2013/05/17 - 2013/05/20
641位(同エリア2323件中)
倫清堂さん
出雲大社から郵便が届き開いてみると、中から現れたのは奉祝祭の案内状。
60年に1回の式年遷宮が行われ、今年は新社殿の完成の年に当たっています。
このような機会は今生ではもう二度と訪れません。
自分のスケジュールを確認してみると、幸いなことに19日の奉祝祭には参列出来そうです。
仙台から出雲へは直接の交通手段がなく、羽田からの飛行機を利用するのが最も楽なアクセスです。
そこで調べてみると、羽田米子間の全日空便に空きがあり、羽田までの夜行バスや出雲市内の宿泊場所も素早く予約。
あとはその日が来るのを日々楽しみに待ち続けるだけとなりました。
-
夜行バスは今年2回目。
眠れない時は諦める、そう割り切れば心が楽になります。
停留所のある品川へは予定より少し早く到着し、京急電鉄で羽田空港へ向かいます。
飛行機も何のトラブルもなく離陸し、初めて米子空港に降り立ちました。
米子空港は小さな空港ですが、どこへ行っても鬼太郎の絵やオブジェがあり、観光客の心を楽しませてくれます。 -
境線の米子空港駅は空港から徒歩5分くらい。
まもなく来た電車にも鬼太郎のキャラクターが描かれていました。
米子で特急に乗り換え、松江で下車。
レンタカーを借りて、いざ行動開始です。 -
山陰道を西に向かう途中、宍道湖SAで小休止。
これからしばらく運転を続けることになるので、居眠りなど注意しなければなりません。
レンタカーとしてお借りしたホンダのN−BOXは室内が広々しており、自動アイドリングストップ機能もあって、とても気に入りました。宍道湖サービスエリア (下り) 道の駅
-
山陰道は終点の出雲ICで降りると、前回来た時の記憶があちこちの風景から甦りました。
しかし最初の目的地はまだしばらく先。
国道9号線を更に西へと進み、出雲市内からおよそ1時間で大田に到着。ようやく石見国一之宮、物部神社に到着しました。
御祭神の宇摩志麻遅命は物部氏の祖。
神武天皇に大和を国譲りした饒速日命と、長髄彦の妹である三炊屋媛の間に生まれた子で、国譲りに頑なに反対する長髄彦を倒し神武天皇に帰順したことから、代々朝廷において軍事を司る役割を担うことになったのでした。
御社殿裏の神体山は八百山という名前で、社殿造営前の原始的な祭祀が行われていた時代から信仰の対象となっており、その山頂には御祭神の神陵があります。物部神社 寺・神社・教会
-
高さ16メートル以上もある御本殿は、天文19年に吉川元春公によって再建されたもの。
春日造を基調としながら、出雲造の様式も取り入れた珍しい造りとなっています。
物部神社に伝わる鎮魂祭は、神武天皇の御即位の際に御祭神が鎮魂宝寿を祈念したことに由来するもので、現在この鎮魂祭を行っている神社は物部神社を含め全国に3社しかないということです。
境内にはいくつもの摂社・末社が鎮座しており、その中の一つである一瓶社は、御祭神がこの地方を平定した時に3つの瓶を埋めた場所のうちのひとつとされています。物部神社 寺・神社・教会
-
しかし、そんな三瓶伝説は帰宅後に知ったこと。
この時はそんな伝説があることなど全く分からず、次の目的地を目指して移動を再開したのでした。
ナビゲーションシステムに目的地を入力すると、ずいぶんと山の中の道が表示され、素直にそれに従って車を発進させました。
ほどなく目の前に美しい姿の山が現れ、それは進めば進むほど迫って来るようでした。
眺めの良い場所にドライブインがあったので、窓に映るこの山を見ながら昼食をとることにしました。
食事を終えて会計をする際、お店の女性に山の名前を訪ねると、それは三瓶(さんべ)山という名前だと教えてくれました。
その時はただ聞き流しただけですが、今にして思えばこの山は三つの瓶が埋められた場所の一つだったのです。
