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関東に隠れたローカル線の一つ「みすみ鉄道」を利用して房総半島のへそに当たる大多喜(おおたきじょう、千葉県夷隅郡大多喜町)城を訪問しました。<br /><br />築城時期は16世紀半ば、築城者は真里谷(まりやつ)城の上総武田氏の一族である武田信清(たけだ・のぶきよ、生没不詳)と伝えられ、当時は小田喜(おたき)城と呼ばれていました。<br /><br />天文13年(1544)、安房里見(さとみ)氏の積極的な北進が行われ、里見氏の宿老正木時茂(まさき・ときしげ、1513~1561)の攻撃により武田氏は滅亡、以降里見氏後継者を巡って内紛状態が起こるものの一貫して正木氏の拠点として続きます。<br /><br />天正18年(1590)いわゆる小田原征伐の際、里見氏が小田原城包囲している豊臣秀吉に参陣するもするも惣無事令違反を犯したとして秀吉に咎められ里見氏の下総一部・上総国は没収され、安房一国のみ安堵され正木氏も主家里見氏とともに安房に移ることになります。<br />                <br />小田原北条氏滅亡に伴い関東に入封した徳川家康は本拠とする江戸を守る為関東要所に重臣を配置、主たる城郭の整備拡充を命じます。<br /><br />その一環として当地は安房に退去した里見氏の潜在的な影響力を警戒、そのため家康は譜代中の譜代である本多忠勝(ほんだ・ただかつ、1548~1610)を10万石をもって入城させます。<br /><br />本多氏は初代城主忠勝、忠朝(ただとも、1582~1615)、政朝(まさとも、1599~1638)の3代に亘り当城を近世城郭として整備します。<br /><br />元和3年(1617)に転封となりますと、阿部氏、青山氏、再度阿部氏、稲垣氏を経て、元禄16年(1703)に松平正久が入封し明治維新を迎えるに至ります。<br /><br />地勢的には蛇行している夷隅川と背後の山岳に囲まれた攻めるに困難、守るに堅固な自然要害を利用した中世特有の城です。<br /><br />夷隅川の全てを把握してませんが、御禁止川サイドは深くえぐれており天然の要塞にふさわしい防御となっています。<br /><br />現大多喜駅から夷隅川蛇行部に向けて区画された城下町が広がり、高台の大多喜城と眼下に見下ろす街並みが一体となって理想的なまとまりを見せています。<br /><br />旧城下町には商家、社寺等が建ち並び、お城の散策後には往時を偲ばせる佇まいを楽しむ格好の見学地と思われます。<br /><br /><br /><br />2023年5月5日追記<br /><br />現地大多喜城と併営の「千葉県立中央博物館・大多喜分館」にて入手のしおりには下記の通り記載されています。<br /><br />「 大多喜城の歴史<br /><br />大多喜の中世の地名は、資料の中に小田喜(おたき)と見られますので、大多喜城も、その頃は小田喜城ないしは小田喜の城と呼ばれていたと思われます。<br /><br />16世紀前半代に武田氏が入城したと言われていますが、天文期(1532~1555)に安房の里見氏の重臣であった正木氏が入り、以後4代にわたり、上総正木宗家の居城として発展します。<br /><br />その後、1590年(天正18年)に北条氏の小田原城が豊臣秀吉に攻め落とされると、徳川家康は江戸に入り、小田喜城を家臣の本多忠勝に与えて安房の里見氏の勢力を抑えようとしました。<br /><br />当時の城のようすについては、1609年(慶長14年)に子ここを訪れたスペイン人のドン・ロドリゴは「城は高台にあって濠に囲まれ、城門は大きくて全て鉄でできており、厳重に警戒されている。また、城の内部は金や銀の配色で美しく、立派な武器庫もあった。」(日本見聞録)と、驚いています。<br /><br />城主は本多氏3代のあと、阿部・青山・稲垣へと引継がれ、1703年(元禄16年)松平(大河内)正久となりました。松平氏は9代続き廃藩置県を迎えます。<br /><br />千葉県教育委員会は、この歴史ある大多喜城本丸跡に、昔をしのんで城郭様式の千葉県立総南博物館を建設し、昭和50年9月に開館しました。<br /><br />平成18年4月から千葉県立中央博物館の大多喜分室となっています。 」<br />

