2012/08/26 - 2012/08/26
183位(同エリア364件中)
滝山氏照さん
JR両毛線又は東武伊勢崎線佐野駅下車改札を北に出ると広かれた敷地が眼前に展開、城山公園として一般に開放されています。これが佐野城(さのじょう、栃木県佐野市若松町)の三の丸跡にあたり、続いて南北に連なるいわゆる連郭式城跡を更に進みますと二の丸、そして本丸、本丸の向こうには北出丸が控えています。
城郭は東西が約400m、南北が約500mでそれぞれの廓と廓との間には深い堀切によって仕切られ、また所々に土塁が造られ城郭として必要な見学ポイントが楽しめます。
築城者は佐野信吉(さの・のぶよし、1566~1622)でそれまでの佐野氏は歴代難攻不落の山城である唐沢山城を本拠としていましたが、慶長7年(1602)徳川家康の命に従い唐沢山城を廃し、麓の春日岡にある惣総寺跡に築城することとなります。
戦国時代に於ける佐野氏の立場は親小田原北条氏であり、北条氏から養子を受けていましたが小田原北条氏滅亡後は豊臣秀吉近臣者から養子を貰い受ける事により本領の安堵を確保していましたが、徳川家康の幕府創設により微妙な立場と変わります。
慶長19年(1611)大坂冬の陣を前に信吉は突然改易処分を受け信濃松本藩へ配流の身となり大名として佐野氏は終焉を迎え、佐野城は廃城となります。改易理由は信吉の不行跡という事ですがかねてより信吉は幕府にとって邪魔な存在であったので時間の問題であったかもしれません。
一説にはその頃大久保長安(おおくぼ・ながやす)不正蓄財などの事件があり、連座して小田原藩主の大久保忠隣(おおくぼ・ただちか)の失脚事件があり、この機会を利用して豊臣系大名の排除がなされたと思われます。
その後3代将軍家光時代に信吉は許され、信吉の子久綱(ひさつな、1600~1679)の頃旗本に取立てられ佐野氏は3千500石で再興を果たし、以降明治維新まで幕臣として旗本の地位が続きます。
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
PR
-
旧三の丸
佐野駅北出口を出ますとすぐ広い芝生の庭が視野にはいります。 -
旧三の丸
旧三の丸跡の一部が駐車場になっています。 -
佐野城跡石柱
-
城山記念館
佐野城跡は駅に近く既に公園化されています。二の丸跡には城山記念館が建てられています。訪問時はタイミングを失い入場見学しませんでした。 -
イチオシ
堀切
-
堀切と橋
三の丸から本丸への橋と堀切が見えます。 -
本丸跡
-
本丸の石垣と石畳
-
本丸から北出丸
-
北出丸
本丸から北出丸へ続く橋です。かつでは木橋だったのでしょうか。北出丸は本丸の北側を防御する廓であるといわれています。
江戸時代の記録では東西約36m、南北約54m そして本丸との堀幅は約14mとのことですが、建造物などの詳細は不明だとされます。 -
堀切右
-
堀切左
-
北出丸展望
樹間から市街が展望できます。 -
城郭展望
急勾配の城郭が見事です。古地図では堀がありましたが、今では住宅化された後で見る影すらありません。 -
本丸跡
-
二の丸展望
二の丸から三の丸とその向こうを一望します。 -
鐘楼堂
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
滝山氏照さんの関連旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
17