調べてみたところ、残りの一ヶ所は三瓶山のふもと浮布池のほとりに鎮座する邇幣姫神社であるようです。
邇幣と書いて「にべ(=二瓶)」と呼ぶことからも、伝説の場所であることは間違いないのでしょう。 -
次に訪れたのは須佐神社。
須佐之男命・稲田比売命・足摩槌命・手摩槌命をお祀りしています。
主祭神の須佐之男命はイザナギ命が黄泉から御帰還されて禊をされた際、その鼻から生まれた神です。
右目から生まれた天照大神、左目から生まれた月夜見尊とともに特に優れた子であったため、海原を統治することを命じられますが、どうしても死んだ母(イザナミ命)に会いたいと言って暴れるため、ついに追放されてしまいました。
その後、天照大神の治める高天原へ云って姉神に頼み、しばらくそこへ身を置くこととなりますが、悪戯が高じてついに天照大神の侍女を死なせてしまったため、高天原をも追放されてしまいます。
そうして降り立ったのが、ここ出雲の国だったのでした。須佐神社 寺・神社・教会
-
出雲で足摩槌命・手摩槌命、そしてその娘の稲田比売命に出会い、稲田比売命が八岐大蛇の生贄に捧げられることを知った須佐之男命は、計略を用いて八岐大蛇を倒し、稲田比売命を妻に貰い受けるのでした。
八岐大蛇を倒した際にその尾から見つかった天叢雲剣は、姉神の天照大神に献上され現在は熱田神宮に納められています。
『出雲国風土記』によると、須佐之男命の終焉の地で創祀されたのが須佐神社とあり、その後第53代淳和天皇の天長年間に現在の鎮座智に遷されたということ。
また神社の伝承によると、代々宮司を務めるのは手摩槌命の末裔である須佐氏だとのことです。 -
御社殿の真裏に樹齢1300年の杉の御神木が、天に向かって伸びています。
かつて加賀藩から帆柱に利用するために800両で買い取りたいと申し出がありましたがが、当時の須佐国造がこれを断ったそうです。
御神域にあるものは神様のものであり、そのことは即ち時間と空間を超えた全国民の財産であると言えるでしょう。
御神域を駐車場として貸し出している現代の神主たちは、己のしていることの誤りに気付くべきです。 -
出雲市内に入り、いくつか訪問予定地として挙げていた中から旧大社駅へと向かうことにしました。
明治45年、国鉄大社線の開通とともに開業された大社駅は、大正13年に改築され、出雲大社に参拝に訪れる乗客を平成2年の廃線の時まで迎えて来ました。
やはり出雲大社を意識してか、駅舎は神社風の姿をしています。
注意して見なければ見落としてしまいますが、屋根瓦には様々な姿の亀が乗っています。旧大社駅 名所・史跡
-
神社風の外観とは逆に、駅舎内はシャンデリアが吊るされたモダンなデザインをとっています。
しかしよく見ると、このシャンデリアも灯篭のような形をしています。
道路が整備されて自動車で気軽に移動できるようになったのは有り難いことですが、電車を利用した方が旅をしている感覚はずっと強いものであることは間違いありません。
旅情とか旅心というものを味わえるほどの、気持ちの余裕を持ちたいものです。 -
ホームへ出てみると当然ながら線路はなく、ただの荒れ地が伸びているだけです。
その先には出雲大社の大鳥居が見えます。
大鳥居は大正4年の建築なので、大社駅で降りた乗客は大鳥居を目指してここから歩いたのでしょう。
予定の時間が迫って来たため、ここでレンタカーを出雲空港の近くまで返しに行きます。
もう少し綿密に調べてから予定を立てれば、より近いレンタカーも見つかったかも知れません。
時間のロスとなってしまいますが、もう決めたことなので仕方なく、出雲空港へと向かいました。
そして無事に返却を終え、また出雲市内に戻ってホテルにチェックイン。
次の予定に備え、仮眠をとることにしました。 -
充分に休息をとることが出来たので、うす暗くなる中を出雲大社へ向かいます。
