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トラピックス主催による「足立美術館・出雲大社・松江と天橋立・伊根の舟屋・倉敷の4日間」に参加してきました。出雲大社では正式参拝を行いました。

出雲大社

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2012/09/25 - 2012/09/25

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キヌちち

キヌちちさん

トラピックス主催による「足立美術館・出雲大社・松江と天橋立・伊根の舟屋・倉敷の4日間」に参加してきました。出雲大社では正式参拝を行いました。

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  • ツアーバス車窓に出雲大社の大きな国旗が見えてきました。

    ツアーバス車窓に出雲大社の大きな国旗が見えてきました。

  • 出雲大社<br /> 島根県出雲市大社(たいしゃ)町に鎮座。古くは天日隅宮(あめのひすみのみや)、天日栖宮(あめのひすのみや)、出雲石之曽宮(いわくまのそのみや)、厳神之宮(いつかしのかみのみや)、杵築大社(きつきのおおやしろ)などと呼称され、現在は一般に「いずものおおやしろ」とよばれている。大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)を祀(まつ)る。<br /> 大国主大神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)の子で、因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ)神話で慈愛深い神として語られているが、少彦名神(すくなひこなのかみ)とともに、この国土を開拓、人々に農耕の方法を教え、また病気その他の災厄から逃れるための医薬や禁厭(まじない)の法を教え、やがて皇孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨にあたって、この国土を皇孫に譲り、自身は退いて幽事(かくりごと)(あの世の事)をつかさどる大神となった。<br /> そこで、天照大神(あまてらすおおみかみ)は大神のために宮殿をつくらせ、子の天穂日命(あめのほひのみこと)に大神を祀らせたのが本社の起源と伝える。さらに『日本書紀』に、崇神(すじん)天皇のとき出雲臣(いずものおみ)の祖出雲振根(ふるね)が事あって大神を祀らなかったとき、丹波(たんば)(兵庫県)の氷上(ひかみ)の人氷香戸辺(ひかとべ)の子に神託があり、神異を示されたので、勅(みことのり)して祭りを行わせたとある。659年(斉明天皇5)出雲国造(くにのみやつこ)に社殿を修築させ、765年(天平神護1)神封61戸をあてた。851年(仁寿1)には従三位(じゅさんみ)、勲八等となり、859年(貞観1)正月に正三位、5月に従二位、867年に正二位に叙している。延喜(えんぎ)の制で名神(みょうじん)大社とされ、以後も朝野の崇敬厚く、出雲国一宮(いちのみや)となる。<br /> 武家時代に入り源頼朝(よりとも)はその神主家の勢力を抑えることを計りながら、一方では1190年(文治6)正月、剣を奉納するなど崇敬している。