2013/05/02 - 2013/05/06
955位(同エリア1527件中)
倫清堂さん
5月の連休はどこへ行っても人でいっぱいですが、やはり4日間の連休は自分にとって大変貴重な機会なので、家でじっとしていることは出来ません。
今回は、仙台から最もアクセスの厳しい地方のひとつである北陸を訪れることにしました。
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5月2日、少しでも時間を有効に使うため、苦手な夜行バスに乗り込みました。
新潟行きのバスは途中3回の休憩を挟み、朝5時半に新潟駅に到着します。
予想通りほとんど眠れませんでしたが、一睡も出来ないという程ではなく、夜行バスにも慣れて来たのかと少し自信が持てました。
バスを降りると、見計らったようにタクシーが目の前に止まり、ドアを開けてくれました。
タクシーに乗って約10分。
新潟港に着くまで計画と寸分の狂いもなく、旅は幸先のよいスタートを切ったのでした。
新潟港からフェリーに乗るのは今回が初めてで、インターネットで座席を予約しておいてよかったと心から思いました。
フェリーはかなりの混雑で、予約の不要な2等席も人であふれてしまい、廊下に新聞紙を敷いて座る人もたくさんいるほどです。
これから2時間半後、初めて佐渡島を踏むことが出来ると思うと、心が躍ります。佐渡汽船 ジェットフォイル 乗り物
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イチオシ
1等席は座席と絨毯とあり、自分は寝ることのできる絨毯の方を選んでおきました。
バスと同じでうつらうつらする程度でしたが、それでも体力の温存にはなります。
フェリーの艇内には売店があり、地元の食材を使った弁当を購入。
これを食べてから、あとは島に着くまで寝て待とうという算段です。
途中でイルカが見えるというアナウンスが入りましたが、思ったよりも船が揺れるため、あまり立ち上がりたくありません。
しばらくうとうとして、ようやく下船のアナウンスが入った時に外に出てみると、佐渡の山は雪をかぶっていました。
両津港でレンタカーを借り、いざ出発。
レンタカーの手続きをしてくれた方の話では、5月に佐渡で雪を見るのは生まれて初めてとのこと。
山へ通じる道路は通行止めになっているので注意するようにとのことですが、自分の目的地とは別なので問題はなさそうです。両津港 乗り物
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両津港からすぐの所に、北一輝の菩提寺である勝廣寺があります。
近くには北一輝の墓もあるそうで、彼の思想に心酔する方が時々訪れるとのこと。
酒田から移り住んだ人たちによって開かれた寺です。 -
旅の日取りはほとんど決まっているのですが、レンタカーを借りた時に受け取った地図に気になる場所があったので、まずはそちらへと向かうことにしました。
佐渡と云えば流刑の島と金山の島という2つのイメージが日本人の間で固定されていると思われます。
奈良時代以降、官位を持つ人も含めて様々な人が、都から遠く海を隔てたこの島に流され、何の望みもない中ただ生存だけを許されて過ごすことを強いられて来ました。
それは天皇という至尊の存在でさえ例外ではありませんでした。
第84代順徳天皇は、後鳥羽上皇の皇子、土御門天皇の皇弟で、土御門天皇から譲位されて天皇に即位し、後鳥羽上皇とともに倒幕のための兵を挙げます。
鎌倉幕府は3代将軍実朝公が暗殺されてまだ間もなく、上皇によって発せられた院宣に多数の御家人は従うそぶりを見せますが、北条政子の引き締めによって彼らの動揺は収まり、上皇方を討伐するための軍が素早く送られたため、この「逆クーデター」は失敗に終わってしまったのでした。
この事件は今では「承久の乱」として知られていますが、上皇や天皇の意思によって起こった紛争であるため、正しくは「承久の変」と呼ぶべきものです。
鎌倉幕府は後鳥羽上皇を隠岐島に、順徳上皇をここ佐渡島へ遷し、討幕に反対していた土御門上皇は自ら望んで淡路島へと遷されることになります。
国中平野を縦断する国道350線を少しそれた所に、粗末な宮を意味する黒木御所跡があります。
順徳上皇は佐渡へ遷されてから約20年間、京へ帰れる日が来ることを願いながらここで過ごされたのでした。黒木御所跡 名所・史跡
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順徳上皇が東の観音様へお詣りに行かれる際、休息を取られた御腰掛の石が、民家の脇に残されています。
もっとも今はその姿を見ることは出来ません。
安永9年に遺愛の石が汚されることを恐れた人たちによって地中深く埋められ、その上に場所を示すための樅の木が植えられています。 -
順徳天皇が礼拝された観音様は、近くの本光寺に安置されています。
寺の説明によると、黒木御所の四方には聖徳太子によって作られたと伝承される観音・薬師・弥陀・天神の霊像が置かれ、上皇は日々これらを礼拝されていたとのことです。本光寺 寺・神社・教会
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道を間違えて迷い込んだ先には、佐渡島で最も古くに創祀された荒貴神社が鎮座していました。
成務天皇の御代に佐渡国造に任じられた荒貴直が祖神を祀った神社で、御祭神は素盞嗚尊と大己貴命。
明治7年に正法寺から移された順徳上皇礼拝の四尊像の一つ、薬師様が安置されています。 -
関ヶ原の合戦が終わって江戸時代の幕が開けると、佐渡は遠流の島から黄金の島へとその役割を大転換させます。
慶長6年、鶴子銀山の山師3人によって金脈が発見されてから昭和の閉山まで、合計すると78トンもの金がこの佐渡島から産出されました。
現在はその一部が国の史跡に指定され、いくつかの坑道が公開されています。佐渡金山遺跡 美術館・博物館
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初めての見学者向けの宗太夫坑コースを選び、中へと進みました。
坑道内はひんやりとしていますが、湿度は高めです。 -
宗太夫坑は江戸時代初期から開発された「青盤脈」の採掘跡で、小坑道、斜坑、探鉱用の狸穴、空気を取り入れるための煙穴など、当時の坑道に見られる多くの特徴が残されています。
しかし観光客を相手にただ穴だけを見せる訳には行かないので、労働者たちの作業の様子が分かるよう、実物大の機械仕掛けの人形を動かして様子を再現しています。
中は薄暗く、人形は本物の人間に似せて作られており、思ってもいない所で突然動きだしたりするものですから、ギョッとする人も多いようです。 -
しかしただ掘るだけでなく山に感謝を捧げるところが日本人の良い所。
展示の最後に、祭礼「やわらぎ」が演じられている様子が再現されていました。
金銀を多量に含む鉱脈が発見されると、前途を祝して間歩開きの祝いが行われます。
やわらぎとは岩盤と山の神の心を和らげることを目的とし、「岩の出先に三階松植えて、鶴が黄金の巣をかける」という詞が、親方やたる叩きらによって歌われます。 -
佐渡金山の象徴とも言える「道遊の割戸」は、金山へ向かう道のあちこちから見えます。
