2013/04/20 - 2013/04/21
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倫清堂さん
東北新幹線に乗るたびに、「富士山が見えた」「今日は見えなかった」といちいち報告してくる母に、間近で富士山を見せるため、静岡に連れて行くことにしました。
しかし天気予報は曇り後雨。
雨さえ降ってくれなければ恩の字と思いながら、早朝のやまびこ号へ乗り込んだのでした。
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東京駅でひかり号に乗り換え、それから約1時間で静岡駅に到着。
大宮ではもちろん、静岡県内に入ってからも富士山は曇り空に隠れて一向に見えて来ません。
静岡駅南口から表へ出ると、天気は曇りで気温はかなり低めです。
4月の下旬に入っていて、しかも東海にいるというのに、ダウンを着て来てよかったなと思える寒さ、風の冷たさです。
(あとで聞いた話では、地元東北では雪が降ったとのこと)
その南口で久能山東照宮の石塔を発見。
御創建300年を記念し、大正4年に建立されたものです。
レンタカーを借り、まずはその久能山東照宮を目指して走り始めたのでした。東照宮三百年祭記念塔 名所・史跡
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久能山東照宮への参拝方法は2つ。
表参道の1159段の石段を登る方法と、日本平からロープウェイで谷を渡る方法です。
一人旅でかつ時間が許すなら間違いなく前者を選びますが、今回は両方とも条件にあてはまらないため、日本平を目指すことにしました。
車を走らせることおよそ30分でロープウェイ乗り場に到着。
よい時間帯となって来ていたため、駐車場には多くの車が停まっており、ロープウェイも定時より短い間隔で運行していました。 -
てっきりロープウェイは上るものと考えていたのですが、久能山の標高は日本平よりも低く、畏れながら家康公の祀られる神社に下りて行くことになります。
約5分の乗車中、窓には切り立った屏風谷の絶景や駿河湾の輝く海が映ります。
桜の季節は過ぎ、谷の木々は若い葉を芽吹いていました。日本平 自然・景勝地
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イチオシ
ロープウェイを降り拝観料を納めて境内へと進むと、まず目に入るのは石段の上に堂々とそびえる楼門です。
東照大権現の扁額は後水尾天皇の宸筆で、この扁額が掲げられていることから勅額御門とも呼ばれています。
外側の左右には極彩色の随身が、内側の左右には金の獅子狛犬が置かれています。久能山東照宮 寺・神社・教会
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随身門をくぐって右に見えるのが鼓楼です。
かつては鐘楼でしたが、明治維新後の神仏分離令によって鐘が太鼓に取り替えられました。
久能山は、第33代推古天皇の御代に久能忠仁が初めて開いた山で、最盛期には330もの僧坊がひしめいていましたが、嘉禄年間の失火によってそれらのほとんどが焼失してしまいました。
当時の面影を今に伝えるものは、もう何も残っていません。 -
参道を挟んで鼓楼の向かい側には、五重塔跡の石碑が置かれています。
3代将軍家光公の命で立てられた五重塔も、明治新政府による政策の被害者で、明治6年に取り払われてしまいました。
高さが30メートルもあり、絢爛を極めた美しい五重塔はどのような姿をしていたのか、残すことを許された礎石を見ることでしか、今はその姿を想像することは出来ません。 -
久能山東照宮の御創建は元和2年。
75歳で薨去した徳川家康公は、亡骸を久能山に葬ること、位牌は三河の大樹寺に立てること、一周忌を過ぎてから日光に堂を建てて勧請することを遺言として残しました。
なぜ久能山が埋葬地に選ばれたのかは定かではありませんが、家康公の出生地である岡崎城と松平家の菩提寺である大樹寺を東西に結ぶ直線上に久能山が位置するという地理的な要因を考慮してのことと考えられます。
2代将軍秀忠公は父の遺命を忠実に守り、当時は城塞であった久能城を廃止して家康公の遺骸を埋葬し、東照宮を創建したのでした。久能山東照宮 寺・神社・教会
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元和3年に造営された拝殿・本殿は、つい最近の平成22年に国宝に指定され、2年後の平成27年には御鎮座400年の節目の年を迎えます。