1333年(元弘3)後醍醐(ごだいご)天皇が王道再興を祈願して神領を寄進、その後、戦国時代には、出雲国の支配は京極(きょうごく)、尼子(あまご)、毛利(もうり)氏と変わったが、いずれも大社を崇敬し、その神領に大きな変化はなかった。<br /> しかし、豊臣(とよとみ)秀吉の文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役(1592、1597)で軍資金調達のため一時縮小されたが、江戸時代には松江藩主松平氏により安定させられていた。1871年(明治4)に官幣大社、1917年(大正6)には勅使参向社とされた。<br /> この大社の祭祀(さいし)は天穂日命の子孫の出雲国造がつかさどることとなっており、古くはその国造は代替りごとに朝廷に参向した。すなわち、新任の国造が朝廷に参向して新任の式をなしたのち、天皇から負幸物(さきおいのもの)を賜り、出雲に帰り潔斎(けっさい)1年ののち上京、神宝、御贄(みにえ)を奉り、神賀詞(かんよごと)を奏上する。そして国に帰り、前年と同様に1年間潔斎したのち、ふたたび上京して献上物を捧(ささ)げ、神賀詞を奏上したうえで、大神の祭祀をつかさどったのである。<br /> この出雲国造家は南北朝時代に千家(せんげ)家、北島家に分かれて両家がその神事に携わったが、国造は現代にも続き、古いしきたりを伝えている。すなわち、天穂日命が祭主となったとき、熊野(くまの)大神櫛御気野命(くしみけぬのみこと)から火燧臼(ひきりうす)、火燧杵(ぎね)を授けられ、それより鑽(き)り出した火で潔斎、奉仕したとの伝承により、現在も国造の代替りに「火継(ひつぎ)」または「神火(しんか)相続」という儀式が厳粛に行われている。<br /> 新国造は前国造の帰幽後ただちに伝来の火燧臼、火燧杵を持ち、松江市八雲(やくも)町の熊野大社へ参向、そこで火継の神事をするのであり、そのとき鑽り出した火は、終生国造邸内の斎火殿(さいかでん)に保存し、潔斎に用いるのである。<br /> 本殿はいわゆる大社造(たいしゃづくり)で、現本殿は1744年(延享1)の造営にかかり、国宝に指定されるが、古くは現本殿の数倍の大きさであったと伝える。2004年(平成16)には、本殿と同時期に造営された楼門などの建築群と銅鳥居が一括して国の重要文化財に指定された。<br /> 例祭は5月14日で、勅使参向があり、また年中72回の祭礼には特殊神事が多い。その代表的なものは、1月1日の大饌(おおみけ)祭、2月17日の祈穀(きこく)祭、3月1日の古伝(こでん)祭、6月1日の涼殿(すずみどの)祭(真菰(まこも)神事)、8月14日夜の神幸(しんこう)祭(身逃(みにげ)神事)、8月15日の爪剥(つまむぎ)祭、陰暦10月11日より17日までの神在(かんあり)祭、11月23日の献穀祭、その夜に古式ゆかしい古伝新嘗祭(こでんしんじょうさい)、11月17日と12月27日の御饌井(みけい)祭などである。<br />なお、出雲大社は一般庶民の信仰が厚く、縁結びの神、福徳の神として親しまれ、御師(おし)の活動により各地に講が組織されていた。明治時代には、千家家による出雲大社(おおやしろ)教、北島家による出雲教が結成され、現在もそれぞれ布教活動を行っている(小学館、日本大百科全書より)。 <br />