上総大多喜 関東入封の家康が江戸湾を臨む安房里見氏の潜在的戦力を牽制のため徳川四天王の本多忠勝を破格の10万石を以って配した『大多喜城』訪問

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2012/03/25 - 2012/03/25

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滝山氏照

滝山氏照さん

関東に隠れたローカル線の一つ「みすみ鉄道」を利用して房総半島のへそに当たる大多喜(おおたきじょう、千葉県夷隅郡大多喜町)城を訪問しました。

築城時期は16世紀半ば、築城者は真里谷(まりやつ)城の上総武田氏の一族である武田信清(たけだ・のぶきよ、生没不詳)と伝えられ、当時は小田喜(おたき)城と呼ばれていました。

天文13年(1544)、安房里見(さとみ)氏の積極的な北進が行われ、里見氏の宿老正木時茂(まさき・ときしげ、1513~1561)の攻撃により武田氏は滅亡、以降里見氏後継者を巡って内紛状態が起こるものの一貫して正木氏の拠点として続きます。

天正18年(1590)いわゆる小田原征伐の際、里見氏が小田原城包囲している豊臣秀吉に参陣するもするも惣無事令違反を犯したとして秀吉に咎められ里見氏の下総一部・上総国は没収され、安房一国のみ安堵され正木氏も主家里見氏とともに安房に移ることになります。
                
小田原北条氏滅亡に伴い関東に入封した徳川家康は本拠とする江戸を守る為関東要所に重臣を配置、主たる城郭の整備拡充を命じます。

その一環として当地は安房に退去した里見氏の潜在的な影響力を警戒、そのため家康は譜代中の譜代である本多忠勝(ほんだ・ただかつ、1548~1610)を10万石をもって入城させます。

本多氏は初代城主忠勝、忠朝(ただとも、1582~1615)、政朝(まさとも、1599~1638)の3代に亘り当城を近世城郭として整備します。

元和3年(1617)に転封となりますと、阿部氏、青山氏、再度阿部氏、稲垣氏を経て、元禄16年(1703)に松平正久が入封し明治維新を迎えるに至ります。

地勢的には蛇行している夷隅川と背後の山岳に囲まれた攻めるに困難、守るに堅固な自然要害を利用した中世特有の城です。

夷隅川の全てを把握してませんが、御禁止川サイドは深くえぐれており天然の要塞にふさわしい防御となっています。

現大多喜駅から夷隅川蛇行部に向けて区画された城下町が広がり、高台の大多喜城と眼下に見下ろす街並みが一体となって理想的なまとまりを見せています。

旧城下町には商家、社寺等が建ち並び、お城の散策後には往時を偲ばせる佇まいを楽しむ格好の見学地と思われます。



2023年5月5日追記

現地大多喜城と併営の「千葉県立中央博物館・大多喜分館」にて入手のしおりには下記の通り記載されています。

「 大多喜城の歴史

大多喜の中世の地名は、資料の中に小田喜(おたき)と見られますので、大多喜城も、その頃は小田喜城ないしは小田喜の城と呼ばれていたと思われます。

16世紀前半代に武田氏が入城したと言われていますが、天文期(1532~1555)に安房の里見氏の重臣であった正木氏が入り、以後4代にわたり、上総正木宗家の居城として発展します。

その後、1590年(天正18年)に北条氏の小田原城が豊臣秀吉に攻め落とされると、徳川家康は江戸に入り、小田喜城を家臣の本多忠勝に与えて安房の里見氏の勢力を抑えようとしました。

当時の城のようすについては、1609年(慶長14年)に子ここを訪れたスペイン人のドン・ロドリゴは「城は高台にあって濠に囲まれ、城門は大きくて全て鉄でできており、厳重に警戒されている。また、城の内部は金や銀の配色で美しく、立派な武器庫もあった。」(日本見聞録)と、驚いています。