社殿へ真っすぐ延びる石段は一般参拝者は上ることが出来ず、向かって右側から回り込むように、神楽殿や日枝神社の前を通って行きます。
すると目の前に現れるのは、極彩色のきらびやかな社殿。
修復事業を終えたばかりで、まさに昨日建てられたかのように、金の装飾や数々の彫刻は光り輝いていました。 -
社殿の建築様式は、拝殿と本殿の間に低くなった石の間のある権現造で、日光東照宮と同じです。
というよりも権現造はここ久能山東照宮が発祥とされています。
権現とは神号の一つで、仏教の神が仮の姿で現れたものとし、愛宕権現や熊野権現など様々な権現様が日本にはおわします。
東照大権現とはその名の通り東を照らす大きな権現様のことで、徳川家康公を神格化した神様なのですが、幕府内部で家康公をどのように祀るかの議論になった時、次のような経緯がありました。
家康公の神号をどうするか、金地院崇伝が明神号を主張したのに対し、天海大僧正は権現号を主張し、両者が対立したのです。
それまで人間を神格化する時は明神として祀ることが一般的でしたが、天海が「豊国大明神の例を見よ」と言ったことで、権現号に決まったのでした。
幕府は先年、豊太閤を祀った豊国神社の廟所を破壊していたため、徳川家もその二の舞となる不吉な幻想が見えたのでしょう。久能山東照宮 寺・神社・教会
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社頭での参拝を済ませ、更に奥へと進むことにします。
日光東照宮と同じく、久能山にも社殿の後方に家康公の廟所があります。
かつて御宝塔門と呼ばれた廟門をくぐると、更に石段が続いています。
永禄11年、武田信玄が今川氏を攻略した際、山本勘助が生前に「久能山に築城すれば誰も落とすことができない」と言っていたことを知り、早速久能寺を近郷に移し、その跡地に城砦を築いたのでした。
麓からの石段もおそらくそうなのでしょうが、廟所へと続く石段も城塞であった当時の雰囲気がいくらか残っている気がします。 -
日光のような長い石段ではなく、久能山の廟所は社殿のすぐ後方にありました。
家康公は死後ここに埋葬され、そのおよそ1年後に日光へと移されたのです。
地図を見れば分かる通り、久能山東照宮と日光東照宮を結べば、その直線はちょうど富士山の山頂を通ることになります。
家康公の御霊は富士山を通ることで、永遠の命を手に入れようとしたのかも知れません。
天気が良ければ久能山から富士山を望むことも可能なのでしょうが、この時は全く見えて来ませんでした。久能山東照宮 寺・神社・教会
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家康公の廟所の裏手には、ひっそりと愛馬の墓が置かれています。
戦国を生きた人々にとって、戦場を共に生き抜く馬は身体の一部のような感覚があったのでしょう。
愛馬も飼い主とともに眠れることを喜んでいるはずです。 -
久能山東照宮博物館には、徳川家ゆかりの宝物が約2000点収蔵されていますが、ちょうど設備更新の日程に重なってしまい、休館となっていました。
開館予定は今年の10月とのこと。
次に来る時の楽しみを残しておくことにしたいと思います。久能山東照宮博物館 美術館・博物館
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予定通りに久能山東照宮の参拝を終え、視覚を充分に楽しませることが出来ました。
ちょうどお昼時となったため、昼食をとりに丸子まで足を伸ばします。
静岡市内から車で30分ほどで、東海道五十三次20番目の宿場町、丸子(鞠子)に到着。
歌川広重の作品にも描かれているとろろ汁の老舗、丁子屋を訪れました。丁子屋 グルメ・レストラン
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料理に用いられる自然薯は、かつては丸子で収穫されたものでしたが、今は別な地域から仕入れているそうです。
定食を注文すると、ほとんど待ち時間もなくすぐにテーブルに運んでくれました。
とろろ汁が少し黒っぽいのは、自然薯の皮も一緒に擂っているからなのでしょうか。
とろろを麦飯にかけて食べるとスルスルと喉を通ってしまい、胃の弱い自分は意識的によく噛むよう心がけました。
伝統の味をいただきました。 -
屋内にはたくさんのテーブルがある他、ちょっとした資料館のように収蔵品の展示を行っています。