    出雲大社
     島根県出雲市大社(たいしゃ)町に鎮座。古くは天日隅宮(あめのひすみのみや)、天日栖宮(あめのひすのみや)、出雲石之曽宮(いわくまのそのみや)、厳神之宮(いつかしのかみのみや)、杵築大社(きつきのおおやしろ)などと呼称され、現在は一般に「いずものおおやしろ」とよばれている。大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)を祀(まつ)る。
     大国主大神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)の子で、因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ)神話で慈愛深い神として語られているが、少彦名神(すくなひこなのかみ)とともに、この国土を開拓、人々に農耕の方法を教え、また病気その他の災厄から逃れるための医薬や禁厭(まじない)の法を教え、やがて皇孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨にあたって、この国土を皇孫に譲り、自身は退いて幽事(かくりごと)(あの世の事)をつかさどる大神となった。
     そこで、天照大神(あまてらすおおみかみ)は大神のために宮殿をつくらせ、子の天穂日命(あめのほひのみこと)に大神を祀らせたのが本社の起源と伝える。さらに『日本書紀』に、崇神(すじん)天皇のとき出雲臣(いずものおみ)の祖出雲振根(ふるね)が事あって大神を祀らなかったとき、丹波(たんば)(兵庫県)の氷上(ひかみ)の人氷香戸辺(ひかとべ)の子に神託があり、神異を示されたので、勅(みことのり)して祭りを行わせたとある。659年(斉明天皇5)出雲国造(くにのみやつこ)に社殿を修築させ、765年(天平神護1)神封61戸をあてた。851年(仁寿1)には従三位(じゅさんみ)、勲八等となり、859年(貞観1)正月に正三位、5月に従二位、867年に正二位に叙している。延喜(えんぎ)の制で名神(みょうじん)大社とされ、以後も朝野の崇敬厚く、出雲国一宮(いちのみや)となる。
     武家時代に入り源頼朝(よりとも)はその神主家の勢力を抑えることを計りながら、一方では1190年(文治6)正月、剣を奉納するなど崇敬している。1333年(元弘3)後醍醐(ごだいご)天皇が王道再興を祈願して神領を寄進、その後、戦国時代には、出雲国の支配は京極(きょうごく)、尼子(あまご)、毛利(もうり)氏と変わったが、いずれも大社を崇敬し、その神領に大きな変化はなかった。
     しかし、豊臣(とよとみ)秀吉の文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役(1592、1597)で軍資金調達のため一時縮小されたが、江戸時代には松江藩主松平氏により安定させられていた。1871年(明治4)に官幣大社、1917年(大正6)には勅使参向社とされた。
     この大社の祭祀(さいし)は天穂日命の子孫の出雲国造がつかさどることとなっており、古くはその国造は代替りごとに朝廷に参向した。すなわち、新任の国造が朝廷に参向して新任の式をなしたのち、天皇から負幸物(さきおいのもの)を賜り、出雲に帰り潔斎(けっさい)1年ののち上京、神宝、御贄(みにえ)を奉り、神賀詞(かんよごと)を奏上する。そして国に帰り、前年と同様に1年間潔斎したのち、ふたたび上京して献上物を捧(ささ)げ、神賀詞を奏上したうえで、大神の祭祀をつかさどったのである。
     この出雲国造家は南北朝時代に千家(せんげ)家、北島家に分かれて両家がその神事に携わったが、国造は現代にも続き、古いしきたりを伝えている。すなわち、天穂日命が祭主となったとき、熊野(くまの)大神櫛御気野命(くしみけぬのみこと)から火燧臼(ひきりうす)、火燧杵(ぎね)を授けられ、それより鑽(き)り出した火で潔斎、奉仕したとの伝承により、現在も国造の代替りに「火継(ひつぎ)」または「神火(しんか)相続」という儀式が厳粛に行われている。
     新国造は前国造の帰幽後ただちに伝来の火燧臼、火燧杵を持ち、松江市八雲(やくも)町の熊野大社へ参向、そこで火継の神事をするのであり、そのとき鑽り出した火は、終生国造邸内の斎火殿(さいかでん)に保存し、潔斎に用いるのである。
     本殿はいわゆる大社造(たいしゃづくり)で、現本殿は1744年(延享1)の造営にかかり、国宝に指定されるが、古くは現本殿の数倍の大きさであったと伝える。2004年(平成16)には、本殿と同時期に造営された楼門などの建築群と銅鳥居が一括して国の重要文化財に指定された。
     例祭は5月14日で、勅使参向があり、また年中72回の祭礼には特殊神事が多い。その代表的なものは、1月1日の大饌(おおみけ)祭、2月17日の祈穀(きこく)祭、3月1日の古伝(こでん)祭、6月1日の涼殿(すずみどの)祭(真菰(まこも)神事)、8月14日夜の神幸(しんこう)祭(身逃(みにげ)神事)、8月15日の爪剥(つまむぎ)祭、陰暦10月11日より17日までの神在(かんあり)祭、11月23日の献穀祭、その夜に古式ゆかしい古伝新嘗祭(こでんしんじょうさい)、11月17日と12月27日の御饌井(みけい)祭などである。
    なお、出雲大社は一般庶民の信仰が厚く、縁結びの神、福徳の神として親しまれ、御師(おし)の活動により各地に講が組織されていた。明治時代には、千家家による出雲大社(おおやしろ)教、北島家による出雲教が結成され、現在もそれぞれ布教活動を行っている(小学館、日本大百科全書より)。

