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東武伊勢崎線太田駅下車、北口から徒歩約90分、標高239mの金山山頂から四方に延びる尾根に防御設備を多様に施している戦国時代の難攻不落の山城である金山城(かなやまじょう、群馬県太田市金山町)を訪問しました。<br /><br />文明元年(1469)、新田氏一族・礼部家の岩松家純(いわまつ・いえずみ、1409~1494)が同族の京兆家を滅ぼし、岩松一族の統一と結束を固めるため金山に築城しました。<br /><br />当時の関東全域は各国城主を巻き込んだ古河公方足利成氏(あしかが・しげうじ、1438~1497)と関東管領上杉憲政(うえすぎ・のりまさ、1523~1579)との覇権争いの時代で各地の国城主は所領安堵に向けてどちらに与するかを探っている状況です。<br /><br />岩松家については家純が古河公方以外に味方をしない、重臣横瀬国繁(よこせ・くにしげ、生年不詳~1488)を代官とするなど支配体制の一元化を図る中、上杉氏支持派で城主「名代」という実権のない立場に置かれた尚純(ひさずみ、1461~1511)が反乱を画し、金山城奪取をめざします。<br /><br />結果尚純は城の奪取できず横瀬国繁の子である成繁(なりしげ、生年不詳~1501)を中心とする制圧派に破れ尚純は佐野に隠居を余儀なくされます。<br />尚純隠居後は昌純(まさずみ、1485~1529)が継承しますが形ばかりの城主に不満を抱き、当時の代官横瀬泰繁(よこせ・やすしげ、1486~1545)暗殺を謀りますが計画が露見して逆に殺されてしまいます。<br /><br />その後横瀬泰繁は家中の反対派や岩松氏譜代家臣をも取込み、実質的な金山城主の地位を強めてゆきます。<br /><br />天文14年(1545)相模全域及び武蔵中部を制圧し武蔵北部に勢力浸透してきた小田原北条氏に河越合戦で古河公方軍と山内・扇谷両上杉軍は大敗を喫し、その上山内上杉憲政は長尾影虎(ながお・かげとら、1530~1578)を頼って越後に逃れる事態となり情勢は大きく変化します。<br /><br />永禄3年(1560)上杉憲政から名跡及び関東管領職を譲られ改名した上杉謙信は管領職を名目として盛んに関東平定に向けて越山、この時金山城主となっていた横瀬成繁(よこせ・なりしげ、1530~1578)は謙信方として参陣、謙信にとって関東国城主では新田衆(にったしゅう)として最右翼に位置付けられます。<br /><br />永禄8年(1565)成繁が将軍足利義輝から刑部大輔(ぎょうぶたいふ)の任を受けこれを機に、新田氏の故地に習い「由良」に改姓、戦国時代における上杉・小田原北条の抗争の場を巧みに生き延びつつ桐生・伊勢崎・館林・足利に領地を広げてゆきます。<br /><br />天正12年(1584)改姓した由良国繁(ゆら・くにしげ、1550~1611)と弟で館林城主長尾顕長(ながお・あきなが、1556~1621)が小田原北条氏に捕縛され、同氏の要求を受け入れ国繁と顕長の帰還と金山城の譲渡を条件として和解となり、国繁は桐生に退去する事になります。<br /><br />小田原北条氏の持ち城となった金山城には小田原北条氏直臣の城代が置かれますが、豊臣秀吉による北条氏攻撃を間近かに控え、城郭の守備固めに務め防御を施します。天正18年(1590)秀吉派遣軍の攻勢に抗することできずついに落城、以降廃城となります。<br /><br />地勢的には金山頂上に主郭があり、現在は新田神社と御岳神社等が祀られており、更に山頂部から南側に御台所曲輪、南曲輪、北側に二の丸、三の丸が造られ、やがて大手虎口から尾根つたいに大手通路が西に下って延びています。<br /><br />大手口は「史蹟金山城ガイダンス施設」を過ぎて暫く行くと入口を示す案内板が目印で、入りますとくねくねとした曲線上の路となっており、一気に上ることは困難で途中で休憩を挟む必要があります。<br /><br />自分としては相当に体力を消耗した登城となりましたが、戦い上手な戦略武将である上杉謙信でさえも5回に亘る攻撃をかけるも金山城はしっかり護られ攻略できないほどで確かに難攻不落のお城だと思わずにはいられません。<br /><br />関東の城にしては珍しく石をふんだんに使用しています。当山が岩山で岩石が入手可能という事情によるものですが、石塁や石道、石垣を要所に使っている姿は他エリアのお城を見ているような錯覚を受けます。<br /><br /><br /><br />2022年5月9日追記<br /><br />入手のパンフレットには次のように紹介されています。<br /><br />「金 山 城 の 歴 史<br /><br />金山城は、文明元年(1469)に新田(岩松)家純の命により築城されました。(「松陰私語」)。その後、岩松氏の重臣であった横瀬氏(後の由良氏)が下克上により実質上の金山城主となり、全盛を築きました。<br /><br />越後上杉氏、甲斐武田氏、相模小田原北条氏など有力戦国大名の抗争の狭間にあった上野(こうずけ)で、金山城主由良氏は、上杉氏や小田原北条氏との従属関係を保ちながら生き残りを図りました。その間、金山城下は10数回もその攻撃を受けますが、金山城は一度も城の中枢にまで攻め込まれず、その堅固さを誇りました。ところが天正12年(1584)金山城は小田原北条氏の調略により直接支配下に入り、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原北条氏討伐により廃城となりました。 」<br />