その中には、お店の名前の由来となった「丁子」という香辛料の展示もありました。
とろろ汁が黒っぽいと思ったのは、この香辛料が入っているからなのかも知れません。
あちこち写真を撮っていると、店員さんがおすすめの角度を教えてくれたりもして、食べ終わった後まで気分良く過ごすことが出来たのでした。 -
腹も満ちたところで静岡の中心部に戻り、次の目的地の駿府城を目指します。
三重の堀に囲まれた平城の駿府城は、関ヶ原の戦いによって天下が治まった慶長12年、大御所家康公の隠居城として築城されました。
まずは駐車場を探して外堀に沿った道路を走ると、体育館や市民会館の利用者のための地下駐車場が見つかりました。
これらの施設の他にも、県庁や学校などが城を囲むように立ち並んでいます。
しかしここは三の丸。
ここより更に外側には外堀があり、今見えている堀は中堀でしかありません。
この事実を見ただけでも、駿府城の規模の並ならぬことが感じられます。駿府城公園 (駿府城址、紅葉山庭園) 公園・植物園
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イチオシ
なぜこの駐車場に停めることにしたかと言うと、堀の堤にツツジが咲いているのが見えたという単純な理由から。
北御門橋で咲き誇るツツジにしばし見とれ、それから駿府城公園の中へと入って行きました。
家康公が城を築く以前、ここには駿遠三の太守であった今川氏の居館があったと思われます。
今川氏は守護大名の中でも足利氏御一門の吉良家の分家で、他の大名も一目置く存在でした。
今川義元公の時には武田氏・北条氏と三国同盟を結び、三河の松平氏を服属させ、織田氏を三河から退かせるなど勢力を伸ばしますが、義元公が織田信長公の奇襲によって田楽狭間で討死してからは、転落の一途をたどることになります。駿府城公園 (駿府城址、紅葉山庭園) 公園・植物園
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桶狭間の戦いが人生を変えたのは、家康公も同じでした。
父広忠公は今川と織田の間にあって相当な苦労をした人物で、結局今川側に臣従することで松平の存続を図る決断をしますが、その条件として提示されたのが嫡子竹千代(のちの家康公)を人質として駿府に住まわせることでした。
ただ竹千代にとって幸いだったのは、今川家の軍師とも言える雪齋和尚がよき師となって教育を施してくれたことでした。
竹千代は幼くして母と離別させられ、その上人質にまで出されるような不幸な生い立ちでしたが、肝っ玉は据わっていました。
正月の宴に参列した際には、居並ぶ今川の重臣たちの見ている前で、縁側から庭に向けて小便を放つという大胆な行動をとっています。
竹千代の元服もこの駿府で行われ、義元公から偏諱を賜って元信と名乗り、続けて義元公の姪を娶りました。 -
北御門橋から反対の南側まで、普通に歩いておよそ10分ほどでしょうか。
復元された東御門巽櫓。
内部は資料館になっています。
数ある展示物の中で最も印象的だったのが、竹千代が駿府の人質時代に過ごしていた臨済寺の一室の再現です。
再現とは言いつつも、それは職人さんたちの手によって忠実に造られたもの。
広さは四畳半ですが、落ち着いて自習するためには最適の広さで、自分に子供がいたらこのような部屋を与えてやりたいと思える造りでした。
臨済寺は静岡市内にありますが、修行寺のため一般の人の拝観は制限されているため、このように再現されて見られるのはとても幸せだと思いました。 -
展示物の中には、在りし日の駿府城天守閣の模型も置かれていました。
義元公亡き後の駿府は武田氏の領する所となっていましたが、天正10年にこれを攻めて奪い取り、家康公は天正13年には居城とすべく駿府城の建築を始めます。
しかしその後、豊太閤の命によって国替えとなり、駿府を離れることを余儀なくされ、豊臣家臣の中村一氏が城主となります。
家康公は時流のつれなさに耐えますが、関ヶ原の戦いで勝利したことで天下を手にし、駿府城を隠居城として拡張整備することになったのでした。
慶長12年、それまであった天守などの建物が失火によって焼失したことから、直ちに再建に取り掛かり、翌13年には本丸御殿が、15年には天守が完成します。
この天守閣は大御所の隠居城に相応しく、大坂城に匹敵する規模の壮大なものとなったのでした。
家康公亡き後、天守閣は再び焼失し、再建されることはありませんでした。駿府城公園 (駿府城址、紅葉山庭園) 公園・植物園