  • さざれ石

    さざれ石

  • さざれ石の由来についての説明看板。

    さざれ石の由来についての説明看板。

  • 神々の道についての説明看板。

    神々の道についての説明看板。

  • 神迎祭と神在祭についての説明看板。

    神迎祭と神在祭についての説明看板。

  • 神々の国、出雲。この地の象徴であるかのようにそそりたつ出雲大社。<br />八雲山を背にした神域は森厳な空気が流れ、その中で数千年もの歴史を持ち、威容を誇る神殿が厳かに立っています。<br />八雲立つこの場所には、なにか巨大なものの気配があります。厳粛な緊張感があります。<br />浮雲ただよう青空に突き刺さるような千木を仰ぎ見ると、壮大な神代の世界が確かにここに存在したことは想像に難くありません。<br />近年パワースポットとしても注目されている出雲大社。その由縁、理由ではなくここに来て感じてください。<br />縁結びの神・福の神として名高い『出雲大社』は、日本最古の歴史書といわれる「古事記」にその創建が記されているほどの古社で、明治時代初期まで杵築大社と呼ばれていました。<br />主祭神は大国様として馴染みの深い『大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)』で、「古事記」に記される国譲り神話には、大国主大神が高天原の天照大神(あまてらすおおみかみ)に国を譲り、その時に造営された天日隅宮(あまのひすみのみや)が出雲大社の始まりといわれています(出雲観光協会HPより)。

    神々の国、出雲。この地の象徴であるかのようにそそりたつ出雲大社。
    八雲山を背にした神域は森厳な空気が流れ、その中で数千年もの歴史を持ち、威容を誇る神殿が厳かに立っています。
    八雲立つこの場所には、なにか巨大なものの気配があります。厳粛な緊張感があります。
    浮雲ただよう青空に突き刺さるような千木を仰ぎ見ると、壮大な神代の世界が確かにここに存在したことは想像に難くありません。
    近年パワースポットとしても注目されている出雲大社。その由縁、理由ではなくここに来て感じてください。
    縁結びの神・福の神として名高い『出雲大社』は、日本最古の歴史書といわれる「古事記」にその創建が記されているほどの古社で、明治時代初期まで杵築大社と呼ばれていました。
    主祭神は大国様として馴染みの深い『大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)』で、「古事記」に記される国譲り神話には、大国主大神が高天原の天照大神(あまてらすおおみかみ)に国を譲り、その時に造営された天日隅宮(あまのひすみのみや)が出雲大社の始まりといわれています(出雲観光協会HPより)。

  • 素鵞川橋

    素鵞川橋

  • 社務所

    社務所

  • 手水舎

    手水舎

  • 大国主大神と兎像。<br /> 主祭神の大国主大神は須佐之男命の子孫、多くの兄弟の末っ子として出雲に生まれました。<br /> 神話の中の「因幡の白うさぎ」の話が有名で、『サメを騙したため全身の皮をむかれた白うさぎが大国主大神の兄たちに助けを求めたところ、海水につかり風にあたるとよいと言われた。うさぎが言われた通りにしたところ、塩水がしみてよけいにひどくなった。兄たちに荷物を持たされ遅れてやってきた大国主大神が痛みで泣いているうさぎを可哀想に思い、真水で塩を洗い、がまの穂にくるまると良いと教えたところ、うさぎの傷は治りました』というお話で、大国主大神の優しい性格がうかがえる一幕です。<br /> そしてこの神様は多くの女神と結婚し、多くの子供をもうけます。縁結びの神様というのもうなずけます。<br /> 大国主大神は出雲王朝を繁栄させるという偉業を成した王ですが、大きな袋を肩にかけ、ずきんを被り、右手に打出の小槌を持って米俵の上に立つ、あの人懐こいお姿の大国(だいこく)様もまた、大国主大神なのです(出雲観光協会HPより)。