上野太田 下克上で戦国大名の座を得るも越後上杉氏と小田原北条氏との派遣争いに巧みに生き残った由良氏本拠『金山城』訪問

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2012/08/26 - 2012/08/26

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滝山氏照

滝山氏照さん

東武伊勢崎線太田駅下車、北口から徒歩約90分、標高239mの金山山頂から四方に延びる尾根に防御設備を多様に施している戦国時代の難攻不落の山城である金山城(かなやまじょう、群馬県太田市金山町)を訪問しました。

文明元年(1469)、新田氏一族・礼部家の岩松家純(いわまつ・いえずみ、1409~1494)が同族の京兆家を滅ぼし、岩松一族の統一と結束を固めるため金山に築城しました。

当時の関東全域は各国城主を巻き込んだ古河公方足利成氏(あしかが・しげうじ、1438~1497)と関東管領上杉憲政(うえすぎ・のりまさ、1523~1579)との覇権争いの時代で各地の国城主は所領安堵に向けてどちらに与するかを探っている状況です。

岩松家については家純が古河公方以外に味方をしない、重臣横瀬国繁(よこせ・くにしげ、生年不詳~1488)を代官とするなど支配体制の一元化を図る中、上杉氏支持派で城主「名代」という実権のない立場に置かれた尚純(ひさずみ、1461~1511)が反乱を画し、金山城奪取をめざします。

結果尚純は城の奪取できず横瀬国繁の子である成繁(なりしげ、生年不詳~1501)を中心とする制圧派に破れ尚純は佐野に隠居を余儀なくされます。
尚純隠居後は昌純(まさずみ、1485~1529)が継承しますが形ばかりの城主に不満を抱き、当時の代官横瀬泰繁(よこせ・やすしげ、1486~1545)暗殺を謀りますが計画が露見して逆に殺されてしまいます。

その後横瀬泰繁は家中の反対派や岩松氏譜代家臣をも取込み、実質的な金山城主の地位を強めてゆきます。

天文14年(1545)相模全域及び武蔵中部を制圧し武蔵北部に勢力浸透してきた小田原北条氏に河越合戦で古河公方軍と山内・扇谷両上杉軍は大敗を喫し、その上山内上杉憲政は長尾影虎(ながお・かげとら、1530~1578)を頼って越後に逃れる事態となり情勢は大きく変化します。

永禄3年(1560)上杉憲政から名跡及び関東管領職を譲られ改名した上杉謙信は管領職を名目として盛んに関東平定に向けて越山、この時金山城主となっていた横瀬成繁(よこせ・なりしげ、1530~1578)は謙信方として参陣、謙信にとって関東国城主では新田衆(にったしゅう)として最右翼に位置付けられます。

永禄8年(1565)成繁が将軍足利義輝から刑部大輔(ぎょうぶたいふ)の任を受けこれを機に、新田氏の故地に習い「由良」に改姓、戦国時代における上杉・小田原北条の抗争の場を巧みに生き延びつつ桐生・伊勢崎・館林・足利に領地を広げてゆきます。

天正12年(1584)改姓した由良国繁(ゆら・くにしげ、1550~1611)と弟で館林城主長尾顕長(ながお・あきなが、1556~1621)が小田原北条氏に捕縛され、同氏の要求を受け入れ国繁と顕長の帰還と金山城の譲渡を条件として和解となり、国繁は桐生に退去する事になります。

小田原北条氏の持ち城となった金山城には小田原北条氏直臣の城代が置かれますが、豊臣秀吉による北条氏攻撃を間近かに控え、城郭の守備固めに務め防御を施します。天正18年(1590)秀吉派遣軍の攻勢に抗することできずついに落城、以降廃城となります。

