2012/08/26 - 2012/08/26
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滝山氏照さん
東武伊勢崎線の太田駅から徒歩約30分の地に義重山新田寺大光院(にったじだいこういん、群馬県太田市金山町)があります。
当寺院は慶長13年(1613)、徳川家康がその祖とした新田義重(にった・よししげ、源義家孫にあたる新田氏祖)を追善するため創建したものです。
寺名の「義重山新田寺大光院」は義重の法名「大光院殿方山西公大禅定門」によります。
寺領300石、徳川幕府が定めた浄土宗の学問所関東十八壇林の一寺としての位置付けです。
尚 開祖の呑龍上人(どんりゅうしょうにん、1556~1623)は武蔵国埼玉郡出身で浄土宗の僧侶で、江戸増上寺で修学をした後、多摩八王子の大善寺の3世として僧侶の養成に貢献します。
そして上述の通り徳川家康の命により大光院が建立され呑龍上人は同院の開祖となります。
2022年7月30日追記
大光院新田寺に関して次のように紹介されています。
『 歴史・由来
大光院は、群馬県太田市にある浄土宗の寺院です。
もともと大光院は、徳川家康が先祖として崇める新田義重が法然上人に帰依して寺尾城(現在の太田市寺井町)、高崎市寺尾町など諸説あり)に建てた寺院といいますが、時が下って南北朝動乱で当主の新田義貞以下が戦死して新田家が没落すると、こと寺院も荒廃に任せたままとなってしまいました。
慶長8年(1603)、徳川家康は朝廷に奏請して新田義重に鎮守府将軍の称号を贈り、次いで慶長16年(1611)、幕閣の土井利勝や成瀬正成、芝増上寺の存応和尚(普光観智国師)に命じてゆかりの地を捜索させるとともに、新たに寺院を建立するのにふさわしい適地を選ばせます。
慶長18年(1613)、開山として存応和尚の「四哲」の一人とされる呑龍上人が招かれ、新田義重を供養する目的で創建されたのが今の大光院です。正しくは「義重山新田寺大光院」といいますが、これらは新田義重の諱や名字、法号にそれぞれ由来しています。なお、一般の寺院では山号・院号・寺号の順番ですが、大光院については江戸時代からさっ山号・寺号・院号の順番で言うことがあります。
こうした経緯から大光院は寺領として300石の寄進を受け、本堂や書裏、大方丈、小方丈などさまざまな建築物からなる伽藍が整備され、浄土宗の学問所である「関東十八檀林」のひとつとしても栄えました。
初代の呑龍上人は武蔵国埼玉郡一ノ割村(現在の埼玉県春日部市)の出身で、増上寺で修行の末に大善寺(現在の東京都八王子市。この寺院も通称「呑流さま」と呼ばれている。)の住持となりますが、徳川家康の命によって大光院に移ります。
当寺は生活困窮のために捨て子や間引きが跡を絶たず、呑龍上人はこれらの子供を引き取って、寺領からの収入の多くを割いて、弟子という名目で7歳になるまで養育していたことから、俗に「七ツ坊主」という言葉が生まれるようになったといいます。もっとも芝増上寺界隈でいう「七ツ坊主」は、七ツ時(午後4時ごろ)に拍子木を打ちながら托鉢に出る僧侶の集団を指しています。
ほかにも親の病気を治そうと国禁を犯して鶴を狩猟した源次兵衛を匿い、幕府の譴責を受けたため、源次兵衛と一緒に寺を抜け出して信州小諸の仏光寺で逃亡生活を送り、観智国師の遺言により元和元年(1621)の赦免され再び寺に戻ったという逸話もあり、現在でも大光院は通称「子育て呑龍」「呑龍様」として、安産・子育て祈願の御利益で親しまれています。
戦前・戦後に東洋最大と言われた中島飛行機が皇紀2600年(1940)に開発した帝国陸軍の100式重爆撃機は「呑龍」の愛称で呼ばれていますが、これも中島飛行機の太田製作所がこの地にあった縁で、寺号の通称の「呑龍様」から拝借したものといえます。
境内の高台には寺尾城から運ばれたという古い宝篋印塔が新田義重御廟として残るほか、その傍らに呑龍上人御廟、さらに孝子源治兵衛の墓があります。また、元和元年(1615)の大坂夏の陣における大坂城落城の日に上棟したことから「吉祥門」と名付けられた山門、呑龍上人お手植えと伝わる枝ぶりのよい、「臥龍の松」なども見ものです。』
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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