城主は本多氏3代のあと、阿部・青山・稲垣へと引継がれ、1703年(元禄16年)松平(大河内)正久となりました。松平氏は9代続き廃藩置県を迎えます。

千葉県教育委員会は、この歴史ある大多喜城本丸跡に、昔をしのんで城郭様式の千葉県立総南博物館を建設し、昭和50年9月に開館しました。

平成18年4月から千葉県立中央博物館の大多喜分室となっています。 」

交通手段
JRローカル 私鉄 徒歩
  • みすみ鉄道大原駅<br /><br />JR外房線大原駅下車、タイミングよくみすみ鉄道の黄色い車輌が出発を待ってくれます。当日は「パワフルXスマイルちばフリーパス」(JR東日本千葉支社企画¥1,800/日)を利用しました。

    みすみ鉄道大原駅

    JR外房線大原駅下車、タイミングよくみすみ鉄道の黄色い車輌が出発を待ってくれます。当日は「パワフルXスマイルちばフリーパス」(JR東日本千葉支社企画¥1,800/日)を利用しました。

  • 「ム-ミン」イラスト<br /><br />イラストを描いた新車輌投入により鉄道会社の沿線観光の意気込みが感じられます。

    「ム-ミン」イラスト

    イラストを描いた新車輌投入により鉄道会社の沿線観光の意気込みが感じられます。

  • 大多喜駅<br /><br />大多喜駅到着手前で右手に大多喜城の模擬天守が見えます。<br />

    大多喜駅

    大多喜駅到着手前で右手に大多喜城の模擬天守が見えます。

  • 大多喜町観光案内所<br /><br />大多喜駅の向かい側にはしゃれた観光案内所があり、当地の各種パンフレットが準備されている他、休憩所として設備があります。

    大多喜町観光案内所

    大多喜駅の向かい側にはしゃれた観光案内所があり、当地の各種パンフレットが準備されている他、休憩所として設備があります。

  • 駅前の観光案内図<br /><br />大多喜城への道確認をし、城へ向けて出発します。

    駅前の観光案内図

    大多喜城への道確認をし、城へ向けて出発します。

  • 「大手門」<br /><br />模擬大手門として駅前の通りに観光用に設置されたものです。

    「大手門」

    模擬大手門として駅前の通りに観光用に設置されたものです。

  • 御禁止川(おとめがわ)夷隅川の別名<br /><br />大多喜城は夷隅川が蛇行している台地に築城されておりまして、登城する道路(メキシコ通り)に沿って流れる姿は深くえぐられています。

    御禁止川(おとめがわ)夷隅川の別名

    大多喜城は夷隅川が蛇行している台地に築城されておりまして、登城する道路(メキシコ通り)に沿って流れる姿は深くえぐられています。

  • 「御禁止川」名前の由来<br /><br />説明によりますと城主が魚を捕る事を禁示したので御禁止川と呼ばれました。<br />城主が参勤交代の時御禁止川の「むらさき鯉」を檜たらいに入れて生きたまま将軍に献上したそうです。

    「御禁止川」名前の由来

    説明によりますと城主が魚を捕る事を禁示したので御禁止川と呼ばれました。
    城主が参勤交代の時御禁止川の「むらさき鯉」を檜たらいに入れて生きたまま将軍に献上したそうです。

  • メキシコ通り<br /><br />慶長14年(1609)、メキシコ商船「サン・フランシスコ号」が暴風雨により御宿(おんじゅく)に漂着、城主である本多忠勝はドン・ロドリゴら約300人を大多喜城に招き保護・世話をしたという経緯があります。<br /><br />ドン・ロドリ-ゴの「日本見聞録」によりますと、『城は高台にあって濠に囲まれ、城門は大きく全て鉄でできており、厳重に警戒.されている。城の内部は金や銀の配色で美しく、立派な武器庫もあった』と述べています。

    メキシコ通り

    慶長14年(1609)、メキシコ商船「サン・フランシスコ号」が暴風雨により御宿(おんじゅく)に漂着、城主である本多忠勝はドン・ロドリゴら約300人を大多喜城に招き保護・世話をしたという経緯があります。