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家康公は駿府城から見える富士山の眺めを、毎日楽しんでいたことでしょう。
しかしこの日はまだ雲が空を覆い、富士山の姿は全く見えませんでした。
中堀に沿った道に、家康公の遊歩道と書かれた案内標識と、府中弥次喜多像の銅像を発見。
『東海道中膝栗毛』の作者である十返舎一九は駿府の出身で、筆一本で生計を立てた日本初の人物と言われています。駿府城公園 (駿府城址、紅葉山庭園) 公園・植物園
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明治維新後の明治29年、駿府城は歩兵第34連隊の駐屯地として再利用されることとなり、内堀が埋められてしまいました。
戦後は駿府公園として市民の憩いの場として整備され、平成20年には駿府城公園と新たな名で呼ばれることとなりました。
おそらく戦後に整備されたと思われる紅葉山庭園を観賞し、駿府城公園を後にしました。 -
空模様はますます怪しくなり、富士山を見るどころか雨さえ降り出しそうな気配です。
次に向かったのは静岡浅間神社。
富士宮市の浅間大社を本宮と呼ぶのに対し、こちらの浅間神社は新宮と呼ばれます。
延喜元年の御創建は、本宮の御創建から約1世紀後のこと。
決して人里離れた山奥ではなく町中に鎮座しているのですが、突然現れる別世界に驚かされます。
これまで見て来たどの楼門よりも厳かな姿をしており、いつまで見ていても飽きません。静岡浅間神社 寺・神社・教会
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イチオシ
しかし更に驚いたのは、楼門の先にある拝殿を見た時でした。
他に例のない二層建ての拝殿が、天を突くようにそびえていたのです。
本当に自分は現世にいるのかと、一瞬迷ってしまったほどでした。
拝殿の更に奥には本殿があり、神部神社には大己貴命、浅間神社には木之花咲耶姫命が祀られています。
社務所に申し出れば本殿の近くまで拝観することも出来るらしいのですが、楼門と拝殿を見て舞いあがっていたのか、そこまで思い出す余裕はありませんでした。
社務所で売っていた写真集も買い忘れてしまい、余程気が動転していたのだと後になって可笑しく思います。静岡浅間神社 寺・神社・教会
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静岡浅間神社の境内は広く、合わせて7社の神社が仲良く鎮座しています。
次に社務所の向かい側、八千戈神社に参拝。
大拝殿に比べれば小さな社殿ですが、かなり手が込んでいる造りです。
今回は行けませんでしたが、八千戈神社の横にある石段は麓山神社へと続いています。
麓山神社は古来より賎機山の神を祀る社として鎮座し、大山祇命を祀ります。
公式には発表されていませんが、おそらくその原型は7社の中で最も古いのではないかと思われます。
第10代崇神天皇の時代に神部神社が創建され、延喜元年に浅間神社があわせて祀られるようになったのではないでしょうか。 -
そのまま進むと、これも重文指定の大歳御祖神社の横に出ます。
第15代応神天皇の御代の御鎮座と伝えられます。
境内には大小合わせて36の社殿があり、それらは徳川家康公の遺命によって3代将軍家光公が造営しました。
東海の日光と呼ばれる静岡浅間神社に、富士山が見える機会にまた訪れたいです。静岡浅間神社 寺・神社・教会
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次第に雨脚が強くなり、最後に静岡県護国神社を参拝して一日目を終えることにしました。
7万6千余柱の静岡県出身の英霊をお祀りしています。
社務所には遺品館が併設されており、御祭神の遺影や遺品などが展示されています。
時間は5時を過ぎ、社務所にはまだ神主さんがおられたものの、遺品館の展示を見せてほしいとまでは言えませんでした。静岡県護国神社 寺・神社・教会
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車に戻ったとたんに大雨が襲い、もう傘無しでは移動できなくなってしまいました。
東名高速道路を通って宿泊地の富士市へ向かいますが、途中で富士川サービスエリアに立ち寄って、少し早目の夕食をとることにしました。
しかしサービスエリアの食堂には食欲をそそるものがなかったので、お隣の道の駅「富士川楽座」へと移動。