地勢的には金山頂上に主郭があり、現在は新田神社と御岳神社等が祀られており、更に山頂部から南側に御台所曲輪、南曲輪、北側に二の丸、三の丸が造られ、やがて大手虎口から尾根つたいに大手通路が西に下って延びています。

大手口は「史蹟金山城ガイダンス施設」を過ぎて暫く行くと入口を示す案内板が目印で、入りますとくねくねとした曲線上の路となっており、一気に上ることは困難で途中で休憩を挟む必要があります。

自分としては相当に体力を消耗した登城となりましたが、戦い上手な戦略武将である上杉謙信でさえも5回に亘る攻撃をかけるも金山城はしっかり護られ攻略できないほどで確かに難攻不落のお城だと思わずにはいられません。

関東の城にしては珍しく石をふんだんに使用しています。当山が岩山で岩石が入手可能という事情によるものですが、石塁や石道、石垣を要所に使っている姿は他エリアのお城を見ているような錯覚を受けます。



2022年5月9日追記

入手のパンフレットには次のように紹介されています。

「金 山 城 の 歴 史

金山城は、文明元年(1469)に新田(岩松)家純の命により築城されました。(「松陰私語」)。その後、岩松氏の重臣であった横瀬氏(後の由良氏)が下克上により実質上の金山城主となり、全盛を築きました。

越後上杉氏、甲斐武田氏、相模小田原北条氏など有力戦国大名の抗争の狭間にあった上野(こうずけ)で、金山城主由良氏は、上杉氏や小田原北条氏との従属関係を保ちながら生き残りを図りました。その間、金山城下は10数回もその攻撃を受けますが、金山城は一度も城の中枢にまで攻め込まれず、その堅固さを誇りました。ところが天正12年(1584)金山城は小田原北条氏の調略により直接支配下に入り、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原北条氏討伐により廃城となりました。 」

交通手段
JRローカル 徒歩
  • 金山城跡大手道<br /><br />金山城入口から暫く歩きますが、ダラダラとした山道なので結構足腰に疲労が溜まってきます。

    金山城跡大手道

    金山城入口から暫く歩きますが、ダラダラとした山道なので結構足腰に疲労が溜まってきます。

  • 大手道斜面<br /><br />大手道途中の左側は深い谷間となっており、真に山城の雰囲気が感じられます。

    大手道斜面

    大手道途中の左側は深い谷間となっており、真に山城の雰囲気が感じられます。

  • 大手口説明板

    大手口説明板

  • 金山城案内挿絵<br /><br />金山城全体の挿絵と説明文で金山城見学ポイントを伝えています。<br />

    金山城案内挿絵

    金山城全体の挿絵と説明文で金山城見学ポイントを伝えています。

  • 金山城跡石標

    金山城跡石標

  • 市街地を遠望

    市街地を遠望

  • 大手道

    大手道

  • 物見台案内板

    物見台案内板

  • 旧通路案内板<br /><br />

    旧通路案内板

  • 西矢倉台下堀切説明板

    西矢倉台下堀切説明板

  • 西矢倉台西堀切説明板

    西矢倉台西堀切説明板

  • 大手道石標

    大手道石標

  • 大手道堀切<br /><br />現在は橋が設置されていますが当時は堀切となっており寄せ手の侵入に対し有効な防御となっています。

    大手道堀切

    現在は橋が設置されていますが当時は堀切となっており寄せ手の侵入に対し有効な防御となっています。

  • 大堀切説明板

    大堀切説明板

  • 市街地一望

    市街地一望

  • 西矢倉台通路説明板

    西矢倉台通路説明板

  • 馬場下通路説明板

    馬場下通路説明板

  • 石造り虎口<br /><br />大手門路の先には左右に石製虎口が構えています。<br /><br /><br />

    石造り虎口

    大手門路の先には左右に石製虎口が構えています。


  • 大堀切<br /><br />金山はほとんど岩でできている為「岩盤堀切」となっていますが、それにしても堀切を造る為には相当の作業人員が要求された事でしょう。

    イチオシ

    大堀切

    金山はほとんど岩でできている為「岩盤堀切」となっていますが、それにしても堀切を造る為には相当の作業人員が要求された事でしょう。

  • 堀切上の木橋<br /><br />石垣で固定された木橋が設置されています。

    イチオシ

    堀切上の木橋

    石垣で固定された木橋が設置されています。

  • 大堀切<br /><br />大堀切の右部分が下方に降りています。

    大堀切

    大堀切の右部分が下方に降りています。

  • 馬場下通路案内板

    馬場下通路案内板

  • 馬場曲輪説明板

    馬場曲輪説明板

  • 月の池(整備後)<br /><br />発掘調査の結果直径7m、深さ2.5mの池が埋まっている事が判ったそうです。<br /><br />

    月の池(整備後)