昼間は相当混雑する周辺の道路や駐車場も、ピークを過ぎているため空いていました。
この日のお目当ては新しくなった御社殿ではなく奉祝行事。
平成の大遷宮に合わせ、境内に設けられたテント内の特設ステージでは、5月12日から約1ヵ月間、神楽や郷土芸能などが奉納されることになっています。
その中には東日本大震災で被害を受けた地域の神楽もあり、同じ被災地に住む者として喜ばしく思います。
事前に調べたところ、この日は「神楽劇スサノオ」の上演が予定されていると分かったので、これは絶対に見なければと心に決めていました。
どのような形態の演目か詳しくは知りませんが、おそらくオペラのような総合芸術であることは間違いありません。
開演のほぼ30分前に着くと、1500人が収容できる特設テント内は前の方の客席がほぼ埋まっており、真ん中よし少し後ろの座席に座りました。
外がだいぶ暗くなったところで指揮者が登場し、いよいよ音楽が鳴り始めます。
内容は『古事記』を題材に、天地開闢からスサノヲ命のヤマタノオロチ退治までを描いたもので、出演者は複数の神様を一人で演じたりもしていますが、全く違和感なくスッと物語の中に入って行くことができました。
時に現代風なユーモアが混じったりもし、演出の都合によって簡略化やカットされた『古事記』のエピソードもありましたが、ただ文字を読むだけではなかなか実感できない神話のエネルギーが、こうして演技と音楽を交えることで心と身体を強く共鳴させてくれました。
こういう神話があって、それが今も民族の心に生きている。
日本という国に生まれて本当によかったと改めて感じたひと時でした。
公演まで大変な苦労をして来たであろう出演者の皆さんに、心から敬意を表します。 -
1時間半の公演が終わると、時刻は20時を回っていました。
真っ暗な参道にほの明るい提灯が並び、昼間のにぎわいとは打って変わって境内はものさびしい雰囲気に包まれています。
まだ閉門とはなっていなかったので、御社殿の方まで進んで参拝。
帰り道で夕食をとり、1日目の行動は終了です。 -
翌朝、目が覚めて窓から外を見るとしとしとと雨が降っていました。
今回の一番の目的である奉祝祭への参列に落ち度がないよう、朝食は控えめとし、旅の間には滅多にしないヒゲ剃りと背広の着用を行い、周辺道路の規制が始まる前には出雲大社に到着しておきました。
受付を済ませ、いただいた浄掛を首にかけ、1時間前には八足門の内側に設けられた参列者席に着席しました。
この浄掛は紙製ですが、遷宮によって取り降ろされた御本殿の屋根の桧皮を漉き込んであるとのことです。
八足門より内側には特別な時しか入ることが出来ません。
参列者席はテントが張ってあったので雨に濡れる心配はないのですが、間近で御社殿を見ることは叶いませんでした。出雲大社 寺・神社・教会
-
高円宮妃殿下の御臨席を仰ぎ、本殿遷座奉祝祭は厳かに斎行されました。
式次第
一、修祓
一、國造以下祭員参進
一、國造御神前にて一拝
一、開扉
一、献饌
一、國造御箸を奉りて拝礼
一、國造謝恩詞・祝詞奏上、神語三唱 玉串拝礼
一、巫女神楽
一、参列者代表玉串拝礼
一、國造御神前にて拝礼
一、閉扉
一、國造御神前にて一拝
一、國造以下祭員退出
これまで聞いたこともないような抑揚を持つ出雲國造の祝詞、楽しげな雅楽の奏楽、凛として気品あふれる巫女の神楽。
御本殿を見ることは出来ませんが、そこには御祭神の大国主大神が御姿を現されて、献じられた神饌を召し上がる姿があったことが、心の目には映っていました。
そして妃殿下はきっと、国津神から譲られた日本という国を天孫の末裔として永遠に守り続ける決意を御心の中で大神と約束されたのであろうと、私には思えたのでした。
出雲大社平成大遷宮本殿遷座奉祝祭に寄す
新たなる宮の御とびら開かれて
