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5世紀後半の中国の史書「宋書夷蛮伝・倭国条」で、“ヤマト王権の外側にはニギエミシ(熟蝦夷)、その先にアラエミシ(麁蝦夷)、最奥にツガル(都加留)がある”とされた遠い国、ヤマトから独立していた津軽です。<br />奥野健男は「深層日本帰行」に“僕は津軽を・・・日本民族の原点と幻想する”と書きました。そして太宰治は十三湖を”真珠貝に水をたたえたようなはかない、さびしい湖”と形容しています。<br />大雑把には津軽半島の日本海側の”西浜”が「奥津軽」の地です。<br />今回は岩木川河口の潟湖・十三湖の周辺をそっと通り過ぎて来ました。<br /><br />津軽西浜にあるシジミで有名な十三湖は、五所川原市との合併前は市浦村(しうらむら)で、江戸後期に古代伝承を記録したまま秘匿されていた「東日流外三郡誌」を村史資料として刊行した村です。<br />この史書は NHK で数回連続で放送されたこともある天下の奇書で、内容は「ヤマト(倭国)に対するエミシの国があった」という主旨をベースに、噴火で滅んだ先住民族、ナガスネヒコの東漸、荒脛巾(アラハバキ)族の王国と日高見国、さらに安倍・安東・秋田一族の族譜などで、津軽藩による史書抹殺を逃れて秘匿されてきた文書です。<br />奥野健男は「一度も征服された事のない最北の民が、その誇りと反抗精神で、黙殺・抹殺された津軽をその内側から主体的に描き・・・」と評しています。<br /><br />この「東日流外三郡誌」については偽書説もありますが、ヤマト王権に対抗するエミシの政権が東北地方に存在したのは、367年の田道将軍の遠征軍全滅から、789年のアテルイ・モレの奮戦、802年の投降・処刑など、記録された史実からみても明らかで「日高見国」と呼ばれていました。<br />中国の「新唐書」や、朝鮮の新羅本記では「日本の王の姓は阿毎氏で、筑紫城にいた神武が大和を征服して天皇になった」「倭が日本を併合して国号を奪った(670年)」としているそうです(ウイキペディア)。<br />自己流に読めば、「アベ氏を王とする日本=日高見国をヤマトが併合して「日本」と名乗った」と読めます。<br />秀吉が手紙で奥州を「日本」(ヒノモト)と書いているのも示唆的です。<br /><br />十三湖周辺の歴史を見ると、7世紀半ばに阿倍比羅夫から安倍姓を享けたエミシの長の後裔が前九年の役の主役・安倍貞任で、その末裔の安東氏は津軽に蟠踞し「蝦夷管領」「日の本将軍」の称号を得て津軽海峡の両側を支配した。<br />活動の拠点を津軽西浜の十三湖(じゅうさんこ)の十三湊(とさみなと)に置いたので、十三湊は100余年にわたって港湾都市として繁栄を極めた。 安倍晋三 総理を子孫にもつ安倍一族ゆかりの勅願寺、若狭小浜の羽賀寺を安倍(安東)康季が再建(1436)したのもこの頃です。<br />当時、安倍氏は室町将軍から陸奥守に任ぜられていましたが、抗争関係にあった南部氏は鎌倉公方から陸奥国司に任命されていました。<br /><br />抗争を制して安東氏の後を襲った南部氏は港湾経営をせず、十三湊は砂に埋もれたが、近年の発掘調査で判明した土塁、堀跡、船着き場、屋敷跡などの遺跡は埋め戻されたが、国指定史跡となっている。<br /><br />宗教施設には十三千坊(とさせんぼう)と呼ばれた多くの神社仏閣があり、阿吽寺跡の日吉(ひえ)神社、禅林寺跡の露草遺跡、龍興寺跡の春日内(はるひない)観音堂などが判明している。<br /><br />武内宿禰が「東の鄙に日高見国あり。土地肥えて広し。撃ちて取るべし」と景行天皇に奏上してはじまったヤマト王権の東日本征服は、ヤマトタケルの東征にはじまり、源頼朝の奥州征伐で終わりを告げたが、謎の古代国家:日高見国の詳細は、いまだ靄のなかにあるように思います。<br />“僕は津軽を・・・日本民族の原点と幻想する”(奥野健男)<br /><br />もうひとつ、十三湖の北の小泊岬には別旅行記「太宰の津軽:西海岸を歩く2/2 小泊」に書いた徐福渡来伝説があり「徐福の里公園」があります。<br />秦の始皇帝から莫大な資金を得て、不老長寿の薬を求めて3000人の大船団で紀元前3世紀に東(日本?)に向かった徐福は「とどまりて王となりて還らず」(1世紀「呉書」孫権伝)とされています。船団の一部が男鹿半島や津軽半島に流れ着いたかもしれないし、徐福から直接稲作文化が伝わったとすれば、縄文時代の津軽に水田稲作文化が伝わったが、ほどなく稲作が衰亡したことなどと関係あるのかも知れない。<br /><br /><br /><br />

