2012/03/25 - 2012/03/25
236位(同エリア375件中)
滝山氏照さん
大多喜初代城主本多忠勝(ほんだ・ただかつ、1548~1610)墓は大多喜駅から南へ徒歩約12分の良玄寺(りょうげんじ、千葉県夷隅郡大多喜町)の墓所「忠勝公園」内にあり、忠勝夫人及び大坂夏の陣で散った二男忠朝(ただとも、1582~1615)とともに供養塔が建立されています。
慶長5年(1600)関ケ原の戦いでは家康本陣に従軍するなか、吉川広家など諸大名に東軍に与する書簡を送り東軍勝利に貢献をします。
その結果忠勝は翌年桑名藩(現三重県桑名市)に10万石で移封され同時に旧領大多喜は二男忠朝に別家5万石で与えられます。
晩年の忠勝は不遇で合戦が収束するにつれ家康・秀忠の側近は全て文治派に取って替わられ、武断派忠勝らの活躍の場が次第に狭まってきます。
慶長14年(1609)忠勝は嫡男忠政(ただまさ、1575~1631)に家督を譲り隠居生活に入り、翌年10月63歳の生涯を終えます。
これら供養塔は菩提寺である良玄寺ではなく隣地の「忠勝公園」内に忠勝夫人及び忠朝と共に建立されており地元教育委員会の意気込みが感じられます。
2023年11月17日追記
当該人に関する由緒については下記の通り紹介されています。
『 金澤山 良玄寺 山王院
天正18年、本多忠勝公は大多喜栗山の根小屋城に入り、数年にして大多喜城を築城しました。文禄4年9月25日、開山団蓮社照誉了学上人を下総小金東漸寺より招き100石を寄進し良信寺を建立した。忠勝公は在城10年の後、勢州桑名城に移封され、慶長15年10月18日ご入寂なされ、分骨を良信寺に埋葬した。法名は、清岸寺院殿前中書誉良信用大居士。その後、慶長18年、忠勝公夫人が没し法名は月量院殿蓮誉光信大禅定尼、続いて元和元年、本多忠朝公は大坂夏の陣に34歳にして討死し、法名を三光院殿岸誉前雲州良玄大居士と号した。以降良信寺を良玄寺に改称し現在に至る。
上記お三方の墓石は今も当山右手墓地の奥に顕在する。尚、本堂は戦後昭和20年代の台風により倒壊しお隣の大円寺の本堂を持って来て以後40数年間両寺で共用していたが、近手檀家一同の気運がみのり、再建に着手、平成9年4月、めでたく落慶の運びとなり現在の威容を誇る。』
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
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忠勝公園
本多忠勝、同夫人及び二男忠朝(ただとも)の墓所となっています。 -
本多忠勝(中央)・同夫人(右)・忠朝(左)の墓石
説明では本多忠勝は慶長15年(1610)に63歳で桑名(一説には江戸)で没したと言われ桑名浄土寺に葬られましたが分骨して建立、同夫人は忠勝が桑名に転封後のこの地に残り、慶長18年(1613)大多喜城で没したと言われてます。また忠朝は大坂夏の陣で壮烈な戦死(34歳)を遂げ、大坂一心寺に葬られますが分骨にして当所に埋められています。 -
良玄寺(りょうげんじ)
説明によれば大多喜城主となった本多忠勝は文禄4年(1595)、下総小金(現松戸市)より東漸寺住職了学上人を招き菩提寺良信寺を建立し、社領として百石を寄進しています。
後に忠朝の分骨を当寺に埋める際、忠朝の法号により良信寺から良玄寺に改めます。 -
良玄寺扁額
山号は「金澤山」となってます。
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