真っ二つに割られてしまった山頂から日本人、というより人間の貪欲な本性が感じられますが、人類の歴史とはこうして作られるものなのでしょう。 -
次に復元された佐渡奉行所を訪れました。
天領であった佐渡には、大金脈が発見された2年後の慶長8年に奉行所が建てられ、それから焼失と再建を5回繰り返しています。
明治期には改築されて学校や役所として利用されますが、昭和17年の火災によって全焼。
平成6年に国の史跡に指定され、12年に御役所部分が再建されました。
建物も立派ですが、特に目を引くのが地下の穴蔵から発見された鉛板。
鉛は金の精錬の際に用いられる素材ですが、あまりに大切に保管されていたため、いつの間にかその存在が忘れられていたそうです。
それが最近になって発見され、そのうち1枚は実際に触れることが許されています。
案内の方に、どうぞ持ち上げて下さいと言われたので、長さ40センチほどの鉛板を両手で持ち上げてみると、見た目よりもかなり重く、ひそかに気合を込めなければ持ち上がらないほどでした。
なんと重さは35キロもあるとのことでした。佐渡奉行所 名所・史跡
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時間に幾分の余裕があるため、佐渡の海を眺めに行くことにしました。
道路標識にしばしば「尖閣湾」と書かれているのを見かけ、距離もそれほどではないその場所へ向かうことにします。
遊覧船に乗って海遊クルージングが出来るようでしたが、さすがにそこまでの時間はないので陸から眺めるにとどめたのでした。 -
次に、初代佐渡奉行の大久保長安が建立した大安寺へ。
車1台がようやく通れる細い坂道の先に、おそらく参詣者用の狭い駐車場があり、歩道を行くとそれらしき寺を発見。
しかしどこにも「大安寺」の文字は見えませんでした。
武田信玄に仕えていた長安は、武田家の滅亡後徳川家康公に能力を買われ、大久保忠隣から大久保の姓を給わって徳川家臣となります。
金脈を探し当てることには天才的な才能を発揮し、財務の能力も高かったため、佐渡のことは全て一任されるに等しい扱いで、幕府内において多大な権力と財力を握っていました。
しかし、附家老として仕えていた松平忠輝公を戴いて、伊達政宗公らとともに幕府転覆を企てていたという噂もあり、死して後、佐渡金山を利用した不正蓄財を理由に遺体は斬首されたのでした。
しかしことの真相は何も分かっておらず、その墓でさえ場所が確定されない中、己の死後の冥福を祈って生前に建てた逆修塔が、大安寺の境内にひっそりと残されています。 -
佐渡の旅も後半、小佐渡の散策へと移ります。
佐渡国には式内社が9社あったと伝えられ、その一つに比定される大膳神社へと向かいました。
『延喜式』には「御食神社」と記載されており、神社の名前は異なりますが、御祭神は農業や食べ物を司る御食津大神とあり、おそらく同一の神社ではないかと考えられます。
また佐殿に日野資朝卿と、右殿に大膳坊賢栄が合祀されています。
こうして佐渡を訪れたのは、日野資朝卿に関係する史跡を歩きたいという一つの目標があったからでもあります。
鎌倉幕府末期、後醍醐天皇の側近であった日野資朝卿は討幕の兵を募るため日本中を駆け回りますが、六波羅探題に察知されることとなり、上洛していた土岐頼兼と多治見国長が討ち取られてしまうと、追究の手は朝廷にまで及ぶこととなりました。
このままでは承久の変と同じ悲劇が繰り返されると憂えた資朝卿は、取り調べにおいて全ての罪を自らかぶり、佐渡へと流されてしまったのでした。
しかし討幕運動はそのまま集束するはずもなく、後醍醐帝は処分を免れた日野俊基卿や僧文観らと次の計画を練りますが、これは身内の吉田定房卿の密告によって露見し、帝はついに御所を抜け出して笠置山で挙兵するのでした。
これに大塔宮や楠木正成公などが呼応しますが、幕府は報復として佐渡に幽閉されていた資朝卿を処刑してしまったのでした。
また、父資朝卿の一子阿新丸(くまわかまる)の敵討ちを助けた大膳坊も処刑されましたが、後に資朝卿とともに御霊がここ大膳神社に合祀されたということです。大膳神社 寺・神社・教会
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大膳神社の境内には、弘化3年に再建された能舞台があります。
再建される前の舞台がいつ建設されたのかは詳しい記録がないため分かっておりませんが、文化年間よりも数十年は前のことだろうと推定されています。
佐渡の守護であった本間氏が、佐渡に能楽を広めるための拠点としたのがこの舞台で、昭和56年には皇太子・皇太子妃であった今上陛下と皇后陛下が、資朝卿と阿新丸を題材にした能「檀風」を薪能で天覧されました。 -
大膳神社から少し進むと、阿仏房妙宣寺の広大な境内に出ます。
妙宣寺は雑太郷の地頭であった本間氏の居城、雑太(さわた)城の跡地にあります。
阿新丸はこの城に幽閉されていた父に会おうと努めますが、その願いは聞き入れられず、守護代本間入道によってついに刑は執行されてしまいます。 -
境内にある資朝卿の墓に、手を合わせました。
資朝卿の遺体は城内で荼毘にふされ、遺骨は従者によって高野山に葬られたと伝えられています。
その後この城は、幽閉中の資朝卿が詠んだ歌から「檀風城」とも呼ばれるようになったのでした。
秋たけし檀の梢吹く風に
雑太の里は紅葉しにけり -
後の天正17年、上杉景勝公の支配が佐渡に及ぶんだことで檀風城は廃城となり、城地は妙宣寺へ与えられることとなりました。
妙宣時はやはり佐渡に流された日蓮上人とも縁が深く、弟子の日得が自宅を寺として開いたのが始まりで、日蓮宗佐渡三本山の一つにも数えられます。
境内の五重塔は江戸時代、相川の宮大工茂三右衛門親子が日光東照宮の五重塔を模して建てたもので、国の重要文化財に指定されています。 -
文久3年に建てられた本堂は佐渡島内最大の堂宇で、御本尊の釈迦如来が安置されています。
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文久2年に再建された庫裡は、全国的にも珍しい茅葺の破風造。
建築材は全て国産の赤松で、大黒柱の太さは圧巻。 -
妙宣時の境内を出てすぐの所に、阿新丸隠れ松があります。
父を斬った本間山城入道を討つために城内へ忍び込みますが、その日は入道は不在でした。
しかし太刀取りの本間三郎を刺した後、竹を伝って濠を越え、この松にしばらく身を潜めて脱出に成功したのでした。
その後、山伏の大膳坊に助けられて佐渡を抜け、建武新政で実権を握った後醍醐帝に仕えた阿新丸は、足利尊氏が北朝を立てた後も吉野朝に忠誠を尽くし、九州などで京の奪還のために働き通したのでした。
一方、阿新丸の脱出を助けた大膳坊は本間山城入道によって処刑されますが、入道はその後になって悔い改め、資朝卿とともに大膳神社へ御霊を合祀したのでした。
能「檀風」には大膳坊も登場します。 -
佐渡には古い建物が多く残されていますが、国分寺もその一つ。
聖武天皇の詔によって全国に国分寺が置かれることとなり、佐渡国分寺は天平宝字8年頃の建立ではないかと考えられています。
正安3年に七重塔が落雷によって焼失し、享禄2年には火災で宝物など一切を失ってしまったと寺伝は伝えています。
現在の本堂は江戸初期の建立と考えられます。国分寺跡 名所・史跡
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佐渡の旅は終わりに近づいて来ました。