    大国主大神と兎像。
     主祭神の大国主大神は須佐之男命の子孫、多くの兄弟の末っ子として出雲に生まれました。
     神話の中の「因幡の白うさぎ」の話が有名で、『サメを騙したため全身の皮をむかれた白うさぎが大国主大神の兄たちに助けを求めたところ、海水につかり風にあたるとよいと言われた。うさぎが言われた通りにしたところ、塩水がしみてよけいにひどくなった。兄たちに荷物を持たされ遅れてやってきた大国主大神が痛みで泣いているうさぎを可哀想に思い、真水で塩を洗い、がまの穂にくるまると良いと教えたところ、うさぎの傷は治りました』というお話で、大国主大神の優しい性格がうかがえる一幕です。
     そしてこの神様は多くの女神と結婚し、多くの子供をもうけます。縁結びの神様というのもうなずけます。
     大国主大神は出雲王朝を繁栄させるという偉業を成した王ですが、大きな袋を肩にかけ、ずきんを被り、右手に打出の小槌を持って米俵の上に立つ、あの人懐こいお姿の大国(だいこく)様もまた、大国主大神なのです(出雲観光協会HPより)。

  • 大国主大神像

    大国主大神像

  • 大国主大神像

    大国主大神像

  • 鳥居

    鳥居

  • 神馬神牛像

    神馬神牛像

  • バスの車窓から見えた神楽殿の前にある国旗掲揚塔。高さは47m、旗は畳75枚分の大きさで重さ49kgだそうです。

    バスの車窓から見えた神楽殿の前にある国旗掲揚塔。高さは47m、旗は畳75枚分の大きさで重さ49kgだそうです。

  • 案内板

    案内板

  • 神楽殿<br /> 出雲大社境内を西の門から出て川を渡ったところに神楽殿があります。本殿と同じように朝夕のおまつりの他、御神楽や御祈祷が奉仕されます。<br /> 神楽殿はもともと明治12年出雲大社教が組織化された当時、その教化のために大国主大神を本殿とは別におまつりしたことに由来します。<br /> 現在の神楽殿は昭和56年に造営されました。その大広間は270畳敷きの広さをほこり、神社建築にはめずらしく、正面破風の装飾にステンドグラスが使われています。またここに掛かる注連縄(しめなわ)は長さ13.5メートル、重さ4.4トンの巨大なもので「国引き神話」の出雲を象徴するかのようです(出雲観光協会HPより)。

    神楽殿
     出雲大社境内を西の門から出て川を渡ったところに神楽殿があります。本殿と同じように朝夕のおまつりの他、御神楽や御祈祷が奉仕されます。
     神楽殿はもともと明治12年出雲大社教が組織化された当時、その教化のために大国主大神を本殿とは別におまつりしたことに由来します。
     現在の神楽殿は昭和56年に造営されました。その大広間は270畳敷きの広さをほこり、神社建築にはめずらしく、正面破風の装飾にステンドグラスが使われています。またここに掛かる注連縄(しめなわ)は長さ13.5メートル、重さ4.4トンの巨大なもので「国引き神話」の出雲を象徴するかのようです(出雲観光協会HPより)。

  • 神楽殿

    神楽殿

  • 神楽殿

    神楽殿

  • 神楽殿

    神楽殿

  • 係の女性が注連縄について説明してくれました。

    係の女性が注連縄について説明してくれました。

  • 長さ13.5?、重さ4.4トンの巨大な注連縄。古くなったら(7年前後)取り替えられるそう。

    長さ13.5?、重さ4.4トンの巨大な注連縄。古くなったら(7年前後)取り替えられるそう。

  • 巨大な注連縄を真上に眺めてみました。

    巨大な注連縄を真上に眺めてみました。

  • 正式参拝に臨みます。

    正式参拝に臨みます。

  • 参賀の受付所

    参賀の受付所

  • 境内

    境内

  • 神楽殿の横に立つ「一月一日」の歌碑。作詞者の千家尊福は出雲大社の初代管長を務めた。「年の始めのためしとて 終りなき世のめでたさを 松竹立てて門ごとに 祝ふ今日こそたのしけれ」。昔よく歌いました。この方が作った歌詞とは知りませんでした。