とよむ神楽に神ゑますらし
国成せる神の御業(みわざ)に報いむと
宮居直せり人ら挙りて出雲大社 寺・神社・教会
-
奉祝祭が終わると、奉祝行事の一つである「吉兆神事」が行われていました。
雨が強まる中、担い手の人たちは傘も差さずに吉兆幡を真っすぐ立てて、御遷座をお祝いしています。 -
次の予定があり、あまり背広を濡らすことが出来ないので、神事の様子は一瞬しか見ることが出来ませんでした。
-
早く戻ろうと慌てていたため、新しい社殿をこの目で確認するのをすっかり忘れていました。
人だかりが出来ている正面を避け、社殿の西側に向かうと、新装されたばかりの巨大な御社殿が雨の中から浮かび上がります。
出雲大社の高さは約27メートルで、国内の神社の中で最大です。
それは延享元年に造営された現在の社殿のことで、それ以前の社殿は更に高いものであったと思われます。
平安時代には「雲太・和二・京三」という数え唄が流行しましたが、雲太とは出雲大社のことで、大和の東大寺大仏殿や京の大極殿をもしのぐ大きさであったと推測する一つの根拠とされています。
出雲國造家に伝わる古代出雲大社の神殿の設計図からも、現在の大社造とほとんど変わらない「田」の字型の構造であったことが見て取れます。
大社造の最も不可解な所は、御祭神の向きが正面扉へ向いているのではなく、横を向いていることです。
出雲大社の御祭神も、西を向いて坐しています。
そのことから、出雲大社での参拝はまず正面から行なった後、摂社末社を参拝しながら西側へと進み、御祭神の正面から再び参拝するのが正しいのだそうです。 -
大雨だからまだ良い方なのかも知れませんが、やはり駐車場までの道路には順番待ちの車の行列が出来ていました。
悪天候のため心おきなく散策出来とは言えないものの、主の目的である奉祝祭へ参列できたことだし、出雲大社をあとにすることにしました。
土産物を買いたいと思い、近くの道の駅に寄ります。
かつて「吉兆館」という独立した施設だったものが、いつのまにか道の駅「大社ご縁広場」として生まれ変わったものです。
ちょうど今この時間にも続いているであろう吉兆神事を紹介するために、様々な展示物を置いています。
吉兆神事は毎年1月3日に行われる出雲の伝統行事で、「歳徳神」の御神号が刺繍された幟旗を立て、新年を祝う「大社神謡」を歌って一年の幸せを祈るものです。
幟旗は町内によって異なり、現在は合わせて15の吉兆組がそれぞれの組に属する氏子さんが笛や太鼓を鳴らしながら出雲大社を参拝します。吉兆館 美術館・博物館
-
その際に列の先導をするのは番内と呼ばれる御面をかぶった人で、厄年の男性などがその役割を担当します。
悪魔祓いを行うわけなので、悪魔をもおびえさせる程の姿をしています。
こうして展示品だけを見ていると、やはり実物をじっくり見られなかったことが残念になって来ます。
また道の駅を名乗っていても他の多くの道の駅と違い、物販は全くなかったため、お土産も買えませんでした。 -
さて、平成の大遷宮に合わせて行なわれる催しの中に、「高円宮家コレクション石見根付」の展示が含まれます。
2日目はその初日に当たり、高円宮妃殿下が御講演をされることになっていました。
早めに行って席を確保しておこうと思い、開会の1時間前に会場に到着してみると、ちょうど妃殿下の御成りの時間でした。
会場の出雲文化プレイスうらら館のロビーで開会のレセプションが行われ、妃殿下の御祝辞を拝聴。
背広のままで来てよかったと安堵しました。
そしていよいよ講演会場のホールへ入ろうとすると、入場整理券がないと入れないと言われてしまったのです。
ホームページにはどこにも書かれていませんが、念のため出雲大社に確認を取っておくべきでした。
しかし開会の時点で空席があれば入場出来ると言われたので、しばらく待つことにしました。