4階の、富士山が間近に見えるというレストランへ入ることに。
当然ながら窓に富士山の姿はありませんでしたが、名物のひらら冷麺を食べることが出来ました。富士川サービスエリア 道の駅
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ホテルにチェックインしてから静岡おでんを食べに行く予定でしたが、雨の中出歩くのはおっくうになってしまい、疲れもあってすぐに寝てしまいました。
翌朝、雨は強いままですが、少しずつ空が明るくなって来ているような気もします。
チェックアウトの時間まで母を休ませ、自分は近くの富知六所浅間神社に一人参拝に行きました。富士山本宮浅間大社 寺・神社・教会
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御創建は第5代孝昭天皇の御代。
崇神天皇が遣わした四道将軍の一人、建沼河別命も勅幣を奉ったと伝えられています。
弘仁2年には嵯峨天皇の中宮が御安産の祈願をされ、これが日本で初めての安産祈願とされます。
境内には明治天皇の像の他、なぜかドラえもんの登場人物の石像などがあり、不思議に思って神職の方に訪ねてみると、七五三でお参りに来た子供たちが喜ぶようにとの理由で置いているとのことでした。 -
重さ約200キロの富士山の火山弾も、雨に濡れていました。
これだけの大きさの物が遠く宙を飛んで来たというのですから、その噴火のエネルギーは恐ろしいものです。
日本のあちこちで地震が多発しており、富士山の噴火も近いと言われています。
日本の未来が安定したものになるのか、試練に満ちたものになるのか、神の評価を謙虚に受け入れることしか我々には出来ません。 -
ホテルをチェックアウトする頃には、雨はだいぶ小降りになって来ました。
富士市から富士宮市までは無料の西富士道路を通ることにしました。
もともと料金所のあった辺りで少し渋滞しましたが、ストレスを感じることもなく、駿河国一之宮の富士山本宮浅間大社に到着。
10時を過ぎていたので時間帯としては遅い方ですが、天気が悪かったため参拝客は少なく、駐車場もまだまだ空きが多くありました。富士山本宮浅間大社 寺・神社・教会
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参道は雨に湿り、人の姿もまばらでしんと静まり返っています。
第7代孝霊天皇の御代に富士山が大噴火して国中が荒廃したため、第11代垂仁天皇の時に富士山の山霊を山麓にお祀りしたのが始まりです。
第12代景行天皇の時には、東国平定に赴いた日本武尊が戦勝祈念を行いました。
その後大同元年に征夷大将軍の坂上田村麻呂が現在の場所に社殿を造営し、全国の浅間神社の総本宮として崇敬されることになります。 -
参道の右手に見えるのは流鏑馬の像。
建久4年、源頼朝公が富士の裾野で巻狩りを行った際に奉納したという流鏑馬が今に伝わり、毎年5月4日からの3日間、古式流や神事流の鏑馬式が行われています。 -
参道と交差するように、桧皮葺の楼門の前には流鏑馬祭の会場となる桜の馬場がのびています。
楼門の扁額は文政2年、聖護院入道盈仁法親王による揮毫。流鏑馬まつり 祭り・イベント
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楼門の前には、明治時代まで行なわれていた山宮御神幸の際に神霊の宿る鉾を立てた鉾立石が置かれています。
山宮御神幸は毎年春と秋の2回行なわれた、鉾に神霊を宿して本宮と山宮を往復するお祭りで、鉾立石は途中の休息の際に鉾を立てた石のこと。
現在はここ浅間大社と山宮浅間神社の2箇所にだけ現存しています。 -
浅間大社の御祭神は浅間大神こと木花之佐久夜毘売命。
コノハナノサクヤ姫は記紀神話に登場する女神です。
日向国に降臨した天孫ニニギ尊に見初められて結婚を迫られ、喜んだ父の大山祇神が姉のイワナガ姫とともに差し出したのですが、姉の方は容貌が醜かったために返されてしまいます。
このためニニギ尊の子孫である天孫族は、花のような栄華を約束されたものの、岩のように永遠の永遠の命は手放すことになったのでした。
コノハナノサクヤ姫が祀られる浅間大社の本殿は二層構造で、徳川家康公の寄進によって慶長9年に建てられたもの。
前日に見た静岡浅間大社の拝殿と同じ「浅間造」ですが、高さまでもが同じになるように建てられたそうです。 -
浅間大社に寄せる武士の崇敬は篤く、時の権力者による社殿の造営や社領の寄進が数多く記録されています。