    発掘調査の結果直径7m、深さ2.5mの池が埋まっている事が判ったそうです。

  • 日の池(整備後)<br /><br />発掘調査の結果、池の径は16ー17m石組みの池を中心に、石敷き平坦面、そしてその外側に石垣が周囲を巡っていることが判ったそうです。

    日の池(整備後)

    発掘調査の結果、池の径は16ー17m石組みの池を中心に、石敷き平坦面、そしてその外側に石垣が周囲を巡っていることが判ったそうです。

  • 大手通路<br /><br />大手道の先は突き当たりで寄せ手はここで立ち止り行く手を捜す間に左右から銃・矢で攻撃を加え、大打撃を与えるところです。

    イチオシ

    大手通路

    大手道の先は突き当たりで寄せ手はここで立ち止り行く手を捜す間に左右から銃・矢で攻撃を加え、大打撃を与えるところです。

  • 大手虎口南脇曲輪復元遺構<br /><br />大手虎口南脇曲輪に石敷き遺構(奥側)及びかまど遺構(手前)が復元配置されています。<br /><br /><br /><br />

    大手虎口南脇曲輪復元遺構

    大手虎口南脇曲輪に石敷き遺構(奥側)及びかまど遺構(手前)が復元配置されています。



  • 大手虎口南上段曲輪説明板

    大手虎口南上段曲輪説明板

  • 大堀切展望台<br /><br />右端には大堀切が認められ、ここから見下ろす大堀切は見応えがあります。<br /><br />

    大堀切展望台

    右端には大堀切が認められ、ここから見下ろす大堀切は見応えがあります。

  • 南曲輪中央部<br /><br />ここには金山城跡縄張り案内板が見られます。

    南曲輪中央部

    ここには金山城跡縄張り案内板が見られます。

  • 金山城跡地形模型

    金山城跡地形模型

  • 金山城縄張復元図

    金山城縄張復元図

  • 金山城跡石碑

    金山城跡石碑

  • 南曲輪からの展望

    南曲輪からの展望

  • 南曲輪からの展望

    南曲輪からの展望

  • 御台所曲輪<br /><br />左手は本丸へ通じます。<br /><br /><br /><br />

    御台所曲輪

    左手は本丸へ通じます。



  • 金山の大ケヤキ

    金山の大ケヤキ

  • 大ケヤキ説明板

    大ケヤキ説明板

  • 本城説明板

    本城説明板

  • 新田神社鳥居<br /><br />石段を上りますと鳥居が控え、その奥には新田神社が確認できます。

    新田神社鳥居

    石段を上りますと鳥居が控え、その奥には新田神社が確認できます。

  • 新田神社<br /><br />鎌倉幕府倒幕に活躍した足利の武将新田義貞を祀る為、明治8年(1875)金山城本丸跡地に新田神社が建てられます。

    新田神社

    鎌倉幕府倒幕に活躍した足利の武将新田義貞を祀る為、明治8年(1875)金山城本丸跡地に新田神社が建てられます。

  • 新田神社拝殿

    新田神社拝殿

  • 金山城跡石標<br /><br />石標の左手には金山城主系図が描かれた説明板が設置されています。説明板に城主の系図が描かれている事は珍しいことです。

    金山城跡石標

    石標の左手には金山城主系図が描かれた説明板が設置されています。説明板に城主の系図が描かれている事は珍しいことです。

  • 金山城跡説明板

    金山城跡説明板

  • 御獄神社拝殿<br /><br />新田神社の左側に御嶽神社が建立されています。

    御獄神社拝殿

    新田神社の左側に御嶽神社が建立されています。

  • 新田神社境内<br /><br />本丸跡は思ったより広めの印象があります。<br />

    新田神社境内

    本丸跡は思ったより広めの印象があります。

  • 新田神社から展望<br /><br />かつて本丸であった新田神社境内から市街地を展望します。

    新田神社から展望

    かつて本丸であった新田神社境内から市街地を展望します。

  • 本城西端

    本城西端

  • 見附出丸・南土塁<br /><br />金山城の西側を防御する施設で、北石塁と南土塁を筋違いにして南からの侵入路を屈曲させて寄せ手の動きを緩慢にさせ、反撃を加える事も可能です。<br />説明板には南北の各塁には堀切を施し、侵入を更に困難にさせています。

    見附出丸・南土塁

    金山城の西側を防御する施設で、北石塁と南土塁を筋違いにして南からの侵入路を屈曲させて寄せ手の動きを緩慢にさせ、反撃を加える事も可能です。
    説明板には南北の各塁には堀切を施し、侵入を更に困難にさせています。

  • 見附出丸・南土塁説明板

    見附出丸・南土塁説明板

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