順徳上皇の行在所跡に創祀された真野宮を参拝。
もとは国分寺末寺の真輪寺でしたが、順徳上皇が崩御された場所であることから明治7年に上皇を奉祀する神社となり、昭和17年の順徳上皇700年祭には神域が拡張されて社殿も一新されました。佐渡歴史伝説館 美術館・博物館
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黒木御所とここと、順徳上皇が佐渡で仮宮を営まれた場所は2箇所あり、常に行き来されていたのか、何かのきっかけをもって遷られたのかまでは、調べてみても今のところ分かりません。
真野宮の隣には佐渡歴史伝説館があり、ここで展示を見学すればあるいは分かったのかも知れませんが、思ったほど時間が残されておらず、土産物屋を覗き軽く食事をして、次へ向かうことにしました。
土産物屋では、北朝鮮による拉致被害者のジェンキンス氏が煎餅の販売を行っていました。 -
車に乗り込むと、突然雨が降り出して来ました。
この連休は天気にも恵まれると予報されていましたが、念のために傘を持ち歩いていたのは正解でした。
まったくひと気のない駐車場に車を停め、雨の強く降る中、順徳上皇火葬塚である真野御陵へと歩き出しました。
真野御陵の参拝を終えると、雨は嘘のように上がりました。
順徳上皇の涙の雨のように思えてなりません。
佐渡で22年間を過ごされた上皇は、京へ帰れる望みが失われたことを悟り、絶食して崩御されたのでした。
御遺体は翌日に真野山で火葬され、御遺骨となって都へ帰られたのでした。
その後、御遺骨の所在も不明となり、元禄探陵の際に京都の大原が御陵であると比定されました。
ここ真野御陵は火葬塚ですが、古くから人々に崇敬されて来た経緯もあり、今も御陵と呼ばれるだけでなく宮内庁の管理下にあります。
眞野御陵に詣でて詠む
なみだ雨したたるまののみささぎに
愁ひの君を偲びまつりぬ真野御陵 名所・史跡
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1日目の最後は佐渡国一之宮、度津神社への参拝です。
本来ならその国に入って真っ先に一之宮へお参りに行くべきなのですが、鎮座地の関係から一番最後にせざるを得ませんでした。
明治政府が全国に鉄道を敷く際、各地の一之宮の近くには必ず駅を置くよう努力した跡がうかがえます。
しかし佐渡島に鉄道はなく、日に数本のバスが通っているだけの僻地に度津神社は鎮座しており、公共の交通機関を使っての参拝が最も難しい一之宮の一つに数えられるのは確実です。
一面田んぼだらけの平地を通る道をしばらく進むと、一の鳥居が見えて来ます。
一の鳥居までは車でくぐることが出来、羽茂川にかかる赤い橋を渡ると、駐車場がすぐ見えて来ます。
恐らく近所に住んでいる子連れのお母さんの姿がある他、参拝客の姿は見えません。
御祭神の五十猛命は樹木を司る神様。
父神の素盞嗚尊とともにたくさんの種子を持って新羅へ渡り、そこで種子を植えることに励みますが、余った種子を日本へ持ち帰り、全国に植林を普及したのでした。
度津と書いて「わたつ」と読むことから、てっきりわたつみの神(=海の神)を祀る神社かと思っていましたが、五十猛命は造船にも関わったことから陸上・海上の交通安全の守護神として崇敬されているとのことです。
また五十猛命と云えば、兄弟によって命を狙われた大国主神を救った木国の大屋毘古神と同一神とされており、佐渡は古代より出雲とも関係が深かったものと思われます。度津神社 寺・神社・教会
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イチオシ
御祭神が樹木の神だけあって、境内には立派な鎮守の森が形成されています。
若い木のほとんどに植樹者の札が立てられていますが、軍人さんの名前が多いように見えました。
現在の御本殿は宝永6年の再建。
それ以外の社殿は昭和6年の造営で、宮司として造営事業を取り仕切った金原源太夫は激務のために病に倒れたほどでした。 -
また佐渡市立佐渡植物園が併設され、万葉集に詠まれる花や木などが植えられていました。
神社に庭園があるのは珍しくありませんが、神社に植物園というのはこれまで見たことがありません。
樹木の神を祀る神社は、佐渡の島民に愛される憩いの場を提供している神社なのです。 -
予定より1時間ほど早くなってしまいましたが、小木港に到着してフェリーを待つことにしました。
小木港には佐渡おけさの像がありました。
そう言えばこの旅で、佐渡の郷土芸能や郷土料理に触れる機会がありませんでした。
しかし、最初の予定では島内をバスで巡るはずだったのが、レンタカーを小木で乗り捨てできることを知り、こうしてレンタカーで多くの史跡や旧跡を訪れることが叶いました。
乗り捨て料金も含めて費用が嵩んだものの、そう簡単に渡ることの出来ない離島を思う存分楽しめたので、この選択は間違っていませんでした。
最後に驚いたのが、自分が一日かけてたどった新潟港から両津港への海路、両津港から小木港までの国仲平野の陸路、小木港から直江津港への海路は、国道350号線として一本につながっているという事実です。
小木からのフェリーはあまり人が乗っておらず、1等でなくても快適に過ごせそうでした。
ここでもしばし仮眠を取り、直江津港に着いた頃には空は真っ暗。
最早バスの運行は終わっているため、ホテルのある上越駅まではタクシーを利用しました。小木港 乗り物
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1日目の佐渡島は寒いほどの低温でしたが、2日目は気温が上がりそうな雰囲気です。
レンタカーを借りてまず向かったのは五智国分寺。
五体の如来を安置する国分寺であることから、こう呼ばれています。
本堂の前には5本のまといが置かれており、境内には舞台が設置されていました。
翌5月5日は縁日で、神仏習合の祭りが行われます。五智国分寺 寺・神社・教会
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聖武天皇の詔によって置かれた国分寺については所在地など多くが不明ですが、永禄6年に上杉謙信によって再興され、現在まで国分寺を名乗っています。
県の有形文化財に指定される三重塔は安政3年の着工ですが、いまだに完成していないということです。 -
本堂に向かって右側には、親鸞聖人の配所であった竹之内草庵があり、親鸞が自らの姿を写して刻んだとされる坐像が安置されています。
浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、京都が荒廃の極みにあった時代に高貴な血筋に生まれ、9歳の時に青蓮院において慈鎮和尚の得度を受けて仏門に入りました。
延暦寺などで修業を積みますが、ある日戒律を破って肉食・妻帯を行います。
仏門からはもちろん、一般人からも厳しく非難されますが、親鸞にはある種の悟りが訪れたためなのでしょう。
象元元年、師の法然が率いる教派が弾圧を受け、一員であった親鸞も越後国国府へ配流の処分となったのでした。
境内には親鸞上人腰掛石があり、寺域の周辺にも親鸞上陸にまつわる数々の史跡が残されています。
これらを一つ一つたどってみたいと思います。 -
