。中にはウズラ卵や餅、ソーセージが入っており、タコは入っていません。
    1個300円、2個500円。
    洒落っ気で「バクダン」と命名しているのでしょうが、この神社が神戸大空襲で焼けた歴史を知る人ならまず買わないネーミングでしょうね!

  • 湊川神社 拝殿<br />参道を直進すると正面に勇壮な社殿がどっしりと構えています。様式は権現造に似た八棟造りとされ、鉄筋コンクリート造で戦後の新しい神社建築様式としての代表的な建物と言われています。1872年の創建時には素木造の社殿が建造されましたが、戦災によって焼失し、1952年に再建されたものです。1945年3月16日と6月5日の神戸大空襲で社殿や境内のクスノキを焼失し、正面の大鳥居も倒壊しました(現在は、その古材を用いて社号標として再利用されています)。神戸大空襲は、ジブリ映画で有名な野坂昭如 原作「火垂の墓」でもよく知られるところです。

    湊川神社 拝殿
    参道を直進すると正面に勇壮な社殿がどっしりと構えています。様式は権現造に似た八棟造りとされ、鉄筋コンクリート造で戦後の新しい神社建築様式としての代表的な建物と言われています。1872年の創建時には素木造の社殿が建造されましたが、戦災によって焼失し、1952年に再建されたものです。1945年3月16日と6月5日の神戸大空襲で社殿や境内のクスノキを焼失し、正面の大鳥居も倒壊しました(現在は、その古材を用いて社号標として再利用されています)。神戸大空襲は、ジブリ映画で有名な野坂昭如 原作「火垂の墓」でもよく知られるところです。

  • 湊川神社 狛犬<br />一般的に、右側の獅子が「阿形」で口を開き、左側の狛犬が「吽形」で口を閉じ、古いものには角があります。平安時代の『類聚雑要抄』には、「(天皇から見て)左の獅子は黄色(金色)で口を開け、右の狛犬色は白く(銀色)口を閉じており角がある」と書かれています。中国から日本に唐獅子が伝わった際、一方は中国の霊獣である獅子、一方は「異国の獣」であり想像上の動物である狛犬とされました。こうして、狛犬は獅子とは違う獣とされ、頭に一角を載せて獅子と区別されたと考えられています。 しかし、鎌倉時代後期以降になると様式が簡略化され、昭和時代以降のものは左右共に角が無いものが多いそうです。これらは本来「獅子」なるものですが、今日では両方合わせて「狛犬」と称することが多いようです。<br />

    湊川神社 狛犬
    一般的に、右側の獅子が「阿形」で口を開き、左側の狛犬が「吽形」で口を閉じ、古いものには角があります。平安時代の『類聚雑要抄』には、「(天皇から見て)左の獅子は黄色(金色)で口を開け、右の狛犬色は白く(銀色)口を閉じており角がある」と書かれています。中国から日本に唐獅子が伝わった際、一方は中国の霊獣である獅子、一方は「異国の獣」であり想像上の動物である狛犬とされました。こうして、狛犬は獅子とは違う獣とされ、頭に一角を載せて獅子と区別されたと考えられています。 しかし、鎌倉時代後期以降になると様式が簡略化され、昭和時代以降のものは左右共に角が無いものが多いそうです。これらは本来「獅子」なるものですが、今日では両方合わせて「狛犬」と称することが多いようです。

  • 湊川神社 狛犬<br />拝殿左に控える角を持つ狛犬。山崎朝雲の木彫原型を基に製作されたブロンズ製です。手前には、同様の備前焼のものがあります。ここの境内に置かれた狛犬・獅子はどれも筋骨隆々のマッチョマンで、凄味があります。顔も厳つく、凛々しい表情にも味わいがあります。<br /><br />山崎朝雲は、1867年に博多に生まれた明治〜昭和時代を代表する彫刻家。博多仏師の高田又四郎に師事し、高村光雲の目に留まり、弟子として師と共に日本近代彫刻の礎を築き、木彫に洋風彫塑の写実を導入した優れた技巧の作品を発表しました。岡倉天心を会長とし、平櫛田中や米原雲海らと日本彫刻会を結成し、1952年に文化功労者になった木彫界の重鎮です。<br />

    湊川神社 狛犬
    拝殿左に控える角を持つ狛犬。山崎朝雲の木彫原型を基に製作されたブロンズ製です。手前には、同様の備前焼のものがあります。ここの境内に置かれた狛犬・獅子はどれも筋骨隆々のマッチョマンで、凄味があります。顔も厳つく、凛々しい表情にも味わいがあります。

    山崎朝雲は、1867年に博多に生まれた明治〜昭和時代を代表する彫刻家。博多仏師の高田又四郎に師事し、高村光雲の目に留まり、弟子として師と共に日本近代彫刻の礎を築き、木彫に洋風彫塑の写実を導入した優れた技巧の作品を発表しました。岡倉天心を会長とし、平櫛田中や米原雲海らと日本彫刻会を結成し、1952年に文化功労者になった木彫界の重鎮です。

  • 湊川神社 午年大絵馬<br />奉納大絵馬は、例年同様に白馬に跨る楠木正成です。今年は午年だったのでピッタリですね!「駿馬」のように駆け上がる、よい年にしたいものです。<br /><br />ところで何故「午」が「馬」なのでしょうか?積年の疑問をこの機会に調べてみたところ、本来、十二支は動物の名前とは無関係なことが分かりました。中国の殷の時代、木星を尊い星とし、その動きを詳しく観察しました。その結果、木星は空を12年で一周することが分かり、その位置を示すため空を12分割しました。それに名前を付けたのが十二支の始まりと言われています。後に抽象的だと覚えにくいので12種類の動物を当て嵌めたということです。<br />つまり、午は十二支(12進法)の後半のトップ。時刻で言えば真昼(午前11時から午後1時)になります。ですから「午前」は午の刻より前を指し、「午後」は午の刻より後を指すのです。 <br />

    湊川神社 午年大絵馬
    奉納大絵馬は、例年同様に白馬に跨る楠木正成です。今年は午年だったのでピッタリですね!「駿馬」のように駆け上がる、よい年にしたいものです。

    ところで何故「午」が「馬」なのでしょうか?積年の疑問をこの機会に調べてみたところ、本来、十二支は動物の名前とは無関係なことが分かりました。中国の殷の時代、木星を尊い星とし、その動きを詳しく観察しました。その結果、木星は空を12年で一周することが分かり、その位置を示すため空を12分割しました。それに名前を付けたのが十二支の始まりと言われています。後に抽象的だと覚えにくいので12種類の動物を当て嵌めたということです。
    つまり、午は十二支(12進法)の後半のトップ。時刻で言えば真昼(午前11時から午後1時)になります。ですから「午前」は午の刻より前を指し、「午後」は午の刻より後を指すのです。

  • 湊川神社<br />特設のおみくじ結処。<br />神様を数える時には、一柱、二柱と数えます。そして、この柱という文字には、木と主の2文字が入っています。故に、神様と木はとても関係が深く、木におみくじを結ぶということは神様や仏様と縁を結ぶという意味をなすそうです。また、悪い結果のおみくじを木に結ぶ習慣は、木々の生命力にあやかり、願いが叶うようにとの祈りを込めるためです。しかし、木に結びつけるとそれが原因で傷ついたり、枯れたりします。こうして結ぶ場所が指定されるようになったのだそうです。<br />