境内には武田晴信公お手植えの枝垂れ桜が枝を広げていました。
富士山と大社造の社殿と満開の枝垂れ桜が揃えば、そこには桃源郷のような神秘の風景が広がることでしょう。 -
イチオシ
美しいのは山ばかりではなく、富士山から流れる水もまた透明度が高く非常に澄んだ名水です。
境内の湧玉池は国の天然記念物に指定され、平安時代の歌人、平兼盛は
つかふべき数におとらん浅間なる
御手洗川のそこにわく玉
と詠んでいます。富士山本宮浅間大社 寺・神社・教会
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浅間大社の参拝を終え、徒歩圏内にある名の知れた店で名物の富士宮焼きそばを食べました。
しかし店の対応がぞんざいで、店の選択を間違えたと後悔しました。
まあ口に入れば燃料となるだけなので忘れることとし、雨もあがったことなので、次の目的地の白糸の滝に向かいます。
富士山を世界遺産に登録するための運動の一環として、白糸の滝の周辺は大掛かりな工事が行われていることまでは確認していました。
ただどこまで見えるものか確かな情報もなく、行くだけ行って、駄目なら帰るだけと覚悟していました。
到着してみると思っていた以上に閑散としており、人の気配は全くありません。
それもそのはず、最も眺めの良い眺望台までもがバリケードで封鎖されてしまっているのです。
崖の上の方から何筋もの滝が流れているのは見えるものの、滝壺の様子は全く分かりません。
源頼朝公が富士の巻狩の折りに水面に顔を映して鬚のほつれを直したとされる「お鬢水」だけを見て帰ることにしました。白糸の滝 自然・景勝地
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イチオシ
「お鬢水」は何筋かの滝がちょうど落ちる所に近く、すぐ目の前で水が流れ落ちて行くのが見えます。
瀧全体を見渡すことは出来ないものの、ここから見る滝も優美なものです。
頼朝公が、
この上にいかなる姫のおはすらむ
をだまきかへす白糸の滝
と詠んだように、女性的なやさしさを持つ滝の姿をしていました。
白糸の瀧に鎌倉殿の詠み給ひける姫を訪ねて
いくすぢも糸なす水の織まぜし
白きとばりに姫のかげ見き白糸の滝 自然・景勝地
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結局見ることが出来ないまま、富士山には分かれを告げることになりました。
新東名高速を通って、伊豆国一之宮、三嶋大社に向かいます。
自分にとっては二度目の参拝ですが、母は初めてなのでこの機会に立ち寄ることにしていました。三嶋大社 寺・神社・教会
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前回来た時に境内は隅々まで見たつもりでいましたが、いくつか見落としていた所もあったようです。
その一つが源頼朝北条政子腰掛石。
治承4年に平家追討を祈って百日参りをした際、腰掛けて休息した石だと伝えられています。
こんな都合の良い形の天然の石があるものかとも思いますが、ここに座って談笑する夫婦を想像すると、案外そのようなこともあったような気になるのが不思議です。 -
また境内に家畜の臭いが漂っていることは、あまり記憶に残っていませんでした。
その出所は、宝物館裏の神鹿苑でした。
約40頭の鹿を飼育していますが、御祭神との関係は不明です。
売店で鹿用の餌を購入すれば、しばし鹿と戯れることが出来ます。 -
今回は念願の宝物館見学を果たすことができました。
数々の神宝の中でも最も価値が高いのは、国宝に指定される梅蒔絵手箱及内容品一具です。
鎌倉時代の最高技術を結集させた本手箱で、北条政子による奉納。
現物ではなく現代の名工による忠実な模造品を展示しています。
その模造工程を記録した制作ビデオが上映されていました。
ひとつひとつの工程は単純作業なのですが、多くの職人さんが丹精込めてそれぞれの作業に責任を果たすことで仕上がる作品は、まさに生命のこもった名宝と言うに相応しいものだと感じました。
満ち足りた心になって外へ出ると、またも雨が降り出して来ました。
しかしあとは帰るだけ。
富士山の姿を直接拝むことは出来ませんでしたが、ある意味で天気には恵まれた旅となりました。
三島駅前でレンタカーを返し、新幹線で東京を経由して帰宅の途についたのでした。三嶋大社宝物館 美術館・博物館
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