    神楽殿の横に立つ「一月一日」の歌碑。作詞者の千家尊福は出雲大社の初代管長を務めた。「年の始めのためしとて 終りなき世のめでたさを 松竹立てて門ごとに 祝ふ今日こそたのしけれ」。昔よく歌いました。この方が作った歌詞とは知りませんでした。

  • 祖霊社<br /> 神楽殿よりさらに西方に位置する、大きな瓦屋根の建物が祖霊社(正式には出雲大社教祖霊社)です。その歴史は明治8年にはじまります。<br /> 出雲大社教初代管長千家尊福公(当時は出雲大社大宮司)が、大国主大神さまが「幽(かく)れたる神事」をお治めになる御神徳を現されることから、今現世に生かされている人々が亡くなって後も、その御霊(みたま)が安らかに家の守護神(まもりがみ)として鎮まって戴けるよう大神さまに安寧をお願いしお守り戴くための葬祭(葬式)を行い、御霊さまに永久に安らかにお鎮まり戴く時々の追遠のお祭り(仏教での法事)を行う処としてお建てになりました。<br /> 斎家(檀家)は大社町内外に2000戸以上になります。祖霊社も他のお社のように自由に参拝できます。また、より親しみやすく参拝していただくために、この拝殿は平成9年から椅子席になりました (出雲大社HPより)。

    祖霊社
     神楽殿よりさらに西方に位置する、大きな瓦屋根の建物が祖霊社(正式には出雲大社教祖霊社)です。その歴史は明治8年にはじまります。
     出雲大社教初代管長千家尊福公(当時は出雲大社大宮司)が、大国主大神さまが「幽(かく)れたる神事」をお治めになる御神徳を現されることから、今現世に生かされている人々が亡くなって後も、その御霊(みたま)が安らかに家の守護神(まもりがみ)として鎮まって戴けるよう大神さまに安寧をお願いしお守り戴くための葬祭(葬式)を行い、御霊さまに永久に安らかにお鎮まり戴く時々の追遠のお祭り(仏教での法事)を行う処としてお建てになりました。
     斎家(檀家)は大社町内外に2000戸以上になります。祖霊社も他のお社のように自由に参拝できます。また、より親しみやすく参拝していただくために、この拝殿は平成9年から椅子席になりました (出雲大社HPより)。

  • 門柱に萬古之命脈、千古之祖心の文字。

    門柱に萬古之命脈、千古之祖心の文字。

  • 案内所です。

    案内所です。

  • 案内所前のマンホールの蓋です。

    案内所前のマンホールの蓋です。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • norisaさん 2012/10/02 06:59:31
    なるほど!
    キヌちちさん

    はじめまして!

    出雲大社は一度だけ訪問しましたが、ただ感心して帰ってきました。

    キヌちちさんのように詳しく解説いただくと理解が深まりますね。
    行く前に読まなくてはいけない旅行記です。

    ありがとうございました。

    norisa
  • ブルートレインさん 2012/10/01 23:33:35
    最高の天気でしたね。
    キヌちちさんへ

     青空をバックに素晴らしい写真の連続で感動しました。とても解説が詳し

    くて素晴らしい旅行記だと思いました。昨年長男と母を引き連れて訪問した

    時は、どうしても子供中心でじっくり撮影ができなかったので、ぜひ次訪問

    する時はキヌちちさんのように素晴らしい写真が撮れればと思いました。

     素晴らしい旅行記に一票入れさせていただきますね。

     又、訪問させて頂きますね。

    ブルートレイン

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