    ドン・ロドリ-ゴの「日本見聞録」によりますと、『城は高台にあって濠に囲まれ、城門は大きく全て鉄でできており、厳重に警戒.されている。城の内部は金や銀の配色で美しく、立派な武器庫もあった』と述べています。

  • 大多喜城跡石柱

    大多喜城跡石柱

  • 大型土塁と空堀

    大型土塁と空堀

  • 大型土塁と空堀

    大型土塁と空堀

  • 模擬天守<br /><br />1階は博物館(正式には千葉県立博物館大多喜城分館)で大多喜城に関係する歴史資料等が展示されています。(料金:大人¥200・高校大学生¥100・中学生以下無料)

    模擬天守

    1階は博物館(正式には千葉県立博物館大多喜城分館)で大多喜城に関係する歴史資料等が展示されています。(料金:大人¥200・高校大学生¥100・中学生以下無料)

  • 模擬天守展望<br /><br />天守から遠望を楽しみます。

    模擬天守展望

    天守から遠望を楽しみます。

  • 模擬天守近影<br /><br />眼下の県立大多喜高校校舎が視野に入ります。

    模擬天守近影

    眼下の県立大多喜高校校舎が視野に入ります。

  • 土塁<br /><br />僅かながら土塁が確認できます。

    土塁

    僅かながら土塁が確認できます。

  • 模擬天守<br /><br />立派な天守となっています。(昭和50年に復元)

    イチオシ

    模擬天守

    立派な天守となっています。(昭和50年に復元)

  • 石垣と梅花<br /><br />

    石垣と梅花

  • 土塀

    土塀

  • 石垣<br /><br />当城の石垣の積み方は野面(のづら)積みと打込みはぎの中間の方法で造られています。

    石垣

    当城の石垣の積み方は野面(のづら)積みと打込みはぎの中間の方法で造られています。

  • 県立大多喜高校運動場<br /><br />かつてはこのエリアも城郭(二の丸跡)でありました。

    県立大多喜高校運動場

    かつてはこのエリアも城郭(二の丸跡)でありました。

  • 天守と桜

    天守と桜

  • 土塁<br /><br />

    土塁

  • 空堀<br /><br />薮に遮られていますがかなり深い空堀となっています。

    空堀

    薮に遮られていますがかなり深い空堀となっています。

  • 再び天守<br /><br />手前の階段を登りますと博物館の入口になります。

    再び天守

    手前の階段を登りますと博物館の入口になります。

  • 大多喜城周辺案内図<br /><br />お城の周辺にはお寺が数多く配置され、有事の際は敵の攻撃を防御する施設となります。

    大多喜城周辺案内図

    お城の周辺にはお寺が数多く配置され、有事の際は敵の攻撃を防御する施設となります。

  • 大多喜高校への下り道<br /><br />かつては大多喜高校の地も城郭の一部でありました。

    大多喜高校への下り道

    かつては大多喜高校の地も城郭の一部でありました。

  • 本丸跡附大井戸<br /><br />天正18年(1590)大多喜城築城の際、本多忠勝が掘ったもので、水が涸れたことがないと言われていました。

    本丸跡附大井戸

    天正18年(1590)大多喜城築城の際、本多忠勝が掘ったもので、水が涸れたことがないと言われていました。

  • 大多喜城<br /><br />大多喜高校運動場から見上げます。

    大多喜城

    大多喜高校運動場から見上げます。

  • 大多喜城楽医門<br /><br />大多喜城内唯一の遺構とされています。

    大多喜城楽医門

    大多喜城内唯一の遺構とされています。

  • 大多喜城楽医門遠望<br /><br />大多喜高校内に建つ楽医門です。明治4年の廃藩の際民間人に払下げますが、同校の卒業生から同校の校門として寄贈されたものです。

    大多喜城楽医門遠望

    大多喜高校内に建つ楽医門です。明治4年の廃藩の際民間人に払下げますが、同校の卒業生から同校の校門として寄贈されたものです。

  • 土塁の一部<br /><br />高校の敷地にも土塁が一部残っており、二の丸あるいは三の丸の一部だったと思われます。

    土塁の一部

    高校の敷地にも土塁が一部残っており、二の丸あるいは三の丸の一部だったと思われます。

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