奥つがる幻想記:十三湖周辺遺跡と「東日流外(ツガルソト)三郡誌」

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2012/06/18 - 2012/06/21

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ANZdrifter

ANZdrifterさん

5世紀後半の中国の史書「宋書夷蛮伝・倭国条」で、“ヤマト王権の外側にはニギエミシ(熟蝦夷)、その先にアラエミシ(麁蝦夷)、最奥にツガル(都加留)がある”とされた遠い国、ヤマトから独立していた津軽です。
奥野健男は「深層日本帰行」に“僕は津軽を・・・日本民族の原点と幻想する”と書きました。そして太宰治は十三湖を”真珠貝に水をたたえたようなはかない、さびしい湖”と形容しています。
大雑把には津軽半島の日本海側の”西浜”が「奥津軽」の地です。
今回は岩木川河口の潟湖・十三湖の周辺をそっと通り過ぎて来ました。

津軽西浜にあるシジミで有名な十三湖は、五所川原市との合併前は市浦村(しうらむら)で、江戸後期に古代伝承を記録したまま秘匿されていた「東日流外三郡誌」を村史資料として刊行した村です。
この史書は NHK で数回連続で放送されたこともある天下の奇書で、内容は「ヤマト(倭国)に対するエミシの国があった」という主旨をベースに、噴火で滅んだ先住民族、ナガスネヒコの東漸、荒脛巾(アラハバキ)族の王国と日高見国、さらに安倍・安東・秋田一族の族譜などで、津軽藩による史書抹殺を逃れて秘匿されてきた文書です。
奥野健男は「一度も征服された事のない最北の民が、その誇りと反抗精神で、黙殺・抹殺された津軽をその内側から主体的に描き・・・」と評しています。

この「東日流外三郡誌」については偽書説もありますが、ヤマト王権に対抗するエミシの政権が東北地方に存在したのは、367年の田道将軍の遠征軍全滅から、789年のアテルイ・モレの奮戦、802年の投降・処刑など、記録された史実からみても明らかで「日高見国」と呼ばれていました。
中国の「新唐書」や、朝鮮の新羅本記では「日本の王の姓は阿毎氏で、筑紫城にいた神武が大和を征服して天皇になった」「倭が日本を併合して国号を奪った(670年)」としているそうです(ウイキペディア)。
自己流に読めば、「アベ氏を王とする日本=日高見国をヤマトが併合して「日本」と名乗った」と読めます。
秀吉が手紙で奥州を「日本」(ヒノモト)と書いているのも示唆的です。

十三湖周辺の歴史を見ると、7世紀半ばに阿倍比羅夫から安倍姓を享けたエミシの長の後裔が前九年の役の主役・安倍貞任で、その末裔の安東氏は津軽に蟠踞し「蝦夷管領」「日の本将軍」の称号を得て津軽海峡の両側を支配した。
活動の拠点を津軽西浜の十三湖(じゅうさんこ)の十三湊(とさみなと)に置いたので、十三湊は100余年にわたって港湾都市として繁栄を極めた。 安倍晋三 総理を子孫にもつ安倍一族ゆかりの勅願寺、若狭小浜の羽賀寺を安倍(安東)康季が再建(1436)したのもこの頃です。
当時、安倍氏は室町将軍から陸奥守に任ぜられていましたが、抗争関係にあった南部氏は鎌倉公方から陸奥国司に任命されていました。

抗争を制して安東氏の後を襲った南部氏は港湾経営をせず、十三湊は砂に埋もれたが、近年の発掘調査で判明した土塁、堀跡、船着き場、屋敷跡などの遺跡は埋め戻されたが、国指定史跡となっている。

宗教施設には十三千坊(とさせんぼう)と呼ばれた多くの神社仏閣があり、阿吽寺跡の日吉(ひえ)神社、禅林寺跡の露草遺跡、龍興寺跡の春日内(はるひない)観音堂などが判明している。

武内宿禰が「東の鄙に日高見国あり。土地肥えて広し。撃ちて取るべし」と景行天皇に奏上してはじまったヤマト王権の東日本征服は、ヤマトタケルの東征にはじまり、源頼朝の奥州征伐で終わりを告げたが、謎の古代国家:日高見国の詳細は、いまだ靄のなかにあるように思います。
“僕は津軽を・・・日本民族の原点と幻想する”(奥野健男)

もうひとつ、十三湖の北の小泊岬には別旅行記「太宰の津軽:西海岸を歩く2/2 小泊」に書いた徐福渡来伝説があり「徐福の里公園」があります。
秦の始皇帝から莫大な資金を得て、不老長寿の薬を求めて3000人の大船団で紀元前3世紀に東(日本?)に向かった徐福は「とどまりて王となりて還らず」(1世紀「呉書」孫権伝)とされています。船団の一部が男鹿半島や津軽半島に流れ着いたかもしれないし、徐福から直接稲作文化が伝わったとすれば、縄文時代の津軽に水田稲作文化が伝わったが、ほどなく稲作が衰亡したことなどと関係あるのかも知れない。



同行者
一人旅
交通手段
高速・路線バス タクシー 新幹線 JRローカル
旅行の手配内容
個別手配

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  • 五所川原駅。<br />タクシーはいつでも待っているので安心。<br /><br />駅にはエレベータなどはないのでご注意。

    五所川原駅。
    タクシーはいつでも待っているので安心。

    駅にはエレベータなどはないのでご注意。

  • 上の写真の左側に津軽鉄道五所川原駅がある。<br /><br />ちょうど桜桃忌だったので ホテルも電車も太宰ファンの旅行者が多かった。

    上の写真の左側に津軽鉄道五所川原駅がある。

    ちょうど桜桃忌だったので ホテルも電車も太宰ファンの旅行者が多かった。

  • 十三湖です「真珠貝に水をたたえたようなはかない、さびしい湖」と太宰治は形容しています。

    十三湖です「真珠貝に水をたたえたようなはかない、さびしい湖」と太宰治は形容しています。

  • 五所川原駅の向かい側にある弘南バス営業所からバスで 約1時間で十三湖に到着。片道約1300円。往復2000円弱。<br /><br />十三湖のほとり、中ノ島公園口で下車。

    五所川原駅の向かい側にある弘南バス営業所からバスで 約1時間で十三湖に到着。片道約1300円。往復2000円弱。

    十三湖のほとり、中ノ島公園口で下車。

  • 中ノ島公園入り口バス停の前には、軽食・土産の店が並んでいる。<br /><br />シジミラーメンが多い。珍しいけれど一度食べれば十分。

    中ノ島公園入り口バス停の前には、軽食・土産の店が並んでいる。

    シジミラーメンが多い。珍しいけれど一度食べれば十分。

  • 2枚上の写真の橋をわたって、突き当りが市浦歴史民俗資料館。<br /><br />特徴的な屋根が入り口。その手前、向かって右側にレストランがある。<br />

    2枚上の写真の橋をわたって、突き当りが市浦歴史民俗資料館。

    特徴的な屋根が入り口。その手前、向かって右側にレストランがある。

  • 市浦歴史民俗資料館に張り出してあった五月女萢(そとめやち)縄文遺跡の説明。<br />

    市浦歴史民俗資料館に張り出してあった五月女萢(そとめやち)縄文遺跡の説明。

  • 五月女萢(そとめやち)縄文遺跡では発掘調査が進められ、出土品の一部が市浦歴史民俗資料館に展示されている。<br /><br />これは板状土偶の女性像。10センチあまりだった。

    五月女萢(そとめやち)縄文遺跡では発掘調査が進められ、出土品の一部が市浦歴史民俗資料館に展示されている。

    これは板状土偶の女性像。10センチあまりだった。

  • 左が北の航空写真。上は十三湖。下が日本海。<br /><br />右から突き出している砂州のうえに中世港湾遺跡ができている。<br />ここからタクシーで遺跡巡りをしました。<br />

    左が北の航空写真。上は十三湖。下が日本海。

    右から突き出している砂州のうえに中世港湾遺跡ができている。
    ここからタクシーで遺跡巡りをしました。

  • 中世港湾遺跡は発掘して埋め戻された。<br />案内板はいくつかあるが平坦な草地がみえるだけ。

    中世港湾遺跡は発掘して埋め戻された。
    案内板はいくつかあるが平坦な草地がみえるだけ。

  • 中世の町屋跡にたてられた案内板。現地はジャガイモ畑だった。<br /><br />失われた安東水軍の都市跡に立って、若狭の羽賀寺の十一面観音像を思い出していた。<br />安東康季は元正天皇の姿を写したという美しい観音像に魅かれて羽賀寺を再建したのではなかったか。

    中世の町屋跡にたてられた案内板。現地はジャガイモ畑だった。

    失われた安東水軍の都市跡に立って、若狭の羽賀寺の十一面観音像を思い出していた。
    安東康季は元正天皇の姿を写したという美しい観音像に魅かれて羽賀寺を再建したのではなかったか。

  • 浜の明神社。素朴な鳥居が並んでいた。海運の守護神。<br /><br />昔はこのあたりが湖の出口(水戸口)だったという。

    浜の明神社。素朴な鳥居が並んでいた。海運の守護神。

    昔はこのあたりが湖の出口(水戸口)だったという。

  • 浜の明神にも遺跡の案内板があった。

    浜の明神にも遺跡の案内板があった。

  • 湖の北側に移動して唐川城址。本当の遺跡は撮影者のうしろ、山にある。<br />安東氏が蝦夷地に落ち延びる前の最後の城と見られていたが発掘調査で山地環濠集落跡とされた。<br />左の石碑は日の本将軍「安倍・安東氏顕彰碑」。<br />東北地方は「日の本」と呼ばれていた。

    湖の北側に移動して唐川城址。本当の遺跡は撮影者のうしろ、山にある。
    安東氏が蝦夷地に落ち延びる前の最後の城と見られていたが発掘調査で山地環濠集落跡とされた。
    左の石碑は日の本将軍「安倍・安東氏顕彰碑」。
    東北地方は「日の本」と呼ばれていた。

  • 春日内(ハルヒナイ)観音堂の入り口。龍興寺の跡です。

    春日内(ハルヒナイ)観音堂の入り口。龍興寺の跡です。

  • 春日内観音堂。これは覆屋で本物は祭りのときにしか見えない。らしい。<br />このすぐ右に壊れそうな太鼓橋がある。<br /><br />周りの山道沿いに石仏があちこちに置かれていた。

    春日内観音堂。これは覆屋で本物は祭りのときにしか見えない。らしい。
    このすぐ右に壊れそうな太鼓橋がある。

    周りの山道沿いに石仏があちこちに置かれていた。

  • 上の写真の左側に素朴な鳥居と案内板がある。<br />案内板の後ろの小道を右に登ると石造の観音様がある。

    上の写真の左側に素朴な鳥居と案内板がある。
    案内板の後ろの小道を右に登ると石造の観音様がある。

  • 日吉神社(ひえじんじゃ):表紙の写真の鳥居は平成5?年に建てられたが、これが昔からの山王鳥居。鳥居の笠木の中央に棟木を立て、合掌形の破風を架けて反りをつけた木を乗せた見事な山王鳥居である。<br />境内には阿吽寺(あうんじ)跡と伝えられる山王坊遺跡があり、発掘調査で往古の寺院の配置が判明し、神仏習合の宗教施設が見つかっているほか、修験道の伝承がいくつもある。<br /><br />

    日吉神社(ひえじんじゃ):表紙の写真の鳥居は平成5?年に建てられたが、これが昔からの山王鳥居。鳥居の笠木の中央に棟木を立て、合掌形の破風を架けて反りをつけた木を乗せた見事な山王鳥居である。
    境内には阿吽寺(あうんじ)跡と伝えられる山王坊遺跡があり、発掘調査で往古の寺院の配置が判明し、神仏習合の宗教施設が見つかっているほか、修験道の伝承がいくつもある。

  • 日吉神社(ひえじんじゃ)は杉林の斜面に建てられているが<br />雪害を防ぐためか 全面が白木板で囲ってある。

    日吉神社(ひえじんじゃ)は杉林の斜面に建てられているが
    雪害を防ぐためか 全面が白木板で囲ってある。

  • 福島城跡:十三湖の北岸の丘陵に築かれた安東氏の居城。<br /><br />一辺が1キロメートルの三角形の外郭のなかに200メートル四方の内郭があり、<br />いずれにも堀跡、土塁がある。内郭には武家屋敷があった。

    福島城跡:十三湖の北岸の丘陵に築かれた安東氏の居城。

    一辺が1キロメートルの三角形の外郭のなかに200メートル四方の内郭があり、
    いずれにも堀跡、土塁がある。内郭には武家屋敷があった。

  • 門から内郭の草地をのぞいた。

    門から内郭の草地をのぞいた。

  • 十三湖の北にある靄山(もややま)。<br />昔から神霊の宿る山とされ、伝説・伝承に富む。<br />縄文の石造遺跡との近接や、敷石遺構があることから葬礼の”もがり”の場などとも言われるらしい。<br />この写真の右奥の森の中に最近発見された五月女萢(そとめやち)縄文遺跡があり、別旅行記で紹介しています。

    十三湖の北にある靄山(もややま)。
    昔から神霊の宿る山とされ、伝説・伝承に富む。
    縄文の石造遺跡との近接や、敷石遺構があることから葬礼の”もがり”の場などとも言われるらしい。
    この写真の右奥の森の中に最近発見された五月女萢(そとめやち)縄文遺跡があり、別旅行記で紹介しています。

  • かすかに中泊町の小泊岬が見えた。<br />ここに徐福渡来伝説があり、徐福の里公園がある。<br /><br />日本各地にある徐福渡来伝説23箇所のうち最北の渡来地である。<br />北から二番目の伝説地が男鹿半島。<br />その他は山梨・静岡・京都より南で、九州に11箇所の渡来地伝説がある。

    かすかに中泊町の小泊岬が見えた。
    ここに徐福渡来伝説があり、徐福の里公園がある。

    日本各地にある徐福渡来伝説23箇所のうち最北の渡来地である。
    北から二番目の伝説地が男鹿半島。
    その他は山梨・静岡・京都より南で、九州に11箇所の渡来地伝説がある。

  • だれもいない海。<br /><br />あの山並みの手前に鯵ヶ沢がある。<br />旅には、旅人にしかわからない美しい瞬間がある。

    だれもいない海。

    あの山並みの手前に鯵ヶ沢がある。
    旅には、旅人にしかわからない美しい瞬間がある。

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