五智国分寺とほとんど同じ境内なのではないかと思えるほど隣り合わせで、越後国一之宮の居多神社は鎮座しています。
弘仁4年、従五位下を賜ったとの記録が残された最古の記録ですが、当然のことそれ以前から祭祀は続けられて来ました。
承元元年に配流された親鸞聖人は、いちはやく居多神社を参拝し、
すゑ遠く法を守らせ居多の神
弥陀と衆生のあらん限りは
と詠みました。
すると神社の境内に生えていた葦が一夜にして片葉になってしまいました。
今も季節が来ると、茎の片側にしか葉のない葦が境内に生い茂るとのことです。居多神社 寺・神社・教会
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出雲造の社殿は、まだ建てられて間もない様子です。
以前は海沿いの土地に鎮座していたものの、海岸浸食によって崩壊してしまったため、明治12年に現在地に遷座された経緯があります。
しかしその社殿も明治35年の火災で焼失してしまい、40年に建てられた仮社殿で100年間も祭祀することを余儀なくされていましたが、平成20年ついに新社殿が竣工の運びとなったのでした。 -
出雲造の社殿に住まうのは大国主命・奴奈川姫・建御名方命。
両親神と御子神が3柱そろって祀られています。
居多と書いて「こた」と読み、これは北陸地方に多い気多(けた)神社の呼び名が訛ったものと考えられます。
各地の気多神社の御祭神も大国主命で、日本海のルートを通って出雲の勢力が拡大した結果なのでしょう。 -
次に池に囲まれた国府別院へ。
こう書くと歩いて回れるように思われそうですが、実際は車がなければ移動はつらそうです。
それだけ広大な敷地に多くの重要な宗教施設が集まっているのは、全国的にもあまり見たことがありません。
国府別院は、竹之内草庵の次に親鸞が移り住んだ竹ヶ前草庵のあった場所に、江戸時代に開かれた寺です。本願寺国府別院 寺・神社・教会
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イチオシ
五智周辺の散策を終え、次に春日山の方へと車を走らせます。
空気が非常に澄んでいて、遠く北アルプスの山並がはっきりと見渡せます。
ほどなくして上杉謙信公菩提所の林泉寺に到着。
拝観料を納めて境内に入ると、謙信直筆の「春日山」「第一義」の大額がかかる山門が目に入ります。
父長尾為景から疎んじられていた謙信は、7歳で林泉寺に預けられ、天室光育禅師のもとで厳しく育てられました。
彼の人生の転機となったのは、家督を継いだ兄晴景に力がなかったために起こった家臣による叛乱で、謙信は守護の上杉定実から討伐を命じられ、天才的な軍略を発揮してこれを鎮圧し、周囲にその名を轟かせたのでした。
しかし無能な兄にとっては不快極まりなく、兄弟の間で争いも起こりましたが、ほとんどの家臣にとって越後を平定出来ると見たのは謙信の方だったため、兄を隠居させてついに家督を相続することとなったのでした。
謙信は19歳にして春日山の城主となったのでした。林泉寺(新潟県上越市) 寺・神社・教会
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林泉寺の小高くなっている山には墓所があり、上杉謙信公は川中島戦死者供養塔と並んだ場所に眠っています。
また、織豊時代から江戸時代にかけて林泉寺を菩提所とした堀氏・松平氏・榊原氏の墓もあります。
越後守護の上杉定実が死去し、謙信は名実ともに越後の国主となりますが、彼の出世はそれだけに終わらず、上杉憲政の養子となって関東管領職を継承するに到ります。
仏教への信仰も篤く、道に外れたことを絶対に許さなかった謙信は、既に名前だけの傀儡となってしまった将軍家を助けることを厭わず、自ら天下を取るような野望などとは無縁の人物でした。
常に野心をむき出しにしていた武田信玄とは何度もぶつかり合い、勢いを増す織田信長公とも戦端を開きますが、天正6年に突然倒れて昏睡状態に陥り、義に生きた49年の生涯を閉じたのでした。 -
林泉寺から春日山へ向かおうとすると、駐車場の係員に引き止められてしまいました。
連休中は混雑するため、春日山への自家用車の乗り入れは出来ないとのことです。
これでは何のために車を借りたのか分からなくなってしまいますが、事前の下調べが足りなかったということで反省し、巡回バスの乗り場へ向かうことにしました。
バスは10分弱の間隔で来るため、便利と云えば便利です。上越市埋蔵文化財センター 美術館・博物館
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春日山行きのバスは春日山神社前で停まり、新たな乗客を乗せて再び山を下って行きました。
先ほどのバス乗り場もそうでしたが、春日山神社の参道でも、観光を宣伝するための「武将隊」の人たちが親しげに観光客にあいさつをしていました。
春日山神社の御祭神は上杉謙信命で、その御霊は米沢市の上杉神社から分けられたとのことです。春日山神社 寺・神社・教会
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ここから春日山城の本丸まで、徒歩で1時間ほどかかります。
往復で2時間をかけてしまうと、次の目的地へ行くための時間がなくなってしまいます。
ここは上杉謙信の居城でもあるし、心残りではあるのですが、やはり最初に立てた予定を守ることにしました。
春日山城の築城は南北朝時代、越後守護の上杉氏によるものです。
後に守護代で謙信の父の長尾為景が上杉氏を追い出して城を乗っ取り、自らが城主となるのですが、その際、新たな守護として上杉定実を立てると云う策謀を用いています。
天然の要害を持つことから、石垣や城壁を造る必要はなかったようです。
城の場所があまりに険しいため、上杉氏が移封されて新たに越後に入った堀氏は、この難攻不落の城を手放して平地に新たな城を築きました。 -
春日山の散策を終え、少し離れた高田へと向かいます。
最初は何も分からずに駅で借りられる自転車で行くつもりでしたが、電話で訪ねたら担当の方から「おすすめできない」と言われてしまいました。
確かに車で走っても直江津からそれなりの距離を感じました。
まず榊神社を参拝。
徳川四天王のひとりで藩祖の榊原康政公、法度を改めて殉死を禁じた3代忠次公、開墾・治水・興学・海防に尽力した11代政令公、最後の藩主で戊辰戦争後に会津藩の降人を多数救った14代政敬公をお祀りしています。
榊原康政公は古くは酒井氏に仕える陪臣でしたが、三河一向一揆の鎮定で功績のあった康政公は家康公の側近として取り立てられることとなったのでした。
家康公が天下を取った後も、康政公への加増転封はありませんでした。
しかし榊原氏は久能山東照宮を守る総門番として、他の誰にも許されない名誉ある任務を与えられることとなったのでした。 -
イチオシ
次に高田城へと向かいます。
一帯は公園として整備されており、駐車場も豊富に用意されています。
堀の向こう側に高田城のシンボルである黒塗りの三重櫓が見えます。
高田城は徳川家康公の六男、松平忠輝公のために築かれた城。
春日山城を廃して福島城に拠った堀氏は慶長15年に御家取り潰しとなり、変わって忠輝公が川中島から入封し、越後一円と川中島4郡あわせて75万石を治めることとなったのでした。