大雨が幸いしてか、ついに万席にはならず、晴れてホールへと入場することができました。
御講演の内容は、高円宮殿下との思い出から根付との出会い、そして時代による根付の変遷と根付の素材やデザインなど、とても興味深い内容だったため45分の御講演時間はあっという間に過ぎてしまいました。
その後コレクションの展示室へと移動し、一つ一つがとても個性的で愛らしい根付のコレクションと、妃殿下が御自分で撮影された「旅する根付」の写真の展示を鑑賞させて頂きました。 -
ホテルを予約した段階で金額が少し高めの「ゆっくりプラン」しか残っておらず、翌日21時までにチェックアウトすればよいことになっていました。
初めはあまり意味のないことだと思っていましたが、ホテルで背広から普段着に着替えることが出来たので、結果的に大助かりとなりました。
出雲市内での予定はこれで全て終わり。
初めの予定では、これから月山冨田城などへ行くことにしていましたが、悪天候が続いていること、時間も押し気味であること、そして何より疲れが出て来ていることを考慮し、最後に一ヶ所だけ神社を参拝して旅を閉じることにしました。神魂神社(大庭の大宮) 寺・神社・教会
-
向かった先は神魂神社。
かもす神社と読み、国内最古の大社造の本殿が国宝に指定されています。
主祭神は伊弉冉大神で、伊弉諾大神を合祀しています。
『古事記』によると、高天原の神々が葦原中国(=日本)を統治するのは天孫族であるべきだと言い始めたことから、天照大御神はまず子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命を遣わそうとしましたが、忍穂耳命は葦原中国に降り立つことなく引き返してしまいました。
次に遣わされた、同じく天照大御神の子の天菩比命は、葦原中国に降り立って統治者の大国主神と対面したまではよかったものの、大国主の家来となってしまったのでした。
神魂神社はこの天菩比命が御創建されたと伝えられています。
屋根の上に置かれる千木は出雲大社と異なる水平な先端となっており、見ることは出来ませんが内部の造りも逆になっているとのこと。
その理由は、主祭神が女神であるためと思われます。
現在の社殿は新しくても天正11年の再建であると考えられ、出雲大社の延享元年より160年ほど前になります。
延享元年再建の出雲大社本殿は、ここ神魂神社の倍率で設計されたと社伝にあるとのこと。
それを逆に考えれば、再建される以前の出雲大社、特に「雲太」とまで言われた巨大神殿の謎を解く鍵も、ここ神魂神社が握っているのかも知れません。神魂神社(大庭の大宮) 寺・神社・教会
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (2)
-
- 横浜臨海公園さん 2013/05/26 16:38:51
- 大遷宮本殿遷座奉祝祭
- 倫清堂さま、こんにちは。
早速旅行記を拝見させて頂きました。
実は、小生も招待を受け当夜出席をさせて頂いておりました。
現地ですれ違っておりましたね!
横浜臨海公園
- 倫清堂さん からの返信 2013/05/26 18:31:57
- RE: 大遷宮本殿遷座奉祝祭
- 横浜臨海公園様
こんにちは。
なんと、当日どこかですれ違っていたとはびっくりです!!
不思議なご縁ですね。
やっぱり日本は広いようで狭いです。
拙い旅行記ですが、こうして書くことで感動をいつまでも忘れないよう心がけています。
横浜臨海公園様もぜひ旅行記の執筆を再開してください。
楽しみにお待ちしています。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
もっと見る
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
2
24