    湊川神社
    特設のおみくじ結処。
    神様を数える時には、一柱、二柱と数えます。そして、この柱という文字には、木と主の2文字が入っています。故に、神様と木はとても関係が深く、木におみくじを結ぶということは神様や仏様と縁を結ぶという意味をなすそうです。また、悪い結果のおみくじを木に結ぶ習慣は、木々の生命力にあやかり、願いが叶うようにとの祈りを込めるためです。しかし、木に結びつけるとそれが原因で傷ついたり、枯れたりします。こうして結ぶ場所が指定されるようになったのだそうです。

  • 湊川神社 干支置物<br />愛くるしい表情の午の置物です。<br />どんなものが売れてしまったのか、興味津々です。

    湊川神社 干支置物
    愛くるしい表情の午の置物です。
    どんなものが売れてしまったのか、興味津々です。

  • 湊川神社 親子さざれ石<br />ここのさざれ石が「親子さざれ石」と呼ばれるのは、正成と正行 父子の桜井での別れをイメージさせるからだそうです。どことなく伊勢 立石崎二見ヶ浦の二見興玉神社にある夫婦岩を彷彿とさせるものがあります。<br />拝殿右手にある菊水天満宮の階段の左手にあります。三が日は出店の裏になるため、気付かないこともあるかも。

    湊川神社 親子さざれ石
    ここのさざれ石が「親子さざれ石」と呼ばれるのは、正成と正行 父子の桜井での別れをイメージさせるからだそうです。どことなく伊勢 立石崎二見ヶ浦の二見興玉神社にある夫婦岩を彷彿とさせるものがあります。
    拝殿右手にある菊水天満宮の階段の左手にあります。三が日は出店の裏になるため、気付かないこともあるかも。

  • 湊川神社 菊水天満宮<br />本殿の右側に鎮座しています。ご祭神は菅原道真。<br />1876年創建で、末社とはいえ、立派な拝殿・本殿や狛犬、撫で牛も置かれています。階段の脇には、合格祈願の絵馬がずらりと並んでいます。<br />

    湊川神社 菊水天満宮
    本殿の右側に鎮座しています。ご祭神は菅原道真。
    1876年創建で、末社とはいえ、立派な拝殿・本殿や狛犬、撫で牛も置かれています。階段の脇には、合格祈願の絵馬がずらりと並んでいます。

  • 湊川神社 菊水天満宮<br />周囲に設けれられたおみくじ結びどころも効果なく、哀れにも撫で牛の角や尻尾などおみくじが結わえ付けられる場所はおみくじに占領されています。<br />

    湊川神社 菊水天満宮
    周囲に設けれられたおみくじ結びどころも効果なく、哀れにも撫で牛の角や尻尾などおみくじが結わえ付けられる場所はおみくじに占領されています。

  • 湊川神社 殿内参拝<br />毎年正月三が日には、特別に本殿を参拝できる「殿内参拝」が催されます。お祓いと御神酒、干支昇運ミニ凧付きで初穂料200円は絶対お得です。人に酔うような境内からひとたび拝殿内に入ると、厳粛な空気に自然と身が正されます。また、殿内でしか授与されない割符(500円)を授かり、割った片方を奉納し、片方をお守りに持って帰ることができるのも魅力です。 <br />

    湊川神社 殿内参拝
    毎年正月三が日には、特別に本殿を参拝できる「殿内参拝」が催されます。お祓いと御神酒、干支昇運ミニ凧付きで初穂料200円は絶対お得です。人に酔うような境内からひとたび拝殿内に入ると、厳粛な空気に自然と身が正されます。また、殿内でしか授与されない割符(500円)を授かり、割った片方を奉納し、片方をお守りに持って帰ることができるのも魅力です。

  • 湊川神社 本殿<br />本殿には3つの御扉があり、3座に分かれて祀られています。中央の御扉の奥には主神の楠木正成、向かって右には夫人 滋子、向かって左には子 正行と弟 正季以下一族16柱並びに菊池武吉卿が祀られています。 <br />正成と夫人は大変仲睦まじく、夫婦の鑑と称されました。夫人は、1906年に創建された甘南備神社に御霊が祀られてきましたが、戦禍を被り、戦後本殿に合祀され、現在は正成と夫人が並んで祀られています。<br />因みに、菊池武吉卿は、肥後(熊本県)出身の武士で新田義貞軍として戦っていたのですが、正成らの自刃の場に居合わせたために見捨てるわけにも行かず、律儀にも一緒に自刃して果てています。<br /><br /><br />

    湊川神社 本殿
    本殿には3つの御扉があり、3座に分かれて祀られています。中央の御扉の奥には主神の楠木正成、向かって右には夫人 滋子、向かって左には子 正行と弟 正季以下一族16柱並びに菊池武吉卿が祀られています。
    正成と夫人は大変仲睦まじく、夫婦の鑑と称されました。夫人は、1906年に創建された甘南備神社に御霊が祀られてきましたが、戦禍を被り、戦後本殿に合祀され、現在は正成と夫人が並んで祀られています。
    因みに、菊池武吉卿は、肥後(熊本県)出身の武士で新田義貞軍として戦っていたのですが、正成らの自刃の場に居合わせたために見捨てるわけにも行かず、律儀にも一緒に自刃して果てています。


  • 湊川神社 拝殿<br />殿内から参道を見渡すとこんな感じです。何となく不思議な気分になります。<br />

    湊川神社 拝殿
    殿内から参道を見渡すとこんな感じです。何となく不思議な気分になります。

  • 湊川神社 拝殿<br />正成の座からはこのような光景が見られるのですね!<br />皆さん真剣にお祈りされています。<br /><br />

    湊川神社 拝殿
    正成の座からはこのような光景が見られるのですね!
    皆さん真剣にお祈りされています。

  • 湊川神社 拝殿 天井画 福田眉仙筆「大青龍」 <br />天井画といえば世界的にはミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂、日本では永平寺の傘松閣絵天井の間が思い出されますが、神戸にもそれに比肩する天井画が存在します。<br /><br />拝殿の天井奉納画は、戦災復興に際して棟方志功の呼びかけにより全国著名画家から奉納された163点で、中央の「大青龍」は福田眉仙の大作です。参拝する際に目に入るこの龍には、身が引き締まるような強い威厳が感じられます。荘厳な雰囲気の中で悠然と構え、立ち込める雲霞にその全貌を隠して現さず、金色の目を大きく見開き、口からは鋭い牙を剥き出した偉容をなしています。龍の指は、中国では5本、朝鮮半島では4本、日本では3本で表現されることが多く、ここも3本の指で宝玉をしっかりと掴み、中空を睨んで迫力満点です。大胆でゆったりとした筆使いが間近で観られるのは価値があり、心が癒される思いがします。<br />福田眉仙は兵庫県相生市出身の明治〜昭和(1875〜1963年)の日本画家で、南画の岡倉天心を師と仰ぎました。清に渡って南宗画などを研究した「支那三十画巻」や朝鮮を旅行した「朝鮮画巻」を制作しています。因みに、眉仙とは中国の四川省にある急峻な名山「峨眉山」に住む「仙人」という意味だそうです。<br />東の横山大観、西の福田眉仙と称され、京都 大覚寺の襖絵も手がけられています。独自の画境を拓き、日本美術史に独自の足跡を残しています。

    湊川神社 拝殿 天井画 福田眉仙筆「大青龍」 
    天井画といえば世界的にはミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂、日本では永平寺の傘松閣絵天井の間が思い出されますが、神戸にもそれに比肩する天井画が存在します。

    拝殿の天井奉納画は、戦災復興に際して棟方志功の呼びかけにより全国著名画家から奉納された163点で、中央の「大青龍」は福田眉仙の大作です。参拝する際に目に入るこの龍には、身が引き締まるような強い威厳が感じられます。荘厳な雰囲気の中で悠然と構え、立ち込める雲霞にその全貌を隠して現さず、金色の目を大きく見開き、口からは鋭い牙を剥き出した偉容をなしています。龍の指は、中国では5本、朝鮮半島では4本、日本では3本で表現されることが多く、ここも3本の指で宝玉をしっかりと掴み、中空を睨んで迫力満点です。大胆でゆったりとした筆使いが間近で観られるのは価値があり、心が癒される思いがします。
    福田眉仙は兵庫県相生市出身の明治〜昭和(1875〜1963年)の日本画家で、南画の岡倉天心を師と仰ぎました。清に渡って南宗画などを研究した「支那三十画巻」や朝鮮を旅行した「朝鮮画巻」を制作しています。因みに、眉仙とは中国の四川省にある急峻な名山「峨眉山」に住む「仙人」という意味だそうです。
    東の横山大観、西の福田眉仙と称され、京都 大覚寺の襖絵も手がけられています。独自の画境を拓き、日本美術史に独自の足跡を残しています。

  • 湊川神社 拝殿 板画「運命頌」<br />当時、合成繊維ビニロン開発に携わっていた大原總一郎の依頼を受け、棟方志功が制作した板画「美尼羅牟(ビニロン)頌板画柵4図」です。「運命頌」とも呼ばれます。志功が「ベートーベンの歓喜のような仕事がしたい」と言ったのを受け、總一郎が「第五の運命をやってくれ」と答えたのが、作品目の由来です。總一郎から手渡された哲学者ニーチェの詩『ツァラトゥストラはかく語りき』から暗示を受けて創作されたもので、「黎明」「真昼」「夕宵」「深夜」の4部作で構成され、左上が「深夜」、そこから時計回りに「夕宵」、「黎明」、「真昼」と続きます。<br />『ツァラトゥストラはかく語りき』は、超人を主人公にした壮大な詩です。總一郎は棟方に「日本のため世界のため、ビニロンを開発せねばならない。そのため導きの火がいるのだ。運命という題下に、ツァラトゥストラは超人を中心人物としているのだから、超思想という大きなものを板画で創って欲しい」と依頼したそうです。<br />画面からはみ出す勢いで彫られた詩と絵は、何とも言えない大きな世界を表現しています。大きなものに立ち向かおうとする両者の息遣いが聞こえてくるようで、ビニロン開発に人生を捧げた様々なドラマが頭を駆け巡ります。

    湊川神社 拝殿 板画「運命頌」
    当時、合成繊維ビニロン開発に携わっていた大原總一郎の依頼を受け、棟方志功が制作した板画「美尼羅牟(ビニロン)頌板画柵4図」です。「運命頌」とも呼ばれます。志功が「ベートーベンの歓喜のような仕事がしたい」と言ったのを受け、總一郎が「第五の運命をやってくれ」と答えたのが、作品目の由来です。總一郎から手渡された哲学者ニーチェの詩『ツァラトゥストラはかく語りき』から暗示を受けて創作されたもので、「黎明」「真昼」「夕宵」「深夜」の4部作で構成され、左上が「深夜」、そこから時計回りに「夕宵」、「黎明」、「真昼」と続きます。
    『ツァラトゥストラはかく語りき』は、超人を主人公にした壮大な詩です。總一郎は棟方に「日本のため世界のため、ビニロンを開発せねばならない。そのため導きの火がいるのだ。運命という題下に、ツァラトゥストラは超人を中心人物としているのだから、超思想という大きなものを板画で創って欲しい」と依頼したそうです。
    画面からはみ出す勢いで彫られた詩と絵は、何とも言えない大きな世界を表現しています。大きなものに立ち向かおうとする両者の息遣いが聞こえてくるようで、ビニロン開発に人生を捧げた様々なドラマが頭を駆け巡ります。

  • 湊川神社 拝殿 天井奉納画<br />東側から一望した天井奉納画(外拝殿)です。<br />拝殿の天井を埋め尽くす様は圧巻です。<br />天井奉納画は、祈祷による太鼓の音の振動による劣化や50余年におよぶ自然光による退色で痛みが目立ち、2007年に修復されて鮮やかな色彩を蘇らせています。その修復に携わったのがNISSA(日本写真印刷株式会社)で、Impression Technologyという独自技術を駆使したそうです。<br />

    湊川神社 拝殿 天井奉納画
    東側から一望した天井奉納画(外拝殿)です。
    拝殿の天井を埋め尽くす様は圧巻です。
    天井奉納画は、祈祷による太鼓の音の振動による劣化や50余年におよぶ自然光による退色で痛みが目立ち、2007年に修復されて鮮やかな色彩を蘇らせています。その修復に携わったのがNISSA(日本写真印刷株式会社)で、Impression Technologyという独自技術を駆使したそうです。

  • 湊川神社 拝殿 天井奉納画<br />西側から一望した天井奉納画(外拝殿)です。<br />このような天井奉納画を拝めば、運気アップ間違いなしです。 <br />内拝殿の天井には、北大路魯山人「竹と雀」や川端龍子、片岡球子の絵もあるそうです。<br />内拝殿の天井画を拝むには、御祈祷をお願いするか、毎年1月7日11時から行われる「翁面掛式」を待つしかないようです。 <br />

    湊川神社 拝殿 天井奉納画
    西側から一望した天井奉納画(外拝殿)です。
    このような天井奉納画を拝めば、運気アップ間違いなしです。
    内拝殿の天井には、北大路魯山人「竹と雀」や川端龍子、片岡球子の絵もあるそうです。
    内拝殿の天井画を拝むには、御祈祷をお願いするか、毎年1月7日11時から行われる「翁面掛式」を待つしかないようです。

  • 湊川神社 拝殿 天井奉納画(東入口)<br />森本木羊子筆「天馬」(上段中央)<br />熊本市に生まれ、浜村蔵六、野川鼎象に篆刻を、増原宗一に日本画を師事。柳宗悦、河井寛次郎、棟方志功らと知己を得て、民芸運動に傾注。この世を去るまで、 仏画を中心に精力的な創作活動を行った版画家。1992年没(95歳)。<br /><br />島内松南筆「長尾鶏」(下段左から3番目)<br />高知県に生まれ、幼くして種田豊水に花鳥画を学び、後に柳本素石に狩野派を学ぶ。上京し、橋本雅邦、梶田半古に師事。その後、文展に出品、受賞を重ね活躍。1962年没(81歳)。 <br /><br />松岡秀太郎筆「鶴」(下段左から4番目)<br /><br /><br />

    湊川神社 拝殿 天井奉納画(東入口)
    森本木羊子筆「天馬」(上段中央)
    熊本市に生まれ、浜村蔵六、野川鼎象に篆刻を、増原宗一に日本画を師事。柳宗悦、河井寛次郎、棟方志功らと知己を得て、民芸運動に傾注。この世を去るまで、 仏画を中心に精力的な創作活動を行った版画家。1992年没(95歳)。

    島内松南筆「長尾鶏」(下段左から3番目)
    高知県に生まれ、幼くして種田豊水に花鳥画を学び、後に柳本素石に狩野派を学ぶ。上京し、橋本雅邦、梶田半古に師事。その後、文展に出品、受賞を重ね活躍。1962年没(81歳)。

    松岡秀太郎筆「鶴」(下段左から4番目)


  • 湊川神社 拝殿 天井奉納画(正面)<br />松本姿水筆「椿」(下段右から2番目)<br />栃木県に生まれ、川合玉堂に師事。野田九浦、岩田生巳らと日本画院を設立。戦後、堅山南風・西沢笛畝らと伸々会結成。花鳥・山水を能くする。1972年没(85歳)。 <br /><br />真道黎明筆「鶴」(下段右から3番目) <br />熊本県に生まれ、堅山南風に師事。中国やインドなどを旅行し、古代世界を題材とした作品を多く描く。1975年の院展で「柿右衛門大壺」が内閣総理大臣賞。1978年没(81歳)。<br />

    湊川神社 拝殿 天井奉納画(正面)
    松本姿水筆「椿」(下段右から2番目)
    栃木県に生まれ、川合玉堂に師事。野田九浦、岩田生巳らと日本画院を設立。戦後、堅山南風・西沢笛畝らと伸々会結成。花鳥・山水を能くする。1972年没(85歳)。

    真道黎明筆「鶴」(下段右から3番目) 
    熊本県に生まれ、堅山南風に師事。中国やインドなどを旅行し、古代世界を題材とした作品を多く描く。1975年の院展で「柿右衛門大壺」が内閣総理大臣賞。1978年没(81歳)。

  • 湊川神社 拝殿 <br />拝殿の右隅正面に掲げられた棟方志功の傑作「獅子」です。<br />「降魔」の賛は徳富蘇峰の筆となっています。<br />

    湊川神社 拝殿 
    拝殿の右隅正面に掲げられた棟方志功の傑作「獅子」です。
    「降魔」の賛は徳富蘇峰の筆となっています。

  • 湊川神社 拝殿 <br />拝殿の左隅正面に掲げられた棟方志功の傑作「狛犬」です。<br />「伏邪」の賛は徳富蘇峰の筆となっています。<br />

    湊川神社 拝殿 
    拝殿の左隅正面に掲げられた棟方志功の傑作「狛犬」です。
    「伏邪」の賛は徳富蘇峰の筆となっています。

  • 湊川神社 拝殿<br />楠木正成が菊水旗に掲げたとされる文字「非理法権天(非道は道理に勝てず、その道理も法律には勝てず、その法律も権力者には勝てず、その権力者も最後には天の裁きには勝てない)」です。<br />しかし、楠木正成が「非理法権天」を掲げたとする説は、瀧川政次郎著『非理法権天 法諺の研究』により、後世につくられたものと喝破されています。要約すると、「正成が旗に掲げたとしても違和感はないが、もしそうなら『太平記』などに記されていないのは疑問である。よって、正成が掲げたのではなく、江戸時代の楠流軍学者たちが正成に帰したのではないか」。これが瀧川氏の推論です。<br />それでも、由来が正成に仮託されたことで、非理法権天は尊皇思想に結びつけられて一人歩きしだし、「天」は天子=天皇であり、天皇が全てに超越するという思想が生まれたことは間違いないようです。

    湊川神社 拝殿
    楠木正成が菊水旗に掲げたとされる文字「非理法権天(非道は道理に勝てず、その道理も法律には勝てず、その法律も権力者には勝てず、その権力者も最後には天の裁きには勝てない)」です。
    しかし、楠木正成が「非理法権天」を掲げたとする説は、瀧川政次郎著『非理法権天 法諺の研究』により、後世につくられたものと喝破されています。要約すると、「正成が旗に掲げたとしても違和感はないが、もしそうなら『太平記』などに記されていないのは疑問である。よって、正成が掲げたのではなく、江戸時代の楠流軍学者たちが正成に帰したのではないか」。これが瀧川氏の推論です。
    それでも、由来が正成に仮託されたことで、非理法権天は尊皇思想に結びつけられて一人歩きしだし、「天」は天子=天皇であり、天皇が全てに超越するという思想が生まれたことは間違いないようです。

  • 湊川神社 拝殿 天井奉納画<br />誰の作品かは分かりませんが、正成の座の正面に対峙する甲冑を纏った正成の絵です。きりりとした凛々しい表情にうっとりします。<br /><br />

    湊川神社 拝殿 天井奉納画
    誰の作品かは分かりませんが、正成の座の正面に対峙する甲冑を纏った正成の絵です。きりりとした凛々しい表情にうっとりします。

  • 湊川神社 拝殿内 剣の舞<br />巫女舞神楽の奉奏が始まりました。これは、我々一般拝殿者に向けたものではなく、たまたまご祈祷を授かりにいらしていた団体さん向けです。とはいえ、拝殿内にいる我々も椅子に座って観賞することができます。<br />巫女舞神楽の原型は天の岩戸の前で天鈿女命が天照大神を誘い出すために舞ったものとされますが、今日舞われる巫女舞は近代になってから作られたものが多く、江戸時代以前の古い巫女舞を舞う所は少ないそうです。<br /><br />巫女の左奥で睨みを利かせている金色の狛犬は平櫛田中 作で、腹中には「国家の隆盛・国民の幸福・世界の平和」を祈る祈願文が納められているそうです。一見、ゴジラを彷彿とさせる風貌です。<br /><br />

    湊川神社 拝殿内 剣の舞
    巫女舞神楽の奉奏が始まりました。これは、我々一般拝殿者に向けたものではなく、たまたまご祈祷を授かりにいらしていた団体さん向けです。とはいえ、拝殿内にいる我々も椅子に座って観賞することができます。
    巫女舞神楽の原型は天の岩戸の前で天鈿女命が天照大神を誘い出すために舞ったものとされますが、今日舞われる巫女舞は近代になってから作られたものが多く、江戸時代以前の古い巫女舞を舞う所は少ないそうです。

    巫女の左奥で睨みを利かせている金色の狛犬は平櫛田中 作で、腹中には「国家の隆盛・国民の幸福・世界の平和」を祈る祈願文が納められているそうです。一見、ゴジラを彷彿とさせる風貌です。

  • 湊川神社 拝殿内 剣の舞<br />剣の舞は、神剣の威力にて悪神を鎮め、厄や罪、穢れを祓う意味があります。剣の舞には断ち切るという意味があるため、安産祈願には禁じられています。<br /><br />

    湊川神社 拝殿内 剣の舞
    剣の舞は、神剣の威力にて悪神を鎮め、厄や罪、穢れを祓う意味があります。剣の舞には断ち切るという意味があるため、安産祈願には禁じられています。

  • 湊川神社 拝殿内 鈴舞<br />鈴舞は、神様に御鈴の舞を奉納し、その御鈴に宿ったご神徳を参拝者に授けるための舞です。鈴は鉾鈴(剣のような形のもの)が正式とされますが、このような神楽鈴が代用されることが多いそうです。<br />その清らかな音色が万物を浄化し、美しい響きが神と人との心の触れ合いと歓喜を表現しています。天から降り注ぐような心洗われる清々しい軽やかな音色が殿内に響き渡っています。<br /><br />

    湊川神社 拝殿内 鈴舞
    鈴舞は、神様に御鈴の舞を奉納し、その御鈴に宿ったご神徳を参拝者に授けるための舞です。鈴は鉾鈴(剣のような形のもの)が正式とされますが、このような神楽鈴が代用されることが多いそうです。
    その清らかな音色が万物を浄化し、美しい響きが神と人との心の触れ合いと歓喜を表現しています。天から降り注ぐような心洗われる清々しい軽やかな音色が殿内に響き渡っています。

  • 湊川神社 拝殿内 鈴舞<br />巫女舞神楽でよく知られているのは浦安の舞。1940年に、皇紀2600年を記念して作られた神楽舞です。前半の扇舞と後半の鈴舞からなりますが、片方が省略される場合や、扇舞と鈴舞を同時に行う例もあります。<br />「うら」は心を指す古語で、「うらやす」で心中の平穏を表しているそうです。また、『日本書紀』に「日本者浦安国」とあり、日本国の別称として「浦安国」とあることから、神祇の安寧慰撫と国の平穏無事が、題名である「浦安」の語に込められているそうです。<br />装束には、「あこめ」と呼ばれる本装束がありますが、緋袴・千早の略装で舞われることが多く、このように千早も纏わないこともあるそうです。<br />

    湊川神社 拝殿内 鈴舞
    巫女舞神楽でよく知られているのは浦安の舞。1940年に、皇紀2600年を記念して作られた神楽舞です。前半の扇舞と後半の鈴舞からなりますが、片方が省略される場合や、扇舞と鈴舞を同時に行う例もあります。
    「うら」は心を指す古語で、「うらやす」で心中の平穏を表しているそうです。また、『日本書紀』に「日本者浦安国」とあり、日本国の別称として「浦安国」とあることから、神祇の安寧慰撫と国の平穏無事が、題名である「浦安」の語に込められているそうです。
    装束には、「あこめ」と呼ばれる本装束がありますが、緋袴・千早の略装で舞われることが多く、このように千早も纏わないこともあるそうです。

  • 湊川神社 拝殿内<br />西側出口からの拝殿内の全景です。<br />これだけのものが200円の初穂料で観られる割には、拝観者は疎らです。恐らく、拝殿内が公開されていることを知らないのだと思います。<br />ここでご祈祷してもらうには相当額がかかることを考えれば、お正月のお年玉に近い神様からの贈り物といえます。是非、足を運んでみてください。

    湊川神社 拝殿内
    西側出口からの拝殿内の全景です。
    これだけのものが200円の初穂料で観られる割には、拝観者は疎らです。恐らく、拝殿内が公開されていることを知らないのだと思います。
    ここでご祈祷してもらうには相当額がかかることを考えれば、お正月のお年玉に近い神様からの贈り物といえます。是非、足を運んでみてください。

  • 湊川神社 楠木正成殉節地<br />境内北西部には楠木正成の終焉の地があり、国指定文化財史蹟になっています。1336年5月25日、足利尊氏との「湊川の戦い」で最後の刻が迫ったのを知った正成は、わずかに残った73騎と共にこの地にあった民家に入り、弟 正季 と刺し違え、42年に及ぶ生涯を閉じます。ここは神社の方も滅多に足を踏み入れない聖地とされ、門扉が閉ざされていますが、石塔が佇む鬱蒼とした森は時空を超えて南北朝時代の雰囲気を今に漂わせています。<br /><br />『太平記』はその様子を次のように活写しています。『湊川の民家に入った楠木一族十三人、その家来六十余人が客間に並んで座り、念仏を唱えて一斉に腹を切った。 最期に上座に坐っていた正成は、弟 正季に向かって「来世では何を願うか」と問うと、正季は「七生まで、ただ同 じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさばやとこそ存じ候へ」と答えた。それを聞いた正成は、嬉しそうに「罪業深き悪念なれども、われもかやうに思うなり、いざさらば同じく生を替えてこの本懐を達せん」と約束して、兄弟ともに 刀を刺し違えて死んだ』。

    湊川神社 楠木正成殉節地
    境内北西部には楠木正成の終焉の地があり、国指定文化財史蹟になっています。1336年5月25日、足利尊氏との「湊川の戦い」で最後の刻が迫ったのを知った正成は、わずかに残った73騎と共にこの地にあった民家に入り、弟 正季 と刺し違え、42年に及ぶ生涯を閉じます。ここは神社の方も滅多に足を踏み入れない聖地とされ、門扉が閉ざされていますが、石塔が佇む鬱蒼とした森は時空を超えて南北朝時代の雰囲気を今に漂わせています。

    『太平記』はその様子を次のように活写しています。『湊川の民家に入った楠木一族十三人、その家来六十余人が客間に並んで座り、念仏を唱えて一斉に腹を切った。 最期に上座に坐っていた正成は、弟 正季に向かって「来世では何を願うか」と問うと、正季は「七生まで、ただ同 じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさばやとこそ存じ候へ」と答えた。それを聞いた正成は、嬉しそうに「罪業深き悪念なれども、われもかやうに思うなり、いざさらば同じく生を替えてこの本懐を達せん」と約束して、兄弟ともに 刀を刺し違えて死んだ』。

  • 湊川神社 楠木正成殉節地<br />正成は、1294年に大阪府南河内郡千早赤坂を拠点とした豪族の家に生まれ、御家人・僧侶・農民・商人など多岐にわたる人脈を持ち、広い範囲で勢力を誇りました。そうした地域コミュニティと地形をうまく利用して少数精鋭で千早赤坂で鎌倉幕府の大軍を悩ました戦は有名です。 時は後醍醐天皇方の総大将 新田義貞と足利尊氏が敵対した南北朝時代。尊氏の進軍に対し、天皇は楠木正成に尊氏を湊川で討つよう命じました。しかし、天皇に協力する土豪も少なくなったことを知り、正成は勝算がないことを承知の上で都を立ち、桜井で11歳の長男 正行に朝敵を滅ぼすことを託して惜別するのです。そして、湊川の地でわずか700人の兵力で数万人ともいわれる尊氏軍を迎え討ちました。それは天皇に忠誠を誓った正成の死を覚悟した最期の戦いであり、鎌倉から室町時代へ変遷する節目の戦いでもありました。歴史歌「青葉茂れる桜井の」は、楠木父子の「桜井の別れ」を歌い、湊川の決戦に赴く正成が長男に生き延びて再起を期せと諭す情景を描いています。<br />

    湊川神社 楠木正成殉節地
    正成は、1294年に大阪府南河内郡千早赤坂を拠点とした豪族の家に生まれ、御家人・僧侶・農民・商人など多岐にわたる人脈を持ち、広い範囲で勢力を誇りました。そうした地域コミュニティと地形をうまく利用して少数精鋭で千早赤坂で鎌倉幕府の大軍を悩ました戦は有名です。 時は後醍醐天皇方の総大将 新田義貞と足利尊氏が敵対した南北朝時代。尊氏の進軍に対し、天皇は楠木正成に尊氏を湊川で討つよう命じました。しかし、天皇に協力する土豪も少なくなったことを知り、正成は勝算がないことを承知の上で都を立ち、桜井で11歳の長男 正行に朝敵を滅ぼすことを託して惜別するのです。そして、湊川の地でわずか700人の兵力で数万人ともいわれる尊氏軍を迎え討ちました。それは天皇に忠誠を誓った正成の死を覚悟した最期の戦いであり、鎌倉から室町時代へ変遷する節目の戦いでもありました。歴史歌「青葉茂れる桜井の」は、楠木父子の「桜井の別れ」を歌い、湊川の決戦に赴く正成が長男に生き延びて再起を期せと諭す情景を描いています。

  • 湊川神社 楠木正成殉節地<br />楠木正成は、鎌倉幕府滅亡前後の時代に活躍した人物。鎌倉幕府と対立した後醍醐天皇側について足利尊氏と共に倒幕の立役者となりました。しかし、後醍醐天皇の「建武の中興」という公家中心の現実味のない政治に反感を持った足利尊氏が蜂起し、また戦乱の世が始まったのです。後醍醐天皇の政治は、朝令暮改を地で行き、不公平な論功行賞を行ったり、本来政治が守るべき既得権益まで性急に潰そうと躍起になったり、現実に即した施策を打ちだせず、庶民が怒り心頭に達したことは確かなようです。正成の非凡さは、武将としての優秀さだけではなく、天下を見通す大局観を持つことにもありました。尊氏が打出の合戦で敗れて九州へ逃げた後、正成は後醍醐天皇に「天下の武士の心はすでに尊氏についており、戦っても勝ち目はない。今は君臣和睦しかない。自分が使者として九州まで行ってもよい」と建言しました。しかし、「勝った、勝った」と浮かれている公家の猛反対にあい、正成の建言は実現しなかったのです。優秀なブレーンが不在だったのか、YESマンしか登用しなかったのか、単に俺さま主義で傾聴しなかったのかは定かではありませんが、政治は理想論・正論だけでは成り立たないものですから…。己のことを勘違いした愚昧な人は、自信→慢心→傲慢という裸の王様の道を辿るとされますが、まるでどこかの政党のことを占っているように感じるのは当方だけではないような気がします。<br /><br /><br />

    湊川神社 楠木正成殉節地
    楠木正成は、鎌倉幕府滅亡前後の時代に活躍した人物。鎌倉幕府と対立した後醍醐天皇側について足利尊氏と共に倒幕の立役者となりました。しかし、後醍醐天皇の「建武の中興」という公家中心の現実味のない政治に反感を持った足利尊氏が蜂起し、また戦乱の世が始まったのです。後醍醐天皇の政治は、朝令暮改を地で行き、不公平な論功行賞を行ったり、本来政治が守るべき既得権益まで性急に潰そうと躍起になったり、現実に即した施策を打ちだせず、庶民が怒り心頭に達したことは確かなようです。正成の非凡さは、武将としての優秀さだけではなく、天下を見通す大局観を持つことにもありました。尊氏が打出の合戦で敗れて九州へ逃げた後、正成は後醍醐天皇に「天下の武士の心はすでに尊氏についており、戦っても勝ち目はない。今は君臣和睦しかない。自分が使者として九州まで行ってもよい」と建言しました。しかし、「勝った、勝った」と浮かれている公家の猛反対にあい、正成の建言は実現しなかったのです。優秀なブレーンが不在だったのか、YESマンしか登用しなかったのか、単に俺さま主義で傾聴しなかったのかは定かではありませんが、政治は理想論・正論だけでは成り立たないものですから…。己のことを勘違いした愚昧な人は、自信→慢心→傲慢という裸の王様の道を辿るとされますが、まるでどこかの政党のことを占っているように感じるのは当方だけではないような気がします。


  • 湊川神社 塀の軒丸瓦の菊水紋 <br />武士の使命は、弁護士同様に物事の善悪・損得に関わらず依頼者に忠誠を誓うこと。無能でも上司は上司、ここでスピンアウトするのはいかがなものかということで、朝廷に命を捧げたのでしょう。しかし、この正義感が仇となり、ここ湊川の地で衆寡敵せず無念にも敗北を喫し、最後は弟 成季と「七生滅賊」を誓い、互いに刺し違えて自刃する運命を辿りました。「七生滅賊」とは、「7回生まれ変わってでも賊を滅ぼす」という意味。戦時中、正成の天皇への忠誠心を日本国民のあるべき姿として「七生報国」という言葉に利用され、国のために尊い命を捧げる合い言葉として神風特攻隊の若者が唱えたそうです。また、特攻兵器人間魚雷「回天」出撃の際、正成の軍旗に記された「非理法権天」と認めたのぼりが掲げられ、人間魚雷には楠木一門の紋所「菊水」が描かれたそうです。もし殉節した正成がこれを知ったなら、その心中を推し量ると心が痛みます。「こんなはずでは…」と嘆き悲しむ嗚咽が漏れ聞こえそうです。 <br />

    湊川神社 塀の軒丸瓦の菊水紋
    武士の使命は、弁護士同様に物事の善悪・損得に関わらず依頼者に忠誠を誓うこと。無能でも上司は上司、ここでスピンアウトするのはいかがなものかということで、朝廷に命を捧げたのでしょう。しかし、この正義感が仇となり、ここ湊川の地で衆寡敵せず無念にも敗北を喫し、最後は弟 成季と「七生滅賊」を誓い、互いに刺し違えて自刃する運命を辿りました。「七生滅賊」とは、「7回生まれ変わってでも賊を滅ぼす」という意味。戦時中、正成の天皇への忠誠心を日本国民のあるべき姿として「七生報国」という言葉に利用され、国のために尊い命を捧げる合い言葉として神風特攻隊の若者が唱えたそうです。また、特攻兵器人間魚雷「回天」出撃の際、正成の軍旗に記された「非理法権天」と認めたのぼりが掲げられ、人間魚雷には楠木一門の紋所「菊水」が描かれたそうです。もし殉節した正成がこれを知ったなら、その心中を推し量ると心が痛みます。「こんなはずでは…」と嘆き悲しむ嗚咽が漏れ聞こえそうです。

  • 湊川神社 鯱瓦<br />東神門の軒にある守護神のシャチホコ。一瞬、ナマズかと失笑してしまいました。鯱は、建物が火事の際には水を噴き出して火を消すと言われています。鯱は、元々は大棟飾りのひとつとして作られたもので、大棟の両端に取り付け、鬼瓦同様魔除けの意味もあるようです。<br /><br />『兵庫県謎解き散歩』(新人物往来社刊)には、湊川神社について興味深いことが書かれています。「…幕末に起きたのが王政復古の大号令。将軍、徳川慶喜は政権を朝廷に返してしまいます。こうして天皇が国を統治するという鎌倉幕府以前の体制に戻ったのです。ここで問題になったのが、北朝方の天皇が連綿と続いている事実。南北朝統一の時に南朝をだましたこともあり、怖れたのが南朝の祟り。そこで楠木正成の塚があった所を神社にして鎮めることになり、誕生したのが湊川神社…」とあります。<br />これと符合するのが、崇徳上皇の祟りです。崇徳上皇は、保元の乱で実弟の後白河天皇との皇位継承に敗れ、讃岐に島流しとなりました。舌を噛みちぎり、「大魔王となって復讐し、王を下民に落とし、下民を王にしてやる」と血で認めて憤死したと伝えられています。その崇徳上皇の御霊が京都の白峯神宮に祀られたのは、死後700年も経った1868年。奇しくも、明治天皇が湊川神社創建を命じたのと同じ年です。崇徳上皇の怨念の鎮魂を提案したのは孝明天皇でしたが、1866年に疱瘡を患って急死してしまいます。昔から疫病にかかって亡くなるのは祟りのせいだと信じられていたため、この時も天皇の周囲では祟りだと噂されていたのではないでしょうか?孝明天皇崩御後、明治天皇が践祚(せんそ)しますが、即位式が行われたのは践祚から1年7か月後。つまり、崇徳上皇の鎮魂(白峯神宮の造営)を待ったためでした。<br />また、足利尊氏が室町幕府を開いた後、後醍醐天皇は、吉野へ逃れ、その3年後に右手に剣、左手に法華経を持って尊氏を恨む言葉を残して薨去しました。尊氏は後醍醐天皇の怨霊を恐れ、直ちに天竜寺を建立しています。<br />古今東西、時代が変遷する時期には末法思想のような乱世到来が脳裏をよぎるものです。ご多聞に漏れず、明治天皇も縁起を担がざるを得なかったのでは…?<br />

    湊川神社 鯱瓦
    東神門の軒にある守護神のシャチホコ。一瞬、ナマズかと失笑してしまいました。鯱は、建物が火事の際には水を噴き出して火を消すと言われています。鯱は、元々は大棟飾りのひとつとして作られたもので、大棟の両端に取り付け、鬼瓦同様魔除けの意味もあるようです。

    『兵庫県謎解き散歩』(新人物往来社刊)には、湊川神社について興味深いことが書かれています。「…幕末に起きたのが王政復古の大号令。将軍、徳川慶喜は政権を朝廷に返してしまいます。こうして天皇が国を統治するという鎌倉幕府以前の体制に戻ったのです。ここで問題になったのが、北朝方の天皇が連綿と続いている事実。南北朝統一の時に南朝をだましたこともあり、怖れたのが南朝の祟り。そこで楠木正成の塚があった所を神社にして鎮めることになり、誕生したのが湊川神社…」とあります。
    これと符合するのが、崇徳上皇の祟りです。崇徳上皇は、保元の乱で実弟の後白河天皇との皇位継承に敗れ、讃岐に島流しとなりました。舌を噛みちぎり、「大魔王となって復讐し、王を下民に落とし、下民を王にしてやる」と血で認めて憤死したと伝えられています。その崇徳上皇の御霊が京都の白峯神宮に祀られたのは、死後700年も経った1868年。奇しくも、明治天皇が湊川神社創建を命じたのと同じ年です。崇徳上皇の怨念の鎮魂を提案したのは孝明天皇でしたが、1866年に疱瘡を患って急死してしまいます。昔から疫病にかかって亡くなるのは祟りのせいだと信じられていたため、この時も天皇の周囲では祟りだと噂されていたのではないでしょうか?孝明天皇崩御後、明治天皇が践祚(せんそ)しますが、即位式が行われたのは践祚から1年7か月後。つまり、崇徳上皇の鎮魂(白峯神宮の造営)を待ったためでした。
    また、足利尊氏が室町幕府を開いた後、後醍醐天皇は、吉野へ逃れ、その3年後に右手に剣、左手に法華経を持って尊氏を恨む言葉を残して薨去しました。尊氏は後醍醐天皇の怨霊を恐れ、直ちに天竜寺を建立しています。
    古今東西、時代が変遷する時期には末法思想のような乱世到来が脳裏をよぎるものです。ご多聞に漏れず、明治天皇も縁起を担がざるを得なかったのでは…?

  • 元町商店街アーケード6丁目<br />天気が良いので三宮まで歩くことにします。<br />アーケードの天井には、港の街「神戸」にピッタリの帆船のオブジェがお出迎えです。「ロドニー号」と言い、1868年の神戸港開港を祝って入港したイギリス軍艦です。その記念として1/8スケールのオブジェが1987年からここに飾られているそうです。<br />目立たない配色ですので、注意していないと気づかずに通り過ぎてしまいます。<br /><br />日本史には幾度も戦いの時代がありました。楠木正成は、そんな時代の潮流に翻弄された河内の一武将でした。彼の評価は、時代毎の都合によって、時には国賊、時には神へと多様に変えられました。 現在も世界各地では権力や宗教を巡っての紛争が後を絶ちません。しかし、幸なことに現在の日本は世界的に見ると沢山の民族が平和の中で共存する数少ない国家です。正成もこの時代に生まれれば、まさしく英雄でいられたでしょうに…。近年、神戸は、海外から来た様々な思想や宗教の人が共存する街として見直されています。漸くたどり着いた日本のこの共存の文化が、世界へ発信されればとの思いを馳せる初詣となりました。 <br />

    元町商店街アーケード6丁目
    天気が良いので三宮まで歩くことにします。
    アーケードの天井には、港の街「神戸」にピッタリの帆船のオブジェがお出迎えです。「ロドニー号」と言い、1868年の神戸港開港を祝って入港したイギリス軍艦です。その記念として1/8スケールのオブジェが1987年からここに飾られているそうです。
    目立たない配色ですので、注意していないと気づかずに通り過ぎてしまいます。

    日本史には幾度も戦いの時代がありました。楠木正成は、そんな時代の潮流に翻弄された河内の一武将でした。彼の評価は、時代毎の都合によって、時には国賊、時には神へと多様に変えられました。 現在も世界各地では権力や宗教を巡っての紛争が後を絶ちません。しかし、幸なことに現在の日本は世界的に見ると沢山の民族が平和の中で共存する数少ない国家です。正成もこの時代に生まれれば、まさしく英雄でいられたでしょうに…。近年、神戸は、海外から来た様々な思想や宗教の人が共存する街として見直されています。漸くたどり着いた日本のこの共存の文化が、世界へ発信されればとの思いを馳せる初詣となりました。

  • 元町商店街アーケード3丁目<br />ランチをいただこうと思って立ち寄った元町商店街ですが、まだお休み中の店舗が多かったように思います。カバン屋さんは1月3日が初売りのようです。店頭には目玉商品が勢ぞろいです。

    元町商店街アーケード3丁目
    ランチをいただこうと思って立ち寄った元町商店街ですが、まだお休み中の店舗が多かったように思います。カバン屋さんは1月3日が初売りのようです。店頭には目玉商品が勢ぞろいです。

  • 元町商店街アーケード3丁目<br />雰囲気のある街灯です。<br />実は、ここのアーケードは日本で最初に造られたアーケードで、1953年に完成した歴史あるものです。<br /><br /><br />

    元町商店街アーケード3丁目
    雰囲気のある街灯です。
    実は、ここのアーケードは日本で最初に造られたアーケードで、1953年に完成した歴史あるものです。


  • 元町商店街アーケード 神戸風月堂 元町本店<br />115年を超える歴史を積み重ねてきた風月堂 元町本店が、2013年5月5日に「FUGETSUDO KOBE MOTOMACHI」としてリニューアルされました。新しい洋菓子を取り揃えたショップやワインと一緒にスイーツが楽しめる大人カフェ「サロン・ド・テ」、多彩なランチメニューを揃えたレストランなどが併設されています。<br />刷新されたロゴは、「架け橋」です。未来に向かって、人と人、心と心をつないでいきたいとの思いを「架け橋」=ル・ポンに託しています。開放的なエントランスと吹き抜けのキラキラと降り注ぐ光のオブジェが誘います。

    元町商店街アーケード 神戸風月堂 元町本店
    115年を超える歴史を積み重ねてきた風月堂 元町本店が、2013年5月5日に「FUGETSUDO KOBE MOTOMACHI」としてリニューアルされました。新しい洋菓子を取り揃えたショップやワインと一緒にスイーツが楽しめる大人カフェ「サロン・ド・テ」、多彩なランチメニューを揃えたレストランなどが併設されています。
    刷新されたロゴは、「架け橋」です。未来に向かって、人と人、心と心をつないでいきたいとの思いを「架け橋」=ル・ポンに託しています。開放的なエントランスと吹き抜けのキラキラと降り注ぐ光のオブジェが誘います。

  • 南京町広場<br />南京町は、横浜中華街、長崎新地中華街と共に日本三大チャイナタウンのひとつに数えられ、東西200m、南北110mの範囲に100店舗ほどが軒を連ねています。店頭で点心やスイーツ、食材、記念品などを売る店も多く、休日は観光客で賑わいます。<br />南京町の誕生は、1867年の神戸港開港まで遡ると言われています。当時、神戸にやって来た華僑の多くが元町の南エリアに住居を構え、付近に料理屋や洋服屋、豚肉屋、漢方薬店など様々な商店を開店させたのが発祥です。<br />観光地なのですが、フードコートに近い感じです。しかし、ここでの食事は横浜中華街と同様に観光地価格です。雰囲気にお金を払う程度に考えてください。ですので、地元の人は殆ど立ち寄らないスポットです。<br />中央には、柱が朱色の広場のシンボル「あづまや」が佇みます。高さ6.8m、直径3mあり、その周囲には13体の石像、十二支+パンダが置かれています。でもほとんどベンチ代わりになってしまっています。広場にある昼間だけ登場する小財神像の「財財(サイサイ)」ちゃんと「来来(ライライ)」ちゃんに触ると、幸せになれると言われています。春節祭、中秋節のイベントもここで開催されます。 吊り下げられた緑色の中国提灯もチャイナタウン情緒を演出しています。

    南京町広場
    南京町は、横浜中華街、長崎新地中華街と共に日本三大チャイナタウンのひとつに数えられ、東西200m、南北110mの範囲に100店舗ほどが軒を連ねています。店頭で点心やスイーツ、食材、記念品などを売る店も多く、休日は観光客で賑わいます。
    南京町の誕生は、1867年の神戸港開港まで遡ると言われています。当時、神戸にやって来た華僑の多くが元町の南エリアに住居を構え、付近に料理屋や洋服屋、豚肉屋、漢方薬店など様々な商店を開店させたのが発祥です。
    観光地なのですが、フードコートに近い感じです。しかし、ここでの食事は横浜中華街と同様に観光地価格です。雰囲気にお金を払う程度に考えてください。ですので、地元の人は殆ど立ち寄らないスポットです。
    中央には、柱が朱色の広場のシンボル「あづまや」が佇みます。高さ6.8m、直径3mあり、その周囲には13体の石像、十二支+パンダが置かれています。でもほとんどベンチ代わりになってしまっています。広場にある昼間だけ登場する小財神像の「財財(サイサイ)」ちゃんと「来来(ライライ)」ちゃんに触ると、幸せになれると言われています。春節祭、中秋節のイベントもここで開催されます。 吊り下げられた緑色の中国提灯もチャイナタウン情緒を演出しています。

  • 三宮<br />アーケードを抜けてふと天空を仰ぐと、そこには穏やかな神戸港の漣が投影されていました。

    三宮
    アーケードを抜けてふと天空を仰ぐと、そこには穏やかな神戸港の漣が投影されていました。

  • 三宮<br />横断歩道の信号が青に変わるまでず〜っと空を見上げていました。<br />周りの人たちも気付いてくれたかしら。

    三宮
    横断歩道の信号が青に変わるまでず〜っと空を見上げていました。
    周りの人たちも気付いてくれたかしら。

  • 三宮 MEDITERRASSE (メディテラス)<br />神戸を代表するファッションライフスタイルストアで三宮のランドマークとも言えます。南仏マルセイユの古い街並みをイメージした外観デザインが特徴で、吹き抜けの館内はショップごとの仕切りがなく、開放的な気分でショッピングが楽しめます。またカフェやレストランも併設されています。場所は、三宮センター街の西の端に当たります。<br />センター街のアーケード側からも入れますが、この写真は県道21号側からのものです。12月初旬〜1月下旬までは外観をLEDがライトアップし、幻想的な雰囲気となるイルミネーションが灯されます。<br /><br />ショップのHPです。<br />http://www.world.co.jp/mediterrasse/

    三宮 MEDITERRASSE (メディテラス)
    神戸を代表するファッションライフスタイルストアで三宮のランドマークとも言えます。南仏マルセイユの古い街並みをイメージした外観デザインが特徴で、吹き抜けの館内はショップごとの仕切りがなく、開放的な気分でショッピングが楽しめます。またカフェやレストランも併設されています。場所は、三宮センター街の西の端に当たります。
    センター街のアーケード側からも入れますが、この写真は県道21号側からのものです。12月初旬〜1月下旬までは外観をLEDがライトアップし、幻想的な雰囲気となるイルミネーションが灯されます。

    ショップのHPです。
    http://www.world.co.jp/mediterrasse/

  • 昇運ミニ凧<br />祈念品として授与された昇運ミニ凧です。ニューイヤーチケットも殿内参拝も同じものでしたが、縁起物ですので大切にしたいと思います。<br /><br />TV番組で『凧を「タコ」と呼ぶのは関東の方言で、元々は「イカ」「いかのぼり」と呼ばれていました。「イカ」は関西の方言として今も使われています』という興味深いことを伝えていました。早速調べてみた所、次のようなことが判りました。<br />「凧」という字は江戸時代に創られ、鎌倉時代までは「凧」の日本名は無く、中国名の紙鳶(シエン)や紙老鴟(シロウシ)と呼ばれていました。平安時代には、密書を紙鳶に託して堀を隔てた城中と連絡を取った記録があり、もっぱら武具として使われていたようです。鎌倉時代に民間にも流行し、子供の遊具となりました。室町時代になって「イカノボリ」「イカ」と呼ばれるようになり、江戸時代には紙鳶、紙老鴟に「いかのぼり」とフリガナを宛てました。<br />江戸時代には凧揚げが大人の娯楽として盛んになり、喧嘩や怪我人が絶えませんでした。大名行列の中に落ちたり、挙句は火のついた凧が江戸城に落ちたため、幕府の逆鱗に触れ、1655年に「イカノボリ禁止令」が発せられました。<br />庶民に人気の娯楽だったのでやめたくないということから、『これの名前は「タコ」です、「イカ」ではありません』という一休さん並の頓知で凧という漢字まで創ったそうです。<br />

    昇運ミニ凧
    祈念品として授与された昇運ミニ凧です。ニューイヤーチケットも殿内参拝も同じものでしたが、縁起物ですので大切にしたいと思います。

    TV番組で『凧を「タコ」と呼ぶのは関東の方言で、元々は「イカ」「いかのぼり」と呼ばれていました。「イカ」は関西の方言として今も使われています』という興味深いことを伝えていました。早速調べてみた所、次のようなことが判りました。
    「凧」という字は江戸時代に創られ、鎌倉時代までは「凧」の日本名は無く、中国名の紙鳶(シエン)や紙老鴟(シロウシ)と呼ばれていました。平安時代には、密書を紙鳶に託して堀を隔てた城中と連絡を取った記録があり、もっぱら武具として使われていたようです。鎌倉時代に民間にも流行し、子供の遊具となりました。室町時代になって「イカノボリ」「イカ」と呼ばれるようになり、江戸時代には紙鳶、紙老鴟に「いかのぼり」とフリガナを宛てました。
    江戸時代には凧揚げが大人の娯楽として盛んになり、喧嘩や怪我人が絶えませんでした。大名行列の中に落ちたり、挙句は火のついた凧が江戸城に落ちたため、幕府の逆鱗に触れ、1655年に「イカノボリ禁止令」が発せられました。
    庶民に人気の娯楽だったのでやめたくないということから、『これの名前は「タコ」です、「イカ」ではありません』という一休さん並の頓知で凧という漢字まで創ったそうです。

  • 割符守<br />殿内でしか授与されない割符に願い事を書き、神前で祈願しながら自らの手でそれを2つに割り、祈願を書いた方のお札を神前に奉納するものです。片方のお札は、お守として持ち帰ります。(500円) 災厄を割る、困難を破る、または誓いを立てるなど様々な願い事を神前に納めることができます。奉納したお札は、祈祷後、左義長神事などの浄火でお焚き上げしていただけます。<br /><br />最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

    割符守
    殿内でしか授与されない割符に願い事を書き、神前で祈願しながら自らの手でそれを2つに割り、祈願を書いた方のお札を神前に奉納するものです。片方のお札は、お守として持ち帰ります。(500円) 災厄を割る、困難を破る、または誓いを立てるなど様々な願い事を神前に納めることができます。奉納したお札は、祈祷後、左義長神事などの浄火でお焚き上げしていただけます。

    最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

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