家康公の息子たちはそれぞれ多様な性格をしていて、将軍職を継いだ秀忠公が非常に柔らかい性格であったのに対し、忠輝公は戦国武将らしい鋭敏な性格の持ち主でした。
忠輝公が成長するにつれ、家康公の頭の中では、かつて腹を切らせた長男の信康公と重なる部分が多くなったことは想像するに難くありません。高田城三重櫓 名所・史跡
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高田城は慶長18年に築城の計画が立てられ、翌19年には舅の伊達政宗公を総裁とする13の大名によって着工。
4ヶ月という短期間のうちに完成させられたのでした。
急ぎ足で工事が進められた理由として、大坂の陣を控えて江戸の背後を固めておく必要があったからと考えられます。
その大阪の陣も徳川家の勝利のうちに幕を収めると、忠輝公は、75万石の太守にとって天守閣もない高田城が物足りなく感じられて来ます。
その心の隙間をたくみに利用したのが、附家老の大久保長安だったのでした。
奥州の実力者伊達政宗公と2代目将軍よりも英雄的な素質を持つ松平忠輝公が結束し、そこに佐渡金山で生じた莫大な財産と、更にイスパニアの後ろ盾を利用すれば、幕府を倒すことができるのではないかと夢想したとしても不思議ではありません。
もっともこの計画は長安の死後に本多正信が訴えた「陰謀」であって、本当に彼の胸にそのような計画があったのか、あったとしても実行する意思まで持っていたのか、真相はこの世には残っていないのです。
残っているのは、大久保長安は遺体を斬首され、忠輝公は父家康公が死去して後、2代将軍秀忠公の命によって改易させられた事実のみです。 -
イチオシ
高田城の三重櫓は、天守閣の代用をしていました。
当初の三重櫓は明治3年に火災によって焼失してしまい、城域は陸軍第13師団の駐屯地として破壊し尽くされてしまいます。
平成5年、三重櫓は上越市発足20年を記念して復興され、内部は展示室や展望室として公開されていますが、当時の姿そのままの復元ではないというのが残念です。 -
軽く昼食をとり、直江津駅のあたりまで戻ります。
残された時間で、見落とした史跡を拾うように一つ一つ回ってみることにしました。
まずはごく普通の住宅街の中にある御館跡へ。
上杉謙信の死後の天正6年、家督相続をめぐって上杉家は真っ二つに割った御家騒動が勃発します。
ここ御館は謙信が関東管領の上杉憲政を迎えるために築いた屋敷で、管領職を相続するひとつのきっかけともなった場所です。
景勝公が春日山城を拠点にしたのに対し、景虎公はここを拠点として戦ったのでした。
翌7年、景勝公の総攻撃によって御館は陥落し、景虎公は自害。
景勝公が上杉家を継ぐこととなりますが、家中を分断した御館の乱によって勢力が弱まってしまい、関ヶ原の戦いでは謙信の後継者とは思えないほど、影響力を発揮できませんでした。御館公園 公園・植物園
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居多ヶ浜の親鸞聖人上陸地もすぐそこの距離です。
念仏発祥の地などの石碑がある他、親鸞聖人の像を安置する八角形の見真堂が立てられています。
見真堂とは、明治天皇から追贈された諡号、「見真大師」による命名です。 -
直江津駅から徒歩圏内の八坂神社。
参道は、夜はネオン街となります。
昨日の夜に周辺を少し歩きましたが、ひときわ明るい一画でした。
直江津における祇園のような場所として、船乗りたちに愛されているのかも知れません。八坂神社 寺・神社・教会
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参道が見つからず何度も車で通り過ぎてしまった府中八幡宮。
養老4年に宇佐八幡宮、貞観12年に石清水八幡宮を勧請。
春日山の鬼門鎮護として、上杉氏の崇敬が特に篤かったお宮です。
上越でも予定していた場所は全て回ることが出来たため、レンタカーを返し、直江津駅から北陸本線に乗りこみました。 -
3日目を過ごす富山に向かうのですが、途中の糸魚川で下車。
糸魚川駅は北陸新幹線の開通に向けて工事が行われていました。
目指す場所は3箇所。
徒歩移動なので大きな荷物はコインロッカーに預けることにしました。
駅前の通りにはもちろん高層ビルなどはなく、ローカルな駅の情緒を残しています。
その駅前の通りで奴奈川姫の像を発見しました。
『古事記』に登場する女神で、大国主の求婚に答えて結ばれる話が残されています。 -
『万葉集』巻十三に
渟名河の底なる玉
求めて得まし玉かも
拾ひて得まし玉かも
惜しき君が老ゆらく惜しも
という和歌があります。
この地に伝わる伝承によると、かつてここに翡翠を採集・加工する部族が住んでおり、その長が奴奈川姫でした。
翡翠には霊力があると信じられており、この土地の人々がそれを勾玉などに加工して身につけていたことが、遺跡の出土品などから分かっています。
糸魚川で産出された翡翠は出雲でも発見されており、両国の関係はかなり深いものであったと考えられることから、大国主と奴奈川姫の結婚譚は単なる創作ではないと言うことが出来るのです。 -
駅から真っすぐの道を日本海に向けて歩くと、右手に小さな公園が現れます。
ここが海望公園で、こちらに立っている奴奈川姫像の方が駅前のものよりもよく知られています。
大国主は居多ヶ浜近くの身能輪山に宮殿を置き、姫川の里に住む奴奈川姫のもとを訪れ、2日目の夜に二人は結婚することになります。
それから大国主は姫川の里に移り住み、翡翠の加工技術などを伝授しながら暮らし、やがて奴奈川姫を身能輪山の宮殿に迎えることにしたのでした。
その時に誕生したのが神建御名方であるとされます。
神建御名方神は国譲り神話において、天津神から遣わされた建御雷神と激戦する武神ですが、この像ではまだあどけない少年として表わされています。
出雲にいる父の死を聞いた大国主は奴奈川姫を連れて帰ろうとしますが、姫は嫉妬深い后がいる出雲へ行くことを拒んだため、大国主は姫が寝ている間に舟に乗せて出発してしまいます。
朝になって姫が目を覚ますと、自分の身が舟の上にあることを知り、必死の思いで逃げ出します。
逃走の際に姫が渡るのを嫌がった川が、現在は糸魚川(=厭い川)としてこの伝承を我々に残しています。 -
駅へ引き返す途中に、相馬御風宅があります。
糸魚川出身の詩人で、全国各地の校歌や同様の作詞を手掛けたほか、良寛について優れた研究の成果を残しました。
糸魚川に伝わる伝承をもとに翡翠が産出されることを推測したのが御風で、実際に昭和13年に天然の翡翠が発見されたのでした。
彼の生家は昭和3年の大火によって焼失してしまい、現在残されている町屋風の屋敷はその後建てられたものです。
これまで名前を聞いたことのない人物でしたが、せっかく来たので中を見学させて頂くことにしました。 -
少年時代はどちらかと云うと女の子にちやほやされて悪ガキたちからはいじめられていたこと、どんなに書道の練習をしても字がまずいことにコンプレックスを抱いていたことなどのエピソードが紹介されていましたが、東京での生活に疑問を感じて故郷へ戻ったことについては自分に似ていると思いました。
ただ御風は精神的な苦悩が肉体に影響を及ぼすまで耐え、それまで東京で築いた全ての地位を投げ捨てるという大決断をしたことは、私にははるかに及ばない所です。 -
良寛や小林一茶を愛するあたりに、御風の人柄をうかがうことが出来ます。
2階にある書斎からは数々の名作が世に出されました。
御風が生活していた頃は頸木の山々と日本海が一望でき、彼はその眺めをとても気に入っていたとのことです。
最晩年は机のとなりに布団を敷き、気分の良い時に起き上がって執筆しました。
亡くなったのは昭和25年。
それから60年以上が過ぎ、御風がこよなく愛した糸魚川は大きく変貌しました。
海岸線に沿って延べられた高速道路や、景観を塞ぐように建てられる新幹線駅と高架橋を、御風はどのように見ているのでしょうか。 -
糸魚川駅には連絡通路がなく、反対側へ出るにはぐるりと迂回しなければなりません。
相馬御風宅で予定よりも長く時間を過ごした上に、この余分な移動距離が重なったので、次の電車の時間が心配になって来ました。
目指す天津神社まで、少し早足になって歩きます。
道路に社号標を見つけ何気なく観察すると、揮毫したのは宮城出身の神道家今泉定助翁。
こんな所にもご縁があったのかと感心しつつ、境内を目指して歩み続けます。天津神社 寺・神社・教会
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イチオシ
天津神社は全国一の宮会に所属していませんが、越後国一之宮を名乗っています。
長い歴史の中で当初の一之宮が不明になってしまった神社は多く、一之宮会に属しているかどうかがその判断基準になるということはありません。
第12代景行天皇の御代の御創建で、もとの鎮座地は山崩れがあったため、現在地に遷座されたと記録されているとのこと。 -
この地方を治めていたと思われる奴奈川媛命は天津神社とは別に祀られており、どちらかというと天津神の瓊瓊杵尊が主祭神のように扱われています。
本殿は2社が並び、寛永9年に改築された天津神社は、寛永10年改築の奴奈川神社よりも大きいお社となっています。
鎮座地の地名は一の宮であるし、境内には明治の廃仏毀釈まで神宮寺があったということなので、歴史的に一之宮であることは間違いありませんが、歴史のある地点で主祭神が国津神から天津神に入れ替わってしまったのではないかと思われます。
けんか祭りとして知られる春大祭と、国の重要無形文化財に指定される天津神社舞楽が、この謎を解く鍵になりそうです。 -
糸魚川から北陸本線に乗って移動を再開し、1時間ほどで富山駅に到着。
富山駅で友人と待ち合わせ、飲みに行く約束をしていました。
もう一人、こちらは私にとっては初対面の方ですが、その方が会社で経営している居酒屋で待っているというので、急ぎ足で富山城址公園を案内してもらいました。
結論から言うと、現在の富山城は往時の姿とは全く異質なものとなってしまっており、友人もこの歴史破壊に対して怒りを隠さない様子でした。
北東にある三層櫓は残された石垣の上に建てられた美術館で、こちらの石垣は貴重な遺構です。富山城址公園 公園・植物園
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それに対して「天守閣」を名乗る富山市郷土博物館は完全に捏造された建物で、戦後すぐに鉄筋コンクリートによって建てられたものです。
時代考証どころの話ではなく、当時から人気のあった犬山城の天守閣を模して設計し、観光客が集まりやすいよう入口近くに、これまた捏造の石垣を組んで建てたとのことです。
事情を何も知らない人が見れば、富山城は大層立派な天守閣を持っていたのだと思ってしまいますが、実際は天守閣があったという証拠はなく、観光客に誤った知識を植え付けてしまうことになりかねません。
今さら壊すことも出来ないとは思いますが、史実に基づいた観光資源を発掘することを努力するべきではないでしょうか。 -
城址公園内に、富山藩2代藩主前田正甫公の像がありました。
こちらは実在した人物で捏造ではありません。
富山藩は加賀藩の支藩であり、初代藩主の利次公は前田利家公の孫にあたります。
元禄3年、参勤交代で江戸城を訪れた際、三春藩主の秋田輝季公が激しい腹痛を訴えました。
正甫公が常備していた「反魂丹」を服用させたところ、たちまちのうちに腹痛は治まったため、居合わせた大名たちはその効能に驚き、自分の領内での販売を求めて来たため、正甫公が諸国を売り歩く行商を奨励したのが、今の富山の薬売りの始まりなのだそうです。 -
居酒屋では富山名産のほたるいかや白えび、ます鮨などを堪能し、たくさんの地酒を飲みながら会話も弾みました。
今度来る時には立山に登ろうという計画まで決まりました。
それぞれ翌日にも予定があるのでいったんお開きにして、友人が最後にラーメン屋へと案内してくれました。
そこで注文したのは「富山ブラック」
元祖富山ブラックの店は閉店時間を過ぎていたので、その次におすすめの店ということでしたが、見た目の黒さに反して味はあっさり。
旅をするたびに体重が増えるのは、今回も同じようです。 -
3日目も主な足はレンタカー。
富山市内から西へ約1時間走り、越中国一之宮の高瀬神社に到着しました。
景行天皇の御代の御創建と伝えられ、御祭神は大国主命・天活玉命・五十猛命。
この地方も出雲の影響が強かったことが推測できます。
しかし歴史を辿ろうにも、戦国時代の混乱によって記録文書のほとんどは失われてしまっています。高瀬神社 寺・神社・教会
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千鳥破風と唐破風を持つ御社殿は昭和62年の完成。
昭和17年の計画では、国費をもって建てなおされる予定でしたが、基礎工事が終わった昭和20年8月に敗戦となり、GHQの指示によって国費による工事は中止に。
しばらくは参拝者の影すら見えないほど荒廃していたということです。
平和の尊さというものは、祭祀や信仰を安心して続けられることがその本質なのかも知れません。 -
そのまま西へ進み、石川県との県境である倶利伽羅峠へ。
こんな山奥へ来る人など自分以外にはそうそういないだろうと思っていましたが、倶利迦羅不動寺に続く細い道路は延々と車が縦列駐車されており、驚いてしまいました。
これでは参拝は無理だろうと思って進むと、ちょうどお寺の反対側に当たる標高の低い場所に空きのある駐車場を発見。
こちらの方が正式な参道だったようで、鳥居をくぐり石段を登ると、石堂神殿を持つ手向神社が見えて来ました。
加賀藩3代前田利常公の寄進で、表面には彫刻がほどこされています。 -
どうやら八重桜まつりの期間中であるらしく、境内はお祭りムード。
八重桜はもう見頃を過ぎていましたが、商売っ気がなく和やかな雰囲気でした。
養老2年、元正天皇の勅願によってインドの高僧善無畏三蔵法師が招かれて国土安穏の祈願を行い、その際に彫刻した不動尊が御本尊として安置されています。
倶利伽羅不動尊とは、不動明王が右手に持つ剣に龍が剣に巻きついて、その剣尖を飲みこもうとする姿で描かれます。
剣に龍が巻きつく姿に、アロンの杖を連想してしまいます。 -
こちらも石造りの奥の院は、3年に一度御開帳が行われます。
本堂には弘法大師が御本尊を模して彫られたほぼ同体の不動尊が祀られていますが、畏れ多くてこの目では確認できません。 -
ここ倶利伽羅峠の名は、倶利迦羅不動寺よりむしろ倶利伽羅峠の戦いによって人口に膾炙しているのではないでしょうか。
以仁王が発せられた平家追討の令旨に従って兵を挙げた木曽義仲が、京都から下って来た10万の平家軍を、牛の角に松明を結び付けて暴れさせる「火牛の計」を用いて打ち破った戦いです。
その後、義仲の勢いは止まることを知らず、富と権力を独占して権勢を誇っていた平家もついに都落ちすることとなります。
角に松明を取りつけられた牛たちが都合よく敵方へ向かってくれるかどうかはともかく、日本の歴史における一つのクライマックスとして古今の国民に愛される一場面であることは間違いありません。源平倶利伽羅古戦場 名所・史跡
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富山市内へは高岡経由で帰ります。
高岡駅前に市営の駐車場を見つけたので、そこへ車を停めることにしました。
高岡は藤子不二雄(F)の故郷でもあり、駅前の広場にはドラえもんと仲間たちの楽しげな雰囲気の像が置かれていました。 -
駅から10分ほど歩き、高岡大仏に到着。
延享2年に木造の大仏が建立されますが、文政4年に焼失。
天保12年に再建された大仏も明治33年の大火で焼失。
こうして建立と焼失を繰り返しましたが、昭和8年に古式鋳造法によって銅製の大仏が完成したのが現在のもの。
鋳造から着色まで、全工程が高岡の職人の手によってなされているとのことです。
台座の内部は見学可能で、入口の後ろ側には明治に焼失した木製大仏の東部だけが安置されていました。高岡大仏 寺・神社・教会
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更に歩くと、高岡古城公園。
富山城に隠居した加賀藩初代藩主前田利長公が、富山城下に大火があったために移り住んだ城で、前田家の客将だった高山右近によって縄張りされ、慶長14年に完成しました。
南外濠にかかる駐春橋を渡ると、すぐ右手に護国神社が鎮座しています。高岡古城公園 公園・植物園
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更に進むと、本丸跡に鎮座している越中国一之宮の射水神社へと続きます。
越中国一之宮は4社が名乗っており、ここで3社目の参拝となります。
射水神社の歴史も複雑で、御創祀こそ養老年間ではあるものの、うち続く戦乱によって規模は縮小し、慶長年間に入って前田利長公の庇護を受けてようやく再興されたのでした。
明治8年、二上山のふもとから現在の高岡城跡に遷座しますが、2代目高岡大仏を焼いた明治33年の大火によって類焼。
富山の神社はこのような話ばかりで、一之宮を4社も名乗るのも仕方がないことかも知れません。射水神社 寺・神社・教会
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御祭神は瓊瓊杵尊とされますが、二上神との別称もあり、基は別な神格であったとも考えられます。
歴史書によると、先ほど訪れた高瀬神社とともに朝廷から神階の陞叙を受けており、本来はかなり重視されていた神社であったことは間違いありません。
それが越中国の地政学的な位置づけによるものなのだとすると、戦国時代に絶えず隣国から侵攻をうけていた事実にも頷けるというものです。 -
富山市内に戻り、最後に富山県護国神社を参拝しました。
境内にはたくさんの露店が出ており、聞いた話では毎週第1日曜日はフリーマーケットが行われているとのこと。
ただし早朝からの開店なので、既に大半の店は片付け作業に入っていました。
佐々成政が慶長3年に別園を築いた土地に大正元年に富山県招魂社が創建され、昭和14年に富山県護国神社と改称しました。
しかし先の大戦の空襲によって社殿は全て焼失し、残されたのは手水舎のみだったそうです。
富山大空襲とはあの戦争における本土への空襲の中では最も被害の大きかったもので、市街地の焼失率は99.5パーセントに上り、死者と負傷者の割合も全ての空襲の中で最も高いものでした。
護国神社には軍人として散華した英霊の御霊が祀られていますが、空襲によって亡くなった方たちの御霊を境内社の鎮霊神社にお祀りしています。
また、英霊の遺書や遺品を蒐集・展示する遺芳館も併設されており、青少年への正しい歴史教育の一端を担っています。富山県護国神社 寺・神社・教会
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富山は実質的に半日間しか回れませんでしたが、それでもほぼ計画通り見ることができたので満足です。
散策を早めに切り上げたのは、この後名古屋へ移動しなければならないからでした。
特急ワイドビューひだ号に乗って電車に揺られるひとときを楽しむつもりでいたのです。
しかし指定席を取らずに連休を迎えてしまったため、みどりの窓口で問い合わせると既に指定席は満席となっていたのでした。
仕方がないので乗車券と特急券のみを購入し、最も早く名古屋に着く電車へと乗り込みました。
富山は始発駅なので、自由席でも座席は確保できました。
乗ったのは特急しらさぎ号なので、ワイドビューひだ号とは路線が異なりますが、結果として時間短縮にもなりました。
こうまでして名古屋にこだわったは、熱田神宮へ御創祀1900年の記念の年に参拝を果たしたかったからです。
約3時間半の電車の旅は思ったより早く終わり、名古屋に到着したらホテルへ直行。
それからはどこへも出ることなく、翌日のためにこの3日分の疲労を癒すことにしたのでした。熱田神宮 寺・神社・教会
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翌朝は当然のことながら朝一番で熱田神宮へ向かいました。
初めて訪れた前回の参拝は平成19年。
独立して今の仕事を始めた年でもあり、人生を変える出会いの年でもありました。
それからまだ10年も経っていませんが、こうして災難を避けながら生きているのも、ご先祖様と神様のおかげなのだと思います。
熱田神宮を初めて参拝した時は、あまりの広さに圧倒されて隅々まで散策することが出来ませんでした。
今回歩いてみて、こんなに立派な建物があったのかと記憶をたどったのが神楽殿。
調べてみると平成21年の造営ですから、記憶にないのも当然のことです。
神楽殿の脇から御本殿の後ろへと続く「こころの小径」も、最近になって禁足が解かれたようです。 -
熱田神宮の創祀は、草薙神剣の奉斎に由来します。
そもそも草薙神剣とは、高天原を追放されて出雲へ降り立ったスサノヲ命が、多くの生贄を取ってその地を荒らしていたヤマタノオロチを討伐し、その尾から見つけ出した剣のことです。
神剣はスサノヲによって天照大御神に献上され、天孫降臨の際にはニニギ命へ下賜され、第10代崇神天皇の御代には豊鍬入姫に、第11代景行天皇の御代には倭姫に託され、倭姫の手から東征に向かわれる日本武尊へと渡されることになります。
日本武尊は破竹の勢いで荒ぶる勢力を次々に平定しますが、1900年前のある日、妃の宮簀媛の手元に神剣を置いたまま戦いに赴き、亡くなってしまうのです。
宮簀媛は日本武尊の御遺徳を偲び、神剣を熱田の地に祀ったのが熱田神宮の始まりです。
出雲と尾張には草薙神剣という接点があったことに改めて気付き、こうして記念すべき年に全国で古代出雲の影響力を調べられたのも神のお導きだったのかと思いました。
また、剣と蛇(=龍)という組み合わせは倶利伽羅不動との関連も疑われることに突然気付きました。
単なる偶然かも知れませんが、古代の東洋は我々が思う以上に狭い世界だったのかも知れません。
南新池で緑に包まれながらしばし和みました。 -
初めての熱田参拝の時には分かりませんでしたが、南の正門のから入ってすぐの所に別宮八剣宮と上知我麻神社が鎮座しています。
八剣宮は熱田神宮が火災に遭った時、神剣を一時的に避難させた歴史があります。
上知我麻神社の御祭神は乎止與命という耳慣れない神様ですが、尾張国造で宮簀媛の父のことです。
左右に大国主社と事代主社を置き、やはり神剣の発祥の地の神を重んじています。 -
上知我麻神社の境内にはたくさんの人が集まっていました。
これから奉祝行事の行列に参加する人たちのようです。
行列の準備を進める間に、別な一団が御神前に尻を向けてダンスをしたのには唖然としましたが、やがて準備も整い、宮司を先頭に正門から熱田神宮の大前に向けてしずしずと進み始めたのでした。 -
奉祝行事はこの連休中日替わりで行われており、内容は神楽や武術の奉納など多岐にわたります。
この日の行列は「神様猩々」
名古屋市に鎮座する鳴海八幡宮に伝わる大人形の行列です。
江戸中期頃から東海道五十三次の宿場町のひとつであった鳴海で行われていた行列で、大人形の中に人が入り、御神輿のお供をするものがいつからか「神様猩々」と呼ばれるようになりました。 -
猩々は一見、赤ら顔で赤い髪の怖い顔に見えますが、その赤い手で叩かれたり撫でられたりすると、邪気が取れると信じられています。
中には子供による猩々もいて、皆で熱田神宮の御創祀1900年を祝う目出度い思いが溢れていました。
このような人形は全国的に見てもここだけなのだそうです。 -
行列を見送って、文化殿大講堂に移動。
この日に行なわれるもう一つの奉祝行事、小笠原流「鎧の着初め式」が行われます。
開会に先立って神主さんによる熱田神宮の御由緒の説明があり、大変勉強になりました。 -
鎧の着初め式は武家において元服なども目出度いお祝いの際に行なわれて来たもので、今回は古希を迎えられた方が主役として舞台に上がりました。
神前から饌下された御神酒が到着して式は開始。
武士の時代から変わらずに伝わる方法に則って、鎧が身に付けられて行きます。 -
その役割を終えて久しい鎧ですが、それでもこうして流儀が伝えられていることは尊いことです。
これからもこの伝統を絶やさないことが、我々日本人全体の使命なのではないでしょうか。 -
着初め式を最後まで見学し、熱田神宮を後にしたのがちょうど正午ごろ。
名古屋駅へ戻って地下街で食事をし、飛行機の時間まで何をしようかしばらく迷いました。
そこで思いついたのが、前日に「上げ馬神事」が行われたはずの多度大社への参拝です。
初めて参拝した時は車を利用したので、今回は電車で参拝に向かってみようという気になったのでした。
季節も異なるので、その時とは多少異なる風景を期待できるのではないかと思いました。
早速JR関西本線で桑名まで行き、そこで養老線に乗り換え。
多度駅から20分ほど歩いて、ようやく鳥居が見えて来ました。多度大社(北伊勢大神宮) 寺・神社・教会
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一年で最も重要な祭りが終わり、多度大社の境内は氏子さんたちが片付け作業をしていました。
こういう日だからこそ、参拝客の少ない中でのんびりと参拝できると踏んでいましたが、それでも全く皆無というわけではなく、ぱらぱらと参拝客は訪れていました。
最も奥にある本宮と別宮の間に、小さなお社があります。
今回はこちらに黒白の鯨幕が張ってありました。
今は基本的に弔辞で用いられますが、本来はお祝いの席にも用いられるもので、皇室の慶事で張られているのを写真で見たことがあります。 -
前回の参拝は9月でしたが、今回は初夏の5月。
野生の藤が咲き乱れていました。
参拝を終えて駅まで向かおうとした時、鳥居の傍にバス停を発見。
1時間に1本もない時刻表を見ると、偶然にも次のバスまであと3分余り。
気温も上がっていることだし、ここは利用することにしました。
そこへ来たのは普通のワンボックスカー。
桑名市が運営するコミュニティバスで、「K−バス」という名称なのだそうです。 -
まだ時間があるので、桑名駅で寄り道することにしました。
養老線から乗って桑名駅で出るには、JRの改札に養老線の切符を出さなければならなかったことを知らず、回収された養老線のホームへ引き返させられてしまいました。
車内で一言アナウンスでもすればよいものを、全く配慮がありません。
9割以上は地元の人々の利用だとは思いますが、残り1割に気遣いできるかどうかに、会社の姿勢をそのまま表れているのだと思います。
桑名駅から東側、揖斐川の方へ10分ほど歩くと、海蔵寺があります。
ここには宝暦治水事件で命を落とした薩摩藩士たち24名の墓があります。
宝暦3年、薩摩藩の弱体化を目論んでか、幕府はそれまで暴れ川であった木曽三川の治水工事を薩摩藩へ命じました。
合流したり離れたりする3つの川を完全に分離するという非常に難しい工事で、何人もの遭難者が出た他、費用は藩が借金して負担するというもので、薩摩藩の中には幕府と一戦すべしという声まで上がった程でした。海蔵寺 寺・神社・教会
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総奉行は薩摩藩家老の平田靭負。
工事に費やされた約40万両のうち、半分以上を大阪の商人から借金しますが、当然返す充てもありません。
また幕府への怒りの意味をこめて割腹する藩士もおりましたが、平田はお家断絶の口実にされることを恐れ、これを自決とは認めませんでした。
そうして1年以上の時をかけて分流工事が終わり国許へ報告すると、平田は全ての責任を一身に背負って割腹自決したのでした。
平田靭負を祀る治水神社が、海蔵寺から揖斐川を遡った所に鎮座していますが、最寄駅からも徒歩で1時間以上かかるので、今回は見送りました。 -
更に東へ歩き、もう桑名城跡まであとわずかという所に鎮座する桑名宗社春日神社を参拝。
みごとな楼門は天保4年に松平定永公によって寄進されたものの再建。
日本一美しい楼門と讃えられていましたが、昭和20年の空襲によって惜しくも焼け落ちてしまいました。桑名宗社 寺・神社・教会
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桑名宗社は、天津彦根命と天久々斯比乃命を祀る桑名神社と、天日別命と春日四柱神を祀る中臣神社を一体とする名称で、古来から桑名の総鎮守として崇敬されています。
国の重要無形民俗文化財に指定される石取祭は「日本一やかましい祭」と言われ、各町内から鉦や太鼓をつけた山車が出されて、昼夜を問わず鳴り物を打ちならして練り歩くもの。
桑名城跡は一度訪れているので、あとは空港へ向かうだけとなりました。 -
セントレア空港には、間もなく伊勢神宮で行われる「お白石持行事」で石の詰まった樽を乗せる車が展示されていました。
熱田神宮の御創祀1900年、出雲大社の式年遷宮、伊勢神宮の式年遷宮と、今年は神界にとっても特別な年のようです。
この時代に生きることを有り難く思いながら、帰りの飛行機へと乗り込んだのでした。中部国際空